週末はじめました。

自然に癒やされたいわたしのキャンプ・アウトドア、そして日常ではない何者かになりたいわたしの旅や遠足の記録

大阪城 西の丸庭園〜静寂に描かれる色彩豊かな日本の美。

大阪城 西の丸庭園〜静寂に描かれる色彩豊かな日本の美。

西の丸庭園

西の丸庭園

大阪城の西の丸庭園は、大阪城の西側にある約 2 万坪の広大な芝生庭園です。大阪城の天守閣を美しく眺めることのできる庭園で、春には約 300 本の桜が咲き誇り、花見の名所としても有名です。 豊臣秀吉の正室である北政所(寧々)の住居も、この西の丸にありました。

西の丸庭園

開園時間
[3 月 ~ 10 月] 9:00 ~ 17:00
[11 月 ~ 2 月] 9:00 ~ 16:30
定休日
月曜日(月曜が祝日の場合は翌日)
12 月 28 日~ 1 月 4 日
入園料
大人: 200 円

大阪城の天守閣を美しく眺めることのできる庭園

西の丸庭園からは、大阪城の天守閣を美しく眺めることができます。

大阪城

大阪城

大阪城

大坂城代屋敷跡

西の丸庭園の南側には江戸時代、幕府重職で大坂城の防衛や維持管理の最高責任者である大坂城代の屋敷(官邸)がありました。

西の丸庭園

明治維新の際の火災で焼失してしまい、現在は芝生の広場となっています。東向きの玄関は着心造りで、公務を行う広間や書院だけでなく、城の妻子が居住する建物も備えており、本丸倒殿に次ぐ規模の殿でした。

豊松庵

豊松庵

西の丸庭園には、松下幸之助氏から寄贈された茶室「豊松庵」があります。

豊松庵

豊松庵の庭に作られた枯山水(日本庭園)越しに見る大阪城天守閣は、最も美しい姿であると言われています。

現在、豊松庵は一般公開はされておらず、主に結婚式の新郎新婦や家族の控室になっています。時々、特別公開でレストランとして予約制で入ることができる場合もあります。

大阪迎賓館

大阪迎賓館

大阪迎賓館は、1995 年の APEC 大阪開催に際し、各国首脳をもてなすために建てられました。京都二条城白書院を模した格式高い建築様式で知られています。その後、2019 年の G20 大阪サミットでは晩餐会会場として使用され、世界中の注目を集めました。

現在は主に結婚式、パーティで使用されています。期間限定でレストランとして利用できる場合があります。

大阪迎賓館

焔碵蔵(えんしょうぐら)

焔碵蔵

大阪城西の丸庭園にある焔硝蔵は、江戸時代に徳川幕府が火薬を保管していた石造りの蔵です。1685 年に建造され、その特徴的な石造りは耐火性や耐久性、防水性を重視しています。

焔碵蔵

石造りの火薬庫は全国的にも珍しいです。大坂城は西日本の幕府の軍事拠点であり、この蔵はその一部として機能していました。焔硝蔵は花崗岩で作られ、壁や床、天井、梁はすべてこの丈夫な素材で覆われています。厚さ約2.4メートルの石壁と土で固められた屋根の下には、火薬を安全に保管するための工夫が施されています。

焔碵蔵

静寂の中に描かれる、色彩豊かな風景の数々。

大阪城西の丸庭園。その静謐な雰囲気は、訪れる者の心を穏やかな旅に誘います。

西の丸庭園

静かな園内でありながらも、季節ごとに移り変わる自然の鮮やかな色彩が、まるで詩情豊かな絵巻物をめくるような感動を与えてくれます。桜の花が咲き誇る春、緑の繁茂する夏、紅葉が彩る秋、そして雪景色が広がる冬―四季折々の美しさが魅力的に広がります。

西の丸庭園

緑豊かな芝生の上をそよぐ風を感じながら、歴史を感じさせる石垣や大阪城を眺めれば、まるでタイムスリップしたかのような感覚を味わえるでしょう。

大阪城

都会の喧騒を忘れて、静寂の中で自分と向き合いたいとき。大切な人とロマンチックな時間を過ごしたいとき。大阪城西の丸庭園は、そんな願いを叶えてくれる特別な場所です。

大阪城天守閣の威厳と西の丸庭園の優美さが織りなす、至福の空間をぜひ感じてみてください。

大阪城


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大阪城最古にして、最強の番人「千貫櫓」

大阪城最古にして、最強の番人「千貫櫓」

千貫櫓

千貫櫓

千貫櫓(せんがんやぐら)は、大阪城内で最も古い櫓のひとつです。年間を通しては見学できない櫓の一つで、毎年、特別一般公開として期間限定で見学することができます。

千貫櫓は大手口を北側から守る隅櫓であり、その位置は西・南側に西外堀に面しています。

千貫櫓

この二層建ての隅櫓は、西の丸庭園の西南隅にあり、大阪城の正門である大手門を側面から防御する重要な役割を果たしています。

大阪城最古の櫓

千貫櫓

千貫櫓は、元和6年(1620年)に桂離宮などの設計で知られる小堀遠州によって創建されました。昭和36年(1961年)の解体修理の際には、創建年月日が明確になる板が発見されました。城内で最も古い建造物の一つとして、その歴史を刻んでいます。

千貫櫓

防御特化の内部構造

千貫櫓

内部には 1 階と 2 階にそれぞれ武者走りと呼ばれる回廊があり、その内側には 4 室ずつの天井板張りの部屋が配置されています。一階の面積は 199㎡ で、二階は 143.32㎡ です。

千貫櫓

千貫櫓

千貫櫓

千貫櫓

武者走りには大手門と外堀対岸に向かって隠し銃眼が設けられており、一階には石垣をよじ登ってくる敵に対する右落としの装置がみられます。また、二階の武者走りには格子ぶたの荷揚げ装置がありますが、その設置時期については不明です。

千貫櫓

火縄銃

千貫櫓では、当時の火縄銃を再現したレプリカが展示されており、自由に触れることができます。

火縄銃

実際に手にとって構えてみてください。金属部分は鉄製のため、見た目のイメージに反してずっしりと重たいです。

火縄銃

火縄銃

千貫の名に込められた攻防のドラマ

千貫櫓

千貫櫓という名は、織田信長が石山本願寺攻め時に「攻略が難しければ千貫文を褒美とする」と語った逸話に由来します。難攻不落の象徴として、その後も大手の守りとして重要な役割を果たしました。

千貫文とは、「文」という日本の昔の通貨で表す金額のこと。

1000 文 = 1 貫文 となる。

当時の 1 文は、現代の日本円に換算すると約 120 円。

1000貫文(=千貫文)は現在の円に換算すると 1 億 2000 万円ほどになる。

高額な報酬を提示するほどに攻め落とすのが難しい櫓であったということが分かります。

千貫櫓

大阪城最古、最強の番人

千貫櫓

大阪城の北西に威厳を放つ千貫櫓。白壁と黒い瓦屋根が織りなすコントラストは、まるで水墨画から飛び出したような趣きです。時を超えて語り継がれる歴史と、重厚な木造建築が醸し出す圧倒的な存在感は、見る者を魅了して止みません。そして大手門を北側から守り、西外堀に面するその姿は、まさに大阪城の守護神。石垣に根を張り、力強く立ち尽くす姿は、幾多の戦乱を乗り越えてきた強さを物語っています。

千貫櫓

千貫櫓は、大阪城で最も古くからそびえ立つ構造物のひとつとして見どころの一つです。いつでも見学できるわけではありませんが、特別公開が行われた際には、この荘厳な姿と歴史の重み感じに足を運んでみてください。

千貫櫓


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大阪城多聞櫓: 幕末の動乱期、明治維新の大火、第二次世界大戦の空襲にも耐え抜いた大阪城の守護者

大阪城多聞櫓: 幕末の動乱期、明治維新の大火、第二次世界大戦の空襲にも耐え抜いた大阪城の守護者

多聞櫓

多聞櫓

多聞櫓(たもんやぐら)は、大阪城大手門の枡形を形成している櫓です。年間を通しては見学できない櫓の一つで、毎年、特別一般公開として期間限定で見学することができます。

1628 年(寛永5年)に徳川幕府による再築工事で誕生した多聞櫓は、1783 年(天明3年)の落雷により焼失しましたが、1848 年(嘉永元年)に再建されました。幕末の動乱期には、家茂や慶喜といった将軍たちもこの櫓を通り抜け、城内を巡視しました。また、明治維新の大火や第二次世界大戦の空襲をも乗り越え、その堂々たる姿勢は 17.7m の高さで各地に現存する同種の櫓の中で最大規模を誇っています。

多聞櫓は、櫓門を備える渡櫓と、それに隣接する続櫓からなり、建築総面積は約 710.25㎡。テニスコート約 2.7 面分の広さがあります。

多聞櫓

続櫓

多聞櫓入口

多聞櫓の入口は、櫓門の脇にあります。ただし、西の丸庭園の敷地からしか入場できないため、櫓門から多聞櫓へのアクセスはできません。

多聞櫓入口

多聞櫓入口

渡櫓

渡櫓

渡櫓(わたりやぐら)は、櫓門を備える櫓です。全部で 4 室あり、中央は約 70 畳敷の広さがあります。

渡櫓

渡櫓

渡櫓

渡櫓では、多聞櫓や千貫櫓の修復時に使わなくなった古い(1620 年、1668 年、1848 年頃)櫓の部材を展示しています。

古部材

古部材

古部材

槍落とし

多聞櫓は防御の為に築かれています。大手門と枡形を形成し、大手門を越えて侵入した敵を撃退する役割を担っていました。そのため、敵を攻撃するための「槍落とし」などの防御設備を見ることができます。

槍落とし

槍落とし

この穴から、槍や岩を落とし、大手門を越えて侵入した敵を撃退します。

槍落とし

続櫓

渡櫓と接続しているのが、続櫓(つづきやぐら)です。

続櫓

武者走り

続櫓の最大の特徴は、武者走りという長い廊下です。兵士がここから銃で攻撃するために造られています。

続櫓

続櫓

窓から外を見てみると、大手門を超えてきた敵が丸見えです。

続櫓

笠石銃眼

窓から外の敵を狙うのとは別に、下段の兵士は、笠石銃眼(かさいしじゅうがん)と言われるこの穴に銃口を入れ発砲、外にいる敵を撃退します。

銃眼

続櫓

武者溜

続櫓は、外観からは想像できないほど内部が広く、多数の兵士が駐屯できるようになっています。兵士が待機するための部屋を武者溜(むしゃだまり)と呼びます。

武者溜

全部で 6 室あり、それぞれ、12畳・15畳・9畳・12畳・9畳・9畳あります。

武者溜

武者溜

時を超えて語り継ぐ、大阪城の守護者

大阪城の正面玄関、大手口を守る威厳ある姿。それが「多聞櫓」です。約400年の時を超えてなお、力強くそびえ立つその姿は、大阪城の歴史を象徴する存在と言えるでしょう。

多聞櫓

幕末の動乱期、そして明治維新の大火や第二次世界大戦の空襲にも耐え抜きました。その堅牢な姿は、時を超えて城の守護者としての誇りを示しています。徳川家茂や徳川慶喜といった歴史的な人物たちも、その足跡を残しています。彼らが歩んだ道を今、私たちも感じることができます。そして、銃眼や武者走りなど、当時の戦の様子を偲ぶことができる貴重な遺構です。

多聞櫓

大阪城を訪れる際には、ぜひ多聞櫓にも足を運んでみてください。

多聞櫓

盛れる!映える!最も美しい大阪城を撮りたいなら御座船がオススメ。

盛れる!映える!最も美しい大阪城を撮りたいなら御座船がオススメ。

大阪城を最も美しく写真に収めることのできる「大阪城御座船」を紹介します。

大阪城御座船

大阪城御座船

大阪城御座船(ござぶね)は、大阪城のお掘りをクルージングするサービスです。大阪城内壕を約 20 分で周回します。

どこよりも美しい写真が撮れる

御座船に乗ると、お掘りの水、そして空を含めて、非常に美しい大阪城の姿を写真に収めることができます。

大阪城

水面がまるで鏡のように大阪城天守閣や空を反射し、とてもダイナミックな写真を撮ることができます。

大阪城

さらに、御座船に乗ると、歩いて行くことのできない場所からの大阪城を写真に収めることができます。

大阪城

御座船は席と水面が近いため、水面に近い位置でシャッターを切れます。そのおかげで、まるで水城のような大阪城の姿を見ることができます。

水の都、大阪。クルージングは癒やし要素の宝庫。

御座船に乗れば美しい大阪城の写真を撮れますが、クルージング自体も非常に楽しめるのでオススメです。船からだからこそ見ることのできる風景。いつもとは違った大阪城の景色を楽しめます。

大阪城

大阪城

流れる雲、水面。木々と都会の風景との対比。押し迫るダイナミックな石垣。20 分間という時間の中に、癒やし要素が満載です。

こちらの動画をご覧ください。

日本人は特に誰も知らない穴場スポット

船の船頭さんの話では、御座船に乗るお客さんのほとんどは海外観光客で、日本人はほとんど乗らないのだそうです。

私が乗ったときも、定員 18 名の船に対して、日本人は私のみでした。

御座船

つまり、日本人はほとんどの人がこの素敵な風景を見られることを知りません。

御座船について

御座船は、大阪城の北側に乗船場所とチケット販売所があります。

大阪城御座船 乗船所

チケット販売所

乗船所

大阪城御座船 料金表
大人 1500 円 16 歳以上(高校生以上)
高齢者 1000 円 65 歳以上(年齢が確認できるものを提示)
子供 750 円 小中学生(但し、子供のみでの乗船はできません)
幼児 無料 1 ~ 6 歳未満
乳児 無料 1 歳まで
障害者 750 円 本人・介護者 1 名まで

チケットは当日販売のみです。事前予約はできませんので、現地で購入する必要があります。

運行時刻は時期によって変動します。公式の運行スケジュールを確認してください。

お得に御座船に乗る方法

御座船に乗るには 1500 円かかります。最もお得に乗るなら、大阪周遊パスがオススメです。

www.osp.osaka-info.jp

大阪周遊パスを使えば御座船は無料で乗船できるので、大阪周遊パスの料金以上に大阪の観光スポットを巡ったり、電車に乗ったりすれば、それだけ割安になります。(大阪周遊パスが利用できない日があるため、公式の運行スケジュールを確認してください。)

御座船は隠れたインスタ映えスポット

大阪城

意外と知られていない大阪城御座船。大阪城を最も美しく写真に収めることのできるオススメスポットです。

また、徒歩では絶対に行けない場所から天守閣を眺められることも魅力です。高くそびえる石垣の迫力や、揺れる水面、心地よい風。全てが癒やし要素でもあります。

旅行に来たら、その観光地の素敵な写真を撮りたい。SNS にアップしたり、思い出に残るような素敵な写真を撮りたいですよね。

春は桜の中を。夏は新緑の中を。秋は紅葉の中を。冬は静寂の中を。

御座船に乗って、四季折々の最高に美しい大阪城を見てみてください。

大阪城

行列に並ばない!階段は上らない!失敗しない大阪城天守閣の歩き方

行列に並ばない!階段は上らない!失敗しない大阪城天守閣の歩き方

大阪城 天守閣

大阪城 天守閣

大阪城天守閣は、大阪市中央区にある大阪城公園内にある天守閣です。現在の天守閣は、豊臣秀吉が築城した天守閣を参考に 1931 年(昭和 6 年)に復興されたもので、国の登録有形文化財です。地上 55m, 8 階建てで、最上層からは大阪市街を一望できます。内部は歴史博物館となっており、豊臣秀吉や大阪城の歴史に関する資料が展示されています。

営業時間
9:00 ~ 17:00
定休日
12 月 28 日 ~ 1 月 1 日
料金
大人: 600 円
子供(中学生以下): 無料
所要時間
30 ~ 40 分
電話番号
06-6941-3044
公式サイト
https://www.osakacastle.net/
トイレ
2 階にのみトイレがあります。

壮麗な大阪のシンボル。現在の天守閣は 3 代目

大阪城天守閣

大阪城天守閣は、白亜の巨体が青空に映える、まさに壮麗という言葉がふさわしい姿をしています。太陽の光を浴びて輝く瓦屋根と、力強い石垣の組み合わせは、大阪のシンボルとしてふさわしい威厳を漂わせています。

大阪城天守閣

その壮麗な外観は、豊臣秀吉の天下統一の夢を体現しているかのようです。歴史の重みを感じさせる石垣や瓦屋根は、日本の伝統美を余すところなく表現しています。

大阪城天守閣

ちなみに、現在の天守閣は 3 代目になります。

初代天守は、豊臣時代の1585 年(天正13年)から 1615 年(慶長20年)までの31年間。

2 代目天守は、徳川時代の 1626 年(寛永3年)から 1665 年(寛文5年)までの40年間。

そして現在の 3 代目天守閣は、1931 年(昭和6年)から現在に至ります。

1 階: 天守閣の入口

1 階には、エレベータ、インフォメーションカウンター、そしてミュージアムショップがあります。

1 階

インフォメーションカウンターでは、各国の音声ガイドを貸し出しています。(日本語・英語・韓国語・中国語)

ミュージアムショップでは、お土産や大阪城グッズが販売されています。ミュージアムショップでしか購入できないオリジナルグッズも販売されています。

ミュージアムショップ

ミュージアムショップ

ミュージアムショップ

体力温存!エレベータを使って効率よく巡ろう

エレベータ

1 階のエレベータに乗ると、5 階まで上がることができます。

エレベータ

まずは 5 階までエレベータで上がり、5 階からは階段で 8 階の展望台に行きましょう。

エレベータ

8 階の展望台で景色を楽しんだ後は、階段を降りながら各階の展示を見て回り、1 階まで降りて行くれば、階段の上りを最小限に抑えることができます。

階段

車椅子でも天守閣を楽しめる

エレベータは基本的には上りのみですが、車椅子の方には、上りも下りもエレベータで移動することができます。展望台や、各フロアの展示も見て回ることができますので、天守閣 1 階のスタッフさんにお声がけください。

2 階: ダイナミック!大阪城の情報コーナー

2 階は、大阪城についての解説や展示のエリアです。

展示

展示

豪華な、金の鯱瓦なども展示されています。現在の天守閣で使われているものと同じ大きさのレプリカです。とても迫力があります。

展示

展示

兜・陣羽織の試着体験

2 階のオススメは、兜や陣羽織を試着しできるコーナーです。戦国武将の兜や陣羽織などを試着でき、自分のカメラで記念撮影が行えます。料金は 500 円です。

兜・陣羽織の試着体験

兜

3 階・4 階(企画展示)

3 階と 4 階は企画展示エリアです。2 ヶ月ごとに展示内容が変更になります。

現在の展示内容や企画展の予定は、公式サイト から確認できます。

なお、3 階と 4 階は撮影禁止エリアです。

展示

5 階: 大坂夏の陣図屏風の世界

5 階は、大坂夏の陣図屏風の世界についての展示です。

展示

大坂夏の陣図屏風は、1615年(慶長20年)の戦いを描いた六曲一双の屏風絵です。徳川家康率いる幕府軍と豊臣秀頼率いる大坂方の戦の様子が迫力満点に描かれ、戦国時代最後の戦いの激しさを伝えています。人物5000人以上、馬300頭以上が緻密に描かれ、戦の様子だけでなく、戦後の混乱や市民の苦しみも表現されています。大阪城天守閣所蔵で重要文化財です。

wikipedia で、屏風の絵を見ることができます。

展示

その中でも是非見ていただきたいのが、大坂夏の陣を再現したミニチュアです。

ミニチュア人形

真田幸村隊(158体)と松平忠直隊(149体)の激戦を、ミニチュア人形(計307体 スケール1/20)で、非常に精巧に再現されています。

ミニチュア人形

ミニチュア人形

ミニチュア人形

ミニチュア人形

6 階(立入禁止)

6 階には展示は無く、立入禁止エリアになっています。

7 階: 豊臣秀吉の生涯

7 階では、豊臣秀吉の生涯に関する展示が行われています。豊臣秀吉が生まれてからその生涯を閉じるまでの一生が分かりやすく簡潔にまとめられています。

展示

展示

展示

中には以下のような、3D による立体映像を用いたコンテンツもあり、楽しいです。

映像コンテンツ

8 階(展望台): 地上 50m!豊臣秀吉も眺めた大阪市街地を一望

8 階は展望台になっています。大阪市街地を一望することができます。

展望台

展望台

展望台

展望台

展望台

展望台

展望台

行列に並ばなくて済む!魔法のチケットたち

大阪城の天守閣に入るためには、窓口でチケットを購入する必要があります。

チケット販売所

しかし、大阪城天守閣は人気のため、チケットを購入するために並ばなければなりません。

チケット購入の列

この行列に並ぶことを回避するために、予め web チケットを購入しておきましょう。

web チケットを購入しておけば、窓口でチケットを購入する必要がなくなるため、行列に並ばなくてすみます。

大阪周遊パスを持っている場合も同様です。パスを見せるだけで入場できますので、行列に並ばずに天守閣へ入場できます。

大阪周遊パス

賢く歩いて大阪城を楽しもう

大阪城天守閣は人気が高く、訪れる人も多いです。当日チケット販売窓口は常に混雑するため、Web チケット購入や大阪周遊パスなどを購入し、並ぶ時間を省きましょう。

入口

大阪城天守閣は全ての階の展示が魅力的ですが、8 階建てもの天守閣を巡るとなれば、それだけ階段を上り下りしなくてはなりません。全て階段で移動すると疲れてしまいますので、最大限エレベーターを利用して快適に巡りましょう。

階段

大阪城に来たら、天守閣への訪問はマストの観光スポットです。賢く歩いて、是非大阪城の天守閣を楽しんで来てください。

大阪城天守閣

新発田城~桜、紅葉、海鼠壁。美しすぎる新潟の宝石。時が止まった戦国自衛隊の世界へ。

新発田城~桜、紅葉、海鼠壁。美しすぎる新潟の宝石。時が止まった戦国自衛隊の世界へ。

新発田城

新発田城

新発田城(しばたじょう)は、新潟県新発田市にある城です。1598年(慶長3年)に初代新発田藩主の溝口秀勝によって築城されました。

城の北部を流れる加治川を外堀に利用した平城で、本丸を中心に北の古丸と南の二の丸で囲い、その南側に三の丸を配する構造でした。

新発田城は、戦闘や防御といった事よりも、地域経済の発展に重きを置き平地に造られたと言われています。江戸時代には新発田藩の藩庁が置かれていました。

築城年
1598年
築城主
溝口秀勝
別名
菖蒲城
舟形城
文化財等指定
天守閣
存在するが入場不可
料金
無料
開門時間
4月~10月: 9:00 ~ 17:00
11月: 9:00 ~ 16:30
閉鎖期間
冬季閉鎖: 12月~3月
最寄り駅
JR白新線・羽越本線 新発田駅(徒歩約 25 分)
新発田駅にはタクシー乗り場があるため、駅からタクシー移動も可能(距離: 約 2.9 km, 所要時間: 約 8 分, 料金目安: 1,200 円前後)
駐車場
無料駐車場があります
(記事の最後に無料駐車場について案内しています)
所在地
〒957-0052 新潟県新発田市大手町 6-4-80

理にかなった美しき海鼠壁

新発田城の最も特徴的な点は、櫓と表門に施された海鼠壁(なまこかべ)です。

海鼠壁

海鼠壁とは、平瓦を張り合わせて、その隙間を漆喰で蒲鉾型(かまぼこがた)に固める工法のことです。目地の盛り上がった形が海鼠に似ていることから、その名が付けられました。一般的には土蔵などに用いられており、日本伝統の壁塗りの様式の一つです。また、城の装飾としては、主に北陸地方の城で採用されています。

隅櫓

新発田城の表門と櫓に施されている海鼠壁の、白と黒のコントラストは非常に美しいです。平瓦の正方形の形と、漆喰の蒲鉾型の形が組み合わさることで、まるで幾何学模様のような美しい風情を醸し出します。

表門

城の門や櫓に海鼠壁を採用しているのは、銃弾の貫通を防ぐためでもあります。一方で、防水性や耐火性に優れているという特徴もあります。風雨や火災に強いという点で、装飾としての美しさを演出しながらも機能面も担保した、非常に合理的かつ秀逸な工法です。

海鼠壁

新発田城の表門や櫓に施された海鼠壁は、壁全体ではなく、およそ人の背丈くらいの高さに留まっていることから、特に新潟県が位置する北陸地方では積雪も多いため、海鼠壁を採用することで耐水性を強化したと考えられます。

新発田城以外で海鼠壁が施されている城を見てみても、石川県金沢市の金沢城、長野県松本市の松本城、そして、北海道函館市の五稜郭と、積雪の多い地域で見られます。

新発田城の海鼠壁は、特に美しいことで知られており、旧二の丸隅櫓は国の登録有形文化財に指定されています。

新発田城を訪問した際は、必ずチェックしてください。一番のオススメポイントです。

春は華やぎ、夏は力強く、秋は静寂。

新発田城は、12 月 から 3 月は城内へ入ることができません。積雪と除雪の関係で安全面を考慮し冬季閉鎖となります。

冬季以外の訪問可能期間では、春、夏、秋と、全ての季節で違う表情があり、どの季節に行っても新発田城の美しさを堪能できます。

春は、桜と新発田城の白壁とのコントラストが美しく、温かな気候も手伝って華やいだ雰囲気を楽しめます。桜の見頃は 4 月上旬~ 4 月中旬です。

桜と新発田城

夏は、新緑が力強く、青々とした木々の緑と空、そして新発田城の白壁のコントラストが美しいです。

夏の新発田城

秋は、紅葉です。紅葉の彩りと新発田城が作り出す静寂の雰囲気は、その場にいるだけで心が洗われるようです。

紅葉と新発田城

戦国自衛隊の世界観

新発田城は現在、その敷地を陸上自衛隊 新発田駐屯地と共有しています。そのため、櫓からは新発田駐屯地を眺めることができます。

自衛隊駐屯地

このように、城と自衛隊駐屯地が同時に眺められるという、非常に珍しい風景を目にすることができます。

自衛隊駐屯地

日本には、戦国自衛隊という有名な SF 小説があります。自衛隊が演習中に戦国時代にタイムスリップしてしまい、近代兵器と共に戦国時代を生き抜くストーリーです。

ここ新発田城は、そんな戦国自衛隊の世界観が垣間見える場所としても有名です。

自衛隊駐屯地

表門

表門は、本丸の南側に位置する櫓門です。国の重要文化財に指定されています。

表門

表門は、新発田城の玄関口であり、正門として城主や重要な来客を迎え入れてきました。その堂々とした姿勢で訪れる者を迎える、歴史と格式が漂う美しい門です。

表門

冒頭でも紹介した海鼠壁が施されており、白と黒の石を組み合わせた模様は、まるで幾何学模様のような美しさです。

表門

表門は 1732 年に再建されて以降、現存しているものです。歴史を歩み続けているからこそ見られる木材の風合は重厚感があり、非常に美しいです。木の質感や彫り物など、ディテールにまでこだわりが感じられ、時代を超えた美しさが存分に表現されています。

表門

表門

表門は 2 階建てとなっており、中に入ることができます。

表門

表門の 2 階では、三階櫓と辰巳櫓の復元に関する資料が展示されています。

表門内部

表門

表門はまさに城への玄関口として、訪れる者に歴史や物語を感じさせます。新発田城へ到着したら、まず表門をくぐり、気持ちを江戸時代へタイムスリップさせてください。

表門を通過すると、新発田藩初代藩主である溝口秀勝の像が迎えてくれます。

溝口秀勝像

旧二ノ丸隅櫓

旧二ノ丸隅櫓は、二の丸の南西隅に位置する二重二階櫓です。1598 年(慶長3年)に築城された当時の姿を残しており、国の重要文化財に指定されています。

旧二ノ丸隅櫓

胴回りには、海鼠壁を見ることができます。海鼠壁は、石を正確に組み合わせて積む必要があるため、非常に難易度の高い工事であったといわれています。

海鼠壁

隅櫓の内部にも入ることができます。建ててから 400 年以上経過しているとは思えないほど内部は堅牢であり、当時の雰囲気を感じることができます。

旧二ノ丸隅櫓内部

旧二ノ丸隅櫓内部では、資料展示は最小限となっていますが、代わりに 400 年という歴史を感じることができるはずです。

旧二ノ丸隅櫓内部

旧二ノ丸隅櫓内部

旧二ノ丸隅櫓内部

旧二ノ丸隅櫓内部

辰巳櫓

辰巳櫓は、本丸の南東隅に位置する二重櫓です。2004 年(平成16年)に復元されたもので、国の重要文化財に指定されています。

辰巳櫓

辰巳櫓は、木造・本瓦葺き・漆喰による伝統工法により史実に復元されており、現代建築技術の高さと共に、内部の美しさも含め、400 年以上生き続ける旧二ノ丸隅櫓とのギャップを楽しめます。

辰巳櫓内部

内部には様々な資料展示があり、新発田城の当時の様子を知ることが出来ます。

辰巳櫓内部

三階櫓

三階櫓は、本丸の中央に位置する櫓です。2004年(平成16年)に復元されたもので、国の重要文化財に指定されています。

三階櫓

三階櫓は「櫓」と銘打っているものの、新発田城の実施的な天守閣であったとされています。

しかし、三階櫓は自衛隊駐屯地の敷地内にあるため、一般には足を踏み入れることができません。

三階櫓

三階櫓を近くで見たい場合は、新発田城址公園駐車場から延びる遊歩道を進むと最も三階櫓に近づけます。

無料駐車場

新発田城へ車で行く場合は、「新発田城址公園駐車場」または「アイネス新発田駐車場」に無料で駐車可能です。

先程紹介した三階櫓を近くで見たい場合は、新発田城址公園駐車場に駐車すると、見学の効率が良くオススメです。

新発田城址公園駐車場
〒957-0052 新潟県新発田市大手町 3-2-19

アイネス新発田駐車場
〒957-0052 新潟県新発田市大手町4-5

なお、表門の東側にも小さな駐車場のようなスペースがありますが、そこは「新潟県思いやり駐車場」という、体の不自由な訪問者専用の駐車場になるため、駐車しないでください。

400 年。時を超えた歴史の証人。

新発田城、その堂々たる姿勢はまさに時を超えた歴史の証人。その美しさは、訪れた者を心から魅了します。

城の石垣は、穏やかな風雨に耐え、時の流れとともに歴史の深みを増しています。太陽の光が優雅に差し込み、影と光が城壁を彩る様は、まるで昔の物語がそのまま石に刻まれたかのようです。

新発田城

城内は季節ごとに美しい花々が咲き誇り、訪れる人々に四季折々の彩りを贈ります。桜の花が舞い散る春、青葉が風に揺れる夏、紅葉が城を彩る秋、そして雪に覆われた冬。その美しい風景は、まさに心に残る瞬間となることでしょう。

新発田城

城内の櫓や門は、緻密な細工と伝統的な和の美を感じさせます。歴史の中で培われた職人の技が、今もなおその美しさを輝かせています。城の中に足を踏み入れると、まるで時空を超えて当時の物語が見えてくるかのようです。

新発田城

新発田城は、ただの建造物ではなく、日本の歴史と文化が息づく場所。その情緒的な雰囲気は、訪れる者の心を引き込み、新潟の地に刻まれた重要な歴史の一部として誇り高く立ち続けています。

新発田城

桜まつりでドヤれる福岡城訪問ガイド〜咲き誇る桜 500 本、麗しの桜城。黒田官兵衛・長政の歴史を歩く〜

福岡城訪問ガイド〜咲き誇る桜 500 本、麗しの桜城。黒田官兵衛・長政の歴史を歩く〜

黒田官兵衛・長政が築き、毎年桜が咲く時期には「福岡城桜まつり」が開催され、非常に大勢の人々で賑わいを見せる福岡城を紹介します。

福岡城の歴史やみどころを知ることで、桜まつりがもっと楽しくなること間違いなしです。

福岡城

福岡城

福岡城は、1607年(慶長12年)に黒田官兵衛によって築城されました。

黒田官兵衛の息子である黒田長政は、関ヶ原の戦いで徳川家康側に付き活躍。功績を称えられ筑前国(ちくぜんのくに, 現在の福岡県)を与えられました。それまで住んでいた豊前国中津(現在の大分県中津市)から筑前国へ移った際、築城したのがこの福岡城です。

築城
1607年(慶長12年)
初代城主
黒田官兵衛
別名
舞鶴城
石城
文化財等指定
日本100名城
国指定史跡
天守台・多聞櫓(国指定重要文化財)
潮見櫓(県指定有形文化財)
下之橋御門(県指定有形文化財)
旧母里太兵衛邸長屋門(県指定有形文化財)
名島門(市指定有形文化財)
天守
天守は存在しませんが、天守台があります。
料金
無料
営業時間・定休日
公園として開放されているためいつでも入れる
最寄り駅
地下鉄空港線 赤坂駅 2 番出口
駐車場
第 1 ~ 第 4 駐車場(有料)
約 450 台駐車可能
所在地
〒810-0043 福岡県福岡市中央区城内 1

fukuokajyo.com

黒田官兵衛と黒田長政について

黒田官兵衛は豊臣秀吉に仕える優秀な軍師でした。息子である長政は幼少期、人質として織田信長に渡され、そこから豊臣秀吉が預かっていたという経緯があります。

豊臣秀吉の没後、関ヶ原の戦いが起きますが、そこに至る過程で黒田長政が西軍の石田三成らと方針を巡って対立、最終的に東軍の徳川家康側に付いたという説があります。黒田長政は関ヶ原の戦いでは最前線にて、中心人物として活躍しました。

オススメコース

電車で行く場合は、最寄り駅である地下鉄空港線 赤坂駅 2 番出口から出て向かいます。

上之橋を渡って天守台へ行く以下のルートが主要なスポットを見て回れてオススメです。

  1. 上之橋
  2. 東御門跡
  3. 扇坂御門
  4. 梅園
  5. 天守台

福岡城オススメコースマップ

上之橋

上之橋(かみのはし)は、城内に入るための最初の門があった所です。

上之橋

福岡城の正門として江戸時代に使用されていた橋で現在は石垣のみが残っていますが、かつては2層の櫓門が築かれていました。

上之橋

上之橋が架かるお堀

上之橋は福岡城の表玄関として、黒田藩主や客人などの公式の出入り口として使用されていました。藩主が参勤交替の時に渡るなど、下之橋よりも格式が上でした。上之橋から東御門、本丸表御門を経て本丸御殿へ至るのが正式な登城ルートとされていました。

上之橋

東御門跡

東御門は、三の丸から東二の丸へと続く櫓門です。

東御門跡

門を入ると右手に直角に曲がる階段があり、攻め手が簡単に攻められない構造になっています。

東御門跡

東御門跡

東御門を抜けると、広場に出ます。

広場

ここには烽火番所跡や東二の丸跡があります。

烽火番所跡 烽火番所跡

東二の丸跡 東二の丸跡

見晴らしも良く、広場からはテニスコートや競技場が見渡せます。

広場からの眺望

広場の先には、扇坂御門があります。

扇坂御門

扇坂御門

扇坂御門(おうぎざかごもん)は、二の丸への入口として、主に城内で働く人々や庶民が使用していた門です。

扇坂御門

現在は石垣のみが残っていますが、かつては2層の櫓門が築かれていました。櫓門の下層には、城門の守備に当たる武士たちが詰め、上層には、城内を見渡せる見張り台が設けられていました。

扇坂御門

扇坂御門には、ある怪談が伝わっています。それは、扇坂御門に手を触れると熱病に冒されたり、夜中にうなされたりするというものです。この怪談は、二代目黒田忠之の側用人・浅野四郎左衛門の妻・お綱の怨念が原因だという伝説があります。

お綱は、夫に裏切られ、別宅に追いやられていました。ある日、夫の愛人・采女を殺そうとしたお綱は、失敗して捕らえられてしまいます。そして、扇坂御門の石垣に縛り付けられ、打ち首に処されたのです。

お綱の怨念が今も扇坂御門に残っていると言われ、人々は扇坂御門を「お綱門」とも呼んでいました。

この怪談は、江戸時代には広く知られており、福岡城を訪れる人々を恐れさせていました。

扇坂御門を訪れた際には、お綱の怨念がまだ残っていないことを確かめるために、後ろを振り返ることを忘れずに。

扇坂御門

梅園

扇坂御門を抜けた先には、梅園があります。

梅園

園内には約 270 本の梅の木が植えられており、毎年 2 月から 3 月にかけて、白やピンクの梅の花が咲き誇ります。

梅園

梅園の梅の種類は、白梅、紅梅、しだれ梅など、さまざまな種類があります。梅の花の見頃は、2月下旬から3月中旬頃です。梅の花が咲く時期には、福岡城梅まつりが開催されます。

福岡城梅園は、福岡を代表する梅の名所です。

梅園を抜けると、天守台です。

天守台

天守台

福岡城には天守は残っていませんが、天守閣を置くための台座である天守台が残っています。

天守台

東西約 25 m、南北約 22 mの敷地内に約 40 個におよぶ天守の礎石が残っています。

天守台入口 天守台入口 天守台入口

天守への入口だけあって、通路が枡形になっている構造も見て取れます。

枡形構造 枡形構造

通りが狭くなっているところもあります。大勢で一気に攻められないようにしている工夫です。 枡形構造 枡形構造

展望デッキ

天守台には展望デッキがあり、福岡市内を眺めることができます。

展望デッキ

展望デッキは現存している石垣の上に作られています。

石垣

展望デッキに上ってみましょう。

展望デッキ入口

まだ頂上ではありませんが、階段を上がってすぐのところにも景色を眺められるデッキがあります。

展望デッキ

展望デッキからの眺め

展望デッキからの眺め

さらに進みます。

展望デッキの通路

大天守台跡

大天守台跡には、天守の柱を支えていたであろう石が埋め込まれた遺跡を見ることができます。

大天守台跡 大天守台跡 大天守台跡 大天守台跡 大天守台跡

最上層の展望デッキへ行ってみましょう。

階段

大天守台 展望デッキ

大天守台 展望デッキ

大天守台の展望デッキは高さ 36 メートル。開放感抜群で福岡市内を見渡すことができます。

大天守台展望デッキからの眺め 大天守台展望デッキからの眺め 大天守台展望デッキからの眺め 大天守台展望デッキからの眺め 大天守台展望デッキからの眺め

天守はなくとも。満開の桜に囲まれて。

福岡城にはすでに天守や御殿、櫓や門などの建築物はほとんど残っていません。そこには石垣とそこにあったであろう建物の印のみが残っています。

しかし、福岡城のある舞鶴公園にはたくさんの桜が植えられており、毎年桜が咲く時期には「福岡城桜まつり」が開催され大勢の人々で賑わいます。

福岡城と桜

福岡城と桜

福岡城は、当時の九州の中心となる城として栄え、黒田藩の居城として約 270 年間にわたって使用されました。廃城令によってそのほとんどが解体されましたが、今でもこうして福岡市民の憩いの場となっています。

あなたもぜひ、福岡城跡へ足を運んでみてください。

福岡城と桜

旅行好きがオススメするベストな熊本城の巡り方〜お得に無駄なく穴場まで〜

【お得に無駄なく穴場まで】旅行好きがオススメするベストな熊本城の巡り方

熊本城に行こう!でも熊本城は、お城だけではなく周辺も含めて沢山の見どころや楽しいスポットがあります。

熊本城を観光する際に抑えておきたいスポットや巡り方を紹介します。

熊本城に関連する主要な観光スポット

はじめに、熊本城に関連する主要な観光スポットを整理しておきましょう。

熊本城観光スポットマップ

熊本城マップ南ルート

  • 熊本城
    • 完全復活を遂げた天守閣
    • 「熊本城に行く」は天守閣へ行くことを指す。
  • 熊本城ミュージアム わくわく座
    • 体験型で楽しく熊本城の歴史に触れられる
  • 城彩苑
    • お土産や飲食店がたくさん
    • 観光案内所やロッカーもここにある
  • 加藤清正公像
    • 熊本城の入口にあります。
  • 熊本城稲荷神社
    • 熊本城に縁のある、紅白の色合いが美しい神社。
  • 高橋公園
    • 熊本近代史の偉人や遺構が眠る。
    • 歴史好きにはたまらない穴場スポット
  • 熊本市役所無料展望台
    • 14 階から熊本城を一望できる。夜景が最高に綺麗!
  • 熊本博物館
    • 熊本の歴史をまるごと展示。その中に熊本城に関する展示が一部あり。
    • たまに大々的に熊本城関連のイベントを開催

熊本駅からのアクセスはバスや路面電車で楽々

熊本城からは、バス、または路面電車で熊本城に行くことができます。

熊本城周遊バス(しろめぐりん)

熊本駅の白川口(東口)にあるバスターミナル 2 番のりばから、熊本城に行くバスが出ています。

熊本駅の白川口(東口)バスターミナル 2 番のりば

熊本駅からは約 23 分。料金は、大人 180 円、子供 90 円です。

しろめぐりん時刻表

バス停「桜の馬場 城彩苑」で降りましょう。熊本城内の施設「城彩苑」の前で降りられます。

バス停「桜の馬場 城彩苑」

バス停「桜の馬場 城彩苑」 バス停「桜の馬場 城彩苑」

路面電車 A 系統

路面電車は 8 分間隔で運行しているので、バスに比べたら出発時刻にシビアにならなくて良い(とりあえず駅に行って待っていればすぐ電車が来る)というメリットがあります。

熊本市交通局(時刻表・路線図)

熊本駅から路面電車で行く場合は、「熊本駅前駅」からA 系統に乗ります。最寄り駅は「花畑町駅」もしくは「熊本城・市役所前駅」です。(所要時間:17 分・180 円)

両者はさほど距離は変わりませんが、熊本城・市役所前駅で降りるのがオススメです。

駅からの徒歩ルートマップ

花畑駅から熊本城入口までは街中を歩きますが、熊本城・市役所前駅で降りると、熊本城の長塀(ながべい)を眺めながら入口まで行くことができて旅感がグッと増します。

長塀は、現在の坪井川に沿って建てられた全長 242m の長い堀です。国指定の重要文化財に指定されています。

長塀

熊本城 駐車場

自家用車やレンタカーで熊本城に行く場合は、場内に駐車場があります。駐車場は広いので、駐車に困ることはないでしょう。

熊本城にはいくつか駐車場がありますが、最も熊本城天守へアクセスが良く、駐車台数も多いのは二の丸駐車場(普通車:210台・二輪車:10台程度)です。

二の丸駐車場の位置と入口

  • 二の丸駐車場
    • 普通車:210台
    • 二輪車:10台程度
    • 【4月~10月】8:00~18:30(最終入庫17:30)
    • 【11月~3月】8:00~17:30(最終入庫16:30)

二の丸駐車場

二の丸駐車場の入口 二の丸駐車場の入口

castle.kumamoto-guide.jp

観光案内所に無料ロッカー有り

観光案内所

城彩苑の中に観光案内所があります。その中に無料ロッカーがあるので、荷物を収納できます。

観光案内所

ロッカー

使用可能時間は 9:00 ~ 17:00 です。

コインロッカーのため、鍵をかけるために 100 円を入れる必要がありますが、解錠時に 100 円は戻ってきます。

ロッカーの大きさは、大小 2 つのサイズがあります(両方無料です)

小サイズのロッカー

小サイズのロッカー

小サイズのロッカーは、通常のリュックサックなどを入れておくには十分な広さです。

小サイズのロッカー

大サイズのロッカー

大サイズのロッカー

大サイズのロッカーは結構大きいですが、大きなスーツケースを入れるのは難しいかもしれません。

大サイズのロッカー

有料ロッカーも有り。荷物預かりも。

無料ロッカーだけでなく、有料ロッカーも観光案内所にあります。

さらに、ロッカーが全て使用中となってしまった場合や、ロッカーに入り切らない大きさの荷物も、観光案内所にて有料で預かってもらえます。

  • 有料ロッカー
    • 100硬貨のみ使用可
    • 利用料金:[大] 500 円, [中] 400 円, [小] 200 円.
    • 利用時間:8:00 ~ 22:30(時間内は課金せずにロッカーの使用が可能)
  • 荷物預かり
    • 観光案内所にてお声がけください。
    • 利用時間:9:00 ~ 17:00

www.sakuranobaba-johsaien.jp

お得で無駄の無いオススメの熊本城の巡り方

ではここからは、効率よく、しかもお得に熊本城を巡れるモデルコースを紹介します。

  1. 熊本城ミュージアム わくわく座
  2. 熊本城
  3. 城彩苑でランチ&お土産購入

1. 熊本城ミュージアム わくわく座

熊本城に着いたら、まずは「熊本城ミュージアム わくわく座」に行きましょう。わくわく座は、城彩苑の中にあります。

熊本城ミュージアム わくわく座 熊本城ミュージアム わくわく座

大人の場合、熊本城への入場料は 800 円、わくわく座への入場料は 300 円ですが、「城満喫コース」という、わくわく座+熊本城のセット割のチケットを購入すれば 850 円になり、わくわく座へ実質 50 円で入れます。

城満喫コース(熊本城+わくわく座)850 円

わくわく座には、ゲームやプロジェクションマッピング、特大スクリーンの VR など、体験型のコンテンツが沢山あります。必ずしもあなたが歴史好き、城好きで無かったとしても十分に楽しめるコンテンツが揃っています。

わくわく座の様子

わくわく座の詳細は以下で紹介しています。

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2. 熊本城

わくわく座の出口から熊本城へ向かうための通路があり、熊本城まで簡単にアクセスできるようになっています。

熊本城マップ

熊本城への通路

特別見学通路(南ルート)

熊本城の天守へは、綺麗に整備され最も眺めの良い南ルートから向かいます。

熊本城マップ

特別見学通路(南ルート)入口

南ルート

まだ修復が終わっていない数寄屋丸五階櫓跡が見えます。

南ルート

熊本城の天守は修復が終わっており完全復活を遂げています。

熊本城天守

お城といえば、曲がりくねって坂道も多く、歩きづらいイメージがありますが、南ルートの通路は綺麗に整備し直されため、とても歩きやすいです。

南ルート 南ルート

二様の石垣

ここは「二様(によう)の石垣」という、2つの時代の石垣が重なっている、熊本城の見どころの一つです。

二様の石垣

  • 右側:加藤清正時代の石垣
  • 左側:細川忠利時代の石垣

傾斜が緩やかな古い石垣(右側)に、傾斜が急な新しい石垣(左側)が築き足されています。特徴を比べる事で石積みの技術革新がよく分かります。

二様の石垣

地下通路(闇り通路)

熊本城の天守へは、地下通路を通って行きます。本丸御殿への通路であったりもします。

熊本城地下通路 熊本城地下通路 熊本城地下通路 熊本城地下通路

地下通路を抜けると、天守へ到着です。

熊本城地下通路

熊本城天守

熊本城 大天守

2016 年の熊本地震で大きな被害を受けた熊本城ですが、天守は修復が完了し、完全リニューアルとして公開されています。

熊本城大天守

展示もフルリニューアルされ、設備の充実と併せて内容もとても充実しています。天守の中の様子は以下で紹介しています。

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天守の隣にはおみやげを販売している売店があります。

売店 売店 売店

3. 城彩苑でランチ&お土産購入

城彩苑

城彩苑は、お土産屋さんや飲食店が沢山立ち並んでいる商業施設です。先に紹介した観光案内所やわくわく座もこの城彩苑の中にあります。

ここで、お土産を購入したり、ランチを食べたりしましょう。

城彩苑マップ

城彩苑 城彩苑 城彩苑

食事処

熊本の名物はもちろんの事、食べ歩きができるものも販売していますし、食事処でゆっくり過ごすこともできます。

海鮮を食べたい人は「海まる」がオススメ。

海まる 海まる

熊本の郷土料理を食べたい!という人なら「山見茶屋」がオススメ。

山見茶屋 山見茶屋

熊本ラーメンを食べたい人は「山むら」へどうぞ。

山むら

ぜんざい、アイスクリーム、ラテなどのデザート、カフェメニューをいただきたい人には「いずみ茶」があります。

いずみ茶

食べ歩きに最適「うにコロッケ」

オススメは先ほど紹介した、海鮮メインの食事処「海まる」が販売している、食べ歩きに最適な「うにコロッケ」です。

うにコロッケ うにコロッケ うにコロッケ うにコロッケ うにコロッケ

とってもクリーミーで、ウニの味わいが柔らかくて美味しいです。

うにコロッケ うにコロッケ

お土産

お土産は取り扱っている品数が豊富なので、ここで購入するのは良い選択です。

売店売店売店売店売店売店

所要時間は 3 時間

わくわく座から始まり、熊本城を巡って最後に城彩苑でランチとお土産購入。

時間にして 9:00 ~ 11:40 の工程です。所要時間は約 3 時間で回れました。

もっと楽しみたいひとのために

熊本城をもっと楽しみたい!という人には、以下も是非訪れてみてください。全て有名なスポットですがあまり知られておらず、穴場です。

熊本城稲荷神社

熊本城稲荷神社

加藤清正公が肥後国主として入国するにあたり、京都の伏見稲荷大社から勧請した神社です。

熊本城の隣にあるため徒歩で十分行けるのと、紅白の色合いが美しいので神社好きならオススメです。神社自体も大きくはないので、熊本城のついでにでも気軽に見て回れます。

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高橋公園

高橋公園

熊本近代史の偉人や遺構が公園に詰め込まれまくっているという、歴史好きにはたまらない穴場スポットです。

こちらも熊本城から徒歩で十分行ける距離です。熊本城稲荷神社の隣にあります。

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熊本市役所無料展望台

熊本城夜景

熊本市役所の 14 階から熊本城を一望できます。しかも無料です。

日中でも良いですが、夜景が最高に綺麗なので、夜に行くのがオススメです。

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詳しくは紹介記事に記載していますが、夜の歓楽街からも近いので、夕食後に徒歩で行くこともできます。

蘇った日本屈指の観光城「熊本城」

城彩苑

2016 年の熊本地震で大きな被害を受けた熊本城ですが、天守の完全復活と共に、熊本城周辺の観光スポットも盛り上がっています。

紹介したわくわく座や熊本城の天守では、昔の城のような「ただ歴史や資料展示してあるだけ」ではなく、訪れた人が実際に体感・体験できるコンテンツが提供されており、五感が刺激され、純粋に「楽しい」と思える体験づくりがなされています。

城彩苑では、今回紹介できていない食事処やお土産屋さんもまだまだ沢山あります。

地酒専門販売、着物レンタル、馬刺し販売などなど…

さらには、最後に紹介した「実はすごいところなんだけどあまり知られていないスポット」も熊本城のすぐ近くにあり、熊本城、そして熊本観光を最大限に楽しめるスポットが熊本城の周辺に揃っています。

熊本城は今もなお修復工事が続いていますが、熊本城、そして熊本の観光は復活し活気を取り戻しています。

是非、熊本城に足を運んでください。

熊本城

熊本城 大天守は今、間違いなく日本で最も熱い城。震災を乗り越え、最先端技術と伝統の技が生み出した奇跡。

熊本城 大天守は今、間違いなく日本で最も熱い城。震災を乗り越え、最先端技術と伝統の技が生み出した奇跡。

2016 年(平成 28 年)7 月 14 日に発生した熊本地震の被害から完全復活を果たし、最新テクノロジーで革新的な進化を遂げた熊本城の大天守を紹介します。

熊本城

熊本城

熊本城は、熊本県熊本市中央区にある城郭です。国の特別史跡に指定されており、日本三名城の一つに数えられています。

熊本城は、戦国武将の加藤清正によって築城されました。清正は築城の名人として知られており、熊本城は当時の最先端の技術と工夫が盛り込まれた城郭です。

熊本城の特徴はその堅牢な構造にあります。石垣は高さ 20 メートル、厚さ 10 メートルにも達し、また、天守は 6 層からなる複雑な構造となっています。この堅牢な構造により、熊本城はこれまで一度も攻め落とされたことがありません。

しかし熊本城は、2016 年の熊本地震で大きな被害を受けました。現在も復旧作業が進められていますが、2023 年 7 月 22 日には大天守の一般公開が再開されました。熊本城全体としては 2023 年現在も復旧作業が続いていますが、修復が完了した大天守は、「建築」「歴史の継承」そして「観光」の両面で現代技術を纏った最先端城として復活を遂げました。

開園時間
9:00 ~ 17:00(最終入園, 天守への入場は 16:30 まで)
休園日
12 月 29 日 ~ 12 月 31 日
料金
  • 高校生以上:800 円
  • 小・中学生:300 円
  • 未就学児:無料
所在地
〒860-0002 熊本県熊本市中央区本丸 1-1

熊本城 - 公式サイト

完全復活!現代技術で生まれ変わった天守閣

2016 年の熊本地震で大きな被害を受けた熊本城天守ですが、「最新技術の耐震補強」そして「バリアフリー化」を果たし、2023 年に完全復活を遂げました。

完全復活を遂げた熊本城天守

さらには天守内の展示や内装もフルリニューアル。体験・体感型のアプローチを取った天守の展示は、現代技術によって「ただの展示」ではない、エンターテイメントとしての歴史の学びを提案します。

本記事では、そんな熊本城の天守内部を紹介していきます。

興味と楽しいを誘発!体感型コンテンツ

熊本城天守の展示はただの展示ではありません。映像や造形をふんだんに使用し、訪れた私達の興味関心を強く引くようなアプローチを取っています。

代表的なのは映像コンテンツ。解説もあり分かりやすい上、ついつい見入ってしまいます。

映像コンテンツ

巨大な熊本城天守の模型。

熊本城天守の模型

熊本城天守の模型

これらは私達の背丈よりも大きな模型です。覗き込めば模型の精巧さに驚きますが、何より巨人にでもなった気持ちになれるのにも楽しさを感じます。

精巧に作られた模型

精巧に作られた模型

精巧に作られた模型

この模型に映像コンテンツが添えられており、天守の構造をより深く知る機会の提供も逃しません。

模型の解説映像

さらには、大きなパネルを使った展示で、歴史に詳しくない我々でも入りやすく、シンプルに「眺めるだけでも楽しい」要素が盛り込まれています。

大きなパネルを使った展示

大きなパネルを使った展示

大きなパネルを使った展示

そうかと思えば、ミニチュアサイズで超絶精巧な熊本城が現れます。

ミニチュアサイズの熊本城

ミニチュアサイズの熊本城

ミニチュアサイズの熊本城

ミニチュアサイズの熊本城

ミニチュアサイズの熊本城

極めつけは、まるで原寸大かのような巨大な「御上段模型(おじょうだんもけい)」です。

御上段模型

「御上段」は、大天守最上階(6階)にあった部屋です。模型は時代の平面図や古文書をもとに復元されました。

近づいて見ると迫力がすごい。再現性が高いので、覗き込むと本当にそこにいるかのように感じます。

御上段

南には「松」、北には「秋野花」が描かれています。

御上段

他にも、シアタールームでの映像コンテンツ「天守シアター」や、プロジェクションマッピングを利用した解説など、直感的に分かりやすく興味を引くコンテンツが沢山用意されています。

天守シアター

プロジェクションマッピングを利用した解説

これはまだ一部です。こういうコンテンツが大天守内に沢山あるので、根っからの歴史好き、城好きでなくても楽しめます。

天守のバリアフリー化と車いすについて

熊本城天守閣 施設案内板

天守に入る前に、熊本城天守のバリアフリーについて触れておきたいと思います。

日本のお城とは元来、敵の侵入を少しでも防ぐ工夫がなされているものです。その一つとして、階段が急勾配に作られており、健常者であっても上りづらかったりします。

熊本城は全部で 6 階(実質 7 階)まであり、その全てを階段を上ることで進みます。

ただし、車いす利用者の方(介添者含む)をはじめ、視覚に支障のある方、階段利用が困難な方に限って、エレベーターを利用することが可能です。

エレベーターを利用したい場合は、熊本城のスタッフに声を掛けてください。案内してくれます。

ちなみに、天守はフルリニューアルされていますので階段も刷新されています。昔ながらの城によくある急勾配の階段はありませんのでご安心ください。

熊本城天守内の階段

天守への入口も、このように完全にバリアフリー化がなされており、車いすでも天守へ入ることができます。

バリアフリー化された天守入口

地下 1 階 天守入口 穴蔵

天守入口

天守入口

入口は大天守の脇にある小天守です。天守閣としては石垣の部分に当たるため、階層としては「地下 1 階」と数えられます。穴蔵(=地下階)と呼ばれるこの場所は、本来は土間に礎石(そせき: 建物の柱を受ける土台石のこと)が並び、その上に木の土台を置いて建物を支える柱を立てていました。

そのため、広く、吹き抜けのような構造になっているのが特徴です。

穴蔵

穴蔵

小天守の穴蔵は「御水屋(おんみずや)」と呼ばれる台所で、井戸や竈門(かまど)があり、当時は籠城にも耐えられる機能を備えていました。

井戸の跡 井戸の跡

階段を上がって 1 階へ向かいます。

1 階へ向かう階段

1 階 加藤時代

1 階 加藤時代

「加藤時代」の「加藤」とは、熊本城を築城した加藤清正のことです。1 階では、熊本城の伝説や築城の歴史、加藤清正の人物像などの紹介がメインとなっています。

熊本城・加藤時代年表

清正の城づくり

熊本城が堅牢だと言われた所以

熊本城が秀逸な理由の一つとして「堅牢な構造」が挙げられますが、その一翼を担っている石垣についても解説されています。

石垣の解説

そして、熊本城全体に施された防御装置(壁・窓・忍び返し・狭間・石落とし)の解説

防御装置の解説

貴重な昔の写真や装飾

貴重な昔の熊本城の写真、古くは明治時代に西南戦争で消失する前の天守の写真も展示されています。

古写真にみる天守のすがた 古写真にみる天守のすがた

こちらは昔、熊本城を飾っていた鯱瓦(しゃちがわら)

鯱瓦

(しゃち)とは、頭は龍、体は魚の想像上の生き物で、口から水を吐くため火除けとして城の屋根に置かれ、天守を守る棟飾りとして用いられました。

鯱瓦 鯱瓦

2 階 細川時代

2 階 細川時代

2 階は熊本城の第二期の時代である、細川家の時代の展示です。

江戸時代、1632年(寛永 9 年)に清正の子である加藤忠広が身分を剥奪(改易)されたことで、次の熊本藩主として細川忠利が熊本城に入城したことから細川時代は始まります。

細川家の入城

細川家の統治になってからは、熊本城下がさらに拡大しました。本丸全域を描く唯一の平面図などが大きなパネルで展示されています。

本丸全域を描く唯一の平面図

そしてここにも、カラフルなプロジェクションマッピングを使った展示・解説があります。

プロジェクションマッピングを使った展示・解説 プロジェクションマッピングを使った展示・解説

細川家の甲冑を目の当たりに!

武器庫としての天守

天守とは、戦時において最後に籠城する場所であり、本来は武具類や食糧が備えられていました。熊本城の天守にも、加藤時代から備えられていた武具とともに、細川家の甲常類が大量に保管されていました。

1871 年(明治 4 年)の廃藩置県が行われた際に、天守にあった大量の武具類の保管が問題となりましたが、当時、細川家が歴代藩主の武具を 200 人以上の旧家臣に預けたことで、廃棄・売却を免れ、現在まで伝わったものも少なくないとされています。

このフロアに展示されている細川家の甲冑もその中の一つです。

細川家の甲冑 細川家の甲冑

3 階 近代

3 階 近代

3 階は、西南戦争、明治維新、明治 22 年の熊本地震、そして天守の再建など、近代の歴史を展示しています。

3 階のフロアマップ 3 階のフロアマップ

開かれた熊本城

明治に入り、熊本城は「戦国の余物」「無用の贅物」とされ一度は解体の道を進みます。しかし政治的な事情もあり解体を免れた熊本城は、ここで「一般公開」に踏み切ります。それが「開かれた熊本城」です。

開かれた熊本城 開かれた熊本城 開かれた熊本城

西南戦争

1877 年(明治 10 年)には、日本最後の内戦となった西南戦争が始まります。

西南戦争と熊本城

熊本城は、西郷隆盛率いる薩摩軍と、谷干城率いる政府軍が戦う最初の舞台となりました。

熊本城は、50 日間にも及ぶ籠城戦を耐え抜き、最初で最後のこの戦いで「難攻不落」であることを証明しました。

西南戦争と熊本城 西南戦争と熊本城 西南戦争と熊本城

明治 22 年熊本地震

明治 22 年熊本地震

西南戦争から 12 年後の 1889 年(明治22年)7 月 28 日深夜に、熊本の街を大地震が襲いました。マグニチュード 6.3 と推定される直下型地震で、熊本城でも各所の石垣が崩れる大きな彼害を受けました。

当時の崩れた石垣の写真を巨大パネルで見ることができます。迫力もさながらに、こういった記録がしっかり残されていることに頭が下がります。

明治 22 年熊本地震で崩れた石垣

天守の再建

天守の再建

1960 年(昭和 35 年)に、天守消失から実に 83 年を経て、天守の再建が実現しました。

天守の再建

天守の再建

4 階 現代

4 階 現代

4 階は、現代の展示フロアです。まだ記憶に新しく、今もなお修復工事の続く 2016 年(平成 28 年)の熊本地震からの復興の様子が展示されています。

よみがえる熊本城

復興城主デジタル芳名板

復興城主デジタル芳名板(ほうめいばん)は、「復興城主」として、熊本城の復旧・復元への寄附を行った方々の名前を見ることができる所です。

5 階 ちょっとした休憩スペース

5 階には歴史の展示はありません。その代わり、著名人のサインとベンチが設置されており、ちょっとした休憩スペースになっています。

5 階

ここから階段を上れば、いよいよ展望フロアです。

6 階 展望フロアへの階段

6 階 展望フロア

6 階 展望フロア

6 階は最上階、展望フロアです。熊本市街地を一望できます。

展望フロアからの眺め 展望フロアからの眺め 展望フロアからの眺め 展望フロアからの眺め 展望フロアからの眺め

今、間違いなく日本で最も熱い城。

熊本城天守

震災を乗り越え、最先端技術で蘇った熊本城天守が、城としての堅牢さ、アクセシビリティを追求したバリアフリー化に加えて、「体感型」という現代のエンターテイメント的アプローチを手に完全復活しました。

熊本城天守

「面白そう」「分かりやすい」「楽しい」という要素は、歴史を知る最初のきっかけを作ります。こういったアプローチこそが、歴史に詳しくない、特に興味があるわけではない人にも「エンターテイメント」ととして歴史に気軽に、そして楽しく触れるきっかけを作れるといえるでしょう。

現代のテクノロジーと、継承され磨かれてきた伝統の技で復活を遂げた熊本城。

熊本城の大天守は、今、間違いなく日本で最も熱い城です。

熊本城天守

熊本城復元の成功事例から見る、首里城の復元で失うもの、得るもの。

熊本城復元の成功事例から見る、首里城の復元で失うもの、得るもの。

2023 年現在、今も行われている首里城の復元作業ですが、首里城の公式サイトや Youtube で復元作業の進捗や現在の状況を知ることができます。

oki-park.jp

www.shurijo-fukkou.jp

首里城正殿の火災について

復興レポートより

  • 日時:2019 年 10 月 31 日未明
  • 場所:沖縄県那覇市首里城
  • 被害:正殿をはじめとする 9 施設が焼失
  • 原因:不明
  • その後:復元工事が本格的に始まり、2026 年秋の完成を目指して進められている

2019 年 10 月 31 日未明、沖縄県那覇市にある首里城正殿で火災が発生し、正殿をはじめとする 9 施設が焼失しました。火災は約 11 時間にわたり燃え続け、鎮火されました。

火災原因は、電気系統設備が集中していた正殿北東側とみられていますが、県警も那覇市消防局も捜査・調査を終えたものの、原因を特定することはできませんでした。

首里城は、琉球王国の王城として 15 世紀から 19 世紀にかけて造営されたもので、2000 年には世界遺産に登録されました。今回の火災は、沖縄県のみならず、日本全体にとっても大きな損失となりました。

火災後、首里城公園では、沖縄総合事務局、沖縄県、沖縄美ら島財団で連携して、二度と同じような悲劇を繰り返さないよう防災対策を講じてきました。

2022 年 11 月 2 日には、正殿の復元工事が本格的に始まりました。2026 年秋の完成を目指して、現在も工事が進められています。

復元スケジュール

  • 令和 2 (2020) 年 3 月:関係閣僚会議において「首里城正殿等の復元に向けた工程表」が決定
  • 令和 4 (2022) 年 11 月 2 日:正殿の復元工事が本格的に開始
  • 令和 8 (2026) 年秋:正殿の完成予定

復元は壊れたからやるもの

お城が老朽化した際には「補強工事」を実施します。これは復元ではありません。

「昔在ったものを再現する」「破壊されてしまったものを再構築する」これが復元ですよね。

首里城は火災で消失してしまったので復元作業が行われているわけですが、消失してしまったこと自体はとても悲しいことです。記事を書く上でこれは前提として私も思っています。

ただその中で、確実にポジティブな要素を感じる部分もあります。

首里城の復元には「現代的なアプローチ」が活きている

歴史的に価値のある文化財はもちろん当時のままのものが現存できていることに越したことは無い。

としつつも、メインコンテンツの復元に際して、周辺施設の整備も進んでいくという作用が働く。これはとてもポジティブなアプローチです。

例えば映像をつかったアプローチ。

それこそプロジェクションマッピングだったり、 VR, AR のような手法だったり、より世界観に没入できるようなコンテンツが復元と共に周辺の施設に整備される。

あとは、施設のバリアフリー化。

歴史的な建物というのはそれ自体が周遊しにくい(階段が急勾配だったり)が、文化財は昔のままを残したいためそれは復元したとしてもそのままになることは仕方がないとしつつも、メインコンテンツまでの道のり、および周辺施設が当たり前のようにバリアフリー化されていく。

首里城の現状を見ていると、こういった「現代的なアプローチ」がきちんと取られていると感じます。

熊本城もそうだった〜成功した現代的アプローチ〜

熊本城の復元も記憶に新しい。

2016 年 4 月 14 日と 16 日に発生した熊本地震により、熊本城は甚大な被害を受けました。重要文化財 13 棟、復元建造物 20 棟の一部が倒壊・破損し、石垣全体の 10.3 %が崩落しました。

2023 年現在、熊本城の復元は未だ続いていますが、天守閣などメインコンテンツの復元は完了し既に公開されています。

天守に至るまでの道は完全に再整備され、バリアフリー化されました。

バリアフリー化

天守の中は完全に補強されました。

完全に補強された熊本城天守

天守内の階段は上りと下りが一方通行になり、手すりがつきました。日本の城の階段は段差が高く狭いため、これは現存まま残していたら不可能なことです。

天守の階段

各階層のコンテンツは完全に情報が再整理され、映像・模型・遺物・解説文献など、資料展示というコンテンツの中に、情報整理・デザインというエッセンスがより研ぎ澄まされた状態で再構築されました。

プロジェクションマッピングによる資料展示

映像資料コンテンツ

こういった「現代的なアプローチ」は、訪れた人々へ、その歴史への理解を促進させます。

これは、わかりやすさ・理解しやすさの面からも有効に作用しますが、何より訪問者がそのコンテンツについて ”わくわく” することで、興味喚起を起こさせることができます。その結果、そこにいる「歴史」の 1 つを知るに至るのです。

多くの人にとって歴史とは退屈なものです。なぜならば過去のことですから。

正直、お城や日本の歴史が好きではないと、資料を深く読み解き、そこにある歴史を知ろうとは思いません。

でも熊本城は有名な観光スポットなので、お城や日本の歴史に興味があろうがなかろうがとりあえず行くんです。なぜならば旅行とは、そういうものですから。

知らない土地だが行ってみたい土地に行く、ということは、とりあえずその土地の有名な場所に行ったり、有名なものを食べたりするものですからね。大抵の場合は。

そうした時に、こういった「現代的なアプローチ」は非常に効果的に作用します。なぜならば退屈しませんから。

興味がなかったとしても、興味喚起され、なんとなくの「面白そう」から入って見た映像資料コンテンツがわかりやすく、面白く触れ手にアプローチするため、訪問者の「へぇ〜そうなんだ〜」を生み出します。

つまり、いつもなら素通りしていた歴史や文化に触れる「機会」が現代的なアプローチによって創出され、訪問者は「知る」ことで満足感を得る。

そして熊本城の天守を出た時には多くの人たちが「楽しかった」と思うでしょう。

熊本城は、地震によって当時から現存していた文化財の多くを失いました。

ですが熊本城の天守は復元され、天守内のコンテンツも一新され、それによって「歴史的に価値の在る場所」に併せて「優秀な観光資源」というポジションも得たと思います。

歴史・文化に観光がきちんとひも付き、訪問者を満足させるコンテンツがある。

「歴史的文化財の復元」という目線で見た時、熊本城の復元はこのように成功事例です。

首里城も失ったものをバネに得てほしい。

首里城の復元に伴う周辺施設の再構築で、映像コンテンツやバリアフリー化など、豊富な「現代的アプローチ」を見ました。

これは熊本城における復元の成功事例と重なる部分が多いと感じています。

さらに首里城では、正殿の再建に際して、宮大工たちの正殿建築作業がいつでも見られるようになっており、復元中であっても首里城公園に行く理由をきちんと創り出しています。

素屋根の見学エリア

伝統建築技法を間近で見られる機会なんて早々ありませんから、とても貴重な体験が提供されていると思います。これはとても素晴らしい取り組みです。

また、首里城復興基本計画にも、歴史・伝統・文化ををより現代的なアプローチを以てコンテンツ作成を行う旨の記述があるため、現在見て取れるもの以外にも、益々の情報再構築が行われていくと予想されます。

前述の通り、災害で歴史的価値のある文化財が破壊・消失してしまうことはとても悲しいことです。

でもいつまでも泣き言は言っていられません。

そこから復元・復興を行う上で、現代だからできる観光整備が進むのはとても素敵なことだなと思います。熊本城もそうだったように。

首里城正殿の火災は、沖縄県の歴史と文化にとって大きな痛手となりました。しかし、復元工事の進捗状況を見ると、首里城の再建への機運が高まっていることがうかがえます。

首里城正殿の再建が、沖縄県の復興と発展につながることを願っています。

(最後に、本記事のサムネイル画像になっている、首里城の正殿の写真は、2011 年に撮影したものです。)

2011 年に撮影した首里城正殿

スリル満点海抜 325m!最強の石垣を持つ難攻不落の天空城「岡城」

スリル満点海抜 325m!最強の石垣を持つ難攻不落の天空城「岡城」

絶景とスリルの連続!「最強の石垣」と謳われる岡城(豊後竹田城)の見どころや役立つ情報を紹介します。

岡城

岡城

大分県竹田市にある岡城は、日本の代表的な山城のひとつです。阿蘇山の火砕流でできた海抜 325 mの岩山の上に築かれており、断崖絶壁に囲まれた難攻不落の要塞として知られています。

また、滝廉太郎が幼少期を過ごした地としても知られており、有名な曲「荒城の月」は岡城がモチーフとなっています。

別名
  • 豊後竹田城
  • 臥牛城
指定
  • 国指定史跡
  • 日本100名城
  • 日本さくら名所100選
入城受付時間
9:00〜17:00
休城日
12 月 31 日 〜 1 月 3 日
入城料金
高校生以上:300 円
小・中学生:150 円
所要時間
1 時間半から 2 時間
禁煙・喫煙
駐車場にある「お客様休憩所」脇に喫煙所あり
所在地
〒878-0013 大分県竹田市竹田2889

okajou.jp

岡城跡へのアクセスについて

岡城跡へ行くなら、車で行くのが最も良い手段です。

ただし、車が無い場合でも、豊肥本線「豊後竹田駅」からタクシーで約 10 分なのでこちらもオススメです。

竹田市は城下町で観光地のため、豊後竹田駅に行けばタクシーには確実に乗れます。豊後竹田駅には観光案内所もあるので、駅まで行ってしまえば観光案内所が力になってくれるので、岡城には確実に行けます。

バスでのアクセスは候補から外すのが無難です。岡城跡には「岡城」というバス停がありますが、路線バスが平日のみで 1 日に 2 便程度のためバスを利用するのは現実的ではありません。

徒歩もやめておいたほうが良いです。豊後竹田駅から徒歩でも行けないことはないですが、、公式サイトには徒歩 30 分とありますが、登り坂がきついのオススメできません

岡城跡の散策は結構歩くので、それまで体力は温存しておくことをオススメします。

岡城の歴史

以下に、岡城の歴史を簡単にまとめます。

  • 文治元年(1185年):緒方三郎惟栄によって築城
  • 南北朝時代(1369年):志賀氏が城主
  • 戦国時代:中川氏が城主
  • 豊薩合戦(1586年):島津軍の侵攻を阻む
  • 江戸時代(1594年):中川氏が城主
  • 明治時代(1874年):廃城令により廃城

岡城は、稲葉川と白滝川に挟まれ断崖絶壁の地に築かれた山城です。その歴史は古く、緒方三郎惟栄(おがたさぶろうこれよし)が源義経を匿うために築城したという伝説にはじまります。

その後、時は流れ、岡城は志賀氏の居城となりました。天正 14 年(1586年)の豊薩戦争では、周辺の城が次々と島津軍の攻撃で落城していく中、志賀親次(しがちかよし)が守る岡城だけは攻め落とされることはありませんでした。以降、「難攻不落の城」として、その堅固さが世に広く知れ渡るようになりました。

戦国時代末期の文禄 3 年(1594年)、播磨国(兵庫県)三木より入部してきた中川秀成により、岡城は、それまでの山城から総石垣の広大な近世城郭へと変貌を遂げました。

大手門・近戸門・下原門が設けられ、御殿など多くの建物が建ち並びました。また、度重なる災害による建替えや破損の修繕が繰り返されてきました。

明治時代になり、廃城令により役目を終えた岡城の建物は競売にかけられ、石垣のみが残る城跡になりました。瀧廉太郎の名曲「荒城の月」は、少年時代を竹田で過ごした彼が、よく遊んだ岡城跡を思って作曲したといわれています。

昭和 11 年(1936年)、岡城は国の史跡に指定され、現在に至るまで保存整備が行われてきました。

スリル満点!海抜 325m 断崖絶壁から臨む絶景

岡城のメインコンテンツといえば、海抜 325m から臨む絶景です。

岡城から臨む絶景

手すりなどをつけていないので、気をつけないと、石垣から滑落してそのまま崖の下へ落ちてしまいます。絶景に気を取られて足を滑らせないよう気をつけてください。

できれば運動靴で!かなり広くてそこそこ歩くし階段もなかなか

岡城の全体感です

天空の城 岡城址マップ [PDF] より

天守閣や資料館的なものは無く、あくまでも公園として散歩がてら岡城を巡るような形になります。

ただ、意外と広いので、そこそこ歩きます。

所要時間

ゆっくり見てまわるとして、1 時間半から 2 時間はとっておくと余裕をもったスケジュールにできます。

ちなみに、マップ No. 2 の大手門から、もっとも離れている No. 17 の下原門までは、歩いて 15 〜 20 分程度かかります。

所要時間

駐車場は無料で十分な広さ!RV パークも

岡城跡の駐車場は無料です。車は 140 台、バスは 9 台止められます。

岡城跡駐車場マップ

岡城跡駐車場

RV パークもありました。キャンピングカーでも安心です。

RV パーク

観覧券を購入して城内へ

岡城跡に入るには、観覧券発売所(総役所跡)で観覧券を購入します。

観覧券発売所(総役所跡)

大人は 1 人 300 円。観覧券とパンフレットをもらいます。

料金は大人 300 円

岡城までの道のり

それでは出発です。岡城の入り口へ向かいましょう。

駐車場から岡城までの道のり

距離にして約 180m、 2, 3 分の道のりです。

大手門跡

鏡石(きょうせき)

石垣の中に、巨大な岩が使われているところがあります。鏡石と言います。

鏡石

鏡石とは、石垣の内部に埋め込まれた、磨き上げられた大きな石のことで、岡城では、大手門・太鼓櫓門・三の丸の三箇所に計10個の鏡石が確認されています。

鏡石は、石垣の強度を高める役割を担うといわれています。石垣の内部に大きな石を埋め込むことで、石垣全体に均等に力が分散され、崩れにくくなると考えられています。また、鏡石は、石垣の装飾としても用いられました。鏡石が磨き上げられていることから、城主の権威や繁栄を誇示する目的もあったと考えられています。

出発地点でこういった珍しいものが見られるのでなかなか楽しいです。まだ岡城に入れていないのに。先を急ぎましょう

阿蘇溶結凝灰岩の岩壁

岡城は天然の岩山の上に築城されていて、その様子を伺うことができます。

こうした岩山の上に岡城が建っている

岡城を形成する断崖絶壁は、阿蘇山の噴火により流れ出した火砕流でできた阿蘇溶結凝灰岩の岩盤です。阿蘇溶結凝灰岩で形成された大地を、長い年月をかけて河川が削り、深い谷と断崖絶壁による要害堅固な岡城の地形が生み出されました。

自然が作り出す岩山は、間近で見ると迫力があります。

道中にはおみやげ屋さんも

道は舗装されているので歩きやすいです。

岡城への道

岡城への道には、ちょっとしたおみやげ屋さんもあります。

おみやげ屋さん

このおみやげ屋さんは、元は鉄砲方詰所跡だったようです。

鉄砲方詰所跡

こちらは「大手門」というおみやげ屋さん。竹細工、木工細工など民芸品が多く販売されていました。

おみやげ屋さん「大手門」

そんなこんなで楽しみながら歩いていると、岡城の入り口が見えてきました。

岡城の入り口

難攻不落の城あるある「きつくて長い階段」

岡城

ここが岡城の入場口です。ここから岡城へ入っていきます。

岡城入場口

階段ですが、段差は低いのでゆっくり上っていけます。

半分くらい上ってきた

岡城への階段

サイドの石垣も、苔むしていて趣があります。時代を感じますね。

石垣

石垣

そして、この時点で結構眺めが良いです

眺めが良い

階段折返しです。なかなか足腰にきますね。

まだまだ続く階段

元々ある石段よりも、新設された階段のほうが段の高さが低いので上り易くてオススメです。

階段は 2 種類ある

なんとか上ってきました。

二回戦目もどうにか上った

この時点で結構高いところまできています

階段2回戦で結構高いところまで上ってきた

ここまでくればあと少し。大手門がすぐそこです。

あと少しで大手門

大手門跡

大手門跡

櫓は取り壊されてしまったので現在は石垣のみ。でもめちゃめちゃ大きくて迫力があります。

大手門跡

そして大手門をくぐると、雄大な景色が目に飛び込んできます。

雄大な景色

大手門の先は広場のようになっていますが、枡形が形成されていたのがよくわかります。

大手門の先の広場

大手門の先の広場

古大手門跡

古大手門跡

古大手門跡は、現在は石垣のみが残る、岡城の旧大手門の跡です。

古大手門は、南東方向に開き、本丸と外部をつなぐ重要な門でした。築城当初は、この門が岡城の唯一の門であったと考えられています。

古大手門の石垣は、高さ約 7 メートル、幅約 10 メートル、奥行き約 5 メートルの巨大なもので、石垣の表面には、当時の技術の高さがうかがえる、精巧な石積みが施されています。

古大手門は、江戸時代初期に現在の大手門に改修されたため、現在は石垣のみが残っています。

中川但見屋敷跡

中川但見屋敷跡は、西の丸周辺に存在する三つの家老屋敷の一つです。この屋敷跡は、大手門から本丸へ向かう桜馬場跡の左側に位置します。桜馬場跡 沿いに正面入り口があり、その入り口は石段を伴う門となっていました。

また屋敷跡は、中川秀成が入部した際に、岡城築城着手から本丸完成までの間、仮屋敷として過ごしたところです。

中川但見は元亀年間より太祖中川清秀の老職として仕えた戸伏氏の家系 2代藩主久盛の代に中川姓を名乗り歴代藩主の老職として仕えています。

中川但見屋敷跡

めちゃめちゃ広い。どれだけ大きなお屋敷だったのでしょうね。

また、中川但見屋敷跡からの景色も良いのでオススメです。

中川但見屋敷跡からの景色

さまざまな遺構たち

岡城には、現在も様々な遺構を見ることができます。

西中仕切跡(貫木門跡)

西中仕切跡(貫木門跡)

城内で最も狭い空間で、石垣により通路を折り曲げ、敵が直進できないようにしていました。また、その先を門により遮断するととで、大手門方面から岡城中心部へ向から敵の侵入を防ぐ機能も有していました。

本丸の東側には東中仕切があり、西中仕切と同様に重要な防御施設の役割を果たしていました。

鐘櫓(かねやぐら)跡

鐘櫓跡

太鼓櫓(たいこやぐら)跡

太鼓櫓

太鼓格は岡城の中心部への入口で、城内で最も重要な門です。

2m ほどの巨石を「切込接」という石積の技法を用い隙間なく積まれた石垣は、落主の権威の象徴であり、岡落の石積技術の高さが窺えるものとなっています。太鼓格に隣接して錨があり、火災や緊急時には、銅館が打ち鳴らされていました。

下原門(しもばるもん)跡

下原門

下原門は、岡城の撮手(裏口)の間として使用されていました。中川氏入部以前は、ここが大手間として使用されていたと伝われています。下原門東側の石垣には、石垣のズレを防ぐために、石材にホゾを切り、石をはめ込んだ「千切」と呼ばれる珍しい技法が用いられています。

下原門

三の丸跡

三の丸跡

三の丸は、他落からの使者や家臣が、落と対面する場であったとされています。現在は、3代落主に落政に関する指南を行った熊沢蕃山や幕末の勤王の志士である小河一敏など、岡落に緑のある人物の頭確が建立されています。

三の丸は西側に「太鼓門」、東側に「御門」(理御門)の2箇所に入口がありました。「太鼓門」を入ると石垣に囲まれた枡形の虎口が形成され、三の丸への通用口(幅5m) と藩主専用の「御成門」(幅 2m) の石段が2箇所あります。三の丸の周囲には、各種のが建てられ、中央に殿舎が位置していました。殿舎は、四十畳の「寄附」や三十畳の「御広間」があり、御広間には床、棚、書院等の座敷飾りがみられ、上ノ間として使用されていました。

三の丸は他藩の使者や家臣が落主と対面する場として使われていたと考えられます。殿舎のあった位置には、以後士蔵が建てられ上壁の跡が今でも残っています。

二の丸跡

二の丸跡

二の丸は、北の方角に張り出したし 字状の地形をなしています。中央に御殿を配し、御玄関を入ると台所まで大広間が続き、地形に沿うように老松ノ間から山吹ノ間まで書院が形成されていました。また、北端の突出したところには数寄屋風の覚橋、東端に風呂屋が造られていました。

月見格は、外側に縁が巡らされた量後が設けられていました。防御を目的としたものではなく、詩歌や茶の湯、酒、書画、音楽などが楽しまれていました。政務の場と遊興の場を併せ持つ月見橋は各部に意匠が凝らされていたことが絵図などから窺えます。

風呂屋は、石垣から張り出した足場を組んだ二階建ての建物で、一階に風呂、二階に畳の座敷や涼をとるための習子線が設けられていました。また、二階からは箱階段で本丸月見櫓へ通じていました。

二の丸は、軍事的要素の強い各郭とは対照的に和やかで優雅な趣のある建物を有するという間城の中で特徴的な施設で、遊興の場として使用されていたと考えられます。

二の丸跡

二の丸には、月見や御風呂屋など、特徴的な機能を持つ建物が並んでおり、来客の歓迎や落主の愉しみの空間としで利用されていました。現在は、来城者のための休憩所が設けられています。

二の丸休憩所

また、二の丸からの眺めも開けていて良いです。

二の丸からの眺望

滝廉太郎像

滝廉太郎は幼少期を竹田で過ごし、岡城にも良く遊びに来ていました。代表曲「荒城の月」は、この岡城をモチーフにして作曲されています。

滝廉太郎像

滝廉太郎は、明治時代に活躍した日本の作曲家です。1879 年(明治12年)に東京で生まれ、わずか 23 年 10 か月という短い生涯の中で、日本における西洋音楽の普及や音楽教育に大きな役割を果たしました。

廉太郎は、幼い頃から音楽に親しみ、12 歳のときに東京音楽学校(現・東京藝術大学)に入学しました。作曲家として頭角を現したのは、19 歳のとき、歌曲「花」を発表してからです。この曲は、日本を代表する歌曲のひとつとして、今でも多くの人に愛されています。

廉太郎は、歌曲だけでなく、唱歌や管弦楽曲など、さまざまなジャンルの音楽を作曲しました。代表作には、歌曲「荒城の月」「箱根八里」や、唱歌「お正月」などのほか、管弦楽曲「交響曲第1番」などがあります。

廉太郎は、23歳の若さで亡くなりましたが、その短い生涯の中で、日本音楽界に大きな足跡を残しました。

滝廉太郎像

本丸跡

本丸跡

本丸は、岡城中心部の最も重要な曲輪であり、中央部には藩主の住まいとなる本丸御殿が建てられていました。本丸御殿を取り囲むように、天守に相当する御三階櫓や角、多門格、金倉などが配置されていました。

現在は広場になっていて、絶景ポイントです。岡城天満神社もあります。

本丸跡

ここも手すりなどはないので、絶景に夢中で落ちないように注意しましょう。

絶景ポイント

絶景と歴史と彩り

岡城は歴史と自然が融合した観光スポットでもあり、四季折々の植物を見ることもできます。例えば春には桜の名所としても知られています。

岡城を彩る植物たち

紅葉もめちゃめちゃきれいです。

岡城の紅葉

素敵な景色に、鮮やかな花々。歩いているだけで心が洗われます。

結構広いので歩くのが少し大変なのと、大手門までの階段もそこそこ頑張る必要がありますが、それ以上に感動の風景に出会えます。

是非、この素晴らしい場所で日本の過去と現在を感じながら、旅を楽しんでください。

大手門〜訪問者を迎える正門。しかしその正体は、敵を追いつめる追手門〜

大手門〜訪問者を迎える正門。その正体は、敵を追いつめる追手門〜

大手門(おおてもん)は、日本の城郭や寺院などに見られる重要な建築物の一つです。

大手門の役割や建築様式について詳しく解説します。

役割

大手門の第一の役割として、建築物や境内への正式な入口として機能します。これは正門としての役割を果たし、訪問者や参拝者を迎える場所として重要な「城の顔」でもあります。

そんな大手門はしばしば堂々とした外観を持ち、その建築様式やデザインには美的な要素も含まれます。また、歴史的な背景や宗教的な意味合いを持つこともあります。

一方で大手門は、本来は追手門(おうてもん)といいます。追手とは、敵を追いつめる方向にあるという意味で、籠城のとき敵を正面に追いつめて戦闘を一箇所へ集中させる目的があります。

この役割から、大手門の先は枡形が構築されているところが多く見られます。これも大手門とセットで、敵の攻めを鈍らせる目的があります。

このように大手門は、城の正面に位置する門でありながらも、同時に防御上における重要な攻撃戦略でもありました。

姫路城 大手門

建築様式

大手門の建築様式は、場所や時代によって異なります。

日本の歴史を通じて、さまざまな時代の建築様式が採用されてきました。

例えば、平安時代には平安京の門に見られるような平安時代の建築様式が用いられ、戦国時代には合戦に備えて要塞化された門も存在します。

大手門は通常、重厚な木造構造で作られ、屋根には瓦が使用されることが多いです。また、装飾的な彫刻や彩色も見られ、美しいデザインが特徴です。

歴史的な例

有名な大手門の例として、京都の平安神宮の大鳥居、日光東照宮の二荒山神社の大楼門、大阪城の大手門などがあります。これらの門は歴史的に重要で、観光名所としても知られています。

大阪城の大手門 大阪城の大手門

宗教的な意味

寺院の場合、大手門は仏教寺院において重要な象徴的な位置にあり、仏教の教義や信仰に関連した象徴的な要素を含むことがあります。また、仏教の教えや歴史的な出来事に関連する彫刻や絵画が描かれることもあります。

大手門は日本の建築文化や歴史において重要な役割を果たす建築物であり、そのデザインや機能は時代や地域によって異なります。訪れる際には、その建築物自体だけでなく、その歴史や文化的背景にも関心を寄せることができます。

大手門の構造

大手門の構造は、大きく分けて以下の3つに分けられます。

  • 櫓門
    • 城門の上に櫓を建てた門。櫓には武士や弓兵が配置され、城郭の防御に当たった。
  • 枡形
    • 門の前後に石垣や塀を築き、敵がまっすぐに城内に侵入するのを防ぐための構造物。
    • 城郭の外側と内側をつなぐ通路。土橋や石橋などがある。

櫓門(やぐらもん)

櫓門(やぐらもん)は、城門の上に櫓を建てた門です。櫓には武士や弓兵が配置され、城郭の防御に当たりました。また、櫓門は城郭の正門であり、城主の威厳を示す象徴でもありました。

櫓門の構造は、大きく分けて以下の3つに分けられます。

  • 高麗門
    • 門の上に櫓を建てた門。
  • 渡櫓門
    • 門の左右に櫓を建てた門。
  • 連立門
    • 複数の櫓門を連結させた門。

枡形(ますがた)

枡形(ますがた)は、門の前後に石垣や塀を築き、敵がまっすぐに城内に侵入するのを防ぐための構造物です。枡形は、敵が城門に到達するまでに、複数の障害を乗り越えなければならないため、敵の侵入を防ぐ効果がありました。

枡形の構造は、大きく分けて以下の2つに分けられます。

  • 単枡形
    • 門の前後に1つずつ石垣や塀を築いた枡形。
  • 複枡形
    • 門の前後に複数の石垣や塀を築いた枡形。

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大手門の手前に橋がかかっている城も多いです。城の周囲に掘を造り水を引き込み、橋を大手門を掛けることで敵が本丸へ攻め込む進路を限定する役割があります。

そのため、大手門へ向かうための橋は城郭の外側と内側をつなぐ通路となるわけですが、その橋に関しても土橋や石橋など種類があります。

土橋は「土で築いた橋」ですが、石橋よりも建設コストが安く、施工も容易であるため、多くの城郭で採用されました。

石橋は「石で築いた橋」です。土橋よりも耐久性があり、敵の攻撃に強いという利点があります。

大阪城に現在も残る追手門としての機能

ここまで説明した、大手門・追手門を中心とする城の防御戦略「櫓門」「桝形」「橋」を大阪城で見ることができます。

大手門に架かる橋

大手門に架かる橋

大手門を抜けるとすぐに枡形

枡形

そして枡形の先には櫓門です。

櫓門

大手門の歴史

大手門の歴史は、日本の城郭の歴史と密接に関係しています。

日本に城郭が登場したのは、平安時代に遡ります。この頃の城郭は、簡易な土塁や堀で囲まれたものであり、大手門は特に重要な構造物ではありませんでした。

大手門が重要視されるようになったのは、戦国時代に突入してからです。戦国時代は、合戦が頻繁に行われ、城郭の防御力が重視されるようになりました。そのため、大手門も、敵の侵入を防ぐための重要な構造物として発展していきました。

江戸時代には、徳川幕府による全国統一が進み、城郭の建設が盛んに行なわれました。この頃の城郭は、大手門も含めて、より豪華で壮麗なものとなりました。

明治維新以降、廃城令が下り城郭も取り壊されていく中で大手門も多くが失われました。しかし、近年では、城郭の保存・復元の動きが活発化しており、大手門の姿を見ることができる城郭も増えてきています。

真逆の役割を 1 つの門が担う究極の機能美。

大手門は、城主の威厳を示す象徴でもあり、城郭の外観を左右する重要な要素でもありました。また一方で、城郭の防御にも重要な役割を果たしました。

また、大手門のデザインは、その時代時代の建築様式や美意識を反映したものであり、貴重な文化的遺産となっています。

日本には現存する大手門が数多くあります。これらの大手門は、いずれも歴史的・文化的価値の高い建造物であり、城郭の魅力を今に伝えています。

高知城 大手門


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城と自然が織りなす幻想的な光景「飫肥城」の見どころ・オススメを徹底解説

城と自然が織りなす幻想的な光景「飫肥城」の見どころ・オススメを徹底解説

城と自然が織りなす幻想的な光景「飫肥城」の見どころ・オススメを徹底解説します。

飫肥城

飫肥城

飫肥城は、宮崎県日南市飫肥にある城です。江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として繁栄しました。

歴史

飫肥城は、南北朝時代に土持氏が築城したのが始まりと伝えられています。戦国時代には島津氏と伊東氏の間で 84 年に渡る攻防が演じられました。1587年(天正15年)、伊東祐兵が飫肥城主となり、その後 5 万 1 千石の居城として明治に至りました。

特徴

飫肥城は、酒谷川北岸、シラス台地の地形を利用して曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城です。

天守閣は明治維新後に取り壊され、現在は石垣や櫓、城門などが残っています。

指定
  • 日本100名城(96番)
  • 日南市指定史跡
  • 重要伝統的建造物群保存地区
種別
平山城
開門・営業時間
  • 飫肥城 24 時間開門
  • 松尾の丸 9:00 〜 17:00
  • 飫肥城歴史資料館 9:30 〜 17:00
入城・入館料
飫肥城:無料
松尾の丸:大人 300 円, 大学生・高校生 200 円, 中学生・小学生 100 円
飫肥城歴史資料館:大人 300 円, 大学生・高校生 200 円, 中学生・小学生 100 円
定休日
飫肥城は年中無休。歴史資料館・松尾の丸は年末休館(12/29, 30, 31)
喫煙所
無し
アクセス
最寄り駐車場:飫肥観光駐車場
最寄りバス停:飫肥城(飫肥観光駐車場内)
最寄り駅:JR 日南線 飫肥駅(飫肥駅から飫肥城までは徒歩 20 分程度。道中は城下町のため散歩気分で向かうことができます)
所在地
〒889-2535 宮崎県日南市飫肥10丁目1

obijyo.com

飫肥城の見どころ

飫肥城の主な見どころは、以下のとおりです。

  • 大手門
  • しあわせ杉
  • 松尾の丸
  • 旧本丸跡
  • 藩校振徳堂
  • 飫肥城歴史資料館

最寄りの無料駐車場は飫肥観光駐車場

飫肥城への最も近い駐車場は飫肥観光駐車場です。

〒889-2535 宮崎県日南市飫肥9丁目1

飫肥観光駐車場

料金
無料
収容台数
140 台
駐車可能時間
24 時間(入り口が閉まり出庫できないいったことは今のところ無い)
定休日
なし

飫肥城へバスで行く場合はバス停「飫肥城」で下車しますが、飫肥城バス停があるのもこの飫肥観光駐車場になります。

バス停「飫肥城」も飫肥観光駐車場内にある

飫肥観光駐車場にはトイレや「飫肥城下町 案内処」があるので、飫肥城、および飫肥城城下町を楽しみたい場合はこの駐車場一択になると思います。

飫肥城下町 案内処

飫肥城下町 案内処

案内処では、飫肥城のリーフレットや、あゆみちゃんマップをゲットできます。特に飫肥城のリーフレットに見どころがまとめられているので、飫肥城に行く前に必ずゲットしておきましょう。

飫肥城のリーフレットとあゆみちゃんマップ

駐車場から飫肥城まではすぐ

駐車場を出れば、道の先はすぐ飫肥城です。一本道かつ近いので迷わずに行けます。

道の先にすぐ飫肥城

飫肥城の玄関口である大手門が道の先に見えます。

道の途中には、小村寿太郎記念館もあります。

小村寿太郎記念館

大手門

大手門

飫肥城の玄関口である大手門。二重櫓門に分類されます。

昭和 53 年(1978年)に復元されました。

苔の生えた石垣や周囲の緑に完全に溶け込んでいる風景がとても素敵です。

二重櫓門は玄関として城の顔としての優美さを持ちつつも、正面口であることの防御性能も必要なため堅牢な門が要求されます。飫肥城の大手門も例に漏れず、堅い門構えです。

大手門

お手本のような桝形虎口

大手門を抜けると、桝形虎口が現れます。

桝形虎口

飫肥城の桝形虎口はお手本のような構造なのでわかりやすく楽しめます。

桝形虎口

石段を上がると石垣にぶつかり、道は二手に分かれます。

二手に分かれる

左手に進むと、飫肥杉の風景を楽しみながら歩けます。苔の絨毯も美しいです。

左手順路の風景

右手には歴史資料館と石垣が見られます。道は緩い登り坂ですが、石段は低く作られているので歩きやすいです。

歴史資料館と石垣

しあわせ杉

しあわせ杉

飫肥城にあるしあわせ杉は、4 本の杉の木です。

しあわせ杉

4 本の杉の木が四隅に立ち、その対角線の交わる場所に立つと、幸せになれるという言い伝えから、しあわせ杉と呼ばれています。

しあわせ杉

4 本の杉の木の樹齢は、100 年から200 年ほどで、いずれも飫肥杉です。飫肥杉は、宮崎県日南市で産出される杉の木で、耐久性に優れ、美しい木目が特徴です。

しあわせ杉は、平成 16 年(2004年)に NHK 連続テレビ小説「わかば」のロケ地となり、全国的に知られるようになりました。ドラマでは、主人公の若葉が、しあわせ杉の下で、幸せを願うシーンが描かれました。

広場

しあわせ杉の脇、歴史資料館の裏には広場があり、休憩できるベンチやトイレがあります。

広場

この広場から、左手に進むと松尾の丸、正面に進むと旧本丸跡、後ろに歴史資料館があります。

松尾の丸

広場から西に進むと、松尾の丸があります。

階段を上った先に松尾の丸がある

松尾の丸は、江戸時代初期の書院造りの御殿として、昭和54年(1979年)に復元された建物です。江戸時代にあった上級武士の屋敷を再現したもので、江戸時代初期の豊後竹田城や二条城の御殿を参考に作られました。

松尾の丸

御殿の造りも楽しめますが、資料の展示や解説もたくさんあるので、当時の生活の様子なども知ることができます。

都甲家(とこうけ)と荒武家(あらたけけ)の鎧

都甲家(とこうけ)と荒武家(あらたけけ)の鎧

都甲家は家に紙の下級糖上ながら、上や管料の生産(村長のような職)を務めていました。

荒武家は飫肥藩の下級藩士ながら北郷地方で「番所の頭」や地区に住む下級藩士(足軽)の頭である「主取(ぬしどり)」、落主の狩場を守る「狩倉守(かりくらまもり)」、山の管理をする「山方(やまかた)」、参勤交代で「江戸旅」などを務めた家であった。

御座船

御座船

藩主が使用した御座船が展示されています。

西日本の大名は大阪にこの船を置いておき、参勤交代のときに使ったとのことで、大阪と伏見の間を、淀川の水運を利用して移動したんだそうです。

湯殿(蒸し風呂)

蒸し風呂

京都西本願寺にある非公開の重要文化財「飛雲閣の蒸し風呂」を完全に再現したものだそうです。

蒸し風呂、つまりサウナっていうことですね。

蒸し風呂の内部

サウナっていつからあるんだろう。江戸時代には既にあったんですね。

当時の蒸し風呂は、かまどで水を煮て沸騰させ、その上にすのこを張ってそこに座ることで実現していたみたいです。

当時の蒸し風呂

湯殿の裏側にあるかまど

部屋は 20 室以上

松尾の丸には、御座の間、茶室、御寝所、湯殿、台所、御蔵など 20 室以上あり、見ごたえは抜群です。

御座の間

茶室

全部見て回ると 20 〜 30 分程度の所要時間です。かなり充実した内容なので立ち寄ることをオススメします。

旧本丸跡へ

広場から直進すると、旧本丸跡に向かえます。

旧本丸跡へ

右手には飫肥小学校があり、ここの校庭も本丸跡です。

飫肥小学校 校庭

道の先にある石段を上がると旧本丸跡です。

旧本丸跡へ通ずる石段

ちなみにこの石段と共に現存する石垣は、江戸時代初期、箇所によっては安土桃山時代後期の石垣が残っているということです。

最大の観光ポイント「旧本丸跡」

旧本丸跡

旧本丸跡です。沢山の飫肥杉と苔の絨毯が幻想的が場所になっています。飫肥城では最大の観光ポイントです。

沢山の飫肥杉と苔の絨毯

旧本丸跡は、元々本丸御殿があった場所ですが、1600 年代後半に相次いだ地震(3 回)で御殿が壊れてしまったため、現在の飫肥小学校の校庭のところに新しく御殿を作り直したのだそうです。

登竜門

旧本丸跡には「登竜門」という薬医門があります。

登竜門

薬医門とは、城の正門である大手門の前に建てられた門で、主に門番や警護の役割を担っていました。薬医門は、門の左右に薬医と呼ばれる小屋が付属していることから、この名で呼ばれています。

登竜門

飫肥城の登竜門は、入母屋造りで、本瓦葺です。高さは約 10 m、幅は約 6 mです。門扉は木製の引き戸で、高さは約2.5m、幅は約3mあります。門扉には、伊東家の家紋である「竹に雀」が描かれています。

登竜門

登竜門からは、飫肥小学校の校庭が見渡せます。

登竜門から飫肥小学校の校庭を見渡す

歴史と時間の経過が織りなす幻想的な光景

旧本丸跡では、無数の飫肥杉と苔の絨毯が織りなす幻想的な光景に出会えます。

旧本丸跡

これこそ飫肥城最大のポイントであり、是非ここには来てほしいなって思います。本当にすごいですよ。人口のオブジェクトは登竜門を除いたらありませんが、自然が作り出した幻想的な光景が、歴史と時間の経過を感じずにはいられません。

旧本丸跡

歴史資料館

飫肥城 歴史資料館

歴史資料館には、飫肥藩伊東家や家臣達に伝えられてきた、甲胃・刀剣・武具・古文書・衣服等飫肥藩ゆかりの歴史資料、約 220点が展示・保管されています。

歴史資料館は、その歴史的価値のある資料を守るため、室内温度などが常に一定に保たれている関係で、入り口が 2 重になっています。

歴史資料館 入り口を入ったところ

資料館内では甲冑や着物、刀など、貴重な資料と解説が展示されています。

伊東祐兵(いとうすけたけ)着用甲冑

伊東祐兵着用甲冑

伊東祐兵は、初代の飫肥藩の藩主で、豊臣秀吉に使えて功績を挙げ、1587 年に飫肥城を与えられた人です。

着物の展示

刀の展示

展示も沢山ある上、解説も細かくされているので楽しいです。

プロジェクションマッピングと映像のコンテンツもありました。

プロジェクションマッピングと映像コンテンツ

中でも結構楽しかったのは、「実際に持ってみよう」シリーズです。

火縄銃を持ってみよう

刀を持ってみよう

火縄銃と刀を実際に持ってみることができます。

火縄銃は 1800g, 刀は 820g ですが、細長い形状ということもあり、見た目や数字よりも重たく感じました。

これは子供も大人もテンションが上がるコンテンツです。

こんな感じで、ただ展示だけじゃなくてコンテンツも充実しているので、歴史資料館は行く価値アリの施設です。

充実した展示とコンテンツ

歴史と自然とコンテンツ

歴史資料館と石段

飫肥城でとても良いなって思ったのが、苔生した石垣です。

石垣と飫肥城鐘楼(左)

これらの石垣や苔は、歴史の深さを実際の時間の経過で実現し、今もそこに在るという、大変貴重なものであるのと同時に、景観が美しいです。

石垣の苔

日本は明治に近代化し西洋の建物が一般化しました。廃城令が出た時点で新たに築城される城はなくなりましたので、どんなに新しくても江戸時代が歴史の終着点です。

飫肥の土地や地名(飫肥郷)に関する歴史は平安時代に遡ります。飫肥城が築城された年号ははっきりしていないということですが、南北朝時代(1336 〜 1392年)には存在していたのではと推定されています。

つまり 600 年以上の歴史を積み上げた姿がそこにあり、時間の経過と共に変化してきた人工物と自然との調和に趣を感じられ、見て回っていてとても素敵でした。

時間の経過と趣

石垣

また、飫肥城には天守がありませんが、歴史資料館や松尾の丸の中にはたくさんの資料の展示や解説があり、飫肥城や飫肥藩を知る上で十分なコンテンツが用意されています。

併せて、飫肥城には飲食店はありませんので、見て回ってお腹が空いたら、飫肥城下町へ繰り出して美味しいものをいただくという流れがあるのも素晴らしいです。

歴史に思いを馳せながら、城と自然が織りなす幻想的な光景を、あなたもぜひ飫肥城で体験してみてください。

飫肥城

桝形虎口〜形成を逆転する重要ポイントであり、序盤に戦況をひっくり返す突破口〜

桝形虎口〜形成を逆転する重要ポイントであり、序盤に戦況をひっくり返す突破口〜

桝形虎口」(ますがたこぐち)は、城郭や要塞などの防御施設の一つで、敵が攻めてきた際に侵入を難しくするために設置された構造のことを指します。

総じて、桝形虎口は城郭や要塞の防御ラインの一部として、敵の進行を遅らせ、守備側に有利な戦闘の機会を提供するために設けられる重要な要素です。

桝形虎口の形状

桝形虎口(ますがたこぐち)は、城壁や要塞の外側に設けられた入り口の一つであり、敵が攻めてきた際に敵の進行を遅らせたり、攻撃の機会をつくるための防御的な構造を指します。字義通りに言えば「ますのような形をした虎口(出入り口)」を意味します。虎口は城壁や堀の一部を削って、敵が侵入しにくいように作られたくぼみや通路です。その形状は、一般的には狭く入り組んでおり、敵が入ってくることを阻むように工夫されています。

形状

桝形虎口は、一般的に城壁や堀の一部をくりぬいて作られるくぼみや通路です。その形状は字義通りに「ます(桝)」のような形をしており、狭く、しばしば角が取られています。この形状によって、侵入する敵が進行しにくく、攻撃側が攻める際には制約が生じます。

通常、桝形虎口の入り口は城壁や堀の内側にあり、進入する敵はくぼみに進むために城壁を近づく必要があります。

狭隘さと制約

桝形虎口の通路は狭く、敵が一列に進むことが難しいように設計されています。これにより、敵が進行する際には密集しやすく、攻撃を受けやすい状況が生まれます。

角が取られた形状により、敵は通路内で曲がる際に速度を失い、攻撃側が防御側に対して有利な戦闘を展開しやすくなります。

何度も方向転換を余儀なくされる構造であること

前述の通り、桝形虎口の形状は、何度も方向転換を余儀なくされる構造になっています。

宮崎県にある飫肥城を例に見てみると、本丸へ近づくために、少なくとも 5 回は方向転換を行う必要があることがわかります。

宮崎県 飫肥城 桝形虎口の形状

これなら目に見えて敵侵入の速度も落とせます。

一般的に 1, 2, 3, 5 回目のターンのように、基本的には直角に方向転換させる構造が多いようです。

直角に方向転換させる構造

特に 4 回目のターンは 180 度の方向転換ですから完全にスピードを殺さなければなりません。これは敵も嫌がるでしょうね。

180 度方向転換しないと先に進めない

防御構造としての桝形虎口

桝形虎口は、城や要塞の入り口を守るための防御構造です。敵が攻めてきた際、この虎口を通る際には、攻撃者は狭く暗い通路を進まなければならず、その間に守備側が攻撃する機会が生じます。また、虎口の中での敵の動きが制限されるため、守備側が有利になります。

桝形虎口の目的の 1 つは、敵の攻撃を受けた際に侵入を困難にし、守備側に有利な状況を作ることです。

敵の進行の遅延

桝形虎口は、敵が城壁や要塞の内部に侵入する際に、その進行を遅らせる役割を果たします。敵が狭く入り組んだ通路やくぼみを通るためには、進行が遅くなり、時間をかける必要があります。これによって、守備側は敵の動きを制限し、追加の時間を稼ぐことができます。

攻撃側の制約

敵が桝形虎口を通る際、狭く曲がりくねった通路によって攻撃側の動きが制約されます。敵の進行が速度を落とすことや、敵の数が密集することで、守備側が有利な戦闘の機会を得ることができます。

守備側の攻撃機会

桝形虎口の中では、城壁や堀の上から守備側が攻撃を仕掛けやすくなります。城壁上から矢や投石、火矢などを放つことで、敵を効果的に攻撃できるため、攻撃側は弱体化しやすくなります。

方向転換でスピードが止まった敵を鉄砲狭間から攻撃

防御側の優位性の確保

桝形虎口の設置によって、守備側は最初の攻撃を受ける際にも有利な状況を確保することができます。敵が桝形虎口を攻略しなければ、その先の城内への進入は難しく、守備側が敵の攻撃を受ける前に有利な位置に立つことができます。

戦術的重要性としての桝形虎口

桝形虎口は、城や要塞の主要な防御ラインの一部として、敵の攻勢を受ける際の最初の防御拠点となることがあります。敵が虎口を攻略しなければ本格的に城内に進入することができないため、その防御が成功すれば城内の防御が持ちこたえやすくなります。

桝形虎口の戦術的重要性は、城郭や要塞の防御戦術において大きな役割を果たす要素です。

攻撃者の制約と混乱

桝形虎口は狭い通路や曲がりくねった形状を持つため、攻撃側の進行が制約されます。攻撃者が一列に進むことが難しく、進行中に混乱が生じやすくなります。そのため、攻撃側は一斉の進行が難しく、守備側は混乱した攻撃を受けることなく対処する余裕が生まれます。

守備側の戦闘優位性

桝形虎口内での戦闘では、攻撃者が制約された動きをする一方、守備側は城壁や堀の上から攻撃を仕掛けることができます。この戦術的な位置取りによって、守備側が有利な状況で戦闘を展開することができます。

攻略困難さと時間稼ぎ

桝形虎口は攻略が困難な構造であるため、攻撃側がこれを突破するまでに時間がかかります。これにより、守備側は追加の時間を稼ぐことができます。時間稼ぎは、守備側にとって援軍到着や他の戦術の適用など、追加の対応策を取るために重要です。

攻撃側の疲弊

攻撃側が桝形虎口を突破しようとする過程で、攻撃者は疲弊しやすくなります。狭い通路や障害物の中で進行し、守備側からの攻撃を受けることで、攻撃者の兵力や士気が低下することがあります。

最初の防御ライン

桝形虎口は、城郭や要塞の入り口に設けられることが多いため、攻撃側が最初に直面する防御ラインとして重要です。この最初の防御ラインが攻略される前に守備側が有利な戦闘状況を作り出すことができれば、その後の防御がより効果的になる可能性が高まります。

形成を逆転する重要ポイントであり、序盤に戦況をひっくり返す突破口

桝形虎口は、日本の城で見られる防御構造の一つであり、城の設計や戦術の重要な要素として活用されてきました。

総じて、桝形虎口の防御目的は、敵の進行を遅らせ、攻撃側の動きを制約し、守備側に攻撃の機会を提供することによって、城や要塞の防御を強化することです。この構造は、敵の攻撃に対する有利な状況を確保するための戦術的要素として重要な役割を果たします。

二重櫓門〜城の顔として伝統美を兼ね備えたデザインと構造を持つ門〜

二重櫓門〜城の顔として伝統美を兼ね備えたデザインと構造を持つ門〜

二重櫓門」(にじゅうやぐらもん)は、日本の伝統的な建築様式である「門」の一種です。通常、寺院や城などの重要な場所の入り口に設置され、美しいデザインや構造が特徴です。

二重櫓門は、日本の城郭の防御力を高め、城主の権威を示すために重要な役割を果たしてきました。

二重櫓門の構造

二重櫓門は、上下に2つの層がある形状をしています。門の下部が門扉で、上部が櫓となっています。門扉は、木材や鉄材で作られており、敵の攻撃から守るために、堅牢な作りになっています。櫓は、木材や石材で作られており、上層階からは城内や周囲を監視することができます。

一般的に、下層が大きく、上層がやや小さくなっています。上層の部分は、小さな屋根や櫓が付いていることがあります。

櫓(やぐら)

櫓(やぐら)とは、日本の城や寺院の建造物で、防衛や見張りのために建てられる塔のような構造を指します。二重櫓門には、上層に櫓のようなデザインが施されていることがありますが、これは防衛的な機能は持たない装飾的な要素として使われているものもあります。

重要な場所への入り口

二重櫓門は、しばしば重要な建物やエリアへの入り口として配置されます。これによって、その先に重要な場所があることが示され、訪れる人々に特別な雰囲気を与えます。

伝統的な美しさ

二重櫓門は、日本の伝統的な建築様式として美しいデザインや装飾が施されることが多いです。彫刻や彩色などが使われ、その建造物自体がアートとしての価値を持っています。

文化的意味

二重櫓門は、日本の歴史や文化における重要な要素の一つであり、観光名所としても人気があります。寺院や城址に設けられることが多いため、訪れる人々にその場所の歴史や価値を伝える役割も果たしています。

二重櫓門の歴史

二重櫓門の歴史は、鎌倉時代末期から室町時代にかけて始まったとされています。鎌倉時代末期には、山城や平城などに、櫓門の原型となる門塔が築かれていました。室町時代には、戦国時代の攻城戦の激化に伴い、門の防御力を高めるために、櫓門が普及し始めました。

二重櫓門のある城

二重櫓門は姫路城の「ぬの門」や飫肥城の「大手門」などで見ることができます。

姫路城「ぬの門」

飫肥城「大手門」