川越城は埼玉県川越市にあり、日本百名城に数えられる名城ですが、その姿は残っていません。
「川越城に行ってみたい」
となった時は、街に散っている史跡・遺構を巡ることになります。
とはいえ、川越市内に散っている遺構は結構あるため、初めての人には少しハードルが高いかもなと何度か行って思いました。
ということで本記事では、現在巡ることのできる川越城に関するスポットをまとめました✨
- 川越城の史跡・遺構スポット
- 川越城 本丸御殿
- 川越城本丸門跡
- 川越市立博物館
- 霧吹きの井戸
- 川越城蓮池門跡
- 川越城 中ノ門堀跡
- 川越城大手門跡
- 川越城七不思議
- 川越明信館跡
- 川越城南大手門跡
- 川越歴史博物館
- 川越城主 松平大和守家廟所(まつだいら やまとのかみ け びょうしょ)
- ひとつひとつ、歴史を感じながらめぐる川越城跡
川越城の史跡・遺構スポット
川越市内に点在している、川越城に関する史跡や遺構のスポットを地図にまとめました✨
(厳密には地図にまとめたもの以外にも細かいものがあります)
これらについて紹介していきます
川越城 本丸御殿
川越城といったら、なんといっても本丸御殿。東日本では唯一存在している本丸御殿であり、日本全国でも高知城の本丸御殿とここ、川越城の本丸御殿で、現存している本丸御殿は 2 つしかありません。
川越城を巡るならマストの史跡です。
本丸御殿については、以下の記事で詳しく紹介しているので参照ください✨
川越城本丸門跡
本丸御殿の脇にある遺構で、北門と土塁の跡が出土したところです。
北門・土塁
本丸御殿の北側には、土塁と堀が築かれており、本丸とニノ丸を隔てる北門が設けられていました。 発掘調査では、堀跡から粘士やローム等を何層にも重ねて叩き締めながら積み上げた版築層(はんちくそう)を確認しました。① ④ を見ると、版築層が2段になっていることが分かります。 また、大型の柱跡が 3 基見つかっており、「本城住居絵図」(光西寺蔵)に記された北門跡と想定されます。
川越市立博物館
本丸御殿(川越城跡)と、道路(初雁城通り)を挟んで相向かいにあります。写真では、左にある白い建物が美術館で、右に見える瓦の建物が博物館です。
川越市立博物館では川越市の歴史を展示していますが、その中で、川越城のことにも触れることができます。
また、川越市立博物館は川越城の二の丸跡に建てられています。
霧吹きの井戸
霧吹きの井戸は、川越市立博物館の前にあります。
霧吹きの井戸
昔、川越城の片すみに、霧吹きの井戸と呼ばれる井戸がありました。 いつもは井戸にふたがしてあり、敵が攻めてきて城が一大事という時にこのふたをとると、中から霧がたちこめ、たちまち城を包み隠してしまったといわれています。 川越城は、こうした伝説から一名「霧隠城(きりがくれじょう)」とも呼ばれました。
川越城蓮池門跡
川越城蓮池門跡も川越市立博物館の敷地内にあって、駐車場の隅っこにひっそりと石碑があります。
川越城 中ノ門堀跡
川越城 中ノ門堀跡は、当時の堀の様子を見ることができる遺構です。
中ノ門堀のしくみ
中ノ門堀は戦いの際、敵が西大手門(市役所方面)から城内に攻め込んだ場合を想定して造られています。西大手門から本丸(博物館方面)をめざして侵入した敵は中ノ門堀を含む3本の堀に阻まれて直進できません。進撃の歩みがゆるんだところに、城兵が弓矢を射かけ鉄砲を撃ちかけるしくみでした。また、発掘調査では城の内側と外側で堀の法面勾配(のりめんこうばい)が異なることがわかりました。中ノ門堀の当初の規模は深さ7m、幅18m、東側の法面勾配は60°西側は35℃でした。つまり、城の内側では堀が壁のように切り立って、敵の行く手を阻んでいたのです。 明治時代以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊される中、中ノ門堀跡は旧城内に残る唯一の堀跡となりました。川越城の名残をとどめるこの堀跡を保存してゆこうという声が市民の間から起こり、川越市では平成20・21年度に整備工事を行いました。
こうして高低差を作ることで攻めにくくしていたんですね。
中ノ門堀跡は民家と隣接しているので、静かに味わいたいところ。また、ベンチもあるので休憩もできます。
こちらも、初雁城通り沿いにあります。
川越城大手門跡
川越城大手門跡は、川越市役所の前、市役所前交差点のところに石碑があります。
川越城七不思議
本丸御殿の隣に「三芳野神社」という神社があるのですが、その敷地内に「川越城七不思議」が記載されたところがあります。
1. 霧吹き(きりぶき)の井戸
城中に苔むした大きな井戸があった。ふだんは蓋をしておくが、万一敵が攻めて来て、一大事という場合には、この蓋を取ると、中からもうもうと霧が立ち込めて、城は敵から見えなくなったという。そのため、川越城は別名霧隠城(きりがくれじょう)ともいわれる。
2. 初雁(はつかり)の杉
川越城内にある三芳野(みよしの)神社の裏には大きな杉の老木があった。いつの頃からか毎年雁の渡りの時期になると時を違えず飛んできた雁は、杉の真上まで来ると三声鳴きながら、杉の回りを三度回って、南を指して飛び去ったということである。そのため、川越城は別名初雁城ともいわれている。
3. 片葉の葦
浮島稲荷社の裏側一帯は、萱(かや)や葦(あし)が密生した湿地帯で、別名「七ツ釜」といわれていた。ここに生える葦は不思議なことに片葉であって、次のような話が伝わっている。 川越城が敵に攻められ落城寸前に、城中から姫が乳母と逃げのび、ようやくこの七ツ釜のところまでやって来たが、足を踏みはずしてしまった。姫は、川辺の葦にとりすがり岸にはい上ろうとしたところ、葦の葉がちぎれてしまい、姫は葦の葉をつかんだまま水底へ沈んでしまった。この辺の葦は、この姫の恨みによってどれも片葉であるといわれている。
4. 天神洗足の井水(みたらしのせいずい)
太田道真(どうしん)・道灌(どうかん)父子が川越城を築城するに当たって、堀の水源が見つからず困っていたところ、一人の老人が井水で足を洗っているのに出会った。この老人の案内によって水源を見つけた道灌は、かねての懸案を解決し、難攻不落の川越城を完成させることができたといわれている。かの老人の気品にあふれた姿に気がついた道灌は、これぞまぎれもない三芳野天神の化身であったかと思い、以来これを天神洗足の井水と名づけて大事にし神慮にこたえたという。
5. 人身御供(ひとみごくう)
川越城築城の際、太田道真、道灌父子は、三方(北、西、東)の水田が泥深く、築城に必要な土塁がなかなか完成せず苦心をしていたところ、ある夜龍神が道真の夢枕にたって「明朝一番早く汝のもとに参った者を人身御供(じんしんごくう)に差し出せばすみやかに成就する」と言った。道真は、龍神にそのことを約束をしたが、明朝一番早く現われたのは、最愛の娘の世稲(よね)姫であった。さすがの道真も龍神との約束を守れずにいると、姫は、ある夜、城の完成を祈りながら、七ツ釜の淵に身を投げてしまった。そののち川越城はまもなく完成したという。
6. 遊女川(よなかわ)の小石供養
むかし、川越城主にたいそう狩の好きな殿様がいて、毎日のように鷹狩りに出かけていた。ある日、供の若侍が小川のほとりを通りかかると、一人の美しい百姓の娘に出会ったので、名前をたずねるとおよねといい、やがてこの娘は縁あって若侍の嫁となったが、姑にいびられ実家に帰されてしまった。およねは自分の運命を悲しみ、夫に出会った小川のほとりで夫が通りかかるのを待っていたが、会うことができず小川の淵へ身を投げてしまった。やがてこの川を「よな川」と呼ぶようになったが、川の名は「およね」からきているとも、よなよな泣く声が聞こえるからともいわれている。
7. 城中蹄(ひづめ)の音
川越城主酒井重忠(さかいひでただ)は、不思議なことに夜ごと矢叫(やたけび)や蹄(ひづめ)の音に眠りをさまされていた。ある日、易者に見てもらったところ、城内のどこかにある戦争の図がわざわいしているとの卦(け)が出たので、さっそく土蔵を調べたところ堀川夜討の戦いの場面をえがいた一双の屏風絵がでてきた。この屏風の半双を引き離して養寿院に寄進したところ、その夜から矢叫や蹄の音が聞こえなくなったという。
川越明信館跡
江戸時代にあった剣道の道場の石碑のようです。
川越市立川越小学校のグラウンド側の道にあります。
川越城南大手門跡
川越城南大手門跡は、川越市立川越第一小学校の敷地内に石碑があります。
小学校敷地内ですので関係者立入禁止ですが、入り口のすぐ脇に石碑があるため、立ち入らなくても石碑を見ることができます。
川越歴史博物館
川越歴史博物館では、川越城のことはもちろんのこと、武士や忍者の話なんかも展示されていて、よりディープな川越城の歴史を知るにはオススメのスポットです。
http://www.kawagoe-rekishi.com/www.kawagoe-rekishi.com
川越歴史博物館は、喜多院の隣にあるので、本丸御殿からは少し離れます。
といっても、徒歩で 15 分くらいです。
〒350-0055 埼玉県川越市久保町11−8 川越歴史博物館
川越城主 松平大和守家廟所(まつだいら やまとのかみ け びょうしょ)
喜多院の本堂(慈恵堂)の裏手に川越藩主をつとめた松平大和守家の墓所があります。
松平大和守家について
江戸時代後期に川越城主であった松平大和守家歴代当主の墓所である。松平大和守家は、結城秀康(徳川家康の次男)の5男・直基(なおひと)を初代とする御家門(ごかもん)(徳川家の一族)の家柄で、代々大和守を名乗った。武家の名門・結城家を相続したことから結城松平家とも呼ばれ、越前松平家の一門でもある。
廟所概要
廟所は、東から霊鷲院(れいしゅういん)(5代朝矩(とものり))・俊徳院(しゅんとくいん)(6代直恒(なおのぶ))・馨徳院(けいとくいん)(7代直温(なおのぶ))・興国院(こうこくいん)(8代斉典(なりつね))、南に1基、建中院(けんちゅういん)(10代直侯(なおよし))の配置である。廟所の入口には亀碑(きふひ)(碑身部は欠失)、西に延びる石敷参道、廟所の門となる。
門を潜ると各廟前には家臣奉献の石燈籠が並ぶ(総数91基)。各廟の正面に石門を構え、内部に石燈籠と石碑(神道碑(しんどうひ))、墓塔である五輪塔という構成である。
廟所の造営期間は、5代の死去した明和5(1768)年頃から前橋へ転封となった慶応2年(1866)10月までの約100年間である。
廟所の特徴は、
- 喜多院内に造営されたため、敷地が限定されている
- 通常、各廟が独立するものが、5~8代廟はひと続きの同一基壇である
- 石塔・石碑・石門(真鶴産・本小松石製)が巨大で立派な作りである
- 間知(けんち)石積基壇の表面仕上げは大名墓としては珍しい「江戸切り」(周囲を一段彫り窪める)である
- 五三桐・三つ巴紋(霊鷲院・俊徳院・馨徳院)から三つ葉葵紋(8・10代)への家紋の変化が認められる
等である。これらの特徴は、松平大和守家の家柄や思想、時の政治情勢などが表われたものであり、間知石積基壇・石柵(玉垣)・基台・墓塔で構成された形は、近世大名墓としての完成形とすることができる。県内において造営当時の姿を留める数少ない例であり、歴史的にも貴重である。
松平大和守家廟所は喜多院の敷地内にあります。見応えもあるので巡るのはオススメです。
ひとつひとつ、歴史を感じながらめぐる川越城跡
今回紹介したスポットをすべて徒歩で回る場合は、半日は見ておいたほうがよいと思います。
こうして各史跡や遺構が街に散っているところを見ると、それだけ川越城が広い敷地であったことが伺えますね。
石碑一つしかないところもありますが、博物館で歴史資料をインプットしつつ、当時の風景に思いを馳せつつ巡ってみてはいかがでしょうか。
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