日本交通の起点であり、日本三名橋の 1 つである「日本橋」*1を散歩してきました。
- 最寄り駅
- 交通の要所だけに
- 芸術美「石造二連アーチ橋」
- 美しい欄干
- 広い歩道
- 親柱
- 麒麟
- 徳川慶喜直筆の書
- 日本国道路元標
- 日本橋川
- 日本橋観光案内所
- 船観光は予め予約するべし
- 歴史や重要文化財に関する碑
- 気になっていたけどわからなかったこと
- ひっそりと佇む日本の交通の起点
最寄り駅
日本橋を見に行く時の最寄り駅は「三越前駅」です。半蔵門線と銀座線が乗り入れています。
B6 出口から出ると目の前に日本橋が現れます。
ちなみに出口を出ると左手に日本橋がありますが、右を向けば三越 日本橋があります。
交通の要所だけに
「日本三名橋」ではありつつも、交通の要所のため、常に大量の人と車の往来があって忙しない景色が流れ続けます。
人が歩くスペースがあり、車道も余裕 4 車線あるので橋幅は結構広いです
また、日本橋の頭上には首都高速都心環状線が通っており、二本の高架はそこそこ距離も近いため見上げると圧巻。(言い方を変えれば大いに邪魔とも言える)
芸術美「石造二連アーチ橋」
普段だとただなんとなく通り過ぎているだけの橋だけど、よく見ると歴史もあって芸術美な日本橋。
この石造二連アーチ橋、美しいですよね。
美しい欄干
日本橋はルネサンス様式だけあって、いい感じに洋風なこの欄干(らんかん)は結構好きです。
広い歩道
日本橋の歩道は結構広くて、グループとかが横一列でわいわいしながら歩いててもすれ違いが余裕でできるくらい広いです。
親柱
日本橋親柱には獅子がいます
足を掛けているのは東京市章なのですが、石原裕次郎波止場ポーズを彷彿とさせます。
盾の代わりに紋章に足をかけるポーズになったと東京都公文書館のページに書いてありました。
橋の両端にある獅子像については、奈良県の手向山八幡宮にある狛犬などを参考にして製作されました。この時、妻木からヨーロッパの盾をもつライオン像も取り入れてほしいと言われ、ルネサンス期の彫刻家ドナテッロのライオン像等も参考にされましたが、盾についていろいろ検討した結果、完成した獅子像は、盾の代わりに東京市の紋章を持っています(なお、この紋章は東京都の紋章として現在も使用されています)。
引用元:日本橋の麒麟像 - 東京都公文書館
麒麟
位置が高くて橋の上なので正面から撮れなかったですが、デザインが細かくてかっこいい
ところで何故麒麟なんだろうって思いましたが、これも東京都公文書館の日本橋についてのページに記載がありました。
装飾の製作については、東京美術学校に委嘱され(製作主任は同学校の助教授の津田信夫)、さらに装飾柱に置かれる獅子と麒麟の原型製作には、彫刻家の渡辺長男が、その鋳造には彫刻家で渡辺の義父の岡崎雪聲が担当しました。
この麒麟については、まったくの想像上の生き物であり、参考となる作品に乏しかったことから、体の部分ごとに異なる作品を参考にして作製したとしています。
また、デザイン上の点と日本の道路の起点となる日本橋から飛び立つというイメージから、それまでの麒麟の作品には見られない羽を付けることを決めましたが、翼と背びれとを検討した結果、羽が生えたような形の背びれを採用しました。
引用元:日本橋の麒麟像 - 東京都公文書館
徳川慶喜直筆の書
日本橋に設置されている「日本橋」とういう橋名表記は、江戸幕府最後の将軍である「徳川慶喜」直筆の書体を使っているのだそう。
明治維新が起こり、江戸から明治になる時に無血開城が行われましたが、無血開城を決断した慶喜公に敬意を評して、明治政府が日本橋の字に彼のものを採用したのだそうです。
日本国道路元標
日本橋は国道の起点とされており、道路の標識にある「東京 xx km」の表示は、まさにこの日本橋までの距離が示されています。
その地点を表す元標がここ日本橋に設置されています。
でもここにあるのはおそらく観光用で、実際の、起点としての元標は日本橋のど真ん中に埋まっているみたいなのでさすがに写真は撮れませんでした。
車道のため近づくわけにもいかないので実際元標かどうかは確認とれていません。
今度はタクシーを使って元標を確認したいところです。
日本橋川
日本橋の下を流れる川は「日本橋川」
神田川から分岐した川で、文京区からはほぼ高架下を流れる。日本橋を超えた後は、隅田川と合流する。
ちなみに見ての通り「汚い」という雑な表現しかできない川の色ですが、原因は「アオコ」という水中の植物プランクトンが大量に増殖したものだそう。
日本橋観光案内所
日本橋の袂(たもと)には「日本橋観光案内所」があって、日本橋の歴史や船観光の案内など、日本橋に関する情報が得られたり、グッズも購入できます。
〒103-0027
東京都中央区日本橋1丁目1
近辺のパンフレットや、日本橋エリアのマップなどを無料で入手できるので始めに寄っておくのがオススメ。
スタッフさんが常駐していて、グッズの購入など対応してくれます。
ちなみに多言語対応が可能で、日本語、英語、中国語、イタリア語に対応しているんだそうです。
日本体験の案内とかもしてくれるみたいなので、外国からの友人を日本橋、そして日本橋エリアでもてなしたい時はここに相談してみるのも良いかもしれませんね。
船観光は予め予約するべし
日本橋の袂、日本橋観光案内所の道路を挟んだ向かいには船観光の受付所があります。
船観光については当日受付も行っていましたが、私が行った時はほとんど予約で埋まっていたので、当日受付はあまり当てにしない方が良さそうです。前もって予約をしておくと確実。
なお、各船会社の案内を要確認ですが、各船会社共にコースが異なります。所要時間も違うので見比べてコースと所要時間を確認しておくと良いと思います。
こっちは 3 社の運航スケジュール
日本橋起点のクルーズを検討するなら、コースやスケジュールも含め、以下の日本橋観光案内所の日本橋舟運案内ページで確認するのが早くて良いかも。
歴史や重要文化財に関する碑
日本橋観光案内所のすぐとなりには、歴史や重要文化財に関する碑(碑)が設置されています。
中央区教育委員会による解説板
碑は基本的に旧字や昔の言い回しが使われているため直感的に内容を理解しにくいため、この解説板を読むのが一番わかりやすかったりします。
重要文化財 日本橋 附東京市道路元標(一基)
所在地 中央区日本橋室町一丁目~日本橋一丁目(日本橋川)
日本橋の創架は、徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603年)と伝えられています。翌年、日本橋が幕府直轄の主要な五つの陸上交通路(東海道・中山道・奥州道中・日光道中・甲州道中)の起点として定められました。江戸市街の中心に位置した日本橋は、橋のたもとの日本橋川沿いに活気のある魚市場が立ち並び、周辺に諸問屋が軒を連ねるなど、江戸随一の繁華な場所でした。
現在の日本橋は、明治 44 年(1911 年)に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、都内では数少ない明治期の石造道路橋です。橋長 49.5 m、幅員 29.5 m の橋には、照明灯のある鋳銅製装飾柱を中心に和漢洋折衷の装飾が施されています。中でも、建築家・妻木 頼黄(つまき よりなか)の考案に基づく麒麟や東京市章を抱えた獅子ブロンズ像(原型制作・渡辺長男、鋳造・岡崎雪声)は、意匠的完成度の高い芸術作品といえます。なお、親柱に記された橋名の揮毫(きごう)は、第十五代将軍・徳川慶喜の筆によるものです。
また、附(つけたり)指定を受けた「東京市道路元標」は、昭和 42 年(1967年)まで都電の架線支持柱を兼ねて日本橋の中央に設置されていましたが、現在は日本橋北西の橋詰広場に移設されています。なお、橋の中央には当時の内閣総理大臣・佐藤栄作の筆による「日本国道路元標」のプレート(複製は北西橋詰)が埋め込まれています。
平成 31 年 3月
中央区教育委員会
日本橋由来記の碑
原文
日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ其名四方ニ高シ慶長八年幕府譜大名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ市街ヲ營ミ海道ヲ通シ始テ本橋ヲ架ス人呼ンデ日本橋ト稱シ遂ニ橋名ト為ル翌年諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ實ニ本橋ヲ以テ起點ト為ス當時既ニ江戸繁華ノ中心タリシコト推知ス可ク橋畔ニ高札場等ヲ置ク亦所以ナキニアラス舊記ヲ按スルニ元和四年改架ノ本橋ハ長三十七間餘幅四間餘ニシテ其後改架凡ソ十九回ニ及ヘリト云フ徳川盛時ニ於ケル本橋附近ハ富買豪商甍ヲ連ネ魚市アリ酒庫アリ雜鬧沸クカ如ク橋上貴賎ノ來往晝夜絶エス富獄遥ニ秀麗ヲ天際ニ誇リ日帆近ク碧波ト映帶ス眞ニ上圖ノ如シ
明治聖代ニ至リ百般ノ文物日々新ナルニ伴ヒ本橋亦明治四十四年三月新装成リ今日ニ至ル茲ニ橋畔ニ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ後世ニ傳フ
独自解釈版
原文だといまいち直感的に理解できないので、わかりやすいようにしてみました。
私の主観もあるので、文法含む解釈の誤りがあればコメントでお知らせいただけるとうれしいです。
日本橋は江戸名所の随一にしてその名は広く知れ渡っている。
慶長 8 年に幕府が諸大名に課し、城東の海辺を埋め市街に海道を通したことでこの橋を架した。 人々からは「日本橋」と称されそれが橋名となった。
翌年、諸海道に一里塚を築く際には実際に本橋を起点とした。
当時、既に江戸が繁華の中心であることから、橋畔に高札場等を置いた。
また、古いメモによると元和 4 年改架の本橋は長さが約 67 m、幅が約 7 m、その後の改架はおよそ 19 回に及ぶと伝えている。
徳川最盛期に於ける本橋附近は、商人の問屋や魚市や酒庫などもあり、橋には様々な人が昼夜絶えず行き交った。遠くには美しき富士山を臨み、日中はそれらの画が同居し上の図(この由来記の上に設置されている絵)のようになった。
明治になり紆余曲折を経て本橋もまた明治 44 年 3 月に新装し今日に至る。ここに橋畔に碑を建て由来を刻し以って後世に伝えることとする。
ちなみに、上の図っていうのはこれ
歌川広重の絵を転写したものだそう。
日本国重要文化財の碑
これは重要文化財指定時に設置されたのかな?
構造
- 石造二連アーチ橋 高欄付(青銅製照明灯を含む)
- 附 東京市道路元標 一基
所有者
国(建設省*2)
指定年月日
平成十一年五月十三日 指定(建第 2362 号)
指定の意義
明治期を代表する石造アーチ道路橋であり、石造アーチ橋の技術的達成度を示す遺構として貴重である。
また、土木家、建築家、彫刻家が協同した装飾橋架の代表作であり、ルネサンス式による橋染本体と和漢折衷の装飾との調和も破綻なくまとめられており、意匠的完成度も高い。
建設省国道に係る物件で初めての重要文化財指定
気になっていたけどわからなかったこと
日本橋は、東京大空襲の時の焼夷弾の影響で黒くなっているところが結構あるそうです。
ただこれに関しては目視だけでは「焼夷弾によるもの」なのか「経年劣化によるもの」なのか「ただの汚れ」なのかがわかりませんでした。
石造りは経年劣化で黒くはならないか。。まあどちらにしても、どこがその影響なのかはわかるともっと日本橋を味わえたのになって思いました。
ひっそりと佇む日本の交通の起点
日本橋って本当に主張していなくて、通りすがる人々もそのほとんどが橋について気にはしません。
とは言いつつも、一定数私のような「日本橋目当て」の人々もいて。
主要交通網としての役割も果たしつつ、歴史と風格を持ち、橋好きを魅了する。それが日本橋でした。
東京って本当にごみごみしているけれど、気づかないだけで実は近所に歴史を物語るモノがさらっとあったりするんですよね。
日本橋、日本三名橋。
素敵な佇まいでした。