京都を代表する名城であり、世界遺産でもある「二条城」に行ってきました🥳
- 二条城ってこんなトコ
- 京都駅から二条城へのアクセス
- まずは入城券を購入
- 二条城をめぐるコース
- 東大手門
- 番所と総合案内所
- 東南隅櫓(とうなんすみやぐら)
- 唐門(からもん)/ 築地(ついじ)
- 二の丸御殿
- 釣鐘(つりがね)
- 二の丸庭園
- 本丸櫓門(ほんまるやぐらもん)
- 本丸庭園
- 天守閣跡
- 本丸御殿
- 西橋
- 土蔵ゾーン
- 北中仕切門(きたなかしきりもん)
- 加茂七石
- 清流園(せいりゅうえん)
- 大休憩所と屋台店で京都の味覚を堪能
- 京都駅に帰るバス停はどこに?
- 格式高き伝統を伝える二条城。希少な現存御殿。
- 支出と滞在時間
- 最後に
二条城ってこんなトコ
二条城は、徳川家康が建てたお城で、当時の天皇が住む京都御所の守備と、自ら(将軍)が京都へ上洛した(赴いた)際の宿泊所として建てられました。
ようこそ二条城へ。二条城は、かつて城の主要部分であった本丸と、それを取り囲む二の丸で構成されています。二の丸は江戸時代に造られた建築、美術工芸品、庭園等が多く残るエリアです。近世武家文化が体感できます。北部には、昭和時代に京都市が作庭した清流園があり、美しい近代庭園を御覧いただけます。本丸の江戸時代に造られた建築は、火災によりほとんどが焼失しましたが、天守閣跡と明治時代に移築された皇族の邸宅が残っています。将軍が眺めた景色に加えて、近世から近代にかかる皇族文化を体感できます。各スポットの解説をもとに、400年間の歴史に思いをはせ、日本文化の旅をお楽しみください。
- 二条城に関するトピック
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- 1603 年(慶長8年):築城(江戸時代の始まりと同じ)
- 1611年(慶長16年):二条城会見(天皇譲位の時に家康が豊臣秀頼と会見を行った)
- 1867 年(慶応3年):大政奉還(天皇へ統治権を返上し江戸時代が終わりを迎える)
〒604-8301
京都府京都市中京区二条城町541
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江戸時代が始まった 1603 年に二条城ができたこと。そして 1867 年に 15 代将軍 慶喜が二の丸御殿の大広間で「大政奉還」を行ったことから、江戸の終わりと始まり、繁栄と衰退を見守った城として有名なこの二条城を巡って行きたいと思います✨
京都駅から二条城へのアクセス
京都駅から二条城へ行くならバスがおすすめ。
京都市営バスで二条城に停まる路線があるのでそれに乗れば二条城の前まで行けます。
京都駅前バスターミナルの B1 のりばに来る 9 系統、または B2 のりばに来る 50 系統のバスに乗ります。
乗車時間は 15 〜 20 分くらい。「二条城前 バス停」で降ります。
バス停を降りれば、目の前が二条城です✨
その他、京都駅から二条城へのアクセス手段に関してはこちらの記事によくまとまっていたので、地下鉄での移動を考えている場合は参考にしてみると良いです
まずは入城券を購入
二条城に入るために、まずは入城券を購入します。
入城券は窓口か発券機で購入できます。
私は QR コード決済ができる窓口で購入しました。
- 利用可能な QR コード決済(2022年3月24日時点)
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- d 払い
- paypay
- メルペイ
- au PAY
ちなみに料金に関しては、通常の入城料(800円)と併せて、「二の丸御殿を観覧するか(+500円)」「展示収蔵館を観覧するか(別売り 100 円)」で料金が変わってきます。
私は二の丸御殿も観覧させていただくので一般大人で 1030 円を支払いました。
そうそう、この時私は「入城+二の丸御殿」で 1030 円の支払いだったのですが、
現在の入城料金は改定されており、2022/6/1 〜 より、入城のみ 800 円、入城+二の丸御殿で 1300 円になっています。
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入城料を支払ったら、いざ二条城へ!
二条城をめぐるコース
二条城の散策範囲はこんな感じでけっこう広いです。
二条城のマップは公式サイトから確認できます。
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今回は、公式サイトに掲載されている「おすすめコース(2時間)」に沿って散策します。
東大手門
二条城の正門、東大手門です。
立派ですね。大きいし、品格を感じます。
なお、東大手門は重要文化財に指定されています。
重要文化財 東大手門
二条城の正門。築城時からこの場所にあるが、現在の建物は、寛永3年(1626)天皇をお迎えした行幸(ぎょうこう)に際して建てられ、寛文2年(1662)の改修で今の姿になったと考えられている。
一階を門、二階を櫓とすることから櫓門と呼ばれ、二階の櫓は「矢倉」とも書くように本来は武器庫であるが、正面の出格子窓には、門に近づいた敵を真上から攻撃するための「石落し」を備え、攻撃と防御の要となっている。金箔を貼った飾金物は、天皇を迎える正門であるための装飾と思われる。また、天皇をお迎えした時は二階の櫓がなかったことが絵図類で分かっており、天皇が門を通られることを考えて二階は不要と判断したのではないかと推測される。その後、寛文年間の改修で再び櫓が載せられたのは、築城時の姿が正門としてふさわしいとの考えからと思われる。
二条城の正門ということで、石垣がめちゃめちゃキレイに仕上げてあります。
番所と総合案内所
東大手門をくぐると、番所と総合案内所があります。
番所は警備のための武士の詰め所です。
番所
徳川将軍不在時の二条城は、幕府から派遣された「二条在番」と呼ばれる武士たちが宿直・警備していた。一つの組は五十人で構成され、二条城には二組が常駐し、毎年四月に他の組と交代していた。 この番所は、その在番の詰所の一つで、寛文三年(一六六三)に建てられたことがわかっており、間口十間(十九六メートル)、奥行三間(六・一メートル)の切妻造りの建物となっている。現存する城郭の番所は全国的にも少なく、貴重な建物である。
総合案内所では音声ガイドを借りたりパンフレットを入手できたり、二条城を巡るための情報が集約されているところです。
要所要所の案内板がわかりやすい
二条城の素晴らしいところの一つに、散策に関する情報が要所要所にわかりやすく案内板があるところです。
こういうのってどこの城に行ってもあるにはありますが、二条城のマップは大きくてフルカラーで各所の名称も記載があってとてもわかりやすいんですよね。
各ポイントにあるこのマップを見て、次はどちらに進むかを確認・決定できるので、これは素晴らしいなって思いました。
東南隅櫓(とうなんすみやぐら)
中に入ってみたかったですが公開されていなかったのが残念。
二条城の外堀の四隅は見張り台としてこういった隅櫓が建てられており、普段は武器庫として使われていました。1788年(天明8年)の大火で多くの櫓が焼失してしまい、今ではこの東南隅櫓と西南隅櫓の2つが残るのみとなっています。
重要文化財 東南隅櫓
寛永3年(1626)の寛永行幸に際し建設された隅櫓の一つである。西南隅櫓と比べ一回り大きく、1階屋根に「千鳥破風(ちどりはふ)」が載せられているのが特徴である(西南隅櫓では優美な曲線の唐破風)。1階の外堀に面する出窓には、東大手門と同様「石落し」を備え、攻撃と防御の要となっている。内部は板敷で、2階にだけ「棹縁天井」が張られている。また火縄をかける釘が打たれており,鉄砲を収納していたことが分かる。二条城には,外堀と内堀の四隅,外堀北中央に計9棟の櫓があった。それらはほとんどが2階建てで、例外として内堀南西隅のものが5階建ての天守閣,内堀北西隅のものが3階建てであった。現存しているのは東南隅櫓と西南隅櫓の2棟だけである。
攻撃防御の要ということで、現存する 2 つの櫓のうちの 1 つがひっそりと、ここ東大手門から唐門に続く道の角にそびえています。
手前に咲いているのは寒緋桜。
唐門(からもん)/ 築地(ついじ)
重要文化財 唐門
寛永3年(1626)の寛永行幸に際し、その前年に建てられた。屋根の前と後に、優美な曲線を描く「唐破風」が付けられていることから唐門と呼ばれ、格式が最も高く、御所や内裏では御幸門とも呼ばれる。柱から上の空間すべてに彫刻が入っており、鶴や亀、松竹梅、蝶に牡丹など長寿や吉祥を象徴する彫刻が多いが、龍に虎、唐獅子等の霊獣と考えられる彫刻も多く、唐獅子は全部で10頭もいる。聖域を守護する霊獣の多さは、貴賓を迎える門にふさわしい。
重要文化 築地
築地の東面は長さ110m、高さは石垣上に立つため6mと稀にみる大きさである。白線は、皇室との関係性の深さを本数で示すもので、5本線が最高格である。
唐門は、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)が来るぞー!ということで造られたらしいですが、そのせいもあってか豪華絢爛ですね。
門もすごいのですが、ポイントはもう 1 つあって、それがこの築地に見られる「筋塀(すじべい)」
築地(ついじ)は唐門から延びている土塀です。(平たく言えばこの「壁」)
筋塀(すじべい)は、この唐門から伸びている土塀において、皇族や摂家などの御所では「土塀の壁面に線を引いてその格式を示す」という風習があって、二条城は最高格式を示す 5 本線が引かれていることが見て取れます。
豪華な唐門に、最高格式の筋塀。二条城の格式の高さを感じますね。
二の丸御殿
国宝 二の丸御殿
二の丸御殿は、将軍上洛の際の居館として、徳川家康により江戸初期の慶長8年(1603)に造営され、寛永3年(1626)、後水尾天皇行幸にそなえて、第3代将軍家光の代に改造が行なわれ、現在の姿となった。慶応3年(1867)には、第15代将軍慶喜により、大政奉還の発表が行われた。御殿は全6棟の建物からなり、江戸初期に完成した住宅様式である書院造の代表例として日本建築史上重要な遺構であり、江戸城、大坂城、名古屋城の御殿が失われた今日、国内の城郭に残る唯一の御殿群として、昭和27年(1952)に国宝に指定された。内部を飾る障壁画は日本絵画史上最大の画派である狩野派により描かれた。現存面数は2000面を超え、そのうち1016面が国の重要文化財に指定されている。訪問者を迎える壮大な遠侍から、公式な対面所である大広間へと、さらには将軍が普段くつろぐ白書院へと、各棟、各部屋は機能に合わせて規模としつらえを異にしている。
来客を迎えたり将軍と対面する部屋があり、大政奉還が行われた舞台である二の丸御殿。
実物を見ると門構えの豪華さと、後ろに控える遠侍の大きな屋根の重厚感が品格の高さを感じます。
二の丸御殿は撮影禁止のため、内部を撮影することはできなかったのですが、大政奉還の舞台となった大広間や、各書院などを見て回りました。
各部屋には来客の待合室的なものだったり家臣の控室的なものだったりと、それぞれに「役割り」があるのですが、その役割りに併せて襖に描かれている絵画がとても秀逸というか。
襖の絵画はただの絵画ではなくて「空気(雰囲気)を操作」しようとしている、つまりは「表現」だったんだなと思うとすごいなって感じました✨
二条城に来た際は二の丸御殿を観覧されることをおすすめします!
釣鐘(つりがね)
二の丸庭園の手前に釣鐘が展示されていました。
釣鐘
鐘は京都所司代屋敷で火事等の緊急事態を周辺に知らせるために使われていた。京都所司代とは主に朝廷や大名を取り締まっていた江戸幕府の出先機関である。京都所司代屋敷は二条城の北に隣接して3ヶ所あり上屋敷・堀川屋敷・下屋敷(千本屋敷)と呼ばれていたが、これらは下屋敷で使われていたものである。慶応3年(1867)に京都所司代が廃止された後、二条城に移されたと考えられる。
火事など緊急事態を知らせるために、1 つは二条城に、もう 1 つは二条城の北にある所司代に置かれていた釣鐘。
京都所司代屋敷っていうのは江戸幕府の行政機関みたいなところで、皇室・公家の監視や京都諸役人の統率なんかを行っていたところみたい。
細かいところまで装飾が彫られていて、仕事の細やかさが見て取れますね。
これらの釣鐘の出番どれくらいあったんだろう。緊急事態以外では使われなかったのかな?
いずれにしても、同じ役目を持ちそれぞれの持場についていた釣鐘たちが今はこうして 1 つの場所に静かに眠っているっていうことにちょっとしたロマンを感じます。
二の丸庭園
特別名勝 二の丸庭園
慶長8年(1603)の築城時に作られ、寛永3年(1626)に作事奉行小堀遠州のもとで改修された庭園。この時期の城郭には、居住のための御殿と共に豪華な庭園が作られた。二条城の他には名勝名古屋城二の丸庭園、名勝和歌山城西之丸庭園、名勝旧徳島城表御殿庭園が残っているが、いずれも火災等で御殿が失われているため、二条城は御殿と庭を一体的に鑑賞することができる我が国で唯一の事例である。この庭園は、公的な領域である大広間の西面、将軍に近しい人々の対面所として用いられた黒書院の南面に位置する。かつて後水尾天皇の接遇の為に設けられた行幸御殿が園池の南側に建てられ、庭園の四方は回廊と建物で囲まれた状態にあった。行幸の後、御殿は移築されると同時に、将軍家による利用が減じて荒廃したが、明治以降にソテツを含む植栽の整理・補植が行われた。
御殿あるところに庭園あり。ですね。
大政奉還の時点では結構荒廃していたらしいですが、その後、幾多の改修を経て今の姿になったらしいです。
静かで主張し過ぎない木々たち。そして池との風景が非常に落ち着く風景を作り出していました。
また、庭園から臨む二の丸御殿の姿もいい感じでした。御殿と庭園との調和が取れていて、落ち着きます。
全体的に「静か」な印象の二の丸庭園。
この日は午前中に訪れましたが、人も少なかったのでこの雰囲気を味わうのに大正解の時間帯でした。
本丸櫓門(ほんまるやぐらもん)
重要文化財 本丸櫓門
寛永3年(1626)頃の建築で、本丸西櫓門(焼失)とともに本丸を防御する重要な門である。戦時には木橋を落して敵が渡れないようにし、さらに銅板で覆われた扉を閉めて火器に備えた。本丸には井戸や米蔵もあるので、籠城戦の備えもできている。内側の土塀に見える穴は、鉄砲で攻撃するためのもので、まさに要塞の構えである。 また、寛永行幸の際に天皇は2回天守に登られたが、その時の木橋は2階橋で、天皇は二の丸御殿内から橋の2階の畳廊下を通って、地上を歩くことなく天守まで行かれた。天守へ登られた天皇は、この時の後水尾天皇が唯一といわれている。その2階橋の一部は、昭和5年(1930)頃まで残っていたが、その後解体され、部材の多くは土蔵で保管されている。
本丸御殿に行くにはこの東橋(本丸櫓門)と、反対側にある西橋しかなくて、有事の際には橋を落として本丸に行けないようにしたとのこと。
今架かっている橋は改修が入っていると思いますが、短いながら擬宝珠がついていたりと、ここでも格式の高さを感じます。
本丸櫓門はというと、本丸御殿に通じる門だけあって、小さいながらも重厚感があります。
1788年(天明8年)に起きた「天明の大火(京都を焼け野原にした京都歴史上最大の大火事)」の時にも本丸櫓門は唯一焼け残ったらしいです。門の錆にも歴史を感じますね。
ちなみに天明の大火は、空き家の民家から出火して結果的にかなりの大火事になってしまったヤバい災害。
3万7000軒の家が焼け 6万5000世帯が住む所を失った。御所や二条城,東西の本願寺も焼けてしまった。
さて、この門をくぐると、本丸です。
本丸庭園
本丸庭園
明治29年(1896)に明治天皇の指示により作られた庭園である。天皇は右側に見える本丸御殿の最上階から指示を出され、それは植栽にまで及ぶものだったとの記録がある。この場所には、かつて2つの建物が建てられていた。寛永3年(1626)、3代将軍徳川家光が建てた本丸御殿と、それが焼失した後、幕末に15代将軍慶喜が建てた建物である。慶喜が建てた建物は明治14年(1881)頃に取り壊され、明治26~27年(1893~94)に京都御所の北東部にあった桂宮御殿の主要部分が移築された。これが現在の本丸御殿である。移築時には、いったん庭が作られているが、明治天皇の指示によって、すぐに改造された。
本丸御殿の庭園ではありながらシンプルな造りになっていて、全体というよりはポイントポイントで小さな世界が形成されているような印象を私は受けました。
天守閣跡
天守閣跡
二条城の天守閣は、寛永3年(1626)伏見城から移築されたと考えられている。屋根は5重あるが、内部は地上5階、地下1階の大きさで、屋根には瓦型の銅板が葺かれていたようである。寛永行幸の時、後水尾天皇は2回天守閣へ登られ、ここが、天皇が登った唯一の天守閣と言われている。寛延3年(1750)、落雷により焼失し、再建されることなく現在に至っている。天守台の大きさは、石垣の高さ約18m、広さ約427m²である。なお、築城当初の二条城には、別の場所に天守閣があった。今の清流園のあたりである。もとは大和郡山城にあったものと考えられており、寛永年間に城域を拡張するに際し、淀城へ移築された。
二条城の天守は五重六階。そこそこ大きかったんですね。
落雷で消失したのが 1750 年ということは、9 代将軍 家重の時。江戸時代真っ只中だけど建て直さなかったんだ🤔
でも 1788 年に天明の大火が来るから、もし建て直したとしても燃えちゃった可能性はありそうですね。
ちなみに最近、この天守を復元するかみたいな話が上がったらしくて(といっても 2016 年)、その時は 100 億円くらいかかるみたいな試算が出たらしいです。
お城関係の復元・修復事業って、規模感的に自治体の一大事業ですよね。歴史の継承と経済的な発展、そして資金回収を考えなければならない。
ということで登ってみるとこんな感じで広場になっていて
周辺を見渡せました
実際の天守は五重六階だからもっと高い位置からの眺めだと思うので、実際の天守からは京都の街並みも臨めたかもしれませんね。
本丸御殿
改修中工事中で今回は残念ながら見られませんでした。
「2017 年 6 月から 5 年かけて保存修理及び耐震補強工事を行っています。」
令和 6 年(2024)に完成予定。ということは 2 年後ですね。
また二条城に来る理由ができました。その時まで楽しみにしておこうと思います。
西橋
本丸櫓門(東橋)の反対側にあって、本丸御殿に行ける 2 つの橋のうちの 1 つ。
ちなみに西橋側には櫓門はなくて、石垣があるのみです。
ただこの石垣、いわゆる「ちゃんとしてるやつ」で「切込接ぎ」ってやつですね。
あらゆるお城を回ってて、石垣ってどこのお城のを見てもすごいなって思うのですが、この切込接ぎは特にすごいなって思います。
どこまで計算されてこんなに石をキレイに切ってるんだろうって。
今みたいに精密機器もなかった時代ですよね。それなのにこの完成度を叩き出しているのがすごいなって。
敷地的に裏側になるので場所的に見せ方としては荒目になる石垣ですが、それでもここの石垣はキレイに仕上げてあるなって思いました(いちおう、素人の見解です)
石垣の話になってしまいましたが、橋も、うん、きちんとしてる(急に雑)
土蔵ゾーン
さて、ここまでで主要な二条城イベントをクリアしてきました。
「あとは帰るだけ」
いえいえ、そうではありません。
ここまでで結構たくさん巡ったのでお腹いっぱいになりがちですが、帰りルートで見られる土蔵が素敵なのです。
重要文化財土蔵(北)(米蔵)
本丸西橋を挟んで南の土蔵と対になっている。寛永3年(1626)頃の建築である。建物は長さが17間と長く、内部が2つに分けられている。内部に床を張り、天井はない。窓は土戸を外に開く開戸で、板庇を設け、内側の鉄格子に銅網が取り付けられている。このような窓の造りは、二条城では他にない。窓は南・東・西の3方に設けられている。現在、城内には3棟の土蔵があるが、江戸時代には10棟存在した。城に土蔵が残るのはここ二条城だけである。土蔵は穀物類を収納するのが目的だが、武器をしまう蔵もあるのが城の特徴である。寛永期の絵図には、火縄銃で使う塩硝用2棟、火縄用1棟が描かれているが、いずれも現存しない。
この土蔵が結構風情があっていいんですよね。
ここの土蔵は西北側にあるものですが、西南側にもあります。
他、二の丸御殿の周囲にも土蔵があります。
北中仕切門(きたなかしきりもん)
重要文化財北中仕切門
内堀の南側にある南中仕切門と対になっている。規模もほぼ同じで、寛永3年(1626)頃の建築である。本丸西櫓門への通路を塞ぐ、防御上重要な門である。門は小振りで西門より少し小さく、背面の屋根だけが延びるという変わった構造となっている。門の上に立つ土塀と石垣に囲まれていることから「埋門(うずみもん)」と呼ばれる。埋門の形はこの他に、石垣に囲まれて開口だけのものもあり、姫路城が有名で、高松城にもある。
ここで敵が裏側(西橋)に回って本丸に行くのを防ぐんですね。
「本丸西櫓門への通路を塞ぐ」ってことは、さっき通った西橋のところにも櫓門あったのかな。
たしかに、このタイプの門は姫路城と高松城にもあったかも。
回られるのを防ぐための門だから、重厚ですね。
加茂七石
枯山水的なミニな庭園が二条城にもありました。
- 八瀬真黒石
- 鞍馬石
- 畑石
- 糸掛石
- 紅加茂石
- 紫貴船石
- 畚下石
賀茂川・高野川などで採石された銘石を使った庭園なんだそうです。
清流園(せいりゅうえん)
清流園
昭和40年(1965)に京都市が迎賓施設として作った庭園である。西半分は和風で2棟の建物(和楽庵、香雲亭)が建てられている。東半分は洋風で芝生が敷き詰められている。建築部材、庭石、樹木の多くは京都の豪商・角倉家の屋敷跡から譲り受けたものである。角倉(すみのくら)家は江戸時代前期に、角倉了以(すみのくらりょうい)が運河として高瀬川を整備するなど、京都の発展に大きな影響を与えた商家である。清流園南の園路沿いには曲がりくねった樹形が特徴的な「しだれえんじゅ」が植えられ,7~8月には白い蝶形の花をつける。また,春には桜が一斉に咲き「桜のトンネル」が楽しめる。
この清流園、東西で庭のコンセプトが違っていて結構面白かったです。
西側、和風の造り。
東側、洋風の造りで芝生が敷き詰められている。
また、訪れた時期が 3 月下旬ということで、この年(2022年)は桜の開花が遅かったので、一部桜が咲いていてキレイでした🌸
大休憩所と屋台店で京都の味覚を堪能
二の丸庭園の東側、順路でいうと一番最後に、大休憩所っていうのがあって。その通りに屋台店が出ていました。
どれも美味しそう。。
足は自然と甘味の方へ。。
ということで、私は抹茶だんごと抹茶を堪能しました。
二条城の散策は結構巡る所が多かったのでそれなりに疲労感ありましたが、最後にこんなご褒美が待っているとは知らなかったので疲れも一気に吹き飛びました💕
京都駅に帰るバス停はどこに?
京都駅に帰る際のバス停ですが、二条城(東大手門)を出て、正面の道を挟んだ反対側にバス停があります。
9 系統のバスに乗れば京都駅に行けます。
ちなみに、京都市バスの路線図とかをチェックするなら、観光マップ「地下鉄・バスなび」を入手するのがオススメです。
京都市交通局のサイトからでも PDF でゲットできます。
格式高き伝統を伝える二条城。希少な現存御殿。
将軍や天皇のためのお城(御殿)ということで、門の堅牢さ、御殿の豪華さ、そして石垣の精巧さなど。
全てにおいて野戦築城とは一線を介した優美さが二条城にはありました。
格式高き品格を伝える数少ない歴史の生き証人として、これからも在り続けてほしいなって思いました。
本丸御殿の修復工事が終わったらまた来ます✨
支出と滞在時間
支出
- バス 460 円(京都駅 - 二条城前 往復)
- 入城料+二の丸御殿観覧 1,030 円(2022/6/1 から料金改定されています)
- 抹茶だんごと抹茶 600円
合計:2,090 円
滞在時間
2 時間 20 分
最後に
これまでのお話を動画にしました
私と感じたのと同じ雰囲気をぜひ体感してください✨