「日本 100 名城」「現存 12 天守」「日本に 2 つしか現存していない本丸御殿」として、めちゃめちゃ貴重な歴史的建造物「高知城」に行ってきました🥳✨
- 高知城
- 高知城ができた経緯
- 「デキる男」山内一豊
- 高知城へ
- 追手門
- 広場には観光案内所やトイレ
- 板垣退助の銅像
- 高知城天守へ続く石段
- 山内一豊の妻の銅像
- 三の丸石垣
- 石段も終盤、姿を現す天守
- 二の丸、霧吹き、アイスクリン。
- いよいよ本丸へ
- 高知城 本丸御殿「懐徳館」
- 貴重!日本に 2 つしか現存していない本丸御殿
- 天守
- 現存する天守、本丸御殿、追手門。全てが歴史の生き証人。
- 夜のライトアップ高知城
高知城
- 別名:鷹城(たかじょう)
- 指定:
- 日本 100 名城(No.84)
- 日本三大夜城
- 現存 12 天守
- 四国八十八景 27 番
- 本丸御殿が現存しているのはこの高知城と川越城のみでとても貴重な遺構
- 城全域は高知公園として無料で開放
- 天守および本丸御殿(別名「懐徳館」)への入館は有料
〒780-0850
高知県高知市丸ノ内1丁目2−1
高知城ができた経緯
高知城ができた経緯は wikipedia を要約するとこんな感じ📝
山内一豊(やまうち かつとよ)っていう武将が江戸時代になって桂浜近くの浦戸城に入ったんだけど、城下町を形成しにくい場所だった(狭かったらしい)ため、今の高知城がある大高坂山(おおたかさかやま)の上にお城を建てようってなって建てたのが高知城。
ただし、大高坂山にはそれ以前からお城があったとされているんだけど、水はけが悪かったため廃城になった歴史があった。
高知城の築城に際して、水はけの問題を解決するために、石垣技術に優れた近江穴太衆を配下に持ち、築城技術に優れていた百々綱家(旧織田秀信家老)を召喚してこれを解決、築城に当たらせた。
百々綱家は関ヶ原の戦いで罪人になって京都で謹慎させられていたんだけど、山内一豊が徳川家康に懇願してこれを実現させた。
山内一豊って優秀な武将だったんだろうね😲✨
「デキる男」山内一豊
高知城がある高知城公園の入り口には、山内一豊の銅像も設置されています
銅像下の案内板には、山内一豊に関する説明もありました。
土佐藩初代藩主山内一豊は、天文14年(1545)生まれ。13歳の時尾張国(愛知県)岩倉城主・織田伊勢守信安に仕えていた父が戦死し、母や幼い兄弟とともに流浪した。
天正元年(1573)豊臣秀吉に従って織田信長の朝倉浅井攻めに出陣して武功を上げた。以後も秀吉の麾下として各地の戦いに参加し、次第に頭角をあらわして近江国(滋賀県)長浜2万石の城主から、天正18年(1590)小田原攻めののち遠州(静岡県)掛川5万石を領した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの功績により、土佐一国24万石を与えられて翌6年入国、高知城の築城と並行して城下町を整備し、現在の高知市の基礎を形作った。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と三代の天下取りの間を生き抜いて出世したただ一人の武将といえる。
慶長10年(1605)9月20日没。61歳。
すごい人だったんですね✨
銅像の表情を見ると、凛々しい感じがデキる男感を演出していました。
高知城へ
高知城の基礎知識も入れたところで、早速高知城へ。
高知城はそのエリアを「高知公園」として無料で開放しています。
高知市の中心にそびえる大高坂山(標高44.4m)にあって、天守閣からは市街地のほぼ全容が眺められます。現在は県立高知公園となっています。
高知城は、関ヶ原の戦の功で遠州掛川6万石から土佐24万石に封じられた山内一豊が、慶長6年(1601)から築いた城です。人夫は毎日1,200人から1,300人を動員し、資材は近隣から集め、瓦は大阪から取り寄せ、一豊は一日おきに浦戸から工事の督励のために現場におもむきました。慶長8年(1603)には本丸と詰門・太鼓櫓が完成し、一豊は同年8月に入城しました。享保12年(1727)には大火にあい、追手門ほか数棟を残して焼失しましたが、2年後に再建に着手し、24年かけて復旧しました。これが現在の高知城です。天守閣と追手門がそろって残っていることや、全国で唯一本丸内の建造物がほぼ完全な形で残っていることなどから、城郭史上極めて貴重な遺構です。これらを含めて15の建造物が国の重要文化財の指定を受けている他、敷地は高知城跡として国の史跡に指定されています。
追手門から東にのびる追手筋には毎週日曜日に日曜市が開催されます。この街路市は元禄3年(1690)から続く長い歴史を持っています。市の開設場所は何度かの変遷があり、追手筋で開かれるようになったのは昭和23年のことです。ここでは農産物を中心に海産物や日用品など600軒余のお店が1km以上にわたって並んでいます。
高知城、高知公園の玄関口となっている「追手門」がすごく立派です。ここから天守も見えてお城に来たぞっていう感じがします✨
ちなみに、追手門と天守が一枚の写真に収められるのは高知城のみなんだそうです。
もっと言うと、江戸時代のお城で「追手門」と「天守」が揃って残っているのは 3 箇所しかないそうです。
さて、
追手門の手前には高知城のマップがあります。
高知城はけっこう広いので、「どこに何がある」とか「トイレの場所」とかは予め確認しておくと迷わなくて良いです
喫煙所もここだよって丁寧に案内板が出ていました
追手門
高知城の表門です。
追手門
慶長年間創建、寛文4年(1664)に再建されたもので、当城では珍しく大きな石を積んだ石垣で枡形を構成し、内部が見通せないように右側に建てられた城の正面である。
重層で入母屋造り、その木割りは太く堂々とし、欅を用いた主柱や扉、冠木などには要所に銅製の飾り金具を取付けている。その規模が大きく、城門として豪壮優美な趣を備えている。
追手門めちゃめちゃ大きいし、案内の通り重厚感すごいです。
追手門の反対側も大きな梁が見て取れて、まさに「威風堂々」堂々とした門構えです。
広場には観光案内所やトイレ
追手門をくぐるととても広い広場があります。
この広場にはトイレの他、観光案内所もあります。
板垣退助の銅像
広場には板垣退助の銅像があります。
板垣退助は土佐出身で、明治維新の前は土佐藩の藩士だったこともあり、ここ高知城に像があるのだそう。
「板垣死すとも自由は死せず」
で有名な政治家ですね。
高知城天守へ続く石段
広場から天守へ向かう道は石段になっています。
石段は結構ありますが、一段一段は低いので体力に不安がある人でもゆっくり上れば問題ないです。
石段を上る途中にも天守が見えます。見落とされがちのフォトポイントです📷
山内一豊の妻の銅像
石段を上っていくと小さな広場があり、そこに山内一豊の妻の銅像があります。
山内一豊の妻の銅像
山内一豊の妻は、弘治3年(1557)生まれ。通称千代といわれているが、これを裏づけるたしかな資料はない。出身についても通説では近江国(滋賀県)浅井氏の家臣若宮友興の娘とされているが、近年では美濃国(岐阜県)八幡城主遠藤氏の娘ともいわれている。
幼い頃父を失い、17.8歳の頃一豊と結婚、貧しい暮らしの中で家を守り、戦いに明け暮れる一豊の出世を助けた逸話が残されている。中でも結婚の時持参した10両の金を出して一豊に名馬を買わせ、それが織田信長の目にとまって出世の糸口になった逸話は広く知られている。
また、関ヶ原の戦いの前に、笠の緒に縒りこめた手紙で関東にいる一豊に大阪方の情報を知らせ、その進路を決定づけさせたことが一豊の土佐一国領主への道を開くことになった。手芸や文筆にもすぐれ、賢夫人として知られている。元和3年(1617)
12月4日、京都で没、61歳。法号見性院(けんしょういん)。 この銅像は昭和40年(1965)2月26日に除幕された。
山内一豊同様、ご夫人もかなりデキるひとだったみたいですね✨
三の丸石垣
さらに石段を上っていくと、ひときわ目を引く大きな三の丸石垣があります。
ても大きくて迫力があります。これは野面積みかな。
時間経過を経たその姿が歴史を物語っているようです。
三ノ丸石垣は、孕(はら)み(石垣が外側に弧を描くように歪んだ状態)や隅角部の築石にヒビ割れが入っている等が見られたため、平成 16 〜 21 年度(2004 〜 2009年)にかけて修理工事が行われたそうです。
三ノ丸石垣
三ノ丸は、慶長6年(1601)の築城開始から10年を要して最後に完成した。面積は4,641㎡、出隅部分の石垣の高さは約13m。石垣に使用されている石材は主にチャートであるが、砂岩、石灰岩も一部使用されており、穴太衆(あのうしゅう)が、安土城の石垣で始めたとされる自然石の形を活かした野面積みで多くの面が構築されている。また、三ノ丸には、1,815㎡の壮大な御殿が建築されていた。
三ノ丸の入り口にあたる鉄門付近の石垣は、鉄門の改築に伴い積み直されたものと見られ、砂岩で構成された打ち込みハギで築かれている。今回の解体修理に伴う発掘調査でチャートの根石(基礎石)が確認され、改めてその事実が確認された。
三ノ丸の石垣は、慶安3年(1650)、宝永4年(1707)に地震や豪雨により、崩壊し、修理した記録が見られる。今回の修理は、平成11年に実施した調査により、割れたり、孕んだ石が多く、崩落の危険性が確認されたことから、平成12年度から事前の発掘調査や測量などを実施した後、鉄門付近から東面の花壇前まで実施した。
工事は、改修前の石垣の状態を把握した後、割れた石以外は元の石を使用し、元の場所に戻すことなど原状復旧を基本として実施した。 改修工事は、穴太衆の野面積みの技法を現代に伝える石工が携わって平成16年度から平成21年度にかけて実施、総工費約4億円を要した。
現代の技術によって歴史という名の姿が保たれているのですね。素敵です✨
石段も終盤、姿を現す天守
さて、
ここまで石段を上ってきて、だんだんと天守も大きく視界に入るようになってきました✨
まだ石段を上っていますが、終盤です。
ここまで上ると天守も壮大で、その全貌を捉えることができます。
あと一息、ここを上りきれば本丸への石段ツアーは攻略です。
ここまではずっと石段なわけですが、ルートとしては以下を通ってきたことになります。
二の丸、霧吹き、アイスクリン。
石段を上り切ると、二の丸跡である広場に出ます。
訪問した日は真夏だったので、霧吹きとアイスクリーム屋さんが出ていました。
炎天下の中、石段を上ってきた身体にはこの霧吹きがめちゃめちゃうれしかった✨
あとアイスクリームも。
「アイスクリン」てなんだろうってなりましたが食べてみて納得。
分類的にはかき氷に入るそうで、アイスクリームと見た目は同じなんだけど食感とかが違う感じでした。
この日は暑かったので、とにかくこのシャリシャリ冷たいアイスクリンに救われました🥰
とはいえこれからが本丸御殿に天守と本番。
ここでアイスクリンと霧吹きゾーンで体力を回復させました✨
最後になりますが、この広場には昔、二の丸がありました。
ニノ丸
本丸の北、三ノ丸の西上方に位置するこのニノ丸は、三ノ丸より約8メートル高く、標高約40メートル、外輪の長さ270メートル、総面積4,128平方メートルの台地である。ここに建てられていた二ノ丸御殿は、政務をとる表御殿と藩主が日常の生活をする奥御殿が連続して建てられており、一部二階建てになっていた。総面積は1,233平方メートルもあった。明治6年(1873)公園化にともなってすべての建物が撤去されたが、現在残る築山は、奥御殿の上段の間に藩主が着座したとき、正面に見える位置にあたっている。
二ノ丸にはこのほか目付役所やスキヤ櫓、家具櫓、長局(ながつぼね)などの建物があった。特に西北隅にあったニノ丸乾櫓(いぬいやぐら)は、城内にあった8棟の櫓の内では唯一三階建てで、二階と三階の屋根には飾りの千鳥破風を配し、さながら小天守のようであった。
北側の一段下がったところに水の手門があり、綿蔵・綿蔵門を経て城八幡方面や北門の方に通じていた。
いよいよ本丸へ
さて、ここまでは入城のための試練。試練を無事に越え、いよいよ本丸へ突入です。
まずは、藩政時代に築かれた本丸御殿ではこの世に 2 つしか現存していない本丸御殿の 1 つ「懐徳館(かいとくかん)」へ向かいます。
ちなみに、高知城の本丸御殿のことを「懐徳館」と言うのですが、これは明治 6 年に高知城が公園として一般に公開された時に懐徳館と名付けたのだそうです(個人的には本丸御殿でいいのではと思いつつ)
そしてこの本丸御殿が、天守への入口にもなっています。
ちなみにここはまだ詰門です。
詰門は本丸と二ノ丸の間の堀切に設けられた櫓門。廊下橋としての役割も担っており、二階部分は、藩主のもとに向かう家老の待合場所であったことから、詰門の名が付けられたと言われている。
一階部分は、籠城に備え、塩を蓄える蔵になっている。入口は、東面と西面で食い違いになっており、攻め寄せた敵が容易に突破できない構造となっている。
そしてこの詰門を抜けると、本丸御殿と天守の登場です。
高知城 本丸御殿「懐徳館」
入城引換券は入口脇の発券機で購入できます。
引換券を購入したら、すぐ隣りの窓口で入城券と交換してもらいます。
では本丸御殿に入って行きます!
高知城は天守と本丸御殿がつながっていて、本丸御殿その 1 階にあたります。
ということで、2 つしか現存していない本丸御殿に、いざ参ります🥳
貴重!日本に 2 つしか現存していない本丸御殿
高知城の本丸御殿は書院造。
書院造
書院造は、寝殿造を母体として発展したもので、室町時代にその形式が生まれ近世に武家の住宅様式として完成した。それは、大・小両書院を中心に玄関や台所などを配した一連の建物群で、個々の建物(書院)は、畳敷きのいくつかの部屋の集合によって構成される。特徴として、部屋の外回りの建具に舞良戸(まいらど)・明障子(あかりしょう)雨戸が立てられ、内部は間仕切が増えて大小の部屋ができ、間仕切には襖・明障子が用いられる。柱は角柱で壁は張紙が貼られ障壁画などによって装飾される。また、天井には格天井(ごうてんじょう)が用いられる。
書院造は主室の床を一段高くして上段とすることや座敷飾りの位置、装飾などにより、身分と格式の序列を表現しており、武家の権威を象徴する建築様式である。
外の景色も結構良きです✨
川越城の本丸御殿に比べると広くはないけれど、趣のある御殿です。
すぐ隣りに二の丸御殿があったことを考えれば、このくらいの広さでも問題は無かったってことなんでしょうね。
そしてここが上段の間
上段の間は書院造でいうところの、主君が座ったところですね。
そして奥に見えるのが「帳台構え」ならぬ「武者隠(むしゃかくし)」
一応帳台構えで、この扉の向こうは納戸なんですけど、藩主護衛の武士が隠れたことから「武者隠(むしゃかくし)」と呼ばれたそうです✨
そしてその納戸がこちら
君主の危険を察知したらここから飛び出して守る、現代の SP みたいな武士がここで待機してたんでしょうね。
ちなみに本丸御殿の間取りはこんな感じでした
ということで、ここからいよいよ天守に入っていきます✨
天守
高知城は外観 4 重(内部 3 層 6 階)の望楼型天守です!つまりここから全部で 6 階まで上がっていく!頑張って上っていくぞーっ🥳
1 階 - 当時の生活・築城の様子 -
本丸御殿からそのまま入る 1 階で築城時の様子が模型で展示されていました
石垣を作る人、資材を運ぶ人、ご飯を用意する人などなど、、
こんな感じで沢山の人が作業に当たっていたんですね。
石落としもありました
1 階と言えど石垣の分高さはあるので、この距離から石が降ってきたらなかなか怖いですね😭
2 階 - 高知城ジオラマ -
2 階には高知城の精巧なジオラマが展示してあってこれがまたかっこ良かったです✨
そして 2 階の時点で眺めも良かったです💕
さて、では天守といえばの急勾配の階段を上って 3 階に行きます
いつも思うけど、この角度を袴とか着物を着た人たちが上り下りしてたのだからすごいなって思います。
3 階 - 破風を間近で -
3 階には補修工事の様子が展示されていました。
破風の間(はふのま)
そして 3 階には「破風の間」があります。
この大きな窓から外の様子を確認(物見)したり、鉄砲を打ったり(鉄砲狭間)とかの役割があったとの事
破風の間
破風の内側に部屋を設け、人が入れるようにしたものが初期の形態で実戦的なものである。高知城の破風の間は石打ち棚と呼ばれ、物見や鉄砲狭間の役割があり、攻撃の為の小陣地になり東西南面に設けられている。北側の破風内部は、隠し部屋となっている。
高知城は望楼型天守(ぼうろうがたてんしゅ)なので大きな入母屋破風(いりもやはふ)を持っていますね。両側の破風はきと採光の役割も果たしていたでしょうね✨
4 階 - 日本百名城が大集合!! -
4 階にはなんと、日本百名城の写真がずらっと展示されていました✨
高知城を見に来たはずなんだけど、ここで他のお城に釘付けになりました😇
そして 4 階からの眺望も良き✨
真夏の天守は暑いのですが、外から風が入ってきて窓際は涼しかった💕
5 階
写真撮り忘れました😭
ので一気に最上階へ!✨
6 階 - 最上階からの抜群の眺め -
さていよいよ高知城天守の最上階
眺めが抜群でした✨
頑張って上ってきてよかったー✨
どのお城行っても毎回感動します💕
現存する天守、本丸御殿、追手門。全てが歴史の生き証人。
デキる男、山内一豊によって築かれ、修繕を続けながら今もなお時を刻み続ける高知のシンボル「高知城」
現存十二天守に数えられ、さらに本丸御殿はここ高知城と川越城にしか現存していません。
資料でも映像でもなく、間近で見て回ると感じられるものがあります。
石垣、塀、門、御殿に天守。
力強くも静かに佇むその一つ一つに、歴史という時間の流れを感じずにはいられません。
1601 年に築城されてから 400 年余、この大高坂山から高知を見守り続けてきた歴史の語り部はこれからも高知を、そして日本を見守り続けてくれることでしょう。
今回で 2 回目の高知城でしたが、威風堂々の佇まいに元気をもらえました。ありがとうございました。
夜のライトアップ高知城
高知城は日本三大夜城の 1 つに数えられており、日没から 22 時までライトアップされています。
高知城のライトアップきれいでした💕
ただ正直なところ、人がいないとちょっと怖い、、🥲
でもこのライトアップ、松の木もいい感じに照らされてて雰囲気は良いです
天守もホワイトでライトアップされて幻想的
遠くから見るとまるで天から光が降り注いでいるかのように見える素敵なライトアップ✨
私が行ったときはどうだったかわからないのですが、高知城の天守の足元からのライトアップ の他に、老舗のピアノバー「赤い靴」のオーナーさまがお店のあるビルの屋上にサーチライトを設置していて、そこから高知城を照らしたり、あとは「城西館」という旅館でもサーチライトが設置されていて、そこからも高知城を照らしていたりするのだそうです。
天から光が降り注いでいるかのように見えたのは、そのせいもあったのかな?
私が見た位置的には、城西館からのサーチライトが当たってたとかはありそう✨
夜の高知城も、オススメです💕
高知城に行くならこちらもおすすめ✨