週末はじめました。

日常ではない何者かになりたいわたしの旅や遠足、自然に癒やされたいわたしのキャンプ・アウトドアの記録

地域の町おこしや観光地化に関する取り組みのプロセスと成功事例

地域の町おこしや観光地化に関する取り組みのプロセスと成功事例

以下の文書は、宮崎県立図書館が公開している「伝統的な町並みに対して重要伝統的建造物群保存地」という文献(PDF)の文字起こしを行ったものです。(よって著作権は当方にあらず、著者、ないし文献の所有者に帰属します。)

読みやすいように漢数字は数字に変換し、和暦には西暦を追加しました。段落も私の判断で、web 上で読みやすいように改行し、見出しをつけています。

この文献を読んだとき、とても胸が熱くなりました。

私たちは旅を愛し、各地の歴史をこの目で見て回りますが、その裏でその地に生きる人々がどれだけの努力を行ってきたか。その上で作り上げられた現在の観光地というものに、もっと感謝しなければならないと強く思いました。

そういった敬意を払った上で、もっと広く、飫肥の方たちの努力と計画実行されてきた町おこしのプロセスを知ってほしいという気持ちで文字起こしを行いました。

これは、歴史的な景観を守り観光資源として日常生活との融合に努めた飫肥に生きる民の物語です。

この飫肥の方々の努力が一人でも多くの人に伝わり、ひいては、自治体の町おこしや観光地化に関する情報の一助になれば幸いです。

飫肥城下町が日南市飫肥伝統的建造物群保存地区に選定されるまで、以降の取り組みと現在。

飫肥を中心とする日南市も、昭和 31 年(1898年)時代からの高度経済成長期以降は地方市の御多分に漏れず、昭和 31 年(1898年)の 6 万 3 千人をピークに人口流出による過疎化が進んだ。そうしたなかで、飫肥城を中心に飫肥石の石垣と門、伝統的な住宅からなる武家屋敷群飫肥の町並みは住時の姿を留めていた。

そのような流れの昭和 49 年(1974年)に、当選したばかりの河野礼三郎市長が市をあげての町おこしとして、飫肥城の復元事業を打ち上げた。

しかし、自主財源がないために「飫肥城復促進協力会」を発足させて全市をあげての募金活動を推進していった。同時に市議会において「文化財保存都市宣言」を行い、一方で、高山市、倉敷市、南木曽町などの町並み保存の先進自治体とともに「町並み保存に関する要望書」を国に提出するなど、古い町並みを生かした町おこし戦略を明確に打ち出した。

国では、翌年の昭和 50年(1975年)に文化財保護法改正を行い、伝統的な町並みに対して重要伝統的建造物群保存地区の選定ができるとした。つまり、町並みの重要文化財である。

日南市では、早速に飫肥城下町の伝統的建造物群保存対策調査を実施して、昭和 51 年(1976年)伝統的建造物群保存地区の決定と、「日南市伝統的建造物群保存地区保存条例」を制定し、昭和 52 年(1977年)に九州では最初の国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。

選定の理由「地方における小規模な城下町の典型的なものとして侍屋敷の歴史的風致をよくあらわし我が国にとってもその価値は高い。」である。市の条例では、保存地区内の景観に関わるすべての工事について許可制として、必要なものには補助金を交付するとした。

この間にも飫肥城復元事業が進められ、昭和 51 年(1976年)に飫肥藩の藩校であった振徳堂を改修し、昭和 53 年(1978年)に大手門の復元と歴史資料館の建設、昭和 54 年(1979年)に書院造り御殿としての松尾ノ丸を建設した。

総事業費 5 億 1800 万円のうち、2 億 2000 万円を市民や市出身者、有志業からの募金で賄った。

これらの施設のうち、とりわけ歴史資料館には、城下町の武家屋敷に大切に保管されていた刀剣や甲冑、調度品、掛け軸などが寄託資料として寄せられ募金とともに市民総参加でつくりあげた施設として、市民の誇りとなった。そのことは歴史資料館の完成した昭和 53 年に飫肥城下町の一大イベントとして「飫肥城下まつり」が華々しく始まったことからも何える。今では市民の 2 倍以上を集める大きな祭りとなった。

本町通り拡幅事業

このように、飫肥城下町の町並み保存のきっかけとなったのは肥城復元事業と伝統建造物群保存地区の決定という行政主導の事業であった。

しかしそれに先だって、飫肥の町並みにとって重大な選択を迫られた道路計画があった。本町通商店街を貫く国道 222 号のバイパス計画である。

飫肥城下町で 400 年以上の歴史がある本町通商店街は、日南市の過疎化のなかでかつての賑わいを失いつつあった。そこへ、追い討ちをかけるようなバイパス計画であったため、本町通商店会では危機感を強めた。計画が発表されてまもなくの昭和 45 年(1970年)には早速「本町通り拡幅期成会」を結成し、県や国に激しい陳情合戦を繰りひろげた。その結果、昭和 48 年(1973年)に現道を拡幅することに内定して、翌年から調査に取りかかっている。折しも、飫肥城復元事業と町並み保存の計画が打ち出された時期であった。

本町通りの拡幅工事が本格化した昭和 52 年(1977年)は、飫肥城下町が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された年でもあった。それまでの白壁造りの商家を取り壊して道路を拡幅していく工事が始まってまもなく、失われるものの価値に気付いた本町通り商店街の人たは、道路拡幅後に新築する商店街を飫肥城下町にふさわしいものに作り上げようと模索はじめた。昭和 53 年(1978年)に「本町通り町並み研究会」を結成し、全国の先進地視察や資料収集の結果、まったく行政の手を借りずに自主的に次のような申し合わせを決めた。

  1. 家は日本風に統一しましょう。
  2. 家は溝から 1m 下げましょう。
  3. 軒は溝まで出しましょう。
  4. 軒の高さを決めましょう。
  5. ケバケバしい色は避けましょう。

この結果、城下町にふさわしい和風の商店街が住民の力でできあがった。国道のバイパス計画を拡幅に変更させたこと、全く新しい商店街を自分たちの調査研究と自主的な申合わせで作りあげたことは、本町通りの人たちの大きな自信となった。行政でも、この動きに呼応して、寄贈をうけた旧家を移転復元した商家資料館を建設して、本町通りの歴史を顕彰している。

その後の事業

このように、飫肥城復元事業と伝統的建造物群保存地区保存事業、そして本町通り拡幅事業の三つの大きな事業を行政と議会、住民が一体となって、時期を同じくして推進したことに飫肥城下町のまちづくりの特色がある。

その後、飫肥城下町のまちづくりには歴史的な景観を生かす方向が確定した。昭和 57 年(1982年)にはかつての水郷飫肥を復活させるために、道路側水路に鯉を放流したり、大手・横通りの電柱移転街灯を設置した。

それにあわせて、平成元年(1989年)には宮崎県日南警察署が同区の道路標識を大幅に減少させるとともに、大きさを小さくする事業を行っている。

また、周辺の酒谷川の災害復旧工事においても、宮崎県日南土木事務所は城下町のイメージを意識した修景を行っている。

さらに、城下町の南を通過する市道についても、本来ならオーブンカットすべきところを城下町の自然景観を維持するためにトンネル工法を採用している。

平成 5 年(1993年)には、再び市民の募金によって、飫肥出身の偉人小村寿太郎を記念した「国際交流センター小村記念館」を建設、本町通りにも県の無形民俗文化財である泰平踊りの保存のため「飫肥郷土芸能館」を建設している。

以上のように、行政と住民が一体になって生み出した歴史的景観と文化財を生かしたまちづくりは、日南市のシンボルテーマ「歴史と文化の香る都市」となって、日南市行政の中心課題となって現在に至っている。

課題への取り組み

飫肥城復元事業に始まる飫肥のまちづくりも 20 年を経過したが、残された課題も多い。

とりわけ、住民の高齢化や世代交替に伴う屋敷地の細分化と空家の増加、それに伴う商店街の沈滞化は飫肥のまちづくりを基礎から揺り動かす問題である。これらの問題を考えるため、平成6 年度(1994年)より、市行政と住民、議会、学識経験者、建築士からなる飫肥まちなみ研究会が発足した。平成 7 年度(1995年)には、その活動成果として「飫肥のまちなみ歴史的景観を生かしたまちづくり」を刊行した。

平成 19 年(2007年)、飫肥城下町は、重要伝統的建造物群保存地区選定 30 年を迎えることとなった。この間、旧伊東伝左衛門家、旧山本猪平家、小村寿太郎生家等の改修整備を含む 140 件の修理・修景の補助事業を実施してきた。

一方、市民による飫肥城下町を舞台としたまちづくり活動も活発になってきた。飫肥城下の商人町である本町通りの拡幅事業では、国道のバイパス計画を拡幅に変更させるとともに、全く新しい商店街を自分たちの調査研究と自主的な申し合わせで造り上げたことは、本町通りの人たちの大きな自信となった。行政でも、この動きに呼応して、寄贈をうけた旧家を移転し商家資料館を建設して、町通りの歴史を顕彰している。

さらに、近年では、飫肥楽市楽座の城内コンサートや、飫肥にあかりを灯す会のキャンドルナイト、祐兵クラブの人力車、おびまゆの会のひな祭り、小京都の会の花飾りなど各団体がさまざまな活動を行っている。とりわけ、日南市観光ガイドボランティアの会は、年間一万人の無料ガイドを行っており、飫肥観光の大きな柱となっている。

こうした行政・民間の取り組みは、第 13 回優秀観光地づくり賞金賞や岩切章太郎賞の受賞や、美しい日本の歴史的風土百選に選定されるなど、近年になって高い評価をうけるようになってきた。