週末はじめました。

日常ではない何者かになりたいわたしの旅や遠足、自然に癒やされたいわたしのキャンプ・アウトドアの記録

日本百名城 No.81「松山城」ふたを開けてみたらとんでもツンデレ城!鉄壁の防御城なのに絶品伊予柑スイーツなどなど

松山城

松山城

愛媛県は松山市にある日本百名城「松山城」に行ってきました🥳

松山城

松山城

松山城のすごいとこ!

  • 日本百名城の一つ
    • No. 81
  • 現存 12 天守の一つ
    • 戦乱・天災・戦災によって多くの城郭が失われ、江戸時代以前に建造された天守が現代に残っているのは、全国で12城しかない
  • 登り石垣がある
  • 重要文化財
    • 大天守、野原櫓・乾櫓・隠門続櫓など櫓6棟、戸無門・隠門・紫竹門・一ノ門など門7棟、筋鉄門東塀など塀7棟
  • 国の史跡

基本情報

所在地:愛媛県松山市丸之内1

www.matsuyamajo.jp

  • 天守の営業時間
    • 9:00~17:00
      • 季節によって終了時間が前後します
  • 料金
    • 松山城+リフトorロープウェイ往復
      • 大人:520 円
      • 小人:160 円

www.matsuyamajo.jp

沿革

松山城は、松山平野の中央に位置する勝山(かつやま)(海抜132m)を中心に築かれた平山城(ひらやまじろ)で、山頂に「本丸」が、南西の山麓に「二之丸」や、堀と土塁に囲まれた「三之丸」(塩之内)」が配されています。さらに、本丸と二之丸をつなぐ全国でもめずらしい南北2本の「登り石垣」や、東と北の山麓に「東郭(ひがしのくるわ)」「北郭(きたのくるわ)」が配置されるなど、堅牢な城構(しろがまえ)です。また、それらが良好に残されている全国でも数少ない城跡で、敷地の大部分は「国史跡」に、本丸の建造物の多くが「重要文化財」に指定されています。

松山城の築城は、関が原の戦い(慶長5年(1600年)での活躍により、この地を与えられた加藤嘉明によって、慶長7年(1602年)から始められました。嘉明は、築城にあわせて、勝山の南を流れていた湯山川(現、石手川)を付け替えました。また、城下町の整備を行い、三之丸と城の周囲に侍町を、その外側に町人地(ちょうにんち)を置き、さらに、勝山の北側にある御辛子山(みきじさん)の山麓に、城を防備するために寺町を配置しました。なお、嘉明は、正木城(まさきじょう)(伊予郡松前町)から慶長8年(1603年)10月新城下に移りました。この頃から、「松山」と呼ばれるようになりました。

城の完成は、寛永4年(1627年)に嘉明が会津へ転封(てんぽう)された後、替って入った蒲生忠知(がもうただちか)によると伝えられています。忠知の死後、跡継ぎがいなかったため、寛永12年(1635年)、松平定行が松山藩に入り、以後、明治維新を迎えるまで松山城は、松平家の居城として機能しました。松山城の天守は、定行によって三重に改築されましたが、天明4年(1784年)正月に落雷で焼失したため、安政元年(1854年)に再建されました。

松山城『築城物語』

松山城は、慶長七(一六〇二)年正月十五日、賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍で有名な加藤嘉明によって起工されました。

石材などは、正木(松前)城や湯築城などから運ばれたものも多かったようです。嘉明は、足立重信を普請奉行として工事に着手、おたたさん(魚の行商をする女性)が砂を運び、近郷の農民が手ぐり渡しで瓦を運ぶなど、多くの人々が工事に従事しました。

翌慶長八年十月に、嘉明は正木(松前)から新城下に移り、城下を松山と命名し、城の名前を松山城としました。 城全体の完成は、加藤嘉明が会津四十万石に移封となった、寛永四(一穴二七)年頃といわれています。約二十六年の歳月をかけて築城されたことになります。

別称「金亀城」の名前の由来

お城は、標高百三十二メートルの山(勝山)の上にあり、勝山城または金亀城とも呼ばれています。

松山城築城の際、山麓の内堀(愛媛県庁西側)の処が、深い淵になっていて、そこに「金色の亀」が棲んでいたといわれています。その伝承にちなんで、別名「金亀城」と呼ばれるようになりました。

登り石垣

実際には見られなかったのですが、松山城といえばこの「登り石垣」が有名なところなんですよね。

登り石垣は、山腹を登るように築造された石垣のことです。松山城では、登り石垣山頂の本丸と山麓(さんろく)の二之丸との間にある大きな空間への寄手の侵入を防ぐため、それらをつなぐように南北2本一対の石垣が設けられています。

北登り石垣は、明治時代以後に破壊され、ごく一部しか残っていませんが、南登り石垣は、ほぼ完全に残っており、総延長は230m以上に及びます。登り石垣は、洲本城や彦根城などにもみられますが、松山城のものが全国で最大の規模を誇ります。

ロープウエイ・リフトのりば 山麓駅『東雲口(しののめぐち)』

松山城は山の上にあるので、往路はロープウェイで行きました

松山城ロープウエイ・リフトのりば 山麓駅『東雲口(しののめぐち)』

ちなみに松山城へのアクセスには車や徒歩(軽登山的な?)でも行けます🚗

www.matsuyamajo.jp

山麓駅入り口にある坊っちゃん像

ロープウェイ・リフト券売り場

ちなみに山麓駅からはロープウェイとリフトのどちらかに乗ることができて、往復でどちらを使っても同じ料金です。(券も共通なので購入時に選ぶ必要もありません、乗る時にどちらにするか選べば OK)

ロープウェイ・リフト料金

  • 往復券
    • 大人:520 円
    • 小人:260 円(小学生)
  • 片道券
    • 大人:270 円
    • 小人:140 円(小学生)

(往復券の方が 20 円お得✨)

記念メダルあった!

乗車券をゲットしたので乗り場に向かいます

めちゃおおきい!壁画的な(?)

乗り場まではエスカレーターで向かいます(たしかエレベーターもあったかも)

駅は結構大きい

往路はロープウェイで行きますよ〜

ロープウェイは左通路へ、リフトは右通路へ

ロープウェイとリフト、どっちが良い?

ロープウェイは 10 分間隔で運行していますが、リフトは随時運行なのですぐに乗れます。

ただしロープウェイなら約 3 分リフトは約 6 分かけて上まで行くので、ロープウェイ発車までに 3 分以上ある場合はリフトの方が到着は早いということになります。

私はロープウェイに乗りたかったので乗り場に着いた時にちょうどロープウェイ行っちゃったけど、10 分待つことにしました

ロープウェイ乗り場

ロープウェイからの眺めも結構よかったですよ✨

ロープウェイからの眺め

こっちは動画

山頂駅『長者ヶ平(ちょうじゃがなる)』に到着です

山頂駅『長者ヶ平』

ということで、、

着いた〜✨(まだお城まではこれから)

山頂駅前の風景

山頂駅にはベンチがあって休めるのと、コインロッカーもあるから、ちょっと荷物が多い人は預けてから行くのがおすすめ(ここからそこそこ歩きます)

山頂駅の改札口とコインロッカー

六実庵(むつみあん)

山頂駅前には六実庵っていう、売店と食堂が入っているお店があります

六実庵(むつみあん)

これから松山城に向かうのに、気になる看板が、、、

ぜんざい、抹茶、わらびもち、みたらし、、美味しいワードばっかり

店内はお土産やさんと食堂があって、こんな感じ

食堂エリア

お土産エリア

tabelog.com

ちなみにこの日は 8 月下旬、残暑どころじゃない暑さで既にまいっていたので、みかんのジュレ?的なやつをゲット💕

ちゅるちゅるみかん

山頂駅〜松山城公園 本丸広場

ということで、いざ松山城へ向かって出発です!

松山城の手間に「松山城公園 本丸広場」があるので、まずはそこまでの道のりです

山頂駅から松山城公園 本丸広場までの道のり

山頂駅から。松山城へ向かうスタート地点

松山城の石垣

松山城の魅力の一つはこの立派な石垣✨

松山城の石垣

歩きだしてすぐに目に入るこの景色。遠目からでもテンション上がります✨

立派な石垣

この緻密な感じが良き✨

松山城の石垣の完成度よ

松山城の石垣について案内板

松山城の石垣

石垣は、松山城を特徴づける構造物の一つで、中でも「登り石垣」は、全国で最大規模を誇ります。石材には主に花崗岩が使用され、隅部(すみぶ)はほとんどが算木積(さんぎつみ)です。

本丸を囲む高石垣(たかいしがき)は、高さ10mを越え、美しい曲線を描く扇勾配(おおぎこうばい)と、屈折を連続させることで防御性を高めた屏風折(びょうぶおり)が特徴です。江戸時代に改修を受けている部分もありますが、北側を中心に、加藤嘉明による築城時(慶長7年(1602年)~}の典型的な石垣が良く残されています。その特徴は、緩い勾配と上部のきつい反り、一部自然石を使用した打込ハギの乱積(らんづみ)です。

一方、本壇(ほんだん)の石垣は、北側と南側で異なっています。北側は、時期はわかりませんが、打込ハギの布積(ぬのづみ)で、隙間に合わせて加工された間詰石(まづめいし)が詰め込まれている特徴がみられます。南側は、北側より新しく、嘉永(かえい)年間(1848~1854年)、天守などが再建された際に、新しく積みなおされ、十分に手間をかけた切込ハギの布積で、隙間のない整った外観となっています。

※算木積・・石垣の隅部の積み方で、細長い石を使用し、長辺と短辺を交互に積み上げる方法である。16世紀後半から登用され、慶長10年(1605年)頃に完成しているため、石垣築造年代の判定ができる。

※打込ハギ・・打ち欠いた石材を用い、接合面を合わせて積み上げる方法で、自然石を用いた野面積より隙間が少なく、高く積み上げることができる。

※切込ハギ・・整形した石材を用い、密着させるように積み上げる方法である。

※乱積と布積・・乱積は、横方向の目地が通らない積み方で、布積は、横方向の目地が通る積み方である。

※長者が平(なる)から登り、最初に見える右手の美しい勾配の石垣(高さ約16m)は、昭和20年に長雨で崩れたため、同22年に修復されている。戦後、最初の大規模な石垣工事であり、その記念名が隅石に刻まれている。

あっ

石垣の上に櫓が見えますね

石垣の上の櫓

これから通る筒井門の櫓かな?

待合番所跡

ちょっと開けたところがある✨

石垣の脇(写真左)に開けたスペース

ここは昔、待合番所だったところみたい

待合番所跡

待合番所跡 案内板

大手門跡

大手門は、慶長年間(1596~1615年)の築城時に建てられ、山麓にある二之丸および三之丸(堀之内)へ通ずる重要な門です。古文書や古絵図には、「尾谷二ノ門」「待合御門」「待合一ノ門」などと記されています。明治時代に、揚木戸門とともに取り壊されました。

待合番所跡

待合所跡待合番所は、東雲口からの登城道と二之丸からの登城道の合流する地点に、警備のために設けられました。その場所は、はっきりしていません。古文書には、常時三人が詰めていたと記されています。

この場所は、東は揚木戸門、西は大手門によって仕切られ、大手の入口で最も堅固な筒井門に続く要点で、兵力運用の重要拠点ともなっています。

なお、古文書には、揚木戸門から大手門までの石垣上に、6箇所の石落、76箇所の鉄砲狭間、11箇所の矢狭間が備えられていた渡塀(土塀)があったことが記されています。

※石落(いしおとし)・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在は鉄砲の射撃としての穴として理解されている。

※狭間(ざま)・・塀や櫓などに空けられた小窓のことで、矢狭間は立って弓を引くため高い位置にあり、鉄砲狭間は片膝ついて撃つため低い位置にある。松山城では、正方形が鉄砲狭間、長方形が矢狭間である。

さて、先に進みましょう

お城って感じの通路が素敵

戸無門(となしもん)

太鼓櫓

本丸はまだ先だけど、それでもこんなに立派な櫓と石垣があるの良き✨

そしてここを折り返すと、戸無門があります。

戸無門

戸無門と中ノ門跡の案内板

平門跡中ノ門は、大手登城道の太鼓櫓石垣下に設けられていましたが、明治時代に取り壊されました。 この門を設けることで、攻めてきた寄手は、門を通り過ぎて直進する者と、戸無門へ行く者とに分かれることになりますが、直進した者は乾門(いぬいもん)下で行き止まりとなります。

太鼓櫓から乾門へ続く石垣は、屏風折と呼ばれ、石垣が屈折しています。これは、寄手がどこにいても弓や鉄砲で射撃することができる横矢掛(よこやがかり)といわれる防衛上重要な構造となっています。

※寄手・・攻めてきた敵の兵士や軍勢のこと。

※横矢・・・二方向以上からの射撃を横矢という。敵に対して二方向以上から射撃することを横矢掛という。

さっきの道を折り返さないで直進すると行き止まりなんだね。

戸無門は、本丸の大手登城道に設けられた高麗門(こうらいもん)です。門は、両脇の寄掛柱(よせかけばしら)を石垣にもたせ、脇戸(わきど)はありません。江戸時代から戸無門の名で呼ばれており、鏡柱(かがみばしら)に扉を吊る肘壺(ひじつぼ)の痕跡もないので、創建当初から扉を持たなかったものと考えられています。

建築年代は明らかではありませんが、寛永(かんえい)から正保(しょうほう)年間(1624~1648年)の建立になるものと推定されています。また、寛政(かんせい)12年(1800年)に建替えられたことを示す棟札(むなふだ)が残されています。

昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同25年(1950年)の法改正により重要文化財になりました。

戸無門を過ぎて左折すると、大手で最も堅固な筒井門(つついもん)と隠門(かくれもん)の防衛線に達します。

※棟札・・建物の建築や修理の記録として、建物内に取り付けられる札のこと。

つまりこの戸無門に入ったら最後、袋のネズミになってしまうってことですね。よく考えられてます。

この佇まいが歴史を感じます

筒井門・隠門

戸無門(左)をくぐると、開けたところに出る

戸無門をくぐると少し開けた場所に出ます

景色も開けてて眺めが良い

ここにあるのが筒井門(つついもん)と隠門(かくしもん)です。

筒井門

そして筒井門の上にあるのが西続櫓と東続櫓

筒井門西続櫓と同東続櫓は、筒井門の両側に設けられた平櫓で、筒井門・隠門とあわせて大手の防備を担っています。

昭和12年(1937年)に修理工事が行われ、その際、築城時には筒井門櫓と西続櫓が建てられ、しばらくして東続櫓が建築された可能性が指摘されました。

昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同24年(1949年)2月に焼失したため、同46年(1971年)3月に復元されました。

こっちは西続櫓

じつはこの筒井門の奥にも小さな門「隠門」があります。

奥に隠門がある

隠門

この隠門は、戸無門から入ってきて筒井門を破ろうとする敵を背後から回り込んで攻撃できるように作られた門だそうです。

よく考えられていますよね。

そして隠門の上にあるのが隠門続櫓(かくれもんつづきやぐら)です

隠門続櫓(かくれもんつづきやぐら)

隠門続櫓は、隠門2階の渡櫓の東側に接続する平橋で、長者が平(なる)からの登城道を監視する目的で、揚木戸門(あげきどもん)前の本丸石垣の上に建っています。平面形は、石垣に合わせて東側に突き出た変則的なものとなっており、西側は隠門渡櫓につながっています。

隠門と同様に慶長(けいちょう)年間(1596~1615年)の築城時に建てられたと考えられており、創建当時の技法が残されている貴重な建造物です。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同25年(1950年)の法改正により重要文化財となりました。

筒井門を抜けると少し開けた広場になっています。

筒井門を抜けた先は小さな広場になっている

目の前の太鼓門を抜ければ、松山城公園 本丸広場です。

太鼓門(たいこもん)

太鼓門

この門を抜ければ、松山城前の広場です。

太鼓門太鼓門は、本丸大手の正門と位置付けられている脇戸付(わきどつき)の櫓門で、巽櫓(たつみやぐら)や太鼓櫓とともに防衛線を構築しており、隠門や筒井門とその続櫓による第1の防衛線に続く第2の防衛線となっています。

築城時に建てられたと考えられ、明治時代になり石落や窓などが改変されました。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失したため、同47年(1972年)2月に門は欅、階上は栂(つが)で復元されました。門の両側の石垣には、戦災による剥離が残されています。

なお、戦後、太鼓門南続櫓跡には、朝6時、正午、夕方6時の時報にあわせて音楽を流すミュージックサイレンが置かれ、市民に親しまれていました。

※石落・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在は鉄砲の射撃としての穴として理解されている。

門をくぐって緩い上り坂

太鼓門をくぐると上り坂

そしてこれを超えると松山城公園 本丸広場に到着。

松山城公園 本丸広場

山頂駅からゆっくり歩いてきて、10 分くらいでここまで来れました✨

松山城公園 本丸広場

ここは松山城前の広場だけあって結構広かったです✨

本丸広場

また、ある程度の上ってきたので眺めも良き✨

本丸広場からの眺望

売店や食事処があるのもこの本丸広場ですが、それはあとのお楽しみにとっておいて、まずは本丸広場にある見どころを少し紹介します

太鼓櫓(たいこやぐら)

太鼓櫓

太鼓櫓は、本丸の西南隅に配置された矩折(かねおり)の二重櫓です。この櫓は、巽櫓(たつみやぐら)・太鼓門・同西塀と同じ高さ(約7m)の石垣の上に築造されており、これらは一連の防衛線となっています。

築城時に建てられたものと考えられ、明治時代に石落(いしおとし)や突揚戸(つきあげ)などが改変されました。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失しました。同46年(1971年)に西面の石垣が解体修理されたあと、同48年(1973年)3月に総て栂(つが)で復元されました。

なお、古絵図には、太鼓櫓前に本丸広場の警備の番所(ばんしょ)が記されています。

※矩折・・「矩」は直角を意味する。

※石落・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在は鉄砲の射撃としての穴として理解されている。

※突揚戸・窓に取り付けられた板戸で、跳ね上げ式に外へ開き、棒で支えられている。

太鼓門西塀

西塀

太鼓門西塀(太鼓櫓東塀ともいう)は、長さ24.41mで、2箇所の石落と21箇所の狭間が備えられています。

昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失しました。同43年(1968年)から始められた木造復興計画の最後として、平成2年(1990年)に復元されました。

※挟間・・塀や櫓などに空けられた小窓のことで、矢狭間は立って弓を引くため高い位置にあり、鉄砲狭間は片膝ついて撃つため低い位置にある。松山城では、正方形が鉄砲狭間、長方形が矢狭間である。

※松山城の復元建物・昭和27年の井戸上屋、同33年の馬具櫓(鉄筋コンクリート造)、同43年の小天守ほか、同46年筒井門ほか、同47年太鼓門ほか、同48年太鼓櫓、同54年天神櫓ほか、同57年乾門ほか、同59年良門ほか、同61年巽櫓など。

井戸

井戸

この井戸は、築城時に谷だった場所を埋め立てるのにあわせて、泉を掘り下げ、石を積み上げて造られたと伝えられています。深さは44.2m、水深は9mあり、戦前までは釣瓶(つるべ)が備えられ、冷水を汲み上げて飲むことが許されていました。

上屋は昭和20年(1945年)7月の戦災で焼失したため、同27年(1952年)3月に城内で初めて再建されました。

井戸には、①底がない、②天守と二之丸への抜け穴がある、③大こうもりがいる、④水をきれいにするため大判・小判が投げ込まれている、などの伝承が残されていましたが、いずれも真実でないことがわかっています。

やっぱりこういう井戸って何らかの噂立ちますよね笑

馬具櫓(ばぐやぐら)

馬具櫓

馬具櫓は、本丸広場の西側にある二重櫓で、太鼓櫓とともに、二之丸方面の監視・防衛を担う櫓です。

この櫓は、明治43年(1910年)に「松山公園」として開園される直前、管理人用寝泊所として改装されました。

昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失したため、同33年(1958年)3月に本丸の防災ポンプ操作室として鉄筋コンクリート造で再建されました。木造以外の工法で再建された城内唯一の建物で、現在は、本丸の防災を含む管理事務所となっています。

再建には、西側石垣(高さ約13m)に荷重を与えないようにするため、建物直下にケーソン工法の基礎3個が用いられています。この工事中、ケーソン基礎2個の最深部(深さ約4.7~5.9m)で、現在の石垣とは別の石積が発見されました。これは、まだ知られていない松山城の歴史を示すものかも知れません。

さて、ではいよいよ松山城に入っていきましょうか

いざ、松山城へ!

いざ、松山城の内部へ!

受付でチケットを購入して入場していきます。

入場券売り場

案内板で、大体の配置を確認しておきましょう

松山城内部の案内板

むむむっ、、、

「天守」「本丸」「本壇」とか、字が似てるのが出てきてよくわからないので案内板の解説を参照😇

本丸

本丸は城の防衛上最後の砦となる郭(くるわ)で、高さ10mを越える高石垣(たかいしがき)に囲まれ、南北約300m、東西約30~180mという全国有数の規模を誇っています。高石垣は、美しい曲線を描く扇勾配(おうぎこうばい)と、屈折を連続させることで防御性を高めている屏風折が特徴です。江戸時代には、その上に石落や狭間のある渡塀(土塀)がめぐり、また要所には櫓が配置され、城下からは塀や櫓に囲まれた天守が望めたと考えられます。

本丸北側には、松山城の中心である連立式天守の本壇(ほんだん)が配置され、本丸南側には大手(正面、表口)である大手門、北側には搦手(からめて)(背後、裏口)である乾門(いぬいもん)があります。乾門付近には、乾櫓(いぬいやぐら)や野原櫓(のはらやぐら)という城内で最古の櫓が残されています。

※郭・・城内部の区画された平地のこと。

※石落・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在は鉄砲の射撃としての穴として理解されている。

※狭間・・塀や櫓などに空けられた小窓のことで、矢狭間は立って弓を引くため高い位置にあり、鉄砲狭間は片膝ついて撃つため低い位置にある。松山城では、正方形が鉄砲狭間、長方形が矢狭間である。

※連立式・・天守と2基以上の小天守・隅櫓が中庭を囲むように建てられ、渡櫓などで連結している天守形式のこと。

本壇(ほんだん)

本壇は、本丸の北側に位置し、天守(てんしゅ)・小天守(こてんしゅ)など城の中枢となる建物が配置されています。そのため、本丸広場より更に約8m高く石垣が築かれ、出入口は一箇所に限定されるなど防備は厳重です。天守は更に約4mの高さの石垣(切石を隙間なく積み上げる切込ハギによる)上に構築されています。

本壇石垣の隅々には櫓が配置され、渡塀または多聞櫓(たもんやぐら)などで接続されています。それらには石落・狭間・突揚戸(つきあげど)が設けられています。

出入口から天守に至るまでには、両側を石垣と櫓や塀で囲まれた中、幾つもの門をくぐりながら、何度も屈曲する道を経なければならず、侵入した寄手(よりて)はあらゆるところから狙い撃ちされるように仕組まれています。

昭和8年(1933年)に小天守、南や北の隅櫓、玄関などが焼失し、残された天守、天神櫓(てんじんやぐら)、塀、門などは同10年(1935年)国宝に指定されました。焼失した建造物の復興は、同41年(1966年)から着手され、同43年に竣工しました。なお、天神櫓は同20年(1945年)の空襲で焼失しましたが、同54年(1979年)に復元されました。

天神櫓を除き、国宝に指定されていた建造物は、同25年(1950年)の法改正により重要文化財になりました。

天守

天守は三重三階地下一階で、全高は天守広場から約20mあります。また、天守台石垣は、加工された石が隙間なく積まれ(切込ハギ)、4.1mの高さがあります。この石垣に囲まれる空間が、地下階となっています。

慶長年間(1596年~1615年)、加藤嘉明の創建当初は、五重であったと言われています。寛永19年(1642年)、松平定行(まつだいらさだゆき)が、三年の年月をかけて三重に改築しましたが、天明4年(1784年)正月、落雷によって焼失しました。

安政(あんせい)元年(1854年)に再建され、わが国城郭建築史上最後の天守となりました。

形式は、塔の様に屋根を重ねた「層塔型(そうとうがた)」と言われる構造です。外観は、南北屋根妻側は、一重目に千鳥破風(ちどりはふ)が、二重目に唐破風(からはふ)が、東西屋根には一重目二重目とも千鳥破風が付けられています。随所に矢や弾丸を放つ狭間が備えられ、窓には塗籠(ぬりごめ)格子、さらに四方に張りだした破風には鉄砲狭間が備えられ、外壁も三階は漆喰塗(しっくいぬり)の白壁となりますが、一階と二階は下見板(したみいた)が張られるなど武装建築としての様相をよく留めています。

地下にある穴蔵(穀倉)入口上部には、城内最大(約6トン)と言われる花崗岩五本が並列し、また内部の柱・梁には抗腐力の強い楠材が用いられています。

では、松山城へ入っていきます。

松山城への入り口

おすすめ!松山城一番のフォトスポットはここ!

松山城の写真を撮るならこの入口のところすごくよかったです✨

映えまくる松山城

要塞感がすごくて迫力満点に撮れるのでオススメです✨

天守までの道のり

松山城の防御は鉄壁なので、そう簡単に天守までたどり着けさせてもらえません。いわゆる「七曲り」です。

下のマップのように、やはりくねくねと進んでいく必要があります。

本壇 配置図

一ノ門をくぐり、

一ノ門

二ノ門をくぐり、

二ノ門

三ノ門をくぐり、

三ノ門

筋鉄門をくぐり、

筋鉄門(すじがねもん)

ようやく天守のある広場まで辿り着けました

天守広場

ここから天守に入っていきます✨

天守入り口

天守へ

天守の中は、他の城と比べると全体的にコンパクトな造り。(重三階地下一階)

天守の階段が急なのはわかっていることだけれど、毎回、これを袴を着ている人たちが上り下りしてたのすごいなって思います。

天守の階段は急

天守の中では展示が行われていて、歴史的な資料を時代を追いながら見ることができました。

槍や刀の展示

鎧の展示

武具に限らず、資料や解説もありつつ、松山城の歴史を知りながら天守を巡ることができました。

歴史や文化の展示や解説

また、通路には階段がちょこちょこあったのですが、手すりが設置されていて配慮されているなって思いました

階段にはしっかり手すりが設置されていた

小天守

小天守内部の様子

小天守は防御の役割があるところから、天守広場も見渡せるようになっていました。

天守広場を見渡せる

ここで敵の進行の様子が確認できるようになっているんですね。

また、小天守には、松山城の上棟式に使用された弓矢が展示されていました。

松山城の上棟式に使用された弓矢

松山城の上棟式に使用された弓矢。

上棟式は棟木(むなぎ)を棟に上げる際、建物の守護神や工匠の神に工事進捗の感謝と加護を祈願し、末永く禍(わざわい)なく幸多いことを祈る祭祀(さいし)である。弓矢は式具の一つで不祥(ふしょう)を祓い除くものといわれている。

さあ、いよいよ天守最上階です

小天守から天守最上階が見える

松山市を一望!天守最上階からの眺め

天守の最上階まで上がってきました。

天守最上階

松山城の天守は三重三階地下一階(層塔型天守)なので、天守自体は3階建てみたいなものですが、

天守の全高は、本壇から20m(しゃちほこの高さを入れると21.3m)。 本壇は本丸から8.3mの高さがあり、本丸の標高は約132mであることから、天守の標高は約161mあることになります。 これは「現存12天守」の平山城の中では最も高い城郭です。

松山城 | 見どころ

と、オフィシャルサイトにもある通り、標高としては結構高いところにあるため、眺望は抜群でした✨

天守最上階からの眺め

城山荘売店で愛媛スイーツを堪能

松山城を堪能したら、松山城公園本丸広場にある城山荘売店で休憩しましょう🥳

城山荘売店

ここにはお土産売り場と食堂が入っていて、愛媛スイーツを堪能できます💕

城山荘売店の様子

tabelog.com

私もこのお店の名物「伊予柑ソフト」をいただきました

伊予柑ソフト 450 円

さっぱりしつつ、伊予柑のほどよい香りがよかった✨

夏に行ったので最高のスイーツでした💕

絶対に落とせない。だからこそ攻め込まれない。歴史が証明する鉄壁防御の要塞

松山城は防御を突き詰めて設計されたお城で有名ですが、一度も攻め込まれたことはないそうです。

攻め込む機会があったのかどうかはわからないけれど、少なくともこのお城の設計のすごさがわかるからこそ、攻め込むことを止めた武将もいたんじゃないかな。

日本百名城 No. 81「松山城」

素敵なお城でした✨

松山城

帰りはリフトで帰ったけど眺めめっちゃ良かった✨✨