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【鹿児島】照國神社の見どころポイント〜明治維新・日の丸国旗制定の裏側など

【明治維新の歴史訪問】日の丸国旗は ここから始まった〜照國神社〜

鹿児島県鹿児島市にある照國神社に行ってきました。

しかしながらこの照國神社、ただの神社と侮ることなかれ。照國神社は見どころ満載で鹿児島の観光スポットとしてはとても素敵なところだったので、それを紹介しますね。

照國神社(てるくにじんじゃ)

照國神社

照國神社は、鹿児島県鹿児島市にある照國大明神(島津斉彬公)を祀る神社。六月燈と呼ばれる無病息災や商売繁盛を祈願する夜祭が有名で、毎年たくさんの参拝者で賑わいます。

主祭神
照國大明神(島津斉彬公)
受付時間
9:00 〜 16:30
定休日
年中無休
所在地
〒892-0841 鹿児島県鹿児島市照國町19−35

位置的には、鹿児島城の西側、城山展望台を降りたところにあって徒歩でも十分にアクセスできます。気軽に観光のコースに組み込める位置にあるのもうれしいポイント。

terukunijinja.jp

無料の駐車場もあるので、車でのアクセスも問題なしです。

照國神社 駐車場

島津斉彬ってどんなひと?

照國神社を巡る上で是非とも知っておきたいのがこの「島津斉彬(しまづなりあき)」という人物です。

島津斉彬公は、照國神社の主祭神であり、照國大明神として祀られています。

島津斉彬(しまづなりあき)は、江戸時代末期から明治時代初期にかけて活躍した日本の薩摩藩(現在の鹿児島県)の藩主であり、島津家の第28代当主です。彼は日本の近代化を志し、薩摩藩を中心に幕末の動乱期において重要な役割を果たしました。


島津斉彬公の業績

1. 近代化への取り組み

島津斉彬公は薩摩藩内での改革や近代化に積極的に取り組みました。洋学や西洋技術の導入を進め、洋式の船や兵器の製造、西洋式の教育機関の設立などを行いました。

2. 外交政策

薩摩藩は海外との交流を重視し、西洋列強との関係を構築するために尽力しました。特に、オランダとの交渉を通じて西洋の文化や技術を取り入れることに成功しました。

3. 維新の先駆者

幕末の動乱期において、島津斉彬公は明治維新の先駆者として注目されました。彼は尊王攘夷思想に基づき、幕府打倒や新しい近代国家の樹立を目指しました。

4. 鹿児島の近代化

島津斉彬公は鹿児島市を近代的な都市に変革するため、港湾施設の整備や都市計画の推進など、鹿児島の発展に貢献しました。


現在は照國神社の主祭神として、島津斉彬公はその功績と人格を称えられています。彼の活動は、日本の近代化と明治時代の発展に大きな影響を与えました。

島津斉彬公のことも知ったので、ここからは照國神社と見どころポイントを紹介していきます。

大迫力!大鳥居

照國神社には、とても立派な大鳥居があります。

照國神社の大鳥居

この大きさだけでも、照國神社がこの地に大事なところなのかがわかります。

大鳥居がとても大きい

境内の様子

私が行ったのは平日の午前中ということもあり、とても静かで穏やかな時間が流れていました。

こちらは休憩所 浩然亭

休憩所 浩然亭

そして、手水舎

手水舎

最近の神社にはデジタルサイネージがあってすごい進化しているななどと感じてみたり。

ディスプレイにタッチして情報を調べることができる

ディスプレイがタッチパネルになっているので、タッチして境内の情報を調べることができました。

先を進むと神門があります。

神門

神門を進むと拝殿があります。

拝殿

実は気にスポだらけの照國神社

日本には大小たくさんの神社があるわけですが、照國神社は一味違います。気になるスポット(略して「気にスポ」)の多い神社なんです。

まずはこちらの Google マップをご覧ください。

google map からみた照國神社

  • 鳥の形に刈り込まれた木
  • 国旗「日の丸」制定の由来碑
  • 島津斉彬公像
  • 戊辰之役戦士顕彰碑

と、マップだけ見ると「なにこれ?!」とか「どういうこと?!」みたいなスポットが敷地内に点在しています。

これらを紹介していきますね。

鳥の形に刈り込まれた木「斎鶴(さいかく)」

鳥の形に刈り込まれた木「斎鶴(さいかく)」

本当に鳥の形をしていますね。

「イヌマキ」という木のようです。

記念碑のようなものがありました。

献木の碑

この記念碑を読むと、照國神社にこの木があるのは以下の経緯のようです。

  • 当時の中塚製薬の社長さんが、いつもご加護をくださってありがとうの、感謝の気持ちで献木した
  • 献木したイヌマキは、日置郡郡山町にあった、島津斉彬公時代に植栽されたものと思われるものを譲り受けて移植した
  • 木の名前は一般公募され、「斎鶴(さいかく)」という名前になった

いつも見守ってくれてありがとうの気持ちだったんですね。

この木は神社の中心にあるので、シンボルみたいになっていて、大きいし形も芸術的で、一見の価値ありですよ。

日露戦後凱旋記念燈

日露戦後凱旋記念燈

大鳥居をくぐってわりあい近くにあるこの 日露戦後凱旋記念燈は、日露戦争(1904年-1905年)の戦後、凱旋した兵士たちを讃えるために設置された記念灯です。

日露戦後凱旋記念燈

日露戦争に勝利し凱旋した兵士たちは、日本各地で熱狂的な歓迎を受け、その感謝と祝福を示すために記念灯が設置されたことも多かったそうです。

国旗「日の丸」制定の由来碑

国旗「日の丸」制定の由来碑???

日の丸の国旗とこの照國神社が関係あるって事なんでしょうか。

国旗「日の丸」制定の由来碑

照國神社の御祭神島津斉彬公(照国公)は、幕末、日本を強く豊かな国に生まれ変わらせようと尽力なさいました。公が力を注がれた事業の一つが造船事業で、いずれも我が国初の本格的な洋式軍艦昇平丸や蒸気船雲行丸などの建造を手がけられました。嘉永六年(一八五三)大型船十二艘、蒸気船三艘の建造を幕府に申請された公は、日本の総船印として日の丸を掲げ、日本の船と外国の船を区別してはどうかと幕府に提案なさいました。翌安政元年(一八五四)七月十一日幕府は公の提案を容れて日の丸を日本の総船印と定め、安政二年春、幕府に献上するために鹿児島を出港した昇平丸に初めて日本総船印としての日の丸が掲げられました。万延元年(一八六○)には国旗へ昇格、明治三年(一八七〇)一月二十七日には、明治政府もまた日の丸を国旗と定めたのです。

島津斉彬公が日本の船と外国の船を区別するために日の丸を船印として提案し、幕府がこれを受け入れた。

安政元年には日の丸が日本の総船印として採用され、万延元年には国旗に昇格し、明治三年に明治政府も日の丸を国旗と定めた。これにより国旗「日の丸」が制定された。

すごいですね。日の丸の国旗の元々の生みの親は島津斉彬公だったんですね。

島津斉彬公像

ここまでで島津斉彬公はとても活躍したひとだったんだと分かったところで、お顔拝見です。

島津斉彬公像

結構立派な像ですね。

島津斉彬公

凛とした表情が、出来る男を演出しています。素敵ですね。

島津斉彬公に関する案内板もありました。

島津斉彬公の案内板

島津斉彬公(1809~1858)島津家28代当主

島津斉彬公は、文化6年(1809)薩摩藩主の27代島津斉興公の嫡男として誕生なさいました。母は鳥取藩主池田治道の娘賢承院です。海外の文化に強い関心を示された曽祖父島津重豪公に可愛がられ育てられたため、斉彬公も海外の情報・文化に精通されるようになりました。そして、アヘン戦争(1840~1842)で、アジアの大国・清国がイギリスに敗れたことから、西欧諸国の植民地化政策を恐れ、斉彬公は、日本がひとつにまとまり、強く豊かな国づくりを目指すべきだとお考えになりました。そして、嘉永4年(1851)藩主になられると、鹿児島の磯に「集成館」と言う工場群を築きここを中心に、造船・製鉄・紡績・電信・ガラスなどの様々な事業に取り組まれました。また、人材育成のため教育にも力を注がれ、西郷隆盛や大久保利通など有能な人材も育て上げました。斉彬公は、安政5年(1858)、世を去られましたが、日本を強く豊かな国に生まれ変わらせるという夢は、弟の島津久光公やその長男忠義公、さらに西郷隆盛や大久保利通ら多くの家臣の手で実現されました。

この斉彬公の銅像と、隣接の探勝園内にある久光公忠義公の銅像は、大正6年(1917)彫刻家の朝倉文夫(1883~1964)によって作製されたものです。

島津斉彬公はこれからもこの鹿児島の地を見守ってくださることでしょう。

島津斉彬公

戊辰之役戦士顕彰碑(ぼしんしんえきせんしけんしょうひ)

戊辰之役戦士顕彰碑

戊辰之役(=戊辰戦争)といえば薩摩藩と長州藩が中心に構成された新政府軍と幕府軍の戦いで、西郷隆盛や坂本龍馬が有名ですね。

「戊辰之役戦士顕彰碑」は、「戊辰戦争の戦士を顕彰するための碑」という意味で、戊辰戦争で戦死したり功績を残したりした戦士たちを称える碑ということになります。

明治維新薩藩殉難志士・戊辰戦没者銘碑に、一人ひとりの名前が刻まれてしました。

明治維新薩藩殉難志士・戊辰戦没者銘碑

たくさんの方々の志と犠牲の上に未来が築かれている。

どんな歴史もちゃんと知るべきだなって改めて感じました。また、多くの人の歴史の礎の元に立っている現代も、恥ずかしくない世の中でいないといけないなってこの碑を見て思いました。

戊辰之役戦士顕彰碑

なお、この碑も有志の方々によって建てられたみたいですね。

戊辰之役戦士顕彰碑が建てられた経緯

戊辰戦争とは改めてどんな戦争だったんだろうか。

解説載せておきますね。

戊辰戦争とは

戊辰戦争(ぼしんせんそう)は、日本の歴史上の戦争で、明治時代の初期に起きました。戊辰戦争は、1868年から1869年にかけて行われ、江戸幕府(徳川幕府)と新政府(明治政府)との間で戦われました。

戊辰戦争の背景には、幕末の日本が大きな変革期に入っていたことがあります。当時、日本は長い間、幕府の支配下にありましたが、欧米諸国との接触や国内の不平等な社会制度などがもたらす不満が高まっていました。このような状況の中で、幕府打倒を掲げる勢力が台頭し、幕府への反発が広がっていきました。

戊辰戦争は、新政府を支持する勢力と幕府軍との間で行われました。新政府は明治維新によって成立し、西洋の近代化を進めることを目指していました。一方、幕府軍は幕府を守り、旧来の体制を維持しようとしました。

戦争は日本各地で激しく繰り広げられました。主な戦闘地域は東北地方や関東地方などであり、一連の戦闘は数カ月から数年にわたって行われました。新政府軍は比較的に組織化された軍隊を持ち、西洋の軍事技術を取り入れていました。一方、幕府軍は幕府の軍事力を背景に戦いましたが、物資や人材の不足が問題となりました。

結果的に、新政府軍が戦争に勝利し、明治時代の日本の基盤が築かれました。幕府は廃止され、明治政府が中心となって近代化を進めることとなりました。戊辰戦争の結果、封建制度が廃止され、地方自治が導入されるなど、日本社会の大きな変革が行われました。

戊辰戦争は、日本の歴史上で重要な出来事であり、幕末から明治時代への移行期の象徴とも言えます。この戦争は日本の国家統一と近代化の一歩となり、その後の日本の発展に大きな影響を与えました。

余談ですが、戊辰戦争の最後の舞台である函館五稜郭には先日行ってきました。

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明治維新の歴史を感じられる神社

照國神社は、この地の、そして日本の反映のために尽力した藩主を祀り、大切にしている神社でした。

地元、ないし有志で設置された斉鶴や戊辰之役戦士顕彰碑などを見ても、地元の方々から愛されている神社なんだなって感じられます。

私は各地を旅行しつつ観光で色々な神社に行きますが、ここまで見どころスポットの多い神社はあまりないと思います。

実際に行ってみると、そういったスポットから神社やその土地の縁だとか歴史だとかを知ることができてとても楽しい時間を過ごせました。

城山展望台(城山公園駐車場徒歩ルート)降りてすぐ、そして鹿児島城の西側に位置していてアクセスも良かったので徒歩でも気軽に行ける距離です。

鹿児島市を観光する際には是非立ち寄ってみてください。

照國神社


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