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今なお生きる遺構「鹿児島城」がすごかった〜数百数千の弾痕が語る西南戦争と歴史

鹿児島城

鹿児島を観光するなら一度は観ておきたい鹿児島城を巡ります。

鹿児島城

鹿児島城は、鹿児島県鹿児島市にあるお城。1601 年(慶長 6 年)頃、のちに初代藩主となる島津家久(第 18 代当主)が建設に着手した城です。山から平野にかけて城を築く「平山城」に分類されます。

別名
鶴丸城(つるまるじょう)
指定
国の史跡
日本100名城
築城年
1602年(慶長 7 年)
天守
なし。黎明館という鹿児島県の歴史資料センターになっています。
営業時間(黎明館)
9:00 〜 18:00(最終入館 17:30)
定休日(黎明館)
月曜日(祝日の場合は翌平日)
毎月 25 日(土・日・祝日の場合は開館)
12 月 31 日 ~ 1 月 2 日
日本100名城スタンプ
黎明館にあり。休館日の場合は西郷銅像前広場観光案内所にもスタンプあり。
禁煙・喫煙
黎明館入り口付近に喫煙所あり
アクセス
鹿児島市電 市役所前駅 から徒歩 6 分
鹿児島駅からタクシーで 3, 4 分程度
所在地
〒892-0853 鹿児島県鹿児島市城山町7−2

鹿児島城年表

  • 慶長 6 年(1601) 島津家久が鹿児島(鶴丸)城の築城を始める(1602年説あり)
  • 慶長 17 年(1612) 御楼門の柱立
  • 天保 14 年(1843) 御楼門の建て直し(1844 年説あり)
  • 明治 5 年(1872) 明治天皇行幸
  • 明治 6 年(1873) 鹿児島城本丸、御楼門が焼失
  • 明治 10 年(1877) 西南戦争、二之丸が焼失
  • 明治 34 年(1901) 第七高等学校造士館設立
  • 昭和 58 年(1983) 鹿児島県歴史資料センター黎明館開館
  • 令和 2 年(2020)御楼門復元完了

別名は「鶴丸城(つるまるじょう)」

鹿児島城は別名「鶴丸城」と呼ばれますが、背後の城山の形が鶴が舞っているように見え「鶴丸山」と呼ばれたことから鹿児島城も鶴丸城と呼ばれるようになったそうです。

御楼門(ごろうもん)

御楼門

鹿児島城といえば御楼門です。

大きく堂々とした門はとても迫力があり一見の価値ありです。(高さ約 20m, 幅約 20m)

御楼門

大扉は片側 5m × 2.5m で、片側だけで約 1.4 トンもあります。

大扉。片側 5 × 2.5m で、片側だけで約 1.4 トンもある

元々は本丸の正面中央に御楼門がありましたが、明治 6 年(1873年)の火災で焼失してしまったとのこと。今あるのは 2020 年に復元されたものだそうです。どうりで、めちゃめちゃ綺麗でした。

御楼門の内部

「御楼門のことをもっと知りたい!」

というひとは、御楼門の復元が完成した際の記念パンフレットを見てみてください。復元作業の様子とかも見ることができます。

御楼門復元完成記念パンフレット [PDF]

西南戦争の痕跡

鹿児島城の一番の見どころポイントといっても過言ではないのがこの「西南戦争の弾痕」です。

御楼門を抜けてすぐにあります。

西南戦争の痕跡

この石垣に開いている無数の穴は、明治 10 (1877) 年の西南戦争の際銃や砲弾の痕。

熊本・宮崎での戦いに敗れた西郷軍は、明治 10 年 9 月、故郷鹿児島の地に戻り、城山を中心に布陣し最後の決戦に挑みます。これに対し政府軍は約5万人の兵で包囲し、西郷軍に無数の銃・砲弾を浴びせました。 御楼門部周辺の石垣に残るこれらの弾痕からは、複数箇所から銃撃や砲撃が行われたことをうかがい知ることができ、この攻撃の凄まじさを今に伝えています。

ということで、この弾痕ですが、実際に見るとすごいですよ。これでもかっていうくらいに穴が空いてるんです。

石垣に空いた西南戦争の弾痕。本当に凄まじい。

こういう生きた歴史を目の当たりにできることはとても幸せなことですね。維持管理し守ってくださっている方々に感謝です。

小さい穴は銃痕なんでしょうね

西南戦争の痕跡 [PDF] - 鹿児島県資料

黎明館(れいめいかん)

御楼門をくぐり弾痕まみれの石垣を抜けると、雰囲気の良い道に出ます。

本丸へ続く道らしい厳かな感じ

ここを抜けると、鹿児島県歴史資料センター「黎明館」 があります。

鹿児島県歴史資料センター「黎明館」

黎明館は「鹿児島県歴史資料センター」と名のつく通り、歴史に関する資料が展示されています。

www.pref.kagoshima.jp

黎明館常設展示入館料

個人 団体
一般 410 円 300 円
高校生・大学生 250 円 150 円
小学生・中学生 150 円 80 円
小学生未満 無料 無料

黎明館パンフレット

常設展示の他に企画展も行われているので、その時にしか会えない貴重な歴史資料を見ることができるかもしれません。

黎明館けっこう広いです

(黎明館内は撮影禁止です)

聚珍寶庫碑(しゅうちんほうこひ)

黎明館の脇に「聚珍寶庫碑(しゅうちんほうこひ)」という不思議な石碑があります。

聚珍寶庫碑(しゅうちんほうこひ)

碑文のあらまし

地がはじめて開け、太陽と月がこの世に現れて、動植物が世界に広がった。神農(中国伝説上の皇帝)が現れて、多くの植物を薬と毒に区別した。

私(島津重豪, しまづしげひで)は、これまで日本各地や海外の珍しい物室を収集し、草木を栽培し、鳥や動物を飼育したが、それは自然界の真理を知ろうとしたためである。

年月を重ねるうちに、屋敷の中に宝石、古代の印章や瓦、陶磁器などが満ちてきた。長年の心を込めた収集は、将来その散逸を残念に思う人がいるかもしれない。

そこで宝物庫を荏原(えばら)郡の別荘(高輪藩邸内)に建て、収集品のうち特に優れたものを選んで収めた。そして、宝物庫の名前を「聚珍(しゅうちん)」とした。

百年の後にこの収集品を所有するものは、どうか散逸させることなく、永遠に保持してほしい。

島津家二十五代目当主で薩摩藩主であった島津重豪(しまづしげひで)の碑なんだそうです。照國神社に祀られている島津斉彬のひいおじいちゃん(曽祖父)にあたります。

江戸時代は中期から後期にかけての人ですが、ヨーロッパ文化に強い関心を持っていたとのことで、碑文を読む限り色々なものを収集していたんでしょうね。

昔からコレクター(収集家)は存在していたっていう、さりげなく重要な碑ですね。

天璋院篤姫像(てんしょういんあつひめぞう)

天璋院篤姫像(てんしょういんあつひめぞう)

これも黎明館の隣にあります。

篤姫といえば、NHK 大河ドラマにもなった有名な人ですね。

www.nhk.jp

激動の幕末、薩摩藩島津家の1万石の分家に生まれながら、徳川十三代将軍の正室になる篤姫。夫・家定の死後は出家して天璋院となり、自らの信念を貫き、江戸城無血開城に大きな役割を果たした“薩摩おごじょ”の波乱万丈の生涯を描いた。

篤姫さまって、すごい人なんですね。

西郷隆盛などが絡んだいわゆる「江戸総攻撃」の直前に、それを思い留ませ、江戸城無血開城へと導いた立役者は実は篤姫さまだったっていう。

大河ドラマが観たくなりました。

黎明館庭園

黎明館の裏手

黎明館の裏手には、ちょっとした庭園と昔の生活の様子を再現した家があります。

この池は御池(みいけ)と言われる池です。

御池(みいけ)

御池

島津氏第 18 代家久によって構築され、20 年間にわたって達氏の本城であった鹿児島城(鶴城)本丸の東南隅に、御池と呼ばれる池がありました。明治時代初めに廃城となり、その後、城跡には中学造士館や第七高等学校造士館が建てられました。昭和時代の初めごろ、七高のブール建設のため御池の石材の一部は鹿児島市の公会堂(現在の中央公民館で使用し、大部分のものは鹿児島市鴨池動物園の庭園に移設されていました。昭和 46 年 12 月、同園が平川へ移転のため、この石材は当時明治軽年記念として建設計画のあった黎明館の庭園用に鹿児から譲渡され、昭和 58 年この場所に復元しました。

大悲水(大悲とは仏の広大な慈悲心をあらわす)と刻まれた石をつたって水が流れるこの池には、九皐橋がかけられています。

九皐(きゅうこう)は、沢の深い所、深遠な所という意味で、中国最色の詩集である「詩経」に「鶴鳴 千九皐、聲聞 于野」とあります。鶴は、いかに奥深い沢で鳴いてもその声はどこまでも聞こえることから、賢人の評判は自然に遠くまで伝わるという意味です。

黎明館では、このような由緒ある池江戸時代の歴史を偲ぶよすがとして、偲び御池と呼ぶことにしました。

この庭園に建つ 2 棟の家は、「桶の間二つ家」と呼ばれるものです。

桶の間二つ家

樋の間二の家

この建物は、姶良郡肱川町下ノ赤水の海老ヶ迫家住宅を移したもので、建築の時期は天保年間(1830-44年)と伝えられている。

南北棟の「なかえ」と東西原の「おもて」が直角に接し、南側に前面を揃えている。

二つの棟が「樋の間」で連結された典型的な「樋の間二つ家」である。

この種の民家は、川内川流域から浴良部一帯に見られる。

なお、改造してあった部分は、移築のとき取りのぞき、梁の揺れを防ぐため補強工事を行い、樋の上に樹脂被覆鋼板を敷いてある。

案内板の通り、2 つの棟が連結している状態になっています。

南側が正面を向いている

樋の間二の家の間取り図はこんな感じ

樋の間二の家の間取り図

家に上がることはできませんが、中の様子を垣間見ることはできます。

樋の間二の家「おもて」の様子

こちらは「なかえ」の部分。土間があってそこまでは入ることができました。

樋の間二の家「なかえ」の様子

家の外には井戸もありました。

井戸

さすがに井戸の穴は塞がってしまっているようですね。

こんな感じで、黎明館の裏庭では、鹿児島城がまだ存在した当時の生活の様子も垣間見ることができました。

七高生久遠の像

七高生久遠の像

さて、庭園から黎明館の前に戻ってきました。

鹿児島城は廃城令でなくなり、城跡には中学造士館や第七高等学校造士館が建てられました。

そんな第七高等学校造士館も、昭和 25 年(1950年)には学制改革によってその歴史を閉じました。

この像は、そんな第七高等学校造士館の同窓生によって建てられたものだそうです。

七高生久遠の像

三体の像はそれぞれ「知」「情」「意」を象徴しているのだとか。

青春の一瞬を切り取ったこの像、いつまでもその輝きは色褪せないことでしょう。

鶴丸城二の丸跡

二の丸跡の案内板

じつは鹿児島城には、まだまだマニアックな見どころポイントたくさんあるんです。

黎明館の隣りにある「二の丸跡」は、今は県立図書館になっています。

二の丸跡に建てられた県立図書館

位置的にはこんな感じです。鹿児島城跡に黎明館が建っているとすると、その西側に二の丸跡、県立図書館があります。

黎明館案内図

鹿児島城のお堀

鹿児島城のお堀は高さはないものの、積まれた石の黒ずみや苔から、歴史を感じることができます。

鹿児島城のお堀

そんな鹿児島城の前の歩道では、石積みについての資料が、なんと実際の積み石と共に展示されているのでこれが結構面白いです。

展示「石積みの技術」

石積みの紹介板には、その積み方で積まれた石垣がどの辺にあるのかまで記してあるので、御楼門をくぐる前にここに来て場所をチェックしていくとよりお城を楽しめると思います。

歴史が確かにあったことを当時のままに知ることができる貴重な遺構

鹿児島城の石垣に空いた無数の銃・砲痕は実際に見てととても衝撃を受けました。

どれだけ激しい攻撃にあったかがこの石垣からイメージされて、当時の壮絶な戦いを感じました。

個人的にはこの石垣は一度は観ておくべきものだなって思います。お城は日本全国津々浦々巡っていますが、ここまで戦いの跡を残している石垣は初めてでした。

鹿児島城は天守こそありませんが、復元された御楼門は立派ですし、黎明館で鹿児島の歴史に触れることもできます。

鹿児島観光の際には是非行ってみてください。

鹿児島城