安土桃山時代から江戸時代へと変わるきっかけとなった「関ケ原の戦い」
これによって徳川家康が天下統一を果たし、江戸時代へと変わっていきます。
では関ケ原の戦いは何故起こったのでしょうか?
短く、わかりやすく解説します。
(わかりやすくするために敢えて表現を誇張している部分があります)
死期が近づいた豊臣秀吉。徳川家康との約束。
豊臣秀吉
豊臣秀吉は 60 歳前後で病気によって死ぬ間際となります。そこで豊臣秀吉は、徳川家康を呼び出しました。
豊臣秀吉「私が死んだら日本のてっぺんはお前に譲る」
徳川家康「いやいや何をおっしゃいますか。あなたには息子の秀頼がいらっしゃるでしょう。後継者は私ではなく秀頼様へお譲りください。」
豊臣秀吉「秀頼はまだ 14 歳(くらい)で幼い。それならば、秀頼が元服(15 ~ 17 歳で行う、子供から大人への仲間入りの儀式)するまでは後見人として政務を執り行ってくれ」
徳川家康「わかりました」
こうしたやりとりがあった後、豊臣秀吉は逝去します。
豊臣秀吉の死後。五奉行・五大老制度
徳川家康
秀吉の言った通り、息子の豊臣秀頼が天下を引き継ぐことになります。それに併せて、五奉行・五大老がまだ幼い秀頼をサポートし政治を行っていく五奉行・五大老制度がスタートしました。
五奉行とは、秀吉の優秀な部下を示しており、五大老とは、日本全国で有力な大名を示しています。
五奉行(秀吉の優秀な部下ベスト 5)
- 石田三成 (いしだみつなり)No. 1
- 浅野長政(あさのながまさ)
- 前田玄以(まえだげんい)
- 増田長盛(ましたながもり)
- 長束正家(なつか まさいえ)
五大老(日本全国で有力な大名ベスト 5)
- 徳川家康 (とくがわいえやす)No. 1
- 前田利家(まえだとしいえ)
- 宇喜多秀家(うきたひでいえ)
- 上杉景勝(うえすぎかげかつ)
- 毛利輝元(もうりてるもと)→後に入れ替わり→ 小早川隆景(こばやかわたかかげ)
ただし、この制度になってから五大老のてっぺんである徳川家康がメキメキと力をつけ実権を握ってき出したことで、それを良く思わない石田三成ら五奉行陣と徳川家康との対立が始まりました。
石田三成は豊臣秀吉の死後、秀頼の養父として政権を担った人物であり、実質ナンバーワンであったため、徳川家康が力をつけてきたことが最も気に食わなかったことでしょう。
この対立の末に起きたのが「関ケ原の戦い」です。
決定的となった「負の連鎖」
関ケ原の戦いは、対立している両者が開催を約束して実施したわけではありません。両者の対立が深まり、続いていった先で、そうなるに至った経緯があります。
1. 徳川家康が黒幕問題
石田三成は一度暗殺されかけたことがあります。ただ、襲撃したのは「豊臣七将」と言われた武将達で、シンプルに石田三成に不満を持っていたからでした。
ですが、「裏では徳川家康が糸を引いてたんじゃないか。」という話が出てきます。
2. 家康やりたい放題問題
「大名間の政略結婚」など、豊臣秀吉が禁止していたことがあったのですが、それらをガン無視して徳川家康はやりたい放題を行っていました。常々、これには石田三成も大激怒していました。
3. 家康ブチギレ「直江状」
徳川家康のやりたい放題問題に苦言を呈するため、石田三成側の直江兼続が徳川家康へ一通の手紙を送りました。
その手紙を読んだ徳川家康がブチギレ。(激怒したのも、手紙での物言いが目上の人にものを言う感じではなかった。といったもの。)
この後、各軍の兵が動き出し、関ケ原の戦いが発生することとなりました。
関ケ原の戦い。画策する利権・保身・仁義
徳川家康「あー石田三成まじでウザい。ところでそなたは私の味方だよな?」
石田三成「あー徳川家康まじでウザい。ところでそなたは私の味方だよな?」
関ケ原の戦いに至るまでに、各大名が西軍(石田三成側)につくのか、東軍(徳川家康側)につくのか迫られました。
後に関ケ原の戦いで活躍した黒田長政(豊臣秀吉の軍師である黒田官兵衛の息子)は、幼少期を豊臣秀吉の元で過ごしたりと縁の深い人物であったため、それだけを見れば秀頼擁護派の西軍に入るのが自然ですが、方針を巡って石田三成と対立したため最終的には東軍側に付きました。
このように、各大名が西軍と東軍のどちらに付くのかについては、各々の利権や保身、関係性などから様々な画策がなされたようです。実際に小早川隆景などは、一時は西軍側に付きますが、関ケ原の戦いでは東軍側に寝返るという行為も発生しています。裏では「東軍が勝利してもあなたの領地は取り上げない」といった密約がかわされていたとか。
人間模様が見える関ケ原の戦い
関ヶ原の戦いは、1600年に、豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成を中心とする西軍が争った戦いです。
その中でも、石田三成は、秀吉の側近として仕え、豊臣政権において最も有力な人物となっていました。三成は、秀吉の遺言を守り、秀頼を将来の天下人にしようと考えていました。
一方、徳川家康は、秀吉の死後、勢力を拡大していき、天下人を目指していました。家康は、三成の権力を抑え、自らの権力を強めようと考えていました。
石田三成は、家康の勢力拡大を危惧し、家康を排除するために挙兵することを決意しました。三成は、家康を排除すれば、秀頼を天下人にすることができると考えていたからです。
石田三成は、西国の大名を味方につけ、1600 年 9 月 15 日に、関ヶ原で家康率いる東軍と激突しました。
西軍 約 8万、東軍 約 10 万の兵の激突でしたが、兵力差と西軍側からの裏切りもあり、たった 6 時間で勝負が付いたと言われています。
戦いは、東軍の勝利。石田三成は捕らえられて処刑されました。
この戦いによって、家康は天下人となり、江戸幕府を開くことになります。
関ヶ原の戦いは、戦国時代の終焉と江戸時代の始まりを告げる戦いとして、日本史において重要な意味を持つ戦いです。
沢山の大名・武将が関わっており、それぞれがどうして東軍・西軍についたのかを調べるととても面白いのでぜひ調べてみてください。