現存している本丸御殿はここ川越城の本丸御殿と高知城の本丸御殿の 2 つのみ。非常に貴重な川越城本丸御殿を巡ります。
- 本丸御殿の歴史
- 外観
- 玄関
- 受付
- 本丸御殿館内
- 廊下
- 使者の間
- 使番詰所
- 老体・番抜詰所
- 物頭詰所
- 中庭
- 明治棟(第 1 展示室)
- 坊主当番詰所(第 2 展示室)
- 家老詰所
- 中ノ口
- 徒詰所(かちつめしょ)
- 広間
- 東日本唯一の現存本丸御殿「川越城本丸御殿」
本丸御殿の歴史
江戸時代初期の川越城の姿は、17世紀後半に制作されたと考えられる「江戸図屏風」に垣間見ることができます。屏風には川越城として、本丸とニノ丸が堀で区画された 2 つの郭として描かれています。 川越城は鷹狩などでたびたび将軍の「御成り」があった記録があり、本丸御殿は将軍のための「御成御段」であったと考えられます。
元禄15年(1702)に写された「武州河越御領分明細記」には、「ニノ丸御屋形」とあるため、城主御段はニノ丸に置かれ、本丸に関する記述がないことから、本丸の御殿は解体されていたと考えられます。 江戸時代末の弘化3年(1846)、ニノ丸御髪が火災で焼失してしまいました。そこで、御殿を再建することになりましたが、当時空き地になっていた本丸が用地に選ばれ、嘉永元年(1848)、新たに本丸に面殿が建てられました。新しい本丸御段は建物の数16 棟、1,025坪にも及ぶ広大な建物で、城主の住まいだけでなく、城主が政務を行う場や家臣たちが常する部屋なども設けられており、文字通り城の中心となる建物でした。
ちなみに徳川家康は 8 回、徳川家光は 9 回、鷹狩で川越に来たと言われています。
外観
正面はシンメトリーで厳かな佇まい。玄関が大きく迫力があります。
側面は北側、徒詰所や中ノ口のある側を撮影できましたが、とてもきれいで洗練されています。
こちらは御殿の北西側、正面に対して裏側からの様子。右手に見えるのは家老詰所。
玄関の脇には櫛形塀(くしがたべい)が見れます。
玄関
玄関は大きくてとても立派です。
巨大な唐蔵風屋根に間口 3 間の広い開口部と、八寸角の太い柱が、石高17万石の大名御殿にふされしい感容を感じさせます。
開口部めちゃめちゃ広かったです。
ちなみに当時、この玄関を使えたのは殿様以上、つまり将軍のみ(藩主でも中ノ口から出入り)ということで、格式の高さが伺えます。
受付
玄関を上がってすぐに受け付けがあり、大人は入館料 100 円を支払って本丸御殿へ入ります。
本丸御殿館内
現在の川越城本丸御殿はこのような構成になっています。ゆっくり見て回っても 20 〜 30 分くらいの内容。
廊下
座敷部分を取り巻く廊下は、場所によって床の材質が異なります。玄関のある東側部分及び中ノ口部分はケヤキ、南側から西側の広間西側部分にはツガ・マツが使われています。これは、御殿内の公的空間と私的空間を区別して材種を変えたためと考えられます。
床はしっかりしていて痛みは全く見られなかったです。しかもきれい。これも保存に努めてくださっている方々のおかげですね。
ただ、冬は床が冷たく足が冷えるので、ゆっくり見て回りたい場合は自身でスリッパなどを持ってきた方がよいかもしれません。(履物の提供はありませんでした)
静かに佇まう。そんな言葉がぴったりの雰囲気でした。
使者の間
使者って「使い番をつとめる武士」の意?御用聞きみたいなものでしょうか。そういった人たちが待機する場所だったのかな。
欄間が結構モダンな感じですよね。襖には竹の絵。
使番詰所
使番(つかいばん)とは、江戸幕府および諸藩の職名。古くは使役(つかいやく)とも称した。その由来は戦国時代において、戦場において伝令や監察、敵軍への使者などを務めた役職である。これがそのまま江戸幕府や諸藩においても継承された。
使番 - wikipedia
伝令が待機する場所ということかな。江戸時代における「使番」には役人の監査のひとを意味していたみたい。
こちらの襖にはキジ?の絵が描かれていました。
老体・番抜詰所
「番抜」は、事実上現役を退いたようなひとのことを指すそうです。以前はそこそこ偉かった、年齢とかで前線を退いたが一定の影響力を持つ(つまり偉い)ひとたちがここに部屋を与えられていたのかな。
この部屋の襖には絵が描かれていないですね。とても質素な造りです。
物頭詰所
「物頭」は「足軽頭」の意味みたい。兵でも少し偉い人のこと。現代的にいえば軍曹みたいな人のための部屋なのかな。
ここも特に装飾はなくて、もてなしというよりはやはり使える者のための部屋だったのが伺えます。
中庭
廊下を進んだ先に中庭があります。
ここも昔は「大書院」という大きな建物があったそう。
現在の本丸御殿の南側には「大書院」と呼ばれた目大な建物が建っていました。書院は明治初期に解体されてしまいましたが、本丸御殿南端の柱群には書院の部材が入れられていた「ホゾ穴」などの痕跡が残っています。
庭はよく整備されていてきれいでした。こういう風景って落ち着きます。
明治棟(第 1 展示室)
中庭沿いの通路を進んでいくと、明治棟(第 1 展示室)があります。(その先はトイレ)
この建物は明治29年に描かれた「三芳野神社境内図」に姿が見られるため、明治初期に建てられたものと考えられます。本丸御殿が入間県庁や入間郡公会所として利用されたため、その附属施設として使用された可能性があります。平成20年度の修理に伴う解体によって、「大書院」など同時期に解体された本丸御殿の部材の一部が天井裏に転用されていることが確認され、古材が使用されている部分はそのまま保存し、柱などの一部を交換して補強しました。
ここは明治時代に作られた部屋なんですね。だから明治棟なのか。
ここには、本丸御殿の保存修理工事の様子が展示されていました。
川越城本丸御股保存修理工事
昭和42年に実施された修理から約 40 年の月日が経ち、本丸御殿には雨漏りや壁のひび割れといった建物の痛みが目立つようになりました。そのため、平成 20 年 10 月から約 2 年半をかけて「川越城本丸御殿保存修理工事」が行われました。 この保存修理工事は、建物を一度管組みだけの状態に解体し、補修や補強を施しながら解体前の姿に戻す「半解体修理」という方法で行いました。修理に際しては、木造建築であり、文化財建造物であることを踏まえ、伝統的技術と現代の構造補強を両立できるように取り組んでいます。また、木材は腐朽部分のみを除去して新材を埋め込んだり、瓦は一枚ずつ点検しながら再利用できるものを選別したり、壁士は屋根に葺(ふ)かれていた土を配合してつくるなど、建築当初から残る部材は可能な再利用し、新規材は必要最小限の交換としました。 この展示室では、保存修理工事の様子をお伝えしながら、木造建築の魅力を感じていただける内容といたしました。
できる限り「当時のまま」を保てるようにの配慮と、現代技術を以て修理に当たったのですね。それを可能にする日本の建築技術はすごいと思います。
今回の工事で交換した大棟(おおむね)南側にあった鬼瓦です。 建築当初は南側に「書院」が続いていたので、鬼瓦はありませんでした。瓦表面の風合いが北側の鬼瓦に似ていることから、書院が解体された際に、鬼瓦が必要になったため、旧本丸御殿のいずれかの建物で使用されていたものを置いたと考えられます。
建築当初は「土居葺(どいぶ)き」と呼ばれる屋根下地でした。これはサワラ材を短冊状に薄く切った板を重ねるもので、大変手間のかかる下地でした。
明治棟を出て先に進んでいきます。
坊主当番詰所(第 2 展示室)
江戸時代では「坊主」は「僧侶」を意味していたみたい。
お坊さんの部屋だったってことかな。
今は第 2 展示室になっていて、資料が展示されています。
川越城本丸御殿
弘化3年(1846)のニノ丸御殿の焼失により造営された本丸御殿は募永元年(1848)に竣工しました。造営にあたっては、当時の城主松平大和守斉典が石高17万石を誇る大名であったことから、その格式にふさわしい威容を持つ御殿が造られました。巨大な唐破風を持つ玄関やその両脇に連なる櫛形などは、その象徴的な意匠とすることができます。 現在では玄関・広間部分と家老詰所など、その一部が残っているのみですが、その頃に描かれた「本城住居絵図」などを見ると、広大な御殿であったことがわかります。現在の本丸御殿の南には城主との対面の間を擁する「大書院」があり、その西側には城主の住まいなどの私的空間である「中奥」「奥向」が連なっていました。 また、現在の本丸御殿から西に伸びる廊下には御殿内最大の居室である「御時計の間』や城主の食事を作る厨房があり、その最も西側に家老詰所がありました。
静かな時間が流れる中、ゆっくりと見て回れます。
また、坊主当番詰所・家老詰所・広間裏の廊下に囲まれた中庭も、良い雰囲気です。
家老詰所
家老詰所は藩の政治を取り仕切った家老たちが常駐する場所。
本丸御殿に勤務していた満の家老が詰めていた建物です。江戸時代、落主は参勤交代があり、実質的には家老が落政を行っていました。この建物は明治初期に解体され、現ふじみ野市の商家に再築されていましたが、昭和62年に川越市に寄贈され、現在のところに移築されました。
記録方詰所
中庭方面の廊下に、いい感じに陽が当たってめちゃめちゃ雰囲気よかったです。
家老詰所にいる人形は、黒船来航を受けてお台場の沿岸警備をどうしていくかの話し合いの様子を再現したもの。
雨戸と当時の施錠・固定機構
雨戸の施錠・固定についてはこちらでくわしく解説しています。なかなかに秀逸です。
便所
便所は通路を挟んで両側に、全く同じものが 2 つありました。
本丸御殿は多くの人が集まる建物であるため、便所は御殿内の各所に設けられていました。多くの建物から突出する形で設置されましたが、家老詰所のように建物内に設置されたものもありました。
男性小便器に杉の葉?が置かれているのは、飛び跳ね防止とか消臭とかの役割があったみたい。
家老詰所を出て先に進みます。終わりも近いです。
中ノ口
正面玄関に比べて間口 2 間半の一回り小さな規模の玄関です。屋根は当初千鳥風であったと考えられ、現在の流れ屋根は昭和 42 年の修理の際につくられました。 当初は、北側に1間分長く突出しており、正面同様階段と式台もあったと推測されています。
玄関は将軍専用だったから、藩主含め、みんなここから出入りしていたということですね。(勝手口的な?)
正面から撮れてなかったので一応補足しておくと、ここが中ノ口です。
また、ここには川越城跡の模型も展示されていました。
徒詰所(かちつめしょ)
徒士(かち)は、江戸幕府や諸藩に所属する徒歩で戦う下級武士のことである。近代軍制でいうと、馬上の資格がある侍(馬廻組以上)が士官に相当し、徒士は下士官に相当する。徒士は士分に含まれ、士分格を持たない足軽とは峻別される。戦場では主君の前駆をなし、平時は城内の護衛(徒士組)や中間管理職的な行政職(徒目付、勘定奉行の配下など)に従事した。
徒士 - wikipedia
護衛が待機する部屋ってことかな。
玄関に出やすいし、正面に位置していることから、外の状況がわかりやすい位置ということでここに作られたのかもしれませんね。
広間
36 畳の広さを誇る。御殿内で 2 番目に大きかった座敷で、来客が城主のお出ましまでの間待機した部屋と考えられている。城主との対面は南側にあった「大書院」でおこなわれたようです。
襖には松が描かれていて、一番豪華です。
釘隠しも豪華
また、広間には紫裾濃威鎧(むらさきすそごおどしよろい)という鎧が展示されていました。
そしてこちらは、室内運動場として使われていたころの名残。天井にバレーボールの跡が残っています。
歴史的価値というのは、やはり時間の経過と共に理解され見直されていくものなのでしょうね。
現存している本丸御殿はここを含めて 2 箇所しかありませんが、バレーボールの跡がついているというのはなかなかにユニークです。
そして、
広間の前が玄関のためここで一周。見学終了となります。
東日本唯一の現存本丸御殿「川越城本丸御殿」
現存している本丸御殿は川越城の本丸御殿と高知城の本丸御殿の 2 つのみ。
非常に貴重な史跡です。
また、御成御殿にふさわしく大きな玄関や広間も必見です。
ぜひご自身で歴史を体感してみてください。
(今回の見学時間:40 分)