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平山城・山城など、日本の城の種類・分類まとめ

平山城・山城など、日本の城の種類・分類まとめ

日本には沢山の城が今も残っています。

それぞれの城には「築いた目的」があり、その目的に応じて「どこに築くか」を地形的な観点を持って決めています。

それにより日本のお城は「平山城」とか「山城」などといった分類を持ちます。

お城の分類はいくつあり、それぞれがどのような意味を持つのか?

これらの分類について解説します。

代表的な分類は全部で 9 つ

日本のお城の分類について、代表的なもの(厳密にはもっとあります)は全部で 9 つです。

  1. 平城
  2. 平山城
  3. 山城
  4. 丘城
  5. 水城
  6. 陸奥型城
  7. 山岳城
  8. 湖城
  9. 島城

この中で特に、標高的な点で順列が付けられるものとしては「平城」「平山城」「山城」「丘城」の 4 つであり、

平城 < 平山城 < 丘城 < 山城

という順になります。

平城

名古屋城

平城(ひらしろ)は、平坦な地域に建設された城を指します。

平地に築かれるため、山城や丘城のような自然の高台を利用することが難しい地域において、防御力を高めるための工夫が施されています。

平城の特徴

  • 地勢を活用
    • 平城は平坦な地域に建てられるため、地勢を活用した防御施設が重要です。堀や土塁、石垣などを配置して、城の周囲を防御力を高めます。
  • 周囲の防御
    • 地形的な高台がない分、城の周囲に堀や土塁を掘ることで、攻撃者の侵入を難しくしました。防御施設は狭い地域でも広く配置されることが多いです。
  • 城門の重要性
    • 平地にあるため、城門が攻撃の要所となります。城門の構造や配置に工夫が凝らされ、要所には櫓や櫓門が設けられることもありました。
  • 周辺の環境活用
    • 平城の建設場所は都市や町などの中心地に多く、周辺の自然や人々の生活を活用した戦略が重要となりました。城の周囲には水路や道路、市場などが整備されることもありました。

代表的な平城(日本三大平城)

  • 名古屋城(愛知県名古屋市)
    • 広大な敷地に堀と石垣を組み合わせた防御施設を持つ平城の代表的な城です。
  • 岡山城(岡山県岡山市)
    • 城山と呼ばれる丘陵に建てられ、堀や石垣を活用して防御力を高めています。
  • 広島城(広島県広島市)
    • 平地に築かれた城で、城の周囲に広い堀と石垣が配置されています。

平城は戦国時代にはあまり築かれませんでした。比較的地形的には防御的に不利であったためです。ただしそれ故、河川など周辺の環境を取り入れた防御が特徴であり、併せて堀や土塁などの建築技術が特徴であったりと、歴史や文化を反映する重要な遺産となっています。

山城(やまじろ)

備中松山城

山城(やまじろ)は、山地や山岳地帯に築かれた城で、自然の地形を利用して防御力を高めた城を指します。

山城は、急峻な地勢や険しい斜面を活用して攻略が難しい構造を持ち、自然の障壁となる地形を利用して敵の侵入を阻むことを主な目的としていました。

山城の特徴

  • 周囲が急傾斜や断崖絶壁といった自然の障壁で囲まれており、攻略が難しい要塞として機能。
  • 地勢を利用して敵の進入経路を制限し、攻撃者が不利な状況になるように設計されていた。
  • 主郭(本丸)や二の丸、三の丸などの区域が、地形に合わせて配置されている。
  • 石垣や土塁、堀などの防御施設も使用されたが、山地特有の地形を利用したことが主要な特徴。

代表的な山城(日本三大山城)

  • 岩村城(岐阜県恵那市)
    • 鬼ヶ城山(おにがじょうやま)と呼ばれる山の上に築かれている。
  • 高取城(奈良県高取町)
    • 山名山(やまなやま)と呼ばれる山に建てられている。
  • 備中松山城(岡山県高梁市)
    • 倉敷川の左岸にある山に築かれている。

山城は戦国時代や江戸時代初期に多く築かれ、各地の地形や歴史的背景に応じてさまざまな形態が存在しました。山地特有の地形を利用しているため、防御性に優れており、攻略が難しく、堅固な城として知られています。

平山城(ひらやまじろ)

姫路城

平山城(ひらやまじろ)は、平野の中にある山や丘陵などの地形を活用して築かれる城を指します。

山城や丘城とは異なり、平地や平野などそれほど高くない場所に建設されることから直接攻撃を受けやすいという平城と同じような弱点があるものの、そのリスクを軽減するために小高い丘などを利用して建てられており、周囲の地形を利用して防御力を高める工夫が行われています。

平山城の特徴

  • 地勢の活用
    • 平山城は、平野の中にある地形的な高台を利用して建設されます。この高台を利用することで、城からの視界が広くなり、敵の接近を早く察知することができます。
  • 周囲の防御施設
    • 平地に建てられるため、山や丘城のような自然的な防御要素は限られています。そのため、城の周囲に堀や土塁、石垣などの防御施設を設けて、城の安全性を確保します。
  • 門や櫓の配置
    • 平山城には門や櫓(やぐら)も設けられ、城の出入り口や監視の要所に配置されます。これにより、攻撃を受けた際の防御体制が強化されます。
  • 戦略的配置
    • 平地に建てられる城であるため、周囲の地勢や水利を活用した戦略が重要です。城の配置や周辺の地形を活かして、防御や補給の戦略が練られました。

代表的な平山城(日本三大平山城)

  • 姫路城(兵庫県姫路市)
    • 平城山(ひらじろやま)という小高い丘の上に築かれている。
    • 城の周囲には堀と石垣が設けられ、山の斜面を活かして堅固な防御体制が築かれている。
  • 津山城(岡山県津山市)
    • 城山(しろやま)と呼ばれる丘に築かれている。
    • 城山の急峻な斜面を利用した段々状の石垣が特徴であり、城山の自然の地形を活かして防御を固めている。
  • 松山城(愛媛県松山市)
    • 城山(しろやま)と呼ばれる山に建てられている。
    • 城山の自然の地形を活かし急峻な山の斜面に石垣や堀を配置して防御を固めている。特に三の丸と呼ばれる部分は急傾斜地に築かれており、攻略を難しくした。

(津山城も松山城も「城山」となっていますが、城山は日本各地に存在しています。これは、城を築くために地形は重要であり、例えば山とは言えない、名前もついていない丘などの小高いところに城を建てた結果、そこを城山と言われるようになった背景があります。)

平山城は、戦国時代や江戸時代初期に多く築かれました。城下町が発展し、城を中心とした政治・経済活動が行われました。平地に立地することから、城の構造や要素がより見やすく、城内の建築物や遺構が多く残っている場合もあります。

平山城は、いってみれば平城以上、山城未満。双方の良いところを少しでも活かそうとした結果生まれたものになります。

また、平山城のうち丘陵上を城地としたものを丘城と分類することもあります。

併せて、戦国時代の丘城は舌状台地や小高い丘の上のみに縄張りが行われた城であり、その丘城の麓に曲輪を設けたものが近世の平山城であるという見方もあるようです。

丘城(おかじろ)

犬山城

丘城(おかじろ)は、低い丘や小山に築かれた城を指します。

平山城以上、山城未満に分類される一方で、平山城にこの丘城が含まれることもあります。平山城が平城と山城の双方のエッセンスを取り入れた分類であれば、丘城はそこからより山城寄りになったもの。と解釈するのが納得感があるかもしれません。

丘城は山城と比べると地勢がやや緩やかでありながら、周囲を堀や土塁で囲んで防御力を高めた城です。

山城の特徴

  • 低い丘や小山に築かれているため、山城よりは地勢が緩やかで、攻略が難しいが可能性が高い。
  • 周囲を堀や土塁、石垣などの防御施設で囲んで、城の防御力を向上させている。
  • 主郭(本丸)や二の丸、三の丸などの区域が設けられ、城内には住居や倉庫、武器庫などの建物が配置されることもある。

代表的な丘城

  • 松坂城(三重県松阪市)
  • 尼崎城(兵庫県尼崎市)
  • 犬山城(愛知県犬山市)

丘城は、山城と平山城の中間的な特性を持ち、地形に合わせて防御力を高めたものです。平地に比べて自然の防御力が高いことから、戦国時代や江戸時代初期に多く築かれました。

水城(みずしろ)

高松城・展望デッキからの眺望

水城(みずしろ)は、水を取り囲むようにして築かれた城で、主に水堀や湖、川などの水域を利用して防御力を高める城を指します。

水城は、水の障壁を活用して敵の侵入を難しくし、城内の安全を確保するために構築されました。

水城の特徴

  • 水を取り囲むようにして城を築くことで、敵の侵入を難しくする防御策を取る。
  • 水堀や水路、湖や川を利用して防御力を高め、水の障壁を主要な防御手段とする。
  • 水の障壁により、敵が接近する際には舟や橋を通過しなければならず、攻略が難しくなる。

代表的な水城(日本三大水城)

  • 高松城(香川県)
    • 高松湾に面する島に建てられた水城で、水域を利用した自然の要素を防御に活かし、城内に堀や石垣が配置されている。
  • 今治城(愛媛県)
    • 瀬戸内海に面する島に位置し、城湖と呼ばれる水域が城を取り囲んでおり、海と結びついた防御の要素を持つ城。
  • 中津城(大分県)
    • 玄界灘に面した地に建てられた水城で、海を背景に水堀や石垣が配置されており、海との結びつきを強調した城。

水城は、水の障壁を活用した特異な城の形態であり、攻略が難しいことから防御力が高いとされています。また、水城が築かれた地域には水利や交通、防衛などの観点から独自の歴史や文化が育まれ、その遺構や環境も地域の特色を反映しています。

陸奥型城(むつがたじろ)

陸奥型城(むつがたじろ)は、主に東北地方の陸奥地域に見られる城の分類で、平地や低い丘に築かれ、土塁や竪堀(たてぼり)などを主要な防御手段としている城を指します。

陸奥地方は山岳地帯が多いため、山城や丘城と異なる特徴を持つ城が築かれました。

陸奥型城の特徴

  • 主に平地や低い丘に築かれ、急峻な地形を利用しない特徴がある。
  • 土塁や竪堀(垂直に掘られた堀)を活用して防御力を高める。竪堀は水をためることで敵を妨害する役割を果たす。
  • 門や土塁、堀などを配置して城内と外部を区切り、敵の侵入を防ぐ。

代表的な陸奥型城

  • 郡山城(福島県)
    • 陸奥地方に属する郡山市内に位置する城。平地に築かれ、土塁や竪堀が特徴的である。
  • 会津若松城(福島県)
    • 会津地方にある城で、城下町とともに土塁や堀が防御施設として用いられている。
  • 一関城(岩手県)
    • 一関市内に位置する陸奥型城で、平地に築かれた城の一例。土塁と竪堀が見られる。

陸奥型城は、山城や丘城と比べて地形的な特徴が異なり、主に平地に築かれた城です。地形の利点を生かし、土塁や竪堀などを活用して攻略を難しくしました。陸奥地方の歴史や文化において重要な要素であり、地域ごとの特色を示しています。

山岳城(さんがくじろ)

山岳城(さんがくじろ)は、山地や山岳地帯に築かれた城で、険しい地形や急傾斜を活用して防御力を高めた城を指します。

山岳地帯に立地するため、自然の地形を利用して攻略を難しくし、敵の侵入を防ぐための城です。

山岳城の特徴

  • 山地や山岳地帯に築かれるため、急傾斜や断崖絶壁を利用して防御力を高めた城。
  • 地形を利用して防御施設を設け、攻撃者の進入経路を制限し、攻略を難しくすることを重視。
  • 主郭(本丸)や二の丸、三の丸といった区域が、山地の地形に合わせて配置される。

代表的な山岳城

  • 伊豆大島城(東京都)
    • 伊豆諸島の大島に位置する城で、急傾斜な地形を利用して建設された山岳城の代表例。
  • 高遠城(長野県)
    • 信州型山城の代表例で、急峻な山の斜面に築かれており、自然の地形を最大限に活用した堅固な城。
  • 七尾城(石川県)
    • 能登半島に位置する城で、険しい山岳地帯に築かれた山岳城の一例。

山岳城は、その地域の地形に合わせて特有の特徴を持ち、攻略が難しくなることから防御力が高いとされています。自然の地形を最大限に生かして築かれたこれらの城は、日本の歴史や建築文化の一環として重要な存在です。また、山岳地域には地域ごとの特色や文化にも影響を与えており、その城の遺構や環境が地域の特徴を反映しています。

湖城(みずうみじろ)

湖城(みずうみじろ)は、湖や沼地を取り囲むようにして築かれた城で、水を利用した自然の防御施設を活用して防御力を高めた城を指します。

湖や沼地は、城の周囲を水域で囲むことで、攻略を難しくし、城内の安全を確保するための一手段として使用されました。

湖城の特徴

  • 湖や沼地を利用して城を取り囲むことで、敵の侵入を難しくする自然の障壁を活用。
  • 水域を利用して城内の防御力を向上させる。舟や橋などを通過しなければならないため、攻略が困難。
  • 城の中には堀や石垣、門などの防御施設が存在し、城内外をしっかりと区切っている。

代表的な湖城(日本三大湖城)

  • 松江城(島根県松江市)
    • 宍道湖のほとりに築かれた
  • 膳所城(滋賀県大津市)
    • 琵琶湖の湖畔に築かれた

湖城は、自然の水域を利用して城の防御力を高める一例であり、攻略が難しいことから防御性に優れているとされています。地域の地形や水系に合わせて建設された湖城は、その地域の歴史や文化を反映する重要な遺産となっています。

島城(しまじろ)

島城(しまじろ)は、海や川に囲まれた島を利用して築かれた城です。水域を利用して城を囲むことで、攻略を難しくし、敵の侵入を防ぐための城を指します。

島城は、自然の防御施設となる水域を利用しながら、城内に堀や石垣、門などの防御施設を設けることで、より堅固な防御を実現しています。

一般的に水城に分類されることが多いですが、築城した土地が完全に島であることが特徴です。

島城の特徴

  • 島を利用して城を築くことで、水を取り囲む自然の防御施設を活用。
  • 島の周囲に堀や土塁、石垣などの防御施設を設けて城の防御力を向上させる。
  • 島へのアクセスを制限し、攻撃者が舟や橋を通過しなければならないため、攻略が難しくなる。

代表的な島城

  • 高島城(長野県諏訪市)
    • 諏訪湖の中に築かれた
  • 丸岡城(石川県丸岡町)
    • 能登半島の沖に浮かぶ島に建てられている。周囲を海に囲まれた形状で、水域を取り囲む自然の防御を活かしている。

島城は、水を取り囲む自然の障壁を活用して城の防御力を高めることが特徴であり、攻略が難しいことから防御性に優れています。海や川に面する地域において、水域を利用した城の形態として重要な遺産となっています。

湖城と水城の違いについて

湖城と水城は、いずれも水を利用した城の形態ですが、特定の要素や築城の方法において違いがあります。

  • 湖城
    • 湖や沼地を取り囲むようにして城を築くことで、自然の水域を防御施設として活用する。
    • 周囲を水域で囲むことで、攻略を難しくし、城内の安全を確保するための防御手段とする。
    • 水域を利用した城の例として、鶴岡城や犬山城などが挙げられる。
  • 水城
    • 水堀や川、湖を利用して城を築くことで、水の防御を重要視する城の形態。
    • 水域を取り囲むだけでなく、城内にも水堀や水路を設け、水を有効に活用して城の防御を強化する。
    • 水を利用した城の例として、姫路城や彦根城などが挙げられる。

要するに、湖城は主に湖や沼地を取り囲むようにして築かれた城で、水域を城の自然な防御手段として活用することに焦点があります。一方で、水城は水を城の防御に積極的に利用しており、水堀や水路などを城内外に設けることで、水を取り囲むだけでなく城の内外に水の障壁を設けています。両者とも水を利用した城の形態ですが、その具体的な構造や築城のアプローチに違いがあります。

日本の多彩な城の形態

本記事では、多種多様な城の形態が、日本の地形や歴史的背景に基づいて築かれた様子を詳しく紹介しました。山城、平山城、丘城、水城、陸奥型城、山岳城、湖城、島城という個性的な城のタイプが、日本の地域ごとに異なる特色を持ち、その築城技術は日本の歴史と文化に大きな影響を与えました。

これらの城は、自然の地形や水域を巧みに利用しながら、攻略を難しくし、防御力を高めるための工夫が凝らされています。その結果、地域ごとに異なる城の形態が生まれ、それぞれが独自の歴史や文化を反映しています。これらの城は、日本の過去からの教訓や知恵を象徴し、今もなおその姿を通じて私たちに語りかけています。

また、城と自然の調和が見事に表現されたこれらの建築物は、美しい景観としてだけでなく、日本の文化遺産としても大切にされています。これからもこれらの城の姿を通じて、私たちは日本の歴史と文化に触れ、感銘を受けることでしょう。

今なお生きる遺構「鹿児島城」がすごかった〜数百数千の弾痕が語る西南戦争と歴史

鹿児島城

鹿児島を観光するなら一度は観ておきたい鹿児島城を巡ります。

鹿児島城

鹿児島城は、鹿児島県鹿児島市にあるお城。1601 年(慶長 6 年)頃、のちに初代藩主となる島津家久(第 18 代当主)が建設に着手した城です。山から平野にかけて城を築く「平山城」に分類されます。

別名
鶴丸城(つるまるじょう)
指定
国の史跡
日本100名城
築城年
1602年(慶長 7 年)
天守
なし。黎明館という鹿児島県の歴史資料センターになっています。
営業時間(黎明館)
9:00 〜 18:00(最終入館 17:30)
定休日(黎明館)
月曜日(祝日の場合は翌平日)
毎月 25 日(土・日・祝日の場合は開館)
12 月 31 日 ~ 1 月 2 日
日本100名城スタンプ
黎明館にあり。休館日の場合は西郷銅像前広場観光案内所にもスタンプあり。
禁煙・喫煙
黎明館入り口付近に喫煙所あり
アクセス
鹿児島市電 市役所前駅 から徒歩 6 分
鹿児島駅からタクシーで 3, 4 分程度
所在地
〒892-0853 鹿児島県鹿児島市城山町7−2

鹿児島城年表

  • 慶長 6 年(1601) 島津家久が鹿児島(鶴丸)城の築城を始める(1602年説あり)
  • 慶長 17 年(1612) 御楼門の柱立
  • 天保 14 年(1843) 御楼門の建て直し(1844 年説あり)
  • 明治 5 年(1872) 明治天皇行幸
  • 明治 6 年(1873) 鹿児島城本丸、御楼門が焼失
  • 明治 10 年(1877) 西南戦争、二之丸が焼失
  • 明治 34 年(1901) 第七高等学校造士館設立
  • 昭和 58 年(1983) 鹿児島県歴史資料センター黎明館開館
  • 令和 2 年(2020)御楼門復元完了

別名は「鶴丸城(つるまるじょう)」

鹿児島城は別名「鶴丸城」と呼ばれますが、背後の城山の形が鶴が舞っているように見え「鶴丸山」と呼ばれたことから鹿児島城も鶴丸城と呼ばれるようになったそうです。

御楼門(ごろうもん)

御楼門

鹿児島城といえば御楼門です。

大きく堂々とした門はとても迫力があり一見の価値ありです。(高さ約 20m, 幅約 20m)

御楼門

大扉は片側 5m × 2.5m で、片側だけで約 1.4 トンもあります。

大扉。片側 5 × 2.5m で、片側だけで約 1.4 トンもある

元々は本丸の正面中央に御楼門がありましたが、明治 6 年(1873年)の火災で焼失してしまったとのこと。今あるのは 2020 年に復元されたものだそうです。どうりで、めちゃめちゃ綺麗でした。

御楼門の内部

「御楼門のことをもっと知りたい!」

というひとは、御楼門の復元が完成した際の記念パンフレットを見てみてください。復元作業の様子とかも見ることができます。

御楼門復元完成記念パンフレット [PDF]

西南戦争の痕跡

鹿児島城の一番の見どころポイントといっても過言ではないのがこの「西南戦争の弾痕」です。

御楼門を抜けてすぐにあります。

西南戦争の痕跡

この石垣に開いている無数の穴は、明治 10 (1877) 年の西南戦争の際銃や砲弾の痕。

熊本・宮崎での戦いに敗れた西郷軍は、明治 10 年 9 月、故郷鹿児島の地に戻り、城山を中心に布陣し最後の決戦に挑みます。これに対し政府軍は約5万人の兵で包囲し、西郷軍に無数の銃・砲弾を浴びせました。 御楼門部周辺の石垣に残るこれらの弾痕からは、複数箇所から銃撃や砲撃が行われたことをうかがい知ることができ、この攻撃の凄まじさを今に伝えています。

ということで、この弾痕ですが、実際に見るとすごいですよ。これでもかっていうくらいに穴が空いてるんです。

石垣に空いた西南戦争の弾痕。本当に凄まじい。

こういう生きた歴史を目の当たりにできることはとても幸せなことですね。維持管理し守ってくださっている方々に感謝です。

小さい穴は銃痕なんでしょうね

西南戦争の痕跡 [PDF] - 鹿児島県資料

黎明館(れいめいかん)

御楼門をくぐり弾痕まみれの石垣を抜けると、雰囲気の良い道に出ます。

本丸へ続く道らしい厳かな感じ

ここを抜けると、鹿児島県歴史資料センター「黎明館」 があります。

鹿児島県歴史資料センター「黎明館」

黎明館は「鹿児島県歴史資料センター」と名のつく通り、歴史に関する資料が展示されています。

www.pref.kagoshima.jp

黎明館常設展示入館料

個人 団体
一般 410 円 300 円
高校生・大学生 250 円 150 円
小学生・中学生 150 円 80 円
小学生未満 無料 無料

黎明館パンフレット

常設展示の他に企画展も行われているので、その時にしか会えない貴重な歴史資料を見ることができるかもしれません。

黎明館けっこう広いです

(黎明館内は撮影禁止です)

聚珍寶庫碑(しゅうちんほうこひ)

黎明館の脇に「聚珍寶庫碑(しゅうちんほうこひ)」という不思議な石碑があります。

聚珍寶庫碑(しゅうちんほうこひ)

碑文のあらまし

地がはじめて開け、太陽と月がこの世に現れて、動植物が世界に広がった。神農(中国伝説上の皇帝)が現れて、多くの植物を薬と毒に区別した。

私(島津重豪, しまづしげひで)は、これまで日本各地や海外の珍しい物室を収集し、草木を栽培し、鳥や動物を飼育したが、それは自然界の真理を知ろうとしたためである。

年月を重ねるうちに、屋敷の中に宝石、古代の印章や瓦、陶磁器などが満ちてきた。長年の心を込めた収集は、将来その散逸を残念に思う人がいるかもしれない。

そこで宝物庫を荏原(えばら)郡の別荘(高輪藩邸内)に建て、収集品のうち特に優れたものを選んで収めた。そして、宝物庫の名前を「聚珍(しゅうちん)」とした。

百年の後にこの収集品を所有するものは、どうか散逸させることなく、永遠に保持してほしい。

島津家二十五代目当主で薩摩藩主であった島津重豪(しまづしげひで)の碑なんだそうです。照國神社に祀られている島津斉彬のひいおじいちゃん(曽祖父)にあたります。

江戸時代は中期から後期にかけての人ですが、ヨーロッパ文化に強い関心を持っていたとのことで、碑文を読む限り色々なものを収集していたんでしょうね。

昔からコレクター(収集家)は存在していたっていう、さりげなく重要な碑ですね。

天璋院篤姫像(てんしょういんあつひめぞう)

天璋院篤姫像(てんしょういんあつひめぞう)

これも黎明館の隣にあります。

篤姫といえば、NHK 大河ドラマにもなった有名な人ですね。

www.nhk.jp

激動の幕末、薩摩藩島津家の1万石の分家に生まれながら、徳川十三代将軍の正室になる篤姫。夫・家定の死後は出家して天璋院となり、自らの信念を貫き、江戸城無血開城に大きな役割を果たした“薩摩おごじょ”の波乱万丈の生涯を描いた。

篤姫さまって、すごい人なんですね。

西郷隆盛などが絡んだいわゆる「江戸総攻撃」の直前に、それを思い留ませ、江戸城無血開城へと導いた立役者は実は篤姫さまだったっていう。

大河ドラマが観たくなりました。

黎明館庭園

黎明館の裏手

黎明館の裏手には、ちょっとした庭園と昔の生活の様子を再現した家があります。

この池は御池(みいけ)と言われる池です。

御池(みいけ)

御池

島津氏第 18 代家久によって構築され、20 年間にわたって達氏の本城であった鹿児島城(鶴城)本丸の東南隅に、御池と呼ばれる池がありました。明治時代初めに廃城となり、その後、城跡には中学造士館や第七高等学校造士館が建てられました。昭和時代の初めごろ、七高のブール建設のため御池の石材の一部は鹿児島市の公会堂(現在の中央公民館で使用し、大部分のものは鹿児島市鴨池動物園の庭園に移設されていました。昭和 46 年 12 月、同園が平川へ移転のため、この石材は当時明治軽年記念として建設計画のあった黎明館の庭園用に鹿児から譲渡され、昭和 58 年この場所に復元しました。

大悲水(大悲とは仏の広大な慈悲心をあらわす)と刻まれた石をつたって水が流れるこの池には、九皐橋がかけられています。

九皐(きゅうこう)は、沢の深い所、深遠な所という意味で、中国最色の詩集である「詩経」に「鶴鳴 千九皐、聲聞 于野」とあります。鶴は、いかに奥深い沢で鳴いてもその声はどこまでも聞こえることから、賢人の評判は自然に遠くまで伝わるという意味です。

黎明館では、このような由緒ある池江戸時代の歴史を偲ぶよすがとして、偲び御池と呼ぶことにしました。

この庭園に建つ 2 棟の家は、「桶の間二つ家」と呼ばれるものです。

桶の間二つ家

樋の間二の家

この建物は、姶良郡肱川町下ノ赤水の海老ヶ迫家住宅を移したもので、建築の時期は天保年間(1830-44年)と伝えられている。

南北棟の「なかえ」と東西原の「おもて」が直角に接し、南側に前面を揃えている。

二つの棟が「樋の間」で連結された典型的な「樋の間二つ家」である。

この種の民家は、川内川流域から浴良部一帯に見られる。

なお、改造してあった部分は、移築のとき取りのぞき、梁の揺れを防ぐため補強工事を行い、樋の上に樹脂被覆鋼板を敷いてある。

案内板の通り、2 つの棟が連結している状態になっています。

南側が正面を向いている

樋の間二の家の間取り図はこんな感じ

樋の間二の家の間取り図

家に上がることはできませんが、中の様子を垣間見ることはできます。

樋の間二の家「おもて」の様子

こちらは「なかえ」の部分。土間があってそこまでは入ることができました。

樋の間二の家「なかえ」の様子

家の外には井戸もありました。

井戸

さすがに井戸の穴は塞がってしまっているようですね。

こんな感じで、黎明館の裏庭では、鹿児島城がまだ存在した当時の生活の様子も垣間見ることができました。

七高生久遠の像

七高生久遠の像

さて、庭園から黎明館の前に戻ってきました。

鹿児島城は廃城令でなくなり、城跡には中学造士館や第七高等学校造士館が建てられました。

そんな第七高等学校造士館も、昭和 25 年(1950年)には学制改革によってその歴史を閉じました。

この像は、そんな第七高等学校造士館の同窓生によって建てられたものだそうです。

七高生久遠の像

三体の像はそれぞれ「知」「情」「意」を象徴しているのだとか。

青春の一瞬を切り取ったこの像、いつまでもその輝きは色褪せないことでしょう。

鶴丸城二の丸跡

二の丸跡の案内板

じつは鹿児島城には、まだまだマニアックな見どころポイントたくさんあるんです。

黎明館の隣りにある「二の丸跡」は、今は県立図書館になっています。

二の丸跡に建てられた県立図書館

位置的にはこんな感じです。鹿児島城跡に黎明館が建っているとすると、その西側に二の丸跡、県立図書館があります。

黎明館案内図

鹿児島城のお堀

鹿児島城のお堀は高さはないものの、積まれた石の黒ずみや苔から、歴史を感じることができます。

鹿児島城のお堀

そんな鹿児島城の前の歩道では、石積みについての資料が、なんと実際の積み石と共に展示されているのでこれが結構面白いです。

展示「石積みの技術」

石積みの紹介板には、その積み方で積まれた石垣がどの辺にあるのかまで記してあるので、御楼門をくぐる前にここに来て場所をチェックしていくとよりお城を楽しめると思います。

歴史が確かにあったことを当時のままに知ることができる貴重な遺構

鹿児島城の石垣に空いた無数の銃・砲痕は実際に見てととても衝撃を受けました。

どれだけ激しい攻撃にあったかがこの石垣からイメージされて、当時の壮絶な戦いを感じました。

個人的にはこの石垣は一度は観ておくべきものだなって思います。お城は日本全国津々浦々巡っていますが、ここまで戦いの跡を残している石垣は初めてでした。

鹿児島城は天守こそありませんが、復元された御楼門は立派ですし、黎明館で鹿児島の歴史に触れることもできます。

鹿児島観光の際には是非行ってみてください。

鹿児島城

圧倒的なスケール美。水を纏いし青碧の城「高松城」

高松城

日本100名城、そして日本三大水城に数えられる「高松城」を紹介します。実際に行ってきた中でのおすすめポイントもぜひ参考にしてください。

史跡高松城跡(高松市立玉藻公園)

史跡高松城跡(高松市立玉藻公園)

高松城は、1587 年に豊臣秀吉から領地を与えられた生駒親正(いこまちかまさ)が築城した平城(水城)。1642 年には松平頼重(まつだいらよりしげ、水戸黄門で有名な水戸光圀の兄)が高松城に入っている。

当時は約 20 万坪(66万㎡)だったが、明治初期に外堀が埋め立てられ、それからも徐々に中堀の一部が埋め立てられたりしていき、現在は約 2 万 4 千坪(8 万㎡)が城跡として残っている。

現在、NPO 法人「高松城の復元を進める市民の会」によって天守閣復元の活動が行われている。 http://www.takamatsujyo.jp/album

指定
  • 国の重要文化財
  • 国の史跡
  • 日本100名城
  • 日本三大水城
別名
玉藻城(たまもじょう)
天守
無し(天守台展望デッキとなっている)
開園時間
西門 東門
春・夏 4 月・5 月 5:30 〜 18:30 7:00 〜 18:00
6 月・7 月・8 月 5:30 〜 19:00
9 月 5:30 〜 18:30
秋・冬 10 月 6:00 〜 17:30 8:30 〜 17:00
11 月 6:30 〜 17:00
12 月・1 月 7:00 〜 17:00
2 月 7:00 〜 17:30
3 月 7:00 〜 18:00
定休日
12 月 29 日 ~ 12 月 31 日
入園料
大人(16歳以上):200 円
小人(6歳以上16歳未満):100 円
無料開放日
年始無料開放:1 月 1 日〜 1 月 3 日
桜見物夜間無料開放:3 月下旬 ~ 4 月上旬(17:30~20:00)
一般開放記念無料開放:5 月 5 日
アクセス
琴平線 高松築港駅 から徒歩 1 分
JR 高松駅 から徒歩 5 分
駐車場
玉藻公園專用駐車場あり(無料・普通車 57 台)
所在地
〒760-0030 香川県高松市玉藻町2−1
  1. 玉藻公園リーフレット(PDF:839KB)
  2. 史跡高松城跡パンフレット(PDF:807KB)

www.takamatsujyo.com

高松城を巡る所要時間は?

高松城は、天守閣跡、桜御門、披雲閣などを全てをゆっくり見て回っても 1 時間 〜 1 時間半くらいの広さです。

天守閣跡のみ見る場合は、西門から入れば所要時間は 20 分程度です。

高松城の魅力は?

高松城の一番の魅力はなんと言っても天守閣跡にある展望デッキから眺める水と空の風景です。

そして、復元されたばかりの桜御門も迫力があります。

さらには、松平家の別邸である披雲閣、そして大きな黒松がいくつも並ぶ披雲閣の庭園と、他の城(公園)に比べて広さはないものの、見どころはそれなりにあります。

オススメコース

高松城を一番楽しめるコースは以下の順番で巡ることです。

  1. 東門(入園)
  2. 桜御門
  3. 披雲閣
  4. 披雲閣庭園
  5. 月見櫓
  6. 水門
  7. 鞘橋
  8. 天守閣跡
  9. 公園で休憩
  10. 西門(退園)

上記の順で巡ると行ったり来たりしなくて済むのと、クライマックスに向かって雰囲気と気持ちが高まっていけるのでオススメです。

とはいえまずはクライマックスへ

庭園や櫓はこの後で紹介しますが、まずはクライマックスである天守閣跡を紹介します。

天守台跡へ向かう通路

右手は公園になっていてベンチや喫煙所があり、休憩できます。

公園

上の写真右手に緑の建物が見えると思いますが、そこはもう西門です。

緑のテントっぽいところが西門

鞘橋(さやばし)

本丸へ通づる唯一の橋、鞘橋(さやばし)です。

鞘橋(さやばし)

鞘橋は、二ノ丸から本丸へ続く唯一の動線であり、この橋を落とすことによって本丸だけを守ることもできるようになっていました。絵図等によると高松城築城当時から同位置に橋が架けられていたことがわかります。当初は「らんかん橋」と呼ばれ、1640年代半ばの絵図でも欄干が描かれており、屋根のない橋でした。その後、文政6年(1823)の絵図では屋根付の橋として描かれており、江戸時代に改修が行われたことがうかがえます。現在の鞘橋については明治17年(1884)の天守解体時に架け替えられたものと伝わっており、大正期には橋脚が木製から石製に替えられたことが古写真から判明しています。

昭和46年(1971)には老朽化による解体修理がなされ、平成18年から開始した天守台石垣の修理工事に伴って本丸側の一部が解体され、平成23年に修理されました。橋の架かっていた石垣が修理されたことに伴って、解体前よりもやや全長が長くなっています。

鞘橋

鞘橋から、琴平線の高松築港駅のホームが見えます。

先に見えるのは高松築港駅のホーム

左手の眺めも水城って感じで良いです。

鞘橋左手の眺め

天守のを目指すべく、鞘橋を渡って行きます。

鞘橋

鞘橋を渡り切ると、大きな石垣が見られます。

石垣

右手に進んで行きます。

天守を目指して

そしてこの道を進むと、天守閣跡が見えます。

天守閣跡

高松城天守

高松城の天守はありませんが、天守閣跡が展望デッキになっています。

天守閣跡

階段を上って行くと、当時の高松城天守 地下一階の跡を見ることができます。

高松城天守 地下一階の跡

そしてさらに階段を上がっていくと、そこに圧巻の風景が現れます。

圧巻!日本三大水城の景観

階段を上がった先にある展望デッキからの眺めです。

展望デッキからの眺め

日本三大水城の名に相応しい、美しい景色がそこに広がります。

日本三大水城の風景

展望デッキはこんな風にしっかりと整備されているので、上りやすいと思います。

展望デッキの様子

入口は西門と東門の 2 箇所

高松城への入口は西門と東門の 2 つがあります。

入場口となる西門と東門の場所

電車やバスで行く場合は西門、車で行く場合は東門がそれぞれ近い入口になります。

基本的にはどちらから入っても見られるものは同じですが、オススメは東門から入って西門に抜けるルートです。

東門から入ると、桜御門を通って披雲閣など庭園に入り、そこから月見櫓などを回って最後に天守台跡に行けるので、順序的にはいい感じに回れます。(西門からだとこれが逆になります)

西門

天守閣跡だけ見たい場合は西門から入ればすぐですが、高松城の全てを堪能したいのであれば、東門から入って行くと一番楽しめると思います。

入園料を支払って中へ

西門にも東門にも料金所があるので、ここで入園料を支払ってから中に入ります。

西門の料金所

支払いを済ませると入園券がもらえます。(当日 1 回のみ有効)

入園券

桜御門

昭和 20 年の高松空襲で消失してしまった桜御門(さくらごもん)が、2022 年 6 月に復元されました。

桜御門

とても大きくて迫力があります。

桜御門

高松市が発掘調査や古い写真をもとに復元の研究を進め、消失から約 80 年の歳月を経てここに復元したということで、時間をかけて歴史的な城郭建造物を復元されたその完成度の高さが伺えます。

www.city.takamatsu.kagawa.jp

披雲閣(旧松平家高松別邸)

桜御門を通るとすぐに披雲閣(ひうんかく)があります。

披雲閣(旧松平家高松別邸)

披雲閣は、松平家の高松別邸です。

披雲閣(旧松平家高松別邸)

平成24年(2012年)7月9日重要文化財指定

松平藩時代にも、この地に披雲閣と呼ばれる広大な建物(現在の披雲閣の約二倍)があり、藩の政庁および藩主の住居として使われていましたが、明治時代に老朽化のため取り壊されました。その後、松平家第12代当主で貴族院議長も務められた松平頼壽氏により、3年の歳月と当時のお金で15万余円の巨費を投じて現在の披雲閣が大正6年(1917年)に完成しました。この豪壮な和風建物には142畳敷の大書院をはじめ、槙の間蘇鉄の間などの雅趣を生かした各部屋があり、波の間には昭和天皇、皇后両陛下がご宿泊になられたこともあります。 昭和29年(1954年)に城跡とともに高松市に譲渡されて、現在は会議茶会生花展などの会場として利用され、広く市民に親しまれています。

披雲閣 入口

落ち着いた、それでいて重厚感のある趣きが、歴史を感じます。

披雲閣は静かで重厚感のある雰囲気

また、披雲閣入口前はちょっとした庭園になっていて、有名な高松の松盆栽なども展示・販売があったりします。休憩もできます。

披雲閣前の様子

圧巻!披雲閣庭園

桜御門を抜け、披雲閣に向かって左手に庭園に入る入口があります。

披雲閣庭園への入口

松平家の高松別邸だけあり庭園がとても広いです。庭園は松をメインに整えられています。

披雲閣庭園

大書院

庭園を進むと大書院の方にも出られます

披雲閣 大書院側の庭園

大書院は 42 畳もある大広間で、3 部屋に区切っている襖(ふすま)や障子を外すと柱が 6 本残るだけになるそうです。現在でも茶会や展示会、挙式やコンサート等で使用されているとのこと。

大書院

銀閣寺型手水鉢

大書院の前には、京都市左京区の銀閣寺にある手水鉢を模した銀閣寺型手水鉢があります。

銀閣寺型手水鉢

幅・奥行きは約 1.5 m, 高さは約 2 m, 重さは約 11 トンもある大きな手水鉢。

手水鉢

趣きがありますね。

銀閣寺型手水鉢

槇(まき)の間

槇(まき)の間

披雲閣の各部屋は窓から見える景色に由来しており、ここ槇の間の北側の庭には槇の木が植えられているところからきているのだそう。

槇の間から見える槇の木(写真中央)

ちなみに、槇の間の2階は瀬戸内海の波が見えることから、波の間と名付けられているそうです。

こんな感じで、披雲閣の庭園には、深い緑の風景を味わうことができます。

披雲閣庭園

黒松の庭園

また、立派な黒松も沢山あって、力強い庭の風景も見どころです。

黒松の力強さ

庭園を出ます。

披雲閣庭園の外側通路

庭園を抜けてもなお、立派な黒松で彩られた通路が整備されていますが、この道の先に櫓があります。

通路

渡櫓(わたりやぐら)

渡櫓

この渡櫓には石垣の継ぎ足しが行われており、生駒家から松平家へ引き継がれた歴史を見ることができます。

石垣の継ぎ足し跡

右側が野面積みっぽいのに対して、左側は打込接っぽいですよね。

水手御門(みずてごもん)

水手御門

水手御門(みずてごもん)の先は海につながっています。

水手御門

船からこの水手御門を経て直ちに城内へ入れるようになっていたところから、この櫓は海手出入りの監視防備のための隅櫓であったとされています。

月見櫓(つきみやぐら)

月見櫓

月見櫓は、もともとは着見櫓と呼ばれていて到着を見る櫓。三重三階・入母屋造・本瓦葺。内部は4 本の柱が3 階天井まで伸びています。

月見櫓

また、ここから瀬戸内海を一望できて眺めも結構良いです。

月見櫓から臨む瀬戸内海

水門

水門

ここで水泳の訓練(昔は水練といったそう)が行われていたんだそうです。

鯛もたくさんいました。

水門には鯛がたくさん

また、浮かんでいる船は「玉藻丸」といって、実際に乗れるそうです。

玉藻丸 乗船体験

日本三大水城、ここに極まる。がしかし、魅力はそこだけに留まらない。

高松城天守閣展望デッキからの眺めは圧巻の一言です。

写真では収まりきらない圧倒的なスケールで視界に飛び込んでくる水と空の風景は実際に見ると目を奪われます。

高松城天守閣展望デッキからの眺め

それに併せて、復元されたばかりの桜御門や、披雲閣とその庭園と、高松城には天守こそ無いものの見るべき、触れるべき風景が多いです。きっと楽しめると思います。

特に桜御門は復元されたばかりなので、ピカピカ新品の御門ってそう見られる機会もないと思うので一見の価値ありです。

ゆっくり見て回っても 1 時間ほどで回れてちょうどよい広さであり、且つアクセスも抜群に良いので訪れやすいのもポイントが高いです。

香川県へ、高松市へ行ったらぜひ立ち寄ってみてください。

高松城天守閣展望デッキからの眺め

圧巻!高さ日本一の石垣を誇る「丸亀城」

丸亀城

「日本一高い石垣」があるという丸亀城に行ってきました🥳

丸亀城(まるがめじょう)

丸亀城

丸亀城は香川県丸亀市にあるお城で、石垣の高さが日本一なことで有名なお城です。

別名
  • 亀山城(かめやまじょう)
  • 蓬莱城(ほうらいじょう)
指定
公式サイト
https://www.marugame-castle.jp
最寄り駅
丸亀駅(GoogleMap
所在地
〒763-0025
香川県丸亀市一番丁

丸亀城へのアクセス方法はこちらから↓

www.ritocamp.com

私は丸亀駅から、行きはタクシーで行って、帰りは徒歩で丸亀駅まで戻りました。

外観

丸亀城に到着。日本一高い石垣を持つだけあって、かなり高い位置に天守があります。

丸亀城の外観

大手門

玄関口、大手門。

大手門

お堀に水が溜まっていますが、緑色。アオコの仕業かな。

お堀の水

先に見えるのが二の門です。

大手二の門

ニの門

丸亀城の二の門は高麗門(こうらいもん)形式の門、どっしり構えている感じが迫力があってかっこいい✨

大手二の門

二の門の脇の塀には狭間(さま)がありました。

狭間

三角の狭間は鉄砲狭間かな?

門を閉じていても大手門の外の様子を伺える

一の門

二の門をくぐるとすぐに一の門があります。

大手 一の門

玄関口ということもあり石垣の積まれ方がきれいですね。梁も大きくて迫力があります。

大手 一の門

では一の門をくぐります。丸亀城さま、失礼いたします。

一の門

大手門広場

大手門をくぐると大手門広場があります。

大手門広場

めちゃめちゃ広いですね。

ここ右手に行くと「番所長屋」や「丸亀市立資料館」へ。左手に行くと天守へ向かいます。

天守に行くには左に進む

また、この大手門広場には丸亀城内観光案内所もあります。

丸亀城内観光案内所(写真左)

私が来た時は 17 時前だったのでどこの施設も閉まっていました。残念。丸亀城に行くなら夕方より前が良いですね。

心臓破りの急斜面「見返り坂」

石垣の高さが日本一」ということは、天守に行くならその高さまで上がる必要がある。ということ。

この見返り坂は、丸亀城名物です。

見返り坂

「時々立ち止まって振り返りたくなる」くらい傾斜が急であることから「見返り坂」と呼ばれています。

結構先が見えない感じだと思いますが、その通りで結構距離もあります。

急勾配も上の写真だとわかりにくいですが、こちらは折返しまで見返り坂を上ってきて、上から下を撮ったところです。

見返り坂の折返し時点から

傾斜が急なのがよくわかりますね。

これ本当に上るの本当につらかったです笑(2, 3 分かかりました)

少なくとも、ベビーカーとか車椅子を押して上るのはオススメしません。

まだここの時点で見返り坂を全て上ってはいないのですが、ここまで上ると大きな石垣を間近で見ることができます。

大きな石垣!

本当に高いですね。すごい✨

20m 以上あるんだそうです。

日本一高い石垣

ということで、残りの見返り坂も攻略していきます。

見返り坂後半戦スタート

見返り坂はきついのですが、間近で見る石垣の大きさに圧倒されます。これは本当にすごいです✨

実物見ると迫力が全然違いますね。

とにかく大きな石垣に圧倒されます

ちなみに見返り坂の後半戦はこんな感じです。

上がりきったところからの様子

夏に行ったのですが、見返り坂を上りきった時点で汗だくになりました。

水分とタオルは必須です。(切実)

三の丸

見返り坂を上り切ると、三の丸です。

三の丸

三の丸

見返り坂を登ると三の丸である。海抜約五〇五メートルの平地で、東方左方)の眺めがすばらしい。飯野山(讃岐富士四二ニメートル)がそびえ、その手前に土器川が右南から北へ流れ、その北に青ノ山が横たわり、更にその北に遠するは坂出市番の州工業地帯と瀬戸大橋である。東南隅に巽櫓の跡がある。土器川の東と城の南方は旧高松藩領で、それを見張る櫓であった。月見にはよい位置であったから月見櫓とも呼ばれた。

三の丸にあった案内板

三の丸は広場になっていて、休憩もできるし、櫓跡があるので丸亀市を一望できます。

東櫓台跡

本丸までいけば最高の景色が見られるのですが、見返り坂を上ったご褒美として、一足先に東櫓台跡から景色を見てみましょう。

東櫓台跡からの眺め

丸亀市を一望できます。すごくいい景色ですね。

月見櫓跡

月見櫓跡

こっちは東櫓台の反対側にある月見櫓跡です。

月見櫓跡からの眺め

勤王碑

勤王碑

幕末から明治初めに活躍した郷土の勤王志士 土肥実光(大作)、村岡宗四郎が大正 8 年に贈位されたのを記念し、勤王志士遺烈表彰会が大正 12 年に建立した。

土肥大作は天保 8 年現城西町で生まれ、征討軍参謀を経て新治県(茨城県)参事在任中 明治 5 年 3 月、36 歳で死亡した。

村岡宗四郎は弘化 2 年魚屋町で生まれ、母は勤王家小橋家の息女。その影響で勤王に志し活躍中、慶応 3 年 1 月、22 歳で死亡した。

「尊王攘夷」「明治維新」というキーワードの中で丸亀城でも色々あり、その時の人らの記念碑みたですね。

延寿閣別館

延寿閣別館

延寿閣別館

麻布にあった丸亀藩京極家の江戸藩邸の一部を昭和八年(一九三三)に移築したもので、内部は大名家の生活がしのばれるよう昔のまま保存されている。

偉い人の昔の家(雑)

ちょっと話は変わりますが、

丸亀市の取り組みで「城泊」っていうプロジェクトが進められていて、この延寿閣別館を宿泊施設にする(2024年予定)っていうのが進んでたと思うんだけど、、

これこれ

www.coolkagawa.jp

でも見た感じ草ボーボーでただの怖い古屋敷と化していました笑

真夏に行ったから、ヤブ蚊とか大量に出てきそうで怖かったからこれ以上は近づけなかった。。

三の丸から見る石垣

三の丸から見る石垣も大きくて迫力ありました。

三の丸から見る石垣

この向こう側に二の丸がある。

ということで、天守に向かって進んでいきます。

三の丸を出て天守へ

二の丸

三の丸を抜けると、次は二の丸に出ます。

二の丸の様子

ここも今は広場になっていて、トイレや水場がありました。

怖い伝説が残る井戸

二の丸には、怖い伝説の残る井戸があります。

噂の井戸

二の丸井戸の案内板

二の丸井戸

この井戸は直径が一間(一、八メートル)、深さは絵図によると三十六間(約六五メートル)と記され、日本一深い井戸といわれている。丸亀城で最も高いところにあり、現在も水を湛(たた)えている。また、石垣を築いた羽坂重三郎が敵に通じるのを恐れたお殿様により、この井戸の底に入っている間に石を落されて殺されたという伝説が残っている。

丸亀城を築いた時に、

「どうだ!この高い石垣なら誰も上れないだろう!」

と息巻いたお殿様に対して、これを作った羽坂重三郎が

「いや、登れる方法ありまっせ」

って言って鉄の棒を使って登ってみせた。

「この方法(石垣の攻略法)が外に漏れたらまずい!」

としたお殿様がこの羽坂重三郎を井戸に…

っていうお話みたいです。

この中に羽坂氏が…

この井戸、今でも水が入ってるんですって。

井戸の中を覗いてみる

深いから底まで見えなかったです。

ということで、いよいよ天守に参りましょう。

いざ、天守へ!

本丸

本丸

本丸にやってきました

本丸の様子

本丸も広場になっていて、そこに天守があるような構成になっています。

本丸広場から丸亀市を一望

本丸にも櫓跡があって、そこから丸亀市を一望できます。

宗門櫓跡

本丸から臨む丸亀市

天守

いよいよ、天守との対面です。

丸亀城 天守

ついに、、ここまで登ってきた甲斐がありました✨

丸亀城の天守は、現存十二天守の1つですね。

しかしここで残念なお知らせが。。。

天守入館のご案内

この時すでに 17 時を回っており、天守の開館時間は終わっていました。

はるばる東京から来たというのになんてこと…😭

仕方がないので天守を外から眺めます。

天守の外観を楽しみます

天守の裏側にも櫓跡がありました。

天守の裏手

日本一の高さを誇る石垣を持つ「丸亀城」

石垣の高さ、どんなものかと思って来ましたが、実物は本当に巨大で、迫力がありました。

日本一の高さを誇る石垣

そしてその石垣を超え、天守へ行くための「見返り坂」は本当に心臓破りの坂道でしたが、それを乗り越えても見る価値のある石垣と天守だったと思います。

お城というのはその構造として「攻めにくい」が追求されていますが、こうして「高さ」を武器に築き上げた丸亀城。

これは難攻不落ですね。

日本一の高さを誇る石垣を持つ「丸亀城」

是非行ってみてください。

丸亀城

丸亀城への行き方(電車・徒歩・タクシー・車・無料駐車場)

丸亀城への行き方

香川県丸亀市にある「丸亀城」までの行き方をまとめました🥳

高松駅から丸亀城に電車で行く方法

高松駅

高松駅から行く場合は予讃線(よさんせん)に乗ります。

高松駅 改札口

予讃線

乗車時間は 35 分です。運賃は 560 円で、10 駅ほど電車に揺られます。

座席は 2 種類

丸亀駅に到着。

丸亀駅 構内

徒歩か?タクシーか?

丸亀駅から丸亀城へは、徒歩でも行ける距離です(15分くらい)。

散策しながら向かうなら徒歩もアリですね。通町商店街があったり(私が行った時はほぼシャッター閉まっていました)、古い建物があったりするので退屈はしないと思います。

通町商店街

まちの駅秋寅の館

ちなみに、タクシーだと一瞬で着きます

私は、行きはタクシーで丸亀城まで行って、帰りは散策しつつ徒歩で丸亀駅まで戻りました。

丸亀駅から徒歩で丸亀城へ向かう場合

丸亀駅の南口を出て丸亀城へ向かいます。観光案内所のある方が南口です。

観光案内所のある方が南口

丸亀駅南口の様子

丸亀駅からタクシーで丸亀城へ向かう場合

丸亀駅の北口・南口どちらにもタクシー乗り場があるので、そこからタクシーに乗れます。

タクシーの場合、北口出発で料金は 650 円で行けました

丸亀駅から丸亀城までのタクシー料金

帰りのタクシーをつかまえる

大手門前を通る京極通り(県道 21 号線)

大手門前を通る京極通り(県道 21 号線)でタクシーが来るか待ってみましたが全然来なかったので、丸亀城の前の道で流しているタクシーに遭遇できる確率は低いと思います。

つまり、丸亀城から丸亀駅までタクシーで帰りたい場合に、タクシーをつかまえられない可能性があります。

帰りでタクシーに乗りたい場合は、予めタクシー会社の電話番号をチェックしておいくと良いと思います。

電話して直接迎えに来てもらえば確実ですね。

以下は丸亀市のタクシー会社です。

車で丸亀城に行く

車で丸亀城に行く場合は、「どこに駐車場があるのか」「無料なのか有料なのか」が関心事になります。

以下は無料の駐車場で、丸亀城から近いです。

【無料】丸亀市立資料館 駐車場

丸亀城の敷地内に「丸亀市立資料館」があります。ここの駐車場に止めて丸亀城に行けます。

無料50 台程度駐車が可能ですが、駐車できる時間が決められています。

  • [4/1 ~ 9/30] 6:00 ~ 19:00
  • [10/1 ~ 3/31] 6:00 ~ 17:00

【無料】市民ひろば 駐車場

丸亀城の目の前にある「市民ひろば」にも駐車場があって、無料で駐車できます。

こちらも無料22 台が駐車できます。駐車可能な時間は 8:30 ~ 17:00 です。

有料駐車場もたくさんある

丸亀城周辺には有料駐車場も沢山あります。丸亀城の公式サイトに駐車場の情報が掲載されているので参考になります。

www.marugame-castle.jp

どの手段でもアクセスしやすい丸亀城

丸亀駅から離れていないので徒歩でも行ける。

駅にはタクシー乗り場もあるのでタクシーでも行ける(しかも料金も 1 メーター分)

自分の車で行く場合も、無料駐車場があるので助かる。(しかも場所も丸亀城の目の前とか敷地内とか)

丸亀城は非常にアクセスしやすいお城でした。

電車がメインの旅行のひとも訪れやすいと思います。

初めて丸亀城に行く人の参考になれば幸いです。

丸亀城

夏の旅行でお城観光。それちょっと待って!注意点とお城散策を快適に楽しむ方法

真夏でも快適にお城散策

お城巡り楽しいですよね

でもお城訪問は季節によっては予め準備したり注意点を把握していくとより快適に楽しめます。

今回は「真夏にお城巡りをする時の注意点とコツ」を 2 つ紹介します✨

1. お城散策用の服装に着替える

夏ってご想像の通り、どこにいてもめちゃめちゃ暑いですよね。

お城って基本的に「公園エリア」と呼ばれる、いわゆるお城全体、天守までの敷地を公園として開放しているエリアと、「天守閣」そのもの、つまり入城料支払って入る部分で構成されていることが多いですが、もちろんどこにも冷房はありません。(公園エリアはそもそも屋外ですし)

公園エリアには日陰がほとんどない所が多い

公園エリアに売店や食事処があればそこには冷房あるかもしれませんが、基本的にはそんな程度です。

つまり、

一通りお城を楽しんで出てきた頃には、汗で全身がびっしょりになります。

(石段を上ったり、天守閣の階段は急だし、本当にワークアウト状態。タオルだけじゃとてもじゃないけど足りない。)

天守閣の中も、窓の近くは風が入ってきて涼しいところもあるけど、基本的に冷房無いので暑いです。

旅行とかだとわりとお洒落してたりするじゃないですか。だから余計に暑いし、お洒落してても全てが台無しになります。(大量の汗が乾いて白くなったお洒落服なんて絶対に避けたいですよね)

それくらい、すぐに着替えたいくらいの汗の量が出ます。(タオルで汗を拭っていても、そのタオルが絞れるくらいの量が出ますよ、本当に。)

だから夏にお城訪問する時は、それ専用の服に着替えて、お城訪問後に別の服に着替えられるようにしておいた方が良いです。

ランニングする時の服装とか、T シャツ一枚にするとか、とにかく快適性を重視した服装が良いと思います。

2. 飲み物を持参する

真夏に高知城を照りつける太陽

めちゃめちゃ汗をかくので、水分補給が絶対に必要です。

ペットボトル 1 本は最低ラインで持っていくことをオススメします。

できればポカリスエットのような、水分補給に特化した飲料水がオススメです。

公園エリアは広いし日陰が無い事がほとんど。大抵は自動販売機が設置されていますが、欲しい時に近くにあるとは限りません。

もちろん天守閣には自動販売機は設置されていません。

脱水症状、熱中症対策のためにも、必ず道中で水分補給ができるようにしておきましょう。

真夏のお城訪問を快適に楽しむために

高知城

お城巡りが目的の場合は対策している人も多い極めて基本的な事ですが、ただの観光旅行においてプランの中にお城訪問を入れている場合には、こういった観点て結構抜けてしまうことが多いです。

だってお城に行き慣れてないんですから、こんなことになるってわからないですもんね。

真夏に上る石段はなかなかしびれます

真夏のお城訪問は本当にワークアウトです。真夏に炎天下でランニングするのと変わらないくらいで思っておいて間違いはないと思います。

でもきちんと対策すれば楽しく快適に楽しめるので、旅行でお城に行く時は着替えや飲み物を持っていって快適にお城散策を楽しんでください✨

姫路城

「現存 12 天守」とは?

現存 12 天守

現存 12 天守(げんぞんじゅうにてんしゅ)は、江戸時代以前に造られて現在まで保存されている天守のこと。「現存天守」「現存天守 12 城」などとも呼称される。

現存 12 天守一覧

現存 12 天守レポート ↓ www.ritocamp.com

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江戸時代時点では 170 以上の城があったはずなのに何故現在は 12 城しか天守が残っていないのか ↓

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日本百名城!川越城の史跡・遺構をめぐりで立ち寄りたいスポットまとめ

日本百名城!川越城の史跡・遺構をめぐりで立ち寄りたいスポットまとめ

川越城は埼玉県川越市にあり、日本百名城に数えられる名城ですが、その姿は残っていません。

「川越城に行ってみたい」

となった時は、街に散っている史跡・遺構を巡ることになります。

川越城跡

とはいえ、川越市内に散っている遺構は結構あるため、初めての人には少しハードルが高いかもなと何度か行って思いました。

ということで本記事では、現在巡ることのできる川越城に関するスポットをまとめました✨

川越城の史跡・遺構スポット

川越市内に点在している、川越城に関する史跡や遺構のスポットを地図にまとめました✨

(厳密には地図にまとめたもの以外にも細かいものがあります)

これらについて紹介していきます

川越城 本丸御殿

川越城 本丸御殿

川越城といったら、なんといっても本丸御殿。東日本では唯一存在している本丸御殿であり、日本全国でも高知城の本丸御殿とここ、川越城の本丸御殿で、現存している本丸御殿は 2 つしかありません。

川越城を巡るならマストの史跡です。

本丸御殿については、以下の記事で詳しく紹介しているので参照ください✨

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川越城本丸門跡

川越城本丸門跡

本丸御殿の脇にある遺構で、北門と土塁の跡が出土したところです。

左右の構造から門であったことがわかります

北門・土塁の案内板

北門・土塁

本丸御殿の北側には、土塁と堀が築かれており、本丸とニノ丸を隔てる北門が設けられていました。 発掘調査では、堀跡から粘士やローム等を何層にも重ねて叩き締めながら積み上げた版築層(はんちくそう)を確認しました。① ④ を見ると、版築層が2段になっていることが分かります。 また、大型の柱跡が 3 基見つかっており、「本城住居絵図」(光西寺蔵)に記された北門跡と想定されます。

川越市立博物館

川越市立博物館

本丸御殿(川越城跡)と、道路(初雁城通り)を挟んで相向かいにあります。写真では、左にある白い建物が美術館で、右に見える瓦の建物が博物館です。

川越市立博物館では川越市の歴史を展示していますが、その中で、川越城のことにも触れることができます。

また、川越市立博物館は川越城の二の丸跡に建てられています。

www.city.kawagoe.saitama.jp

霧吹きの井戸

霧吹きの井戸

霧吹きの井戸は、川越市立博物館の前にあります。

霧吹きの井戸 案内板

霧吹きの井戸

昔、川越城の片すみに、霧吹きの井戸と呼ばれる井戸がありました。 いつもは井戸にふたがしてあり、敵が攻めてきて城が一大事という時にこのふたをとると、中から霧がたちこめ、たちまち城を包み隠してしまったといわれています。 川越城は、こうした伝説から一名「霧隠城(きりがくれじょう)」とも呼ばれました。

霧吹きの井戸

川越城蓮池門跡

川越城蓮池門跡

川越城蓮池門跡も川越市立博物館の敷地内にあって、駐車場の隅っこにひっそりと石碑があります。

川越城蓮池門跡

川越城 中ノ門堀跡

川越城 中ノ門堀跡

川越城 中ノ門堀跡は、当時の堀の様子を見ることができる遺構です。

中ノ門堀跡

中ノ門堀のしくみ 案内板

中ノ門堀のしくみ

中ノ門堀は戦いの際、敵が西大手門(市役所方面)から城内に攻め込んだ場合を想定して造られています。西大手門から本丸(博物館方面)をめざして侵入した敵は中ノ門堀を含む3本の堀に阻まれて直進できません。進撃の歩みがゆるんだところに、城兵が弓矢を射かけ鉄砲を撃ちかけるしくみでした。また、発掘調査では城の内側と外側で堀の法面勾配(のりめんこうばい)が異なることがわかりました。中ノ門堀の当初の規模は深さ7m、幅18m、東側の法面勾配は60°西側は35℃でした。つまり、城の内側では堀が壁のように切り立って、敵の行く手を阻んでいたのです。 明治時代以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊される中、中ノ門堀跡は旧城内に残る唯一の堀跡となりました。川越城の名残をとどめるこの堀跡を保存してゆこうという声が市民の間から起こり、川越市では平成20・21年度に整備工事を行いました。

こうして高低差を作ることで攻めにくくしていたんですね。

中ノ門堀跡

中ノ門堀跡は民家と隣接しているので、静かに味わいたいところ。また、ベンチもあるので休憩もできます。

中ノ門堀跡の様子

こちらも、初雁城通り沿いにあります。

初雁城通り沿いにある中ノ門跡

川越城大手門跡

川越城大手門跡

川越城大手門跡は、川越市役所の前、市役所前交差点のところに石碑があります。

川越城大手門跡

川越城七不思議

本丸御殿の隣に「三芳野神社」という神社があるのですが、その敷地内に「川越城七不思議」が記載されたところがあります。

「川越城七不思議」と「とおりゃんせ発祥の地」の石碑

川越城七不思議 石碑

1. 霧吹き(きりぶき)の井戸

城中に苔むした大きな井戸があった。ふだんは蓋をしておくが、万一敵が攻めて来て、一大事という場合には、この蓋を取ると、中からもうもうと霧が立ち込めて、城は敵から見えなくなったという。そのため、川越城は別名霧隠城(きりがくれじょう)ともいわれる。

2. 初雁(はつかり)の杉

川越城内にある三芳野(みよしの)神社の裏には大きな杉の老木があった。いつの頃からか毎年雁の渡りの時期になると時を違えず飛んできた雁は、杉の真上まで来ると三声鳴きながら、杉の回りを三度回って、南を指して飛び去ったということである。そのため、川越城は別名初雁城ともいわれている。

3. 片葉の葦

浮島稲荷社の裏側一帯は、萱(かや)や葦(あし)が密生した湿地帯で、別名「七ツ釜」といわれていた。ここに生える葦は不思議なことに片葉であって、次のような話が伝わっている。 川越城が敵に攻められ落城寸前に、城中から姫が乳母と逃げのび、ようやくこの七ツ釜のところまでやって来たが、足を踏みはずしてしまった。姫は、川辺の葦にとりすがり岸にはい上ろうとしたところ、葦の葉がちぎれてしまい、姫は葦の葉をつかんだまま水底へ沈んでしまった。この辺の葦は、この姫の恨みによってどれも片葉であるといわれている。

4. 天神洗足の井水(みたらしのせいずい)

太田道真(どうしん)・道灌(どうかん)父子が川越城を築城するに当たって、堀の水源が見つからず困っていたところ、一人の老人が井水で足を洗っているのに出会った。この老人の案内によって水源を見つけた道灌は、かねての懸案を解決し、難攻不落の川越城を完成させることができたといわれている。かの老人の気品にあふれた姿に気がついた道灌は、これぞまぎれもない三芳野天神の化身であったかと思い、以来これを天神洗足の井水と名づけて大事にし神慮にこたえたという。

5. 人身御供(ひとみごくう)

川越城築城の際、太田道真、道灌父子は、三方(北、西、東)の水田が泥深く、築城に必要な土塁がなかなか完成せず苦心をしていたところ、ある夜龍神が道真の夢枕にたって「明朝一番早く汝のもとに参った者を人身御供(じんしんごくう)に差し出せばすみやかに成就する」と言った。道真は、龍神にそのことを約束をしたが、明朝一番早く現われたのは、最愛の娘の世稲(よね)姫であった。さすがの道真も龍神との約束を守れずにいると、姫は、ある夜、城の完成を祈りながら、七ツ釜の淵に身を投げてしまった。そののち川越城はまもなく完成したという。

6. 遊女川(よなかわ)の小石供養

むかし、川越城主にたいそう狩の好きな殿様がいて、毎日のように鷹狩りに出かけていた。ある日、供の若侍が小川のほとりを通りかかると、一人の美しい百姓の娘に出会ったので、名前をたずねるとおよねといい、やがてこの娘は縁あって若侍の嫁となったが、姑にいびられ実家に帰されてしまった。およねは自分の運命を悲しみ、夫に出会った小川のほとりで夫が通りかかるのを待っていたが、会うことができず小川の淵へ身を投げてしまった。やがてこの川を「よな川」と呼ぶようになったが、川の名は「およね」からきているとも、よなよな泣く声が聞こえるからともいわれている。

7. 城中蹄(ひづめ)の音

川越城主酒井重忠(さかいひでただ)は、不思議なことに夜ごと矢叫(やたけび)や蹄(ひづめ)の音に眠りをさまされていた。ある日、易者に見てもらったところ、城内のどこかにある戦争の図がわざわいしているとの卦(け)が出たので、さっそく土蔵を調べたところ堀川夜討の戦いの場面をえがいた一双の屏風絵がでてきた。この屏風の半双を引き離して養寿院に寄進したところ、その夜から矢叫や蹄の音が聞こえなくなったという。

川越明信館跡

川越明信館跡

江戸時代にあった剣道の道場の石碑のようです。

川越明信館跡

川越市立川越小学校のグラウンド側の道にあります。

川越城南大手門跡

川越城南大手門跡

川越城南大手門跡は、川越市立川越第一小学校の敷地内に石碑があります。

川越城南大手門跡 石碑

小学校敷地内ですので関係者立入禁止ですが、入り口のすぐ脇に石碑があるため、立ち入らなくても石碑を見ることができます。

川越歴史博物館

川越歴史博物館

川越歴史博物館では、川越城のことはもちろんのこと、武士や忍者の話なんかも展示されていて、よりディープな川越城の歴史を知るにはオススメのスポットです。

www.kawagoe-rekishi.com

川越歴史博物館

川越歴史博物館は、喜多院の隣にあるので、本丸御殿からは少し離れます。

といっても、徒歩で 15 分くらいです。

〒350-0055 埼玉県川越市久保町11−8 川越歴史博物館

川越城主 松平大和守家廟所(まつだいら やまとのかみ け びょうしょ)

川越城主 松平大和守家廟所

喜多院の本堂(慈恵堂)の裏手に川越藩主をつとめた松平大和守家の墓所があります。

松平大和守家について

江戸時代後期に川越城主であった松平大和守家歴代当主の墓所である。松平大和守家は、結城秀康(徳川家康の次男)の5男・直基(なおひと)を初代とする御家門(ごかもん)(徳川家の一族)の家柄で、代々大和守を名乗った。武家の名門・結城家を相続したことから結城松平家とも呼ばれ、越前松平家の一門でもある。

廟所概要

廟所は、東から霊鷲院(れいしゅういん)(5代朝矩(とものり))・俊徳院(しゅんとくいん)(6代直恒(なおのぶ))・馨徳院(けいとくいん)(7代直温(なおのぶ))・興国院(こうこくいん)(8代斉典(なりつね))、南に1基、建中院(けんちゅういん)(10代直侯(なおよし))の配置である。廟所の入口には亀碑(きふひ)(碑身部は欠失)、西に延びる石敷参道、廟所の門となる。

門を潜ると各廟前には家臣奉献の石燈籠が並ぶ(総数91基)。各廟の正面に石門を構え、内部に石燈籠と石碑(神道碑(しんどうひ))、墓塔である五輪塔という構成である。

廟所の造営期間は、5代の死去した明和5(1768)年頃から前橋へ転封となった慶応2年(1866)10月までの約100年間である。

廟所の特徴は、

  1. 喜多院内に造営されたため、敷地が限定されている
  2. 通常、各廟が独立するものが、5~8代廟はひと続きの同一基壇である
  3. 石塔・石碑・石門(真鶴産・本小松石製)が巨大で立派な作りである
  4. 間知(けんち)石積基壇の表面仕上げは大名墓としては珍しい「江戸切り」(周囲を一段彫り窪める)である
  5. 五三桐・三つ巴紋(霊鷲院・俊徳院・馨徳院)から三つ葉葵紋(8・10代)への家紋の変化が認められる

等である。これらの特徴は、松平大和守家の家柄や思想、時の政治情勢などが表われたものであり、間知石積基壇・石柵(玉垣)・基台・墓塔で構成された形は、近世大名墓としての完成形とすることができる。県内において造営当時の姿を留める数少ない例であり、歴史的にも貴重である。

松平大和守家廟所 案内板

松平大和守家廟所の様子

松平大和守家廟所は喜多院の敷地内にあります。見応えもあるので巡るのはオススメです。

ひとつひとつ、歴史を感じながらめぐる川越城跡

今回紹介したスポットをすべて徒歩で回る場合は、半日は見ておいたほうがよいと思います。

こうして各史跡や遺構が街に散っているところを見ると、それだけ川越城が広い敷地であったことが伺えますね。

当時の川越城図

石碑一つしかないところもありますが、博物館で歴史資料をインプットしつつ、当時の風景に思いを馳せつつ巡ってみてはいかがでしょうか。

川越城本丸御殿

オススメ!ここを見ると楽しい!川越城本丸御殿の楽しみ方・見どころポイントを紹介

川越城 本丸御殿 見どころ紹介 川越城の本丸御殿とその周辺史跡を巡ってきました🥳

今回は川越城本丸御殿のことを「何も知らない」「初めて行く」なんなら「お城にそんな興味あるわけじゃない」という人でも楽しめるポイントを紹介したいと思います✨

軽く前提知識みたいなのさらっと見つつ、オススメの楽しみ方・見どころを紹介します💕

川越城

川越城跡入り口

川越城は、長禄元年(1457年)に扇谷上杉持朝(おうぎがやつうえすぎもちとも)の命により、太田道真(どうしん)・道灌(どうかん)父子らによって築造されました。

戦国時代になると後北条氏が武蔵に進出し、天文15年(1546年)の河越合戦で北条氏康(ほうじょううじやす)は扇谷上杉朝正(うえすぎともさだ)に勝利し、以後川越城は後北条氏の支配下となりました。

天正 18 年(1590年)豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼすと、関東は徳川家康の領地となり、川越城には重臣酒井重忠(さかいしげただ)が配置されました。特に三代将軍家光の代、城主となった松平信綱は城を拡張し、本丸、二ノ丸、三ノ丸といった各曲輪(くるわ)等を構えた総面積 98,976 坪(約326,000㎡)余りの規模を持つ城郭になりました。弘化 3 年(1846年)、二ノ丸で火災があり、御殿が焼失したため、城主松平斉典(まつだいらなりつね)は 2 年後の嘉永元年(1848年)9月に御殿を本丸に再建しました。

明治維新を迎えると、川越城は解体が始まり、曲輪等は宅地や学校等に利用されましたが、御殿の一部は川越県庁や入間郡公会所といった公共施設に利用され、解体を免れたため、現在も東日本に唯一残る御殿建築として、また歴史ある川越の表玄関として威風を放っています。

川越城っていうお城はもう無くなっちゃって無いけれど、本丸御殿は残っていてそれを見られるっていうことなんですね

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明治以降の本丸御殿

明治になると、城としての役目を終え、本丸御殿をはじめとする多くの建物は移築・解体されました。明治4年(1871)、廃藩置県により川越県に続いて人間県ができると、川越に県庁が置かれ、本丸御殿の玄関と広間部分はその庁舎として利用されることになりました。また、この頃「広間」の南西側に建物が増築されましたが、これは南側にあった「大書院」などの部材を再利用して建てられたものと考えられます。

入間県はすぐに熊谷県、埼玉県と変わったため、県庁は移転し、本丸御殿は「入間郡公会所」として利用されました。大正7年(1918)には「専売局淀橋専売支局川越分工場」として煙草工場になり、昭和8年(1933)には「初雁武徳殿」として武道場になります。戦後は市立第二中学校(現川越市立初雁中学校)の仮校舎・屋内運動場として使われ、その後は再び武道場になります。

昭和42年(1967)には、大規模な修理工事を実施し、屋根の修理や間取りの復原を行い、現在のような公開施設になりました。

本丸御殿が屋内運動場になっていたっていうの驚き😲✨

あとでその形跡を見ることができます✨

川越城 本丸御殿

川越城本丸御殿

  • 開館時間: 9:00 〜 17:00(最終入館 16:30)
  • 休館日
    • 月曜日(休日の場合は翌日の火曜日)
    • 年末年始(12/29 〜 1/3)
    • 館内整理日(毎月第四金曜日、ただし祝日は除く)
  • 入館料
    • 一般 100 円(20 名以上の団体は 80 円)
    • 大学生・高校生 50 円(20 名以上の団体は 40 円)
  • 問い合わせ先
    • 川越市立博物館 049-222-5399
  • 所在地:〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目13−1

本丸御殿へのアクセスはこちらから

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弘化3年(1846)の二ノ丸御殿の焼失により造営された本丸御殿は嘉永元年(1848)に竣工しました。造営にあたっては、当時の城主松平大和守斉典が石高17万石を誇る大名であったことから、その格式にふさわしい威容を持つ御殿が造られました。巨大な唐破風を持つ玄関やその両脇に連なる櫛形塀などは、その象徴的な意匠とすることができます。

現在では玄関・広間部分と家老詰所など、その一部が残っているのみですが、その頃に描かれた「本城住居絵図」などを見ると、広大な御殿であったことがわかります。現在の本丸御殿の南には城主との対面の間を擁する「大書院」があり、その西側には城主の住まいなどの私的空間である「中奥」・「奥向」が連なっていました。 また、現在の本丸御殿から西に伸びる廊下には御殿内最大の居室である「御時計の間」や城主の食事を作る厨房があり、その最も西側に家老詰所がありました。

本城住居絵図

当時の本丸御殿はめっちゃ広かったんだね😲✨

川越城, 本丸御殿のすごいトコ!

  • 現存している本丸御殿は 2 つしかなくて、そのうちの一つがこの川越城の本丸御殿(もう 1 つは高知城の本丸御殿)
    • 東日本唯一の本丸御殿遺構
  • 埼玉県指定有形文化財
  • 川越城は鷹狩などでたびたび将軍の「御成り」があった記録があり、本丸御殿は将軍のための「御成御殿」であったと考えられている
  • 獲得済み称号
    • 日本百名城(No. 19)
    • 現存御殿
    • 埼玉県三名城
    • 関東七名城

本丸御殿のここを見ると楽しいオススメポイント

  1. 当時から映え狙い?!釘隠しに隠されたハート模様
  2. 家老たちの苦悩
  3. 当時のトイレのご様子
  4. ピタゴラスイッチ級!雨戸を固定する仕組みがすごい!!
  5. 由緒ある本丸御殿にまさかのボール跡

1. 当時から映え狙い?!釘隠しに隠されたハート模様

川越城本丸御殿に使われている「釘隠し」という、柱などに打ったくぎの頭を隠すためにその上にかぶせる飾りの金具があるのですが、

これみんな釘隠し

これらの釘隠しには、なんとハートマークが浮かび上がってるんです

釘隠しにハートマークが!

ね!すごいでしょ✨

ちなみに、、

現存している貴重な文化財なのにこれは一体どういうことなんでしょう🤔

当時にも「映え」とか「かわいい」なんていう要素があったんでしょうか🤔

本丸御殿内の展示物に、昔の釘隠しが展示されていました。

本丸御殿内の釘隠しの展示

明治 4 年に本丸御殿解体時に使われていた釘隠しですね。

これをよく見ると、、

昔使われていた釘隠し

葉を形どった釘隠しで、その隙間の部分がハートマークになっていたんですね✨

当時はハートマークなんてなかったと思うし意識すらされていなかったと思いますが、現代になってめちゃめちゃ映える釘隠しに化けました💕

ちなみにこのハートマークの釘隠しはどこかしこでも使われているので、本丸御殿内で探してみてください。微妙に形が違っていたりします✨

大広間の釘隠し

2. 家老たちの苦悩

本丸御殿には、家老詰所っていう、本丸御殿に勤務していた家老がいた建物があるんですけど、彼らはそこに、、、います。

何やら会議中の家老たち

神妙な面持ちで全く動かないんですよね…

なにかお悩みなんでしょうか。

会議中の家老たち

家老 A「うむ。。。殿のお戯れには困ったものじゃ」

家老 B「今日こそはどうにか食い止められないものじゃろうか」

家老 C「いっその事、門戸をすべて閉じて殿を御殿から出られなくしてしまったらどうだろうか!?」

家老 A「そんなことをしたら殿が憤怒して我々の子孫の将来がすべて閉じられるじゃろうよ」

家老 B & C「ですよねー」

家老たち会議中

というのは冗談ですが、人形がすごくリアルに作られているので、どんな話をしているのかその場で再現してみると楽しいですよ✨

ちなみにこれは何をしているのかというと、あの有名な「ペリー浦賀に来航」つまり、黒船が日本にやってきたことを受けて、当時の川越藩が警備を担当していた品川台場(今のお台場)の警備について話し合っている場面を再現したものだそうです📝

家老のお仕事

家老様方、ご苦労さまです。

「例の黒船、でかいらしいから砲もデカめがよくね?」「それな」

3. 当時のトイレのご様子

川越城本丸御殿には当時のトイレが残っていて(さすがにパーツは当時のと違う??)見ることができます。

当時のトイレの様子

めちゃめちゃシンプル

そして木製

男性小便器

ちなみに底には杉の葉かな?が敷き詰められていて、消臭とか飛び跳ね防止とかみたいです。

そこに葉が敷き詰められている

そしてこっちが男女用便器

男女用便器

T 字に組まれている木材は、あそこを掴むんじゃなくて、着物をそこに掛引っ掛けて用を足しやすいようにしていたのだそう。

てことはつまり、扉の方を向いて用を足すってことかな?

現代とあんまり形が変わらないっていうのなんかすごいですよね✨

4. ピタゴラスイッチ級!雨戸を固定する仕組みがすごい!!

川越城本丸御殿の雨戸たち

川越城本丸御殿の雨戸たち

この雨戸の下の方に、T 字の木材がくっついているのが見えるでしょうか

これこれ

雨戸についている謎の T 字の建具

これは雨戸を固定する、鍵的な役割を持っているのですが、この仕組が秀逸ですごいんですよ✨

この T 字の縦棒部分が横にスライドできて、左側に動かすと下にストンと落ちるようになってるんです。

T字建具の動き

下に下げた棒を窓枠側に掘られた穴に差し込むことで、雨戸が動かないように(鍵的な役割)できるっていう

窓枠側に掘られた穴

これよく考えられてるなって見た時感動しちゃいました💕

雨戸を閉める一連の流れ

当時はこんな風にして雨戸を固定していたんですね

風への対策とか侵入者への対策、とか、色々と役割を果たしてくれていたんでしょうね✨

5. 由緒ある本丸御殿にまさかのボール跡

記事冒頭の「明治以降の本丸御殿」にこんな一文があったのを覚えていますでしょうか

入間県はすぐに熊谷県、埼玉県と変わったため、県庁は移転し、本丸御殿は「入間郡公会所」として利用されました。大正7年(1918)には「専売局淀橋専売支局川越分工場」として煙草工場になり、昭和8年(1933)には「初雁武徳殿」として武道場になります。戦後は市立第二中学校(現川越市立初雁中学校)の仮校舎・屋内運動場として使われ、その後は再び武道場になります。

そう、本丸御殿は運動場にされていたっていうまさかの歴史がありましたよね😇笑

この時の名残を、大広間で見ることができます。

川越城本丸御殿 大広間

本丸御殿の大広間は、36 帖もある文字通り大きな広間なんですが、天井を見ると、、

大広間の天井

天井に黒くて丸い跡がいくつもついているのがわかりますか?

これ、「バレーボールの跡」なんだそうです笑

東日本唯一の現存本丸御殿の大広間にバレーボールの跡

左上あたりとか、がっつりバレーボールの跡ですよね笑

完全にバレーボールの跡だってわかるやつ

川越城本丸御殿、煙草工場になったり屋内運動場になったりと…結構踏んだり蹴ったりの歴史ですが、それ故残されてきたっていう経緯があるので、複雑な気持ちになりつつもそれもひっくるめて保存しているのが良いですね✨

コンパクトだけど見どころ結構たくさん!

川越城の本丸御殿は、解体さえた部分もあるためすべてが残っているわけではありません。

なので見学範囲も広くは無いので 10 〜 15 分もあれば一周できちゃうくらいかな?(あれこれ撮影したり吟味したりしてる私で 30 〜 40 分くらい)

でも見どころは紹介したように結構あって、こういうところを知ってから見学すると、より楽しめると思います✨

貴重な文化財ですが色々な扱いを受けてきたっていう、なかなかクセ強めな本丸御殿を是非楽しんできてください🥳💕

川越城本丸御殿

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これでもう迷わない!川越城 本丸御殿への行き方を詳しく紹介!

川越城 本丸御殿へ最短で行く方法

川越城 本丸御殿

川越城の本丸御殿て、駅からは離れているのでどうやって行ったらよいのかって色んなサイトを見てみても微妙にわかりにくいのですよね。

というのも、ここ川越には複数の観光バスが走っている上に、地元を巡回する路線バスも沢山あるため、特にバスで移動しようとすると知らない人は一気に情報迷子になります。

しかもバスって、乗るバスを間違えるとすごい遠回りになったり、最悪全然違う方向に行ってしまったりと、きちんと調べないと案外リスクの高い移動手段ですよね。(私、結構やらかします😇笑)

ということで、「車」「バス」「徒歩」での、川越城の本丸御殿への行き方をまとめました✨

基本情報

  • 開館時間: 9:00 〜 17:00(最終入館 16:30)
  • 休館日
    • 月曜日(休日の場合は翌日の火曜日)
    • 年末年始(12/29 〜 1/3)
    • 館内整理日(毎月第四金曜日、ただし祝日は除く)
  • 入館料
    • 一般 100 円(20 名以上の団体は 80 円)
    • 大学生・高校生 50 円(20 名以上の団体は 40 円)
  • 問い合わせ先
    • 川越市立博物館 049-222-5399
  • 所在地:〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目13−1

車で行く場合

車で行く場合は無料駐車場本丸御殿の前にあって、しかも結構広め(20台くらい止められたかも?)なので、そこを利用すると良いです🚙✨

無料駐車場の場所と駐車場への入口

GoogleMap で見るとどこが駐車場の入口なのかがわかりにくいのですが、初雁城通りから入れます。(そこ以外からの入り口は無いので注意)

電車で行く場合

電車で行く場合は、そこから徒歩で行くかバスで行くかになります。

東武東上線 川越駅で下車

川越駅からはバスか徒歩で向かいます。

バスで行く

バスもいくつか手段があります。選択肢としては、観光バスとして運行している「小江戸名所めぐりバス」「小江戸巡回バス」、地元を巡回する路線バス「川越 06 系統」の 3 つです。

小江戸名所めぐりバス

東口のバスターミナル 3 番(T1)のりばからバスに乗ります。

「小江戸名所めぐりバス」のりば

下車駅は T7 博物館前 です。

川越駅からのバスのルートと、下車駅「T7 博物館前」の場所

乗車時間は大体 18 〜 20 分くらいです🚌

降車駅名が「博物館」となっていますが、川越市立博物館&美術館の前に本丸御殿があるので、このバスであれば本丸御殿の前まで行くことができます。

時刻表などは以下の東武バスのパンフレットに掲載されているので確認してみてください。

[PDF] 小江戸名所めぐりバスパンフレット - 東武バス

小江戸巡回バス

西口のロータリー 2 番のりばからバスに乗ります。

「小江戸巡回バスのりば」は 2 番のりば

バスの系統が「C01」「C02」と 2 つありますが C01 に乗ります。

下車駅は E9 博物館・美術館前です。

川越駅からのバスのルートと、下車駅「E9 博物館・美術館前」の場所

こちらも小江戸名所めぐりバスと同様、本丸御殿の前まで行くことができます。

乗車時間は大体 20 〜 22 分くらいです🚌

小江戸名所めぐりバスに関する詳細情報は以下、運行元であるイーグルバスが出しているパンフレットPDF で確認できます。

また、時刻表は以下から確認できます。

実は最も確実!地元の路線バス

上記で紹介した「小江戸名所めぐりバス」「小江戸巡回バス」ですが、観光バスのため頻繁には運行していません。

なので、バスの発車時刻から逆算して川越駅に到着しないとバス発車までにかなり待たされることになります。

そこで最後の砦、運行本数が多いため実は最も確実なのがこれから紹介する地元の路線バス、東武バスが運行している「川越 06 系統」バスです。

東口のバスターミナル 7 番のりばからバスに乗ります。

7 番のりばの場所

川越 06 系統のバスはいくつか「○○行き」の表示が違うバスがあるのですが、どれに乗っても本丸御殿方面に行くので気にしなくて大丈夫です。

7 番のりばに停車する川越 06 系統のバス一覧

  • 上尾駅西口行き
  • 埼玉医大総合医療センター行き
  • 橘神社前行き
  • 川越運動公園行き

下車駅は 川越市役所前です。

川越駅からのバスのルートと、下車駅「川越市役所前(川越市)」の場所

乗車時間は大体 8 〜 10 分くらいです🚌

運賃は 190円(IC なら 189円)

観光バスではない分、色々な名所を巡らないので、乗車時間は紹介したバスの中では最短になります。

時刻表は以下、東武バスのオフィシャルサイトから確認できます。

川越 06 系統バス時刻表

バスは川越市役所までなので、そこからは徒歩で本丸御殿まで向かうことになりますが、一本道なので迷うことはありません。

川越市役所の前の通り(初雁城通り)をまっすぐ進むだけ

川越市役所から本丸御殿までは、徒歩で 10 分程度かかります。とはいえ、体感では散歩してたら着いちゃうくらいです。

しかも、途中に中ノ門堀跡があるので、一緒に立ち寄れてそれはそれで良きなルートだったりします。

川越市役所前(バス停留所)〜中ノ門堀跡〜本丸御殿ルート

川越城 中ノ門堀跡

徒歩で行く場合

川越駅から徒歩で行く場合は、30 〜 35 分は覚悟して歩くことになります。

しかもこの経路、観光スポット通らないから歩いててもあまり面白くないっていう。。笑

観光は「時は金なり」がとても重要になるので、徒歩はあまり勧めませんが、

「歩いて小江戸川越を堪能したい!それで本丸御殿へも行くんだ!」

っていう場合は、以下のルートがオススメ

川越駅〜クレアモール(商店街)〜蔵のまち(江戸の町並み)〜本丸御殿

のルートです。寄り道なしで 40 分のルートですが、これなら小江戸川越も堪能できます✨

迷ったら観光案内所へ!

本丸御殿に限らず「どういったルートでどこに行けば良いか」に迷ったら、川越駅にある観光案内所に行って聞いてみるのがオススメ✨

とても親切に教えてくれますよ✨

川越観光の情報ソースをゲット!

最後に、川越観光するならゲットしておくと便利なパンフレットを紹介します

[PDF] 川越散策マップ

川越散策マップは観光案内所でもゲットできます。これ持っておくと、観光スポットの大体の位置を把握できて便利です✨

[PDF] 川越駅バスのりば案内図

川越駅には結構バスのりばがある上に、東口と西口両方にバスのりばがあるので、慣れていないと迷いやすいです。

川越駅バスのりば案内図はパンフレットとして提供はしてないかもしれないので、予めダウンロード&プリントアウトしておくか、この PDF のページをスマホにブックマークしておくと便利です✨

その他、色々なパンフレットがあるので、以下で見つけてみるのも良いかもしれません🗾

koedo.or.jp

廃城令〜日本全国の城が急激に姿を消した日〜日本各地の城はなぜなくなったのかを短くまとめる

日本各地のお城が消えた理由

日本から城が消えた日

城が日本各地から一気に消えた出来事がありました。明治 6 年に発令された「廃城令」です。

戦国時代から江戸時代にかけて、日本各地には大小沢山のお城がありました。しかし現代では、有名な城しか残っていません。

現代では歴史的価値の高い城がどうして日本各地から消えたのか、廃城令を紐解きながら解説します。

廃城令

廃城令とは、明治6年(1873年)に明治政府によって発布された法令であり、全国の城郭を軍事的・政治的に不要なものとして破棄することを命じたものです。

全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(ぜんこくじょうかくそんぱいのしょぶんならびにへいえいちとうせんていかた)は、1873年(明治6年)1月14日に明治政府において、太政官から陸軍省に発せられた太政官達「全国ノ城廓陣屋等存廃ヲ定メ存置ノ地所建物木石等陸軍省ニ管轄セシム」の件および、同じく大蔵省に発せられた太政官達「全国ノ城廓陣屋等存廃ヲ定メ廃止ノ地所建物木石等大蔵省ニ処分セシム」の件の総称。陸軍が軍用として使用する城郭陣屋と、大蔵省に引渡し売却用財産として処分する城郭陣屋に区分された。単に「廃城令」、「城郭取壊令」または「存城廃城令」と略されて使用されている場合が多い。

全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方 - wikipedia

廃城令の目的と背景

廃城令は、明治新政府が近代国家の体制を整える過程で発布した法令です。その目的は、江戸時代までに全国各地に存在した城郭を、軍事的・政治的に不要なものとして破棄することにありました。

背景には、明治維新によって、武家社会から近代国家への移行が進められたことがあります。廃藩置県によって藩が解体され、城の軍事的役割が失われました。藩庁となっていたお城はこれによって、事実上役目を終えました。

そして、徴兵令によって近代的な軍隊の育成が進められ、西洋式の軍制が導入されたことで、城は不要になりました。

軍制と城

西洋式の軍制導入でなぜ城が不要になるのか。を少し掘り下げておきます。

戦国時代は、大名が城主であり、その城に所属する兵(合戦時に駆り出される地元の農民含む)がいました。つまり、「城ごとに管理されている兵」でした。

江戸時代までは、各藩の大名が自らの城を拠点として、城ごとに家臣団を抱えていました。彼らは、藩主に仕える武士であり、こちらも「城ごとの兵」だったと言えます。

一方、明治政府は、徴兵令によって国家規模での軍隊の編成を進めました。これは、特定の藩や城に属するのではなく、国家に直属する軍隊です。つまり、「軍としての兵」という性格を持っていました。

この近代的な軍隊は、西洋式の軍制を採用し、全国から集められた兵士によって構成されました。彼らは、国家の命令に従って行動する兵士であり、特定の城や藩との結びつきは薄れていきました。

こうした軍制の変化により、城は軍事的な拠点としての役割を失っていきました。城ごとに兵を抱える必要がなくなり、全国的な軍事システムの中で、城は不要なものとなっていったと言えます。

廃城令の内容

廃城令は、太政官布告第 16 号として発布されました。その内容は、以下のようなものでした。

  • 全国の城郭を、軍事的・政治的に不要なものとして破棄する。
  • ただし、歴史的・文化的価値のある城は、史跡や名勝として保存する。
  • 破却された城の石垣の石材は、他の建設事業に利用することができる。

廃城令の影響

廃城令によって、多くの城郭が取り壊しの対象となりました。江戸時代までに築かれた美しい城郭の多くが失われる一方で、明治政府が目指した中央集権国家の形成を象徴する出来事でもありました。

また、城の多くが破棄されたことで、城下町の景観も大きく変化しました。武家地の多くが姿を消し、町の中心部には官公庁や学校などの近代的な建物が建てられるようになりました。

廃城令の評価

廃城令については、文化財の破壊という側面で批判的な見方もありますが、明治政府の近代化政策の一環として、一定の評価もなされています。

城郭は、江戸時代までの封建的な社会構造を象徴するものであり、その破棄は、近代国家の形成に不可欠な過程だったと言えます。また、廃城令によって解体された城郭の石材が、道路や河川の整備など、近代的なインフラ整備に利用されたことも、一つの成果と言えるでしょう。

一方で、廃城令によって失われた文化財の価値は、今日でも再評価されるべき課題だと言えます。歴史的・文化的な観点から、城郭の保存と活用を図ることは、現代社会における重要な課題の一つと言えるでしょう。

ただし、藩の財政難により城の補修ができなかったり、城主の血筋が途絶え主が不在の城は荒廃し、近づくのが危険な城も多かったのも事実でした。こういった城を一斉に処分できたのもこのタイミングだったはずです。

やさしく読み解く時代背景

全国の城が解体されていった経緯には以下の時代背景があります。

  • 明治 4 年(1871年)廃藩置県によって藩庁となっていたお城が事実上役目を終える。
  • 明治 6 年(1873年)廃城令が公布。

廃城令は、「城を廃棄しろ」ということではなく「陸軍が使用するとしたものは残すけど、それ以外は廃城するから、土地から資材まですべて売り払え。」というもの。

また、残すとされた城についても、軍事目的で使用されることが前提。石垣は壊す堀は埋める、などあくまでも実用性を重視されたため、当時の姿を完全に残している城が極めて少ないのにはこういった時代背景があります。

このように廃藩置県・廃城令によって各地の城が廃城となりましたが、後にお城の文化的価値が見直されていき、現在のように後世に残す取り組みに変わっています。

川越城本丸御殿ってこんなトコ〜日本百名城 No.19 川越城 本丸御殿と周辺史跡めぐり

東日本で現存する唯一の本丸御殿 川越城本丸御殿

現存している本丸御殿はここ川越城の本丸御殿高知城の本丸御殿2 つのみ。非常に貴重な川越城本丸御殿を巡ります。

本丸御殿の歴史

川越城跡

江戸時代初期の川越城の姿は、17世紀後半に制作されたと考えられる「江戸図屏風」に垣間見ることができます。屏風には川越城として、本丸とニノ丸が堀で区画された 2 つの郭として描かれています。 川越城は鷹狩などでたびたび将軍の「御成り」があった記録があり、本丸御殿は将軍のための「御成御段」であったと考えられます。

元禄15年(1702)に写された「武州河越御領分明細記」には、「ニノ丸御屋形」とあるため、城主御段はニノ丸に置かれ、本丸に関する記述がないことから、本丸の御殿は解体されていたと考えられます。 江戸時代末の弘化3年(1846)、ニノ丸御髪が火災で焼失してしまいました。そこで、御殿を再建することになりましたが、当時空き地になっていた本丸が用地に選ばれ、嘉永元年(1848)、新たに本丸に面殿が建てられました。新しい本丸御段は建物の数16 棟、1,025坪にも及ぶ広大な建物で、城主の住まいだけでなく、城主が政務を行う場や家臣たちが常する部屋なども設けられており、文字通り城の中心となる建物でした。

ちなみに徳川家康は 8 回、徳川家光は 9 回、鷹狩で川越に来たと言われています。

外観

本丸御殿

正面はシンメトリーで厳かな佇まい。玄関が大きく迫力があります。

側面は北側、徒詰所や中ノ口のある側を撮影できましたが、とてもきれいで洗練されています。

御殿北側からの様子

こちらは御殿の北西側、正面に対して裏側からの様子。右手に見えるのは家老詰所。

北西側からの本丸御殿

玄関の脇には櫛形塀(くしがたべい)が見れます。

櫛形塀

玄関

玄関は大きくてとても立派です。

玄関の様子

巨大な唐蔵風屋根に間口 3 間の広い開口部と、八寸角の太い柱が、石高17万石の大名御殿にふされしい感容を感じさせます。

開口部めちゃめちゃ広かったです。

間口 3 間の広い開口部

ちなみに当時、この玄関を使えたのは殿様以上、つまり将軍のみ(藩主でも中ノ口から出入り)ということで、格式の高さが伺えます。

受付

受付

玄関を上がってすぐに受け付けがあり、大人は入館料 100 円を支払って本丸御殿へ入ります。

受付でもらえる入館券とパンフレット

本丸御殿館内

現在の川越城本丸御殿はこのような構成になっています。ゆっくり見て回っても 20 〜 30 分くらいの内容。

本丸御殿館内案内図

廊下

廊下

座敷部分を取り巻く廊下は、場所によって床の材質が異なります。玄関のある東側部分及び中ノ口部分はケヤキ、南側から西側の広間西側部分にはツガ・マツが使われています。これは、御殿内の公的空間と私的空間を区別して材種を変えたためと考えられます。

床はしっかりしていて痛みは全く見られなかったです。しかもきれい。これも保存に努めてくださっている方々のおかげですね。

ただ、冬は床が冷たく足が冷えるので、ゆっくり見て回りたい場合は自身でスリッパなどを持ってきた方がよいかもしれません。(履物の提供はありませんでした)

廊下

静かに佇まう。そんな言葉がぴったりの雰囲気でした。

使者の間

使者の間

使者って「使い番をつとめる武士」の意?御用聞きみたいなものでしょうか。そういった人たちが待機する場所だったのかな。

欄間が結構モダンな感じですよね。襖には竹の絵。

欄間と襖

使番詰所

使番詰所

使番(つかいばん)とは、江戸幕府および諸藩の職名。古くは使役(つかいやく)とも称した。その由来は戦国時代において、戦場において伝令や監察、敵軍への使者などを務めた役職である。これがそのまま江戸幕府や諸藩においても継承された。

使番 - wikipedia

伝令が待機する場所ということかな。江戸時代における「使番」には役人の監査のひとを意味していたみたい。

こちらの襖にはキジ?の絵が描かれていました。

襖にはキジの絵

老体・番抜詰所

番抜・老体詰所

「番抜」は、事実上現役を退いたようなひとのことを指すそうです。以前はそこそこ偉かった、年齢とかで前線を退いたが一定の影響力を持つ(つまり偉い)ひとたちがここに部屋を与えられていたのかな。

この部屋の襖には絵が描かれていないですね。とても質素な造りです。

老体・番抜詰所はシンプル

物頭詰所

物頭詰所

「物頭」は「足軽頭」の意味みたい。兵でも少し偉い人のこと。現代的にいえば軍曹みたいな人のための部屋なのかな。

ここも特に装飾はなくて、もてなしというよりはやはり使える者のための部屋だったのが伺えます。

物頭詰所もシンプル

中庭

廊下

廊下を進んだ先に中庭があります。

中庭

ここも昔は「大書院」という大きな建物があったそう。

現在の本丸御殿の南側には「大書院」と呼ばれた目大な建物が建っていました。書院は明治初期に解体されてしまいましたが、本丸御殿南端の柱群には書院の部材が入れられていた「ホゾ穴」などの痕跡が残っています。

庭はよく整備されていてきれいでした。こういう風景って落ち着きます。

中庭

明治棟(第 1 展示室)

日当たりもとても良いですね

中庭沿いの通路を進んでいくと、明治棟(第 1 展示室)があります。(その先はトイレ)

明治棟(第 1 展示室)

この建物は明治29年に描かれた「三芳野神社境内図」に姿が見られるため、明治初期に建てられたものと考えられます。本丸御殿が入間県庁や入間郡公会所として利用されたため、その附属施設として使用された可能性があります。平成20年度の修理に伴う解体によって、「大書院」など同時期に解体された本丸御殿の部材の一部が天井裏に転用されていることが確認され、古材が使用されている部分はそのまま保存し、柱などの一部を交換して補強しました。

ここは明治時代に作られた部屋なんですね。だから明治棟なのか。

ここには、本丸御殿の保存修理工事の様子が展示されていました。

川越城本丸御殿保存修理工事の様子を展示

川越城本丸御股保存修理工事

昭和42年に実施された修理から約 40 年の月日が経ち、本丸御殿には雨漏りや壁のひび割れといった建物の痛みが目立つようになりました。そのため、平成 20 年 10 月から約 2 年半をかけて「川越城本丸御殿保存修理工事」が行われました。 この保存修理工事は、建物を一度管組みだけの状態に解体し、補修や補強を施しながら解体前の姿に戻す「半解体修理」という方法で行いました。修理に際しては、木造建築であり、文化財建造物であることを踏まえ、伝統的技術と現代の構造補強を両立できるように取り組んでいます。また、木材は腐朽部分のみを除去して新材を埋め込んだり、瓦は一枚ずつ点検しながら再利用できるものを選別したり、壁士は屋根に葺(ふ)かれていた土を配合してつくるなど、建築当初から残る部材は可能な再利用し、新規材は必要最小限の交換としました。 この展示室では、保存修理工事の様子をお伝えしながら、木造建築の魅力を感じていただける内容といたしました。

できる限り「当時のまま」を保てるようにの配慮と、現代技術を以て修理に当たったのですね。それを可能にする日本の建築技術はすごいと思います。

交換した南側鬼瓦

今回の工事で交換した大棟(おおむね)南側にあった鬼瓦です。 建築当初は南側に「書院」が続いていたので、鬼瓦はありませんでした。瓦表面の風合いが北側の鬼瓦に似ていることから、書院が解体された際に、鬼瓦が必要になったため、旧本丸御殿のいずれかの建物で使用されていたものを置いたと考えられます。

建築当初の屋根下地

建築当初は「土居葺(どいぶ)き」と呼ばれる屋根下地でした。これはサワラ材を短冊状に薄く切った板を重ねるもので、大変手間のかかる下地でした。

明治棟を出て先に進んでいきます。

廊下の静かな雰囲気

坊主当番詰所(第 2 展示室)

坊主当番詰所(第 2 展示室)

江戸時代では「坊主」は「僧侶」を意味していたみたい。

お坊さんの部屋だったってことかな。

今は第 2 展示室になっていて、資料が展示されています。

坊主当番詰所(第 2 展示室)の様子

川越城本丸御殿の紹介板

川越城本丸御殿

弘化3年(1846)のニノ丸御殿の焼失により造営された本丸御殿は募永元年(1848)に竣工しました。造営にあたっては、当時の城主松平大和守斉典が石高17万石を誇る大名であったことから、その格式にふさわしい威容を持つ御殿が造られました。巨大な唐破風を持つ玄関やその両脇に連なる櫛形などは、その象徴的な意匠とすることができます。 現在では玄関・広間部分と家老詰所など、その一部が残っているのみですが、その頃に描かれた「本城住居絵図」などを見ると、広大な御殿であったことがわかります。現在の本丸御殿の南には城主との対面の間を擁する「大書院」があり、その西側には城主の住まいなどの私的空間である「中奥」「奥向」が連なっていました。 また、現在の本丸御殿から西に伸びる廊下には御殿内最大の居室である「御時計の間』や城主の食事を作る厨房があり、その最も西側に家老詰所がありました。

本城住居絵図

川越城本丸御殿 年表

日本百名城スタンプ

釘隠し

坊主当番詰所と明治棟の間にある中庭

静かな時間が流れる中、ゆっくりと見て回れます。

落ち着く雰囲気の中で、ゆっくりとした時間が流れます。

また、坊主当番詰所・家老詰所・広間裏の廊下に囲まれた中庭も、良い雰囲気です。

家老詰所と大広間裏の廊下の間にある中庭

家老詰所

家老詰所は藩の政治を取り仕切った家老たちが常駐する場所。

家老詰所 案内図

本丸御殿に勤務していた満の家老が詰めていた建物です。江戸時代、落主は参勤交代があり、実質的には家老が落政を行っていました。この建物は明治初期に解体され、現ふじみ野市の商家に再築されていましたが、昭和62年に川越市に寄贈され、現在のところに移築されました。

廊下

記録方詰所

記録方詰所

中庭方面の廊下に、いい感じに陽が当たってめちゃめちゃ雰囲気よかったです。

中庭方面の廊下とその景色

年寄詰所

家老詰所

家老詰所にいる人形は、黒船来航を受けてお台場の沿岸警備をどうしていくかの話し合いの様子を再現したもの。

川越藩と江戸湾警備についての相談

雨戸と当時の施錠・固定機構

雨戸と当時のロック(施錠・固定)機構

雨戸の施錠・固定についてはこちらでくわしく解説しています。なかなかに秀逸です。

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便所

通路の先に便所

便所は通路を挟んで両側に、全く同じものが 2 つありました。

本丸御殿は多くの人が集まる建物であるため、便所は御殿内の各所に設けられていました。多くの建物から突出する形で設置されましたが、家老詰所のように建物内に設置されたものもありました。

当時は木製で作られていた

男性小便器に杉の葉?が置かれているのは、飛び跳ね防止とか消臭とかの役割があったみたい。

家老詰所を出て先に進みます。終わりも近いです。

家老詰所を出て中ノ口へ

中ノ口

中ノ口(写真左奥)

正面玄関に比べて間口 2 間半の一回り小さな規模の玄関です。屋根は当初千鳥風であったと考えられ、現在の流れ屋根は昭和 42 年の修理の際につくられました。 当初は、北側に1間分長く突出しており、正面同様階段と式台もあったと推測されています。

玄関は将軍専用だったから、藩主含め、みんなここから出入りしていたということですね。(勝手口的な?)

正面から撮れてなかったので一応補足しておくと、ここが中ノ口です。

中ノ口

また、ここには川越城跡の模型も展示されていました。

空から見た川越城跡の模型

徒詰所(かちつめしょ)

徒詰所

徒士(かち)は、江戸幕府や諸藩に所属する徒歩で戦う下級武士のことである。近代軍制でいうと、馬上の資格がある侍(馬廻組以上)が士官に相当し、徒士は下士官に相当する。徒士は士分に含まれ、士分格を持たない足軽とは峻別される。戦場では主君の前駆をなし、平時は城内の護衛(徒士組)や中間管理職的な行政職(徒目付、勘定奉行の配下など)に従事した。

徒士 - wikipedia

護衛が待機する部屋ってことかな。

玄関に出やすいし、正面に位置していることから、外の状況がわかりやすい位置ということでここに作られたのかもしれませんね。

窓も多くて外の状況を確認しやすそう

広間

広間

36 畳の広さを誇る。御殿内で 2 番目に大きかった座敷で、来客が城主のお出ましまでの間待機した部屋と考えられている。城主との対面は南側にあった「大書院」でおこなわれたようです。

襖には松が描かれていて、一番豪華です。

襖には松が描かれている

釘隠しも豪華

釘隠しも豪華

また、広間には紫裾濃威鎧(むらさきすそごおどしよろい)という鎧が展示されていました。

紫裾濃威鎧(むらさきすそごおどしよろい)

そしてこちらは、室内運動場として使われていたころの名残。天井にバレーボールの跡が残っています。

天井にバレーボールの跡

歴史的価値というのは、やはり時間の経過と共に理解され見直されていくものなのでしょうね。

現存している本丸御殿はここを含めて 2 箇所しかありませんが、バレーボールの跡がついているというのはなかなかにユニークです。

そして、

広間の前が玄関のためここで一周。見学終了となります。

広間の前は玄関

東日本唯一の現存本丸御殿「川越城本丸御殿」

現存している本丸御殿は川越城の本丸御殿と高知城の本丸御殿の 2 つのみ。

非常に貴重な史跡です。

また、御成御殿にふさわしく大きな玄関や広間も必見です。

ぜひご自身で歴史を体感してみてください。

(今回の見学時間:40 分)

川越城本丸御殿


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高知観光にオススメ!デキる男によって築かれた「高知城」昼は威風堂々と、夜はライトアップでお洒落に。

高知城

「日本 100 名城」「現存 12 天守」「日本に 2 つしか現存していない本丸御殿」として、めちゃめちゃ貴重な歴史的建造物「高知城」に行ってきました🥳✨

高知城

高知城

  • 別名:鷹城(たかじょう)
  • 指定:
    • 日本 100 名城(No.84)
    • 日本三大夜城
    • 現存 12 天守
    • 四国八十八景 27 番
  • 本丸御殿が現存しているのはこの高知城と川越城のみでとても貴重な遺構
  • 城全域は高知公園として無料で開放
    • 天守および本丸御殿(別名「懐徳館」)への入館は有料

kochipark.jp

〒780-0850
高知県高知市丸ノ内1丁目2−1

高知城ができた経緯

高知城ができた経緯は wikipedia を要約するとこんな感じ📝


山内一豊(やまうち かつとよ)っていう武将が江戸時代になって桂浜近くの浦戸城に入ったんだけど、城下町を形成しにくい場所だった(狭かったらしい)ため、今の高知城がある大高坂山(おおたかさかやま)の上にお城を建てようってなって建てたのが高知城。

ただし、大高坂山にはそれ以前からお城があったとされているんだけど、水はけが悪かったため廃城になった歴史があった。

高知城の築城に際して、水はけの問題を解決するために、石垣技術に優れた近江穴太衆を配下に持ち、築城技術に優れていた百々綱家(旧織田秀信家老)を召喚してこれを解決、築城に当たらせた。

百々綱家は関ヶ原の戦いで罪人になって京都で謹慎させられていたんだけど、山内一豊が徳川家康に懇願してこれを実現させた。


山内一豊って優秀な武将だったんだろうね😲✨

「デキる男」山内一豊

高知城がある高知城公園の入り口には、山内一豊の銅像も設置されています

山内一豊像

銅像下の案内板には、山内一豊に関する説明もありました。

土佐藩初代藩主山内一豊は、天文14年(1545)生まれ。13歳の時尾張国(愛知県)岩倉城主・織田伊勢守信安に仕えていた父が戦死し、母や幼い兄弟とともに流浪した。

天正元年(1573)豊臣秀吉に従って織田信長の朝倉浅井攻めに出陣して武功を上げた。以後も秀吉の麾下として各地の戦いに参加し、次第に頭角をあらわして近江国(滋賀県)長浜2万石の城主から、天正18年(1590)小田原攻めののち遠州(静岡県)掛川5万石を領した。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの功績により、土佐一国24万石を与えられて翌6年入国、高知城の築城と並行して城下町を整備し、現在の高知市の基礎を形作った。

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と三代の天下取りの間を生き抜いて出世したただ一人の武将といえる。

慶長10年(1605)9月20日没。61歳。

すごい人だったんですね✨

銅像の表情を見ると、凛々しい感じがデキる男感を演出していました。

「デキる男」山内一豊

高知城へ

高知城の基礎知識も入れたところで、早速高知城へ。

高知城はそのエリアを「高知公園」として無料で開放しています。

高知城入り口

高知市の中心にそびえる大高坂山(標高44.4m)にあって、天守閣からは市街地のほぼ全容が眺められます。現在は県立高知公園となっています。

高知城は、関ヶ原の戦の功で遠州掛川6万石から土佐24万石に封じられた山内一豊が、慶長6年(1601)から築いた城です。人夫は毎日1,200人から1,300人を動員し、資材は近隣から集め、瓦は大阪から取り寄せ、一豊は一日おきに浦戸から工事の督励のために現場におもむきました。慶長8年(1603)には本丸と詰門・太鼓櫓が完成し、一豊は同年8月に入城しました。享保12年(1727)には大火にあい、追手門ほか数棟を残して焼失しましたが、2年後に再建に着手し、24年かけて復旧しました。これが現在の高知城です。天守閣と追手門がそろって残っていることや、全国で唯一本丸内の建造物がほぼ完全な形で残っていることなどから、城郭史上極めて貴重な遺構です。これらを含めて15の建造物が国の重要文化財の指定を受けている他、敷地は高知城跡として国の史跡に指定されています。

追手門から東にのびる追手筋には毎週日曜日に日曜市が開催されます。この街路市は元禄3年(1690)から続く長い歴史を持っています。市の開設場所は何度かの変遷があり、追手筋で開かれるようになったのは昭和23年のことです。ここでは農産物を中心に海産物や日用品など600軒余のお店が1km以上にわたって並んでいます。

高知城、高知公園の玄関口となっている「追手門」がすごく立派です。ここから天守も見えてお城に来たぞっていう感じがします✨

追手門と天守

ちなみに、追手門と天守が一枚の写真に収められるのは高知城のみなんだそうです。

もっと言うと、江戸時代のお城で「追手門」と「天守」が揃って残っているのは 3 箇所しかないそうです。

さて、

追手門の手前には高知城のマップがあります。

高知城はけっこう広いので、「どこに何がある」とか「トイレの場所」とかは予め確認しておくと迷わなくて良いです

高知城マップ

喫煙所もここだよって丁寧に案内板が出ていました

高知公園内の喫煙場所マップ

追手門

追手門

高知城の表門です。

追手門

慶長年間創建、寛文4年(1664)に再建されたもので、当城では珍しく大きな石を積んだ石垣で枡形を構成し、内部が見通せないように右側に建てられた城の正面である。

重層で入母屋造り、その木割りは太く堂々とし、欅を用いた主柱や扉、冠木などには要所に銅製の飾り金具を取付けている。その規模が大きく、城門として豪壮優美な趣を備えている。

追手門めちゃめちゃ大きいし、案内の通り重厚感すごいです。

追手門

追手門の反対側も大きな梁が見て取れて、まさに「威風堂々」堂々とした門構えです。

追手門をくぐったところ

広場には観光案内所やトイレ

追手門をくぐるととても広い広場があります。

追手門を抜けた先の広場

この広場にはトイレの他、観光案内所もあります。

観光案内所・トイレ・高知城

板垣退助の銅像

広場には板垣退助の銅像があります。

板垣退助の像

板垣退助は土佐出身で、明治維新の前は土佐藩の藩士だったこともあり、ここ高知城に像があるのだそう。

「板垣死すとも自由は死せず」

で有名な政治家ですね。

「板垣死すとも自由は死せず」

高知城天守へ続く石段

広場から天守へ向かう道は石段になっています。

天守へ向かう階段

石段は結構ありますが、一段一段は低いので体力に不安がある人でもゆっくり上れば問題ないです。

石段を上る途中にも天守が見えます。見落とされがちのフォトポイントです📷

天守が見えるから石段もがんばれます

山内一豊の妻の銅像

石段を上っていくと小さな広場があり、そこに山内一豊の妻の銅像があります。

山内一豊の妻の銅像

山内一豊の妻の銅像

山内一豊の妻は、弘治3年(1557)生まれ。通称千代といわれているが、これを裏づけるたしかな資料はない。出身についても通説では近江国(滋賀県)浅井氏の家臣若宮友興の娘とされているが、近年では美濃国(岐阜県)八幡城主遠藤氏の娘ともいわれている。

幼い頃父を失い、17.8歳の頃一豊と結婚、貧しい暮らしの中で家を守り、戦いに明け暮れる一豊の出世を助けた逸話が残されている。中でも結婚の時持参した10両の金を出して一豊に名馬を買わせ、それが織田信長の目にとまって出世の糸口になった逸話は広く知られている。

また、関ヶ原の戦いの前に、笠の緒に縒りこめた手紙で関東にいる一豊に大阪方の情報を知らせ、その進路を決定づけさせたことが一豊の土佐一国領主への道を開くことになった。手芸や文筆にもすぐれ、賢夫人として知られている。元和3年(1617)

12月4日、京都で没、61歳。法号見性院(けんしょういん)。 この銅像は昭和40年(1965)2月26日に除幕された。

山内一豊同様、ご夫人もかなりデキるひとだったみたいですね✨

結婚の時持参した10両の金を出して一豊に名馬を買わせ、それが織田信長の目にとまって出世の糸口になった

三の丸石垣

さらに石段を上っていくと、ひときわ目を引く大きな三の丸石垣があります。

三の丸石垣

ても大きくて迫力があります。これは野面積みかな。

時間経過を経たその姿が歴史を物語っているようです。

その姿が歴史を物語っているよう

三ノ丸石垣は、孕(はら)み(石垣が外側に弧を描くように歪んだ状態)や隅角部の築石にヒビ割れが入っている等が見られたため、平成 16 〜 21 年度(2004 〜 2009年)にかけて修理工事が行われたそうです。

三ノ丸石垣 案内板

三ノ丸石垣

三ノ丸は、慶長6年(1601)の築城開始から10年を要して最後に完成した。面積は4,641㎡、出隅部分の石垣の高さは約13m。石垣に使用されている石材は主にチャートであるが、砂岩、石灰岩も一部使用されており、穴太衆(あのうしゅう)が、安土城の石垣で始めたとされる自然石の形を活かした野面積みで多くの面が構築されている。また、三ノ丸には、1,815㎡の壮大な御殿が建築されていた。

三ノ丸の入り口にあたる鉄門付近の石垣は、鉄門の改築に伴い積み直されたものと見られ、砂岩で構成された打ち込みハギで築かれている。今回の解体修理に伴う発掘調査でチャートの根石(基礎石)が確認され、改めてその事実が確認された。

三ノ丸の石垣は、慶安3年(1650)、宝永4年(1707)に地震や豪雨により、崩壊し、修理した記録が見られる。今回の修理は、平成11年に実施した調査により、割れたり、孕んだ石が多く、崩落の危険性が確認されたことから、平成12年度から事前の発掘調査や測量などを実施した後、鉄門付近から東面の花壇前まで実施した。

工事は、改修前の石垣の状態を把握した後、割れた石以外は元の石を使用し、元の場所に戻すことなど原状復旧を基本として実施した。 改修工事は、穴太衆の野面積みの技法を現代に伝える石工が携わって平成16年度から平成21年度にかけて実施、総工費約4億円を要した。

現代の技術によって歴史という名の姿が保たれているのですね。素敵です✨

石段も終盤、姿を現す天守

さて、

ここまで石段を上ってきて、だんだんと天守も大きく視界に入るようになってきました✨

段々と姿を表す天守

まだ石段を上っていますが、終盤です。

ここまでくると後少し

ここまで上ると天守も壮大で、その全貌を捉えることができます。

天守

あと一息、ここを上りきれば本丸への石段ツアーは攻略です。

本丸に続く最後の石段

ここまではずっと石段なわけですが、ルートとしては以下を通ってきたことになります。

上ってきた石段のルート

二の丸、霧吹き、アイスクリン。

石段を上り切ると、二の丸跡である広場に出ます。

二の丸跡である広場

訪問した日は真夏だったので、霧吹きとアイスクリーム屋さんが出ていました。

とても暑かった日。写真左手の霧吹きがすごく助かりました。

炎天下の中、石段を上ってきた身体にはこの霧吹きがめちゃめちゃうれしかった✨

あとアイスクリームも。

高知名物「アイスクリン」

「アイスクリン」てなんだろうってなりましたが食べてみて納得。

分類的にはかき氷に入るそうで、アイスクリームと見た目は同じなんだけど食感とかが違う感じでした。

この日は暑かったので、とにかくこのシャリシャリ冷たいアイスクリンに救われました🥰

kochi-marugoto.com

とはいえこれからが本丸御殿に天守と本番。

ここでアイスクリンと霧吹きゾーンで体力を回復させました✨

最後になりますが、この広場には昔、二の丸がありました。

ニノ丸

本丸の北、三ノ丸の西上方に位置するこのニノ丸は、三ノ丸より約8メートル高く、標高約40メートル、外輪の長さ270メートル、総面積4,128平方メートルの台地である。ここに建てられていた二ノ丸御殿は、政務をとる表御殿と藩主が日常の生活をする奥御殿が連続して建てられており、一部二階建てになっていた。総面積は1,233平方メートルもあった。明治6年(1873)公園化にともなってすべての建物が撤去されたが、現在残る築山は、奥御殿の上段の間に藩主が着座したとき、正面に見える位置にあたっている。

二ノ丸にはこのほか目付役所やスキヤ櫓、家具櫓、長局(ながつぼね)などの建物があった。特に西北隅にあったニノ丸乾櫓(いぬいやぐら)は、城内にあった8棟の櫓の内では唯一三階建てで、二階と三階の屋根には飾りの千鳥破風を配し、さながら小天守のようであった。

北側の一段下がったところに水の手門があり、綿蔵・綿蔵門を経て城八幡方面や北門の方に通じていた。

いよいよ本丸へ

さて、ここまでは入城のための試練。試練を無事に越え、いよいよ本丸へ突入です。

まずは、藩政時代に築かれた本丸御殿ではこの世に 2 つしか現存していない本丸御殿の 1 つ「懐徳館(かいとくかん)」へ向かいます。

詰門

ちなみに、高知城の本丸御殿のことを「懐徳館」と言うのですが、これは明治 6 年に高知城が公園として一般に公開された時に懐徳館と名付けたのだそうです(個人的には本丸御殿でいいのではと思いつつ)

そしてこの本丸御殿が、天守への入口にもなっています。

ちなみにここはまだ詰門です。

詰門

詰門は本丸と二ノ丸の間の堀切に設けられた櫓門。廊下橋としての役割も担っており、二階部分は、藩主のもとに向かう家老の待合場所であったことから、詰門の名が付けられたと言われている。

一階部分は、籠城に備え、塩を蓄える蔵になっている。入口は、東面と西面で食い違いになっており、攻め寄せた敵が容易に突破できない構造となっている。

そしてこの詰門を抜けると、本丸御殿と天守の登場です。

天守と本丸御殿

高知城 本丸御殿「懐徳館」

本丸御殿 入口

入城引換券は入口脇の発券機で購入できます。

入城引換券発券機

引換券を購入したら、すぐ隣りの窓口で入城券と交換してもらいます。

入城券

では本丸御殿に入って行きます!

本丸御殿に入城

高知城は天守と本丸御殿がつながっていて、本丸御殿その 1 階にあたります。

高知城全体図

ということで、2 つしか現存していない本丸御殿に、いざ参ります🥳

貴重!日本に 2 つしか現存していない本丸御殿

本丸御殿 欄間(らんま)

高知城の本丸御殿は書院造。

本丸御殿の様子

書院造

書院造は、寝殿造を母体として発展したもので、室町時代にその形式が生まれ近世に武家の住宅様式として完成した。それは、大・小両書院を中心に玄関や台所などを配した一連の建物群で、個々の建物(書院)は、畳敷きのいくつかの部屋の集合によって構成される。特徴として、部屋の外回りの建具に舞良戸(まいらど)・明障子(あかりしょう)雨戸が立てられ、内部は間仕切が増えて大小の部屋ができ、間仕切には襖・明障子が用いられる。柱は角柱で壁は張紙が貼られ障壁画などによって装飾される。また、天井には格天井(ごうてんじょう)が用いられる。

書院造は主室の床を一段高くして上段とすることや座敷飾りの位置、装飾などにより、身分と格式の序列を表現しており、武家の権威を象徴する建築様式である。

静かな雰囲気が漂います。

外の景色も結構良きです✨

本丸御殿から外を眺める

川越城の本丸御殿に比べると広くはないけれど、趣のある御殿です。

すぐ隣りに二の丸御殿があったことを考えれば、このくらいの広さでも問題は無かったってことなんでしょうね。

そしてここが上段の間

上段の間

上段の間は書院造でいうところの、主君が座ったところですね。

そして奥に見えるのが「帳台構え」ならぬ「武者隠(むしゃかくし)

武者隠(むしゃかくし)

一応帳台構えで、この扉の向こうは納戸なんですけど、藩主護衛の武士が隠れたことから「武者隠(むしゃかくし)」と呼ばれたそうです✨

そしてその納戸がこちら

帳台構えの向こう側、武者隠の納戸

君主の危険を察知したらここから飛び出して守る、現代の SP みたいな武士がここで待機してたんでしょうね。

ちなみに本丸御殿の間取りはこんな感じでした

本丸御殿の間取り

ということで、ここからいよいよ天守に入っていきます✨

天守

高知城は外観 4 重(内部 3 層 6 階)望楼型天守です!つまりここから全部で 6 階まで上がっていく!頑張って上っていくぞーっ🥳

1 階 - 当時の生活・築城の様子 -

本丸御殿からそのまま入る 1 階で築城時の様子が模型で展示されていました

築城時の様子を再現した模型

石垣を作る人、資材を運ぶ人、ご飯を用意する人などなど、、

こんな感じで沢山の人が作業に当たっていたんですね。

石垣を作る人、資材を運ぶ人、ご飯を用意する人などなど

石落としもありました

石落とし

1 階と言えど石垣の分高さはあるので、この距離から石が降ってきたらなかなか怖いですね😭

2 階 - 高知城ジオラマ -

2 階の様子

2 階には高知城の精巧なジオラマが展示してあってこれがまたかっこ良かったです✨

高知城のジオラマ

そして 2 階の時点で眺めも良かったです💕

2 階からの眺望

さて、では天守といえばの急勾配の階段を上って 3 階に行きます

階段はもれなく天守特有の急勾配

いつも思うけど、この角度を袴とか着物を着た人たちが上り下りしてたのだからすごいなって思います。

3 階 - 破風を間近で -

3 階の様子

3 階には補修工事の様子が展示されていました。

補修工事の様子

破風の間(はふのま)

そして 3 階には「破風の間」があります。

破風の間

この大きな窓から外の様子を確認(物見)したり、鉄砲を打ったり(鉄砲狭間)とかの役割があったとの事

破風の間の窓

破風の間 案内板

破風の間

破風の内側に部屋を設け、人が入れるようにしたものが初期の形態で実戦的なものである。高知城の破風の間は石打ち棚と呼ばれ、物見や鉄砲狭間の役割があり、攻撃の為の小陣地になり東西南面に設けられている。北側の破風内部は、隠し部屋となっている。

高知城は望楼型天守(ぼうろうがたてんしゅ)なので大きな入母屋破風(いりもやはふ)を持っていますね。両側の破風はきと採光の役割も果たしていたでしょうね✨

反対側にも破風がある

4 階 - 日本百名城が大集合!! -

4 階の様子

4 階にはなんと、日本百名城の写真がずらっと展示されていました✨

日本百名城の写真がずらり

高知城を見に来たはずなんだけど、ここで他のお城に釘付けになりました😇

そして 4 階からの眺望も良き✨

4 階からの眺望

真夏の天守は暑いのですが、外から風が入ってきて窓際は涼しかった💕

5 階

写真撮り忘れました😭

ので一気に最上階へ!✨

6 階 - 最上階からの抜群の眺め -

6 階の様子

さていよいよ高知城天守の最上階

眺めが抜群でした✨

天守 最上階 からの眺め

頑張って上ってきてよかったー✨

どのお城行っても毎回感動します💕

現存する天守、本丸御殿、追手門。全てが歴史の生き証人。

高知城

デキる男、山内一豊によって築かれ、修繕を続けながら今もなお時を刻み続ける高知のシンボル「高知城」

高知城

現存十二天守に数えられ、さらに本丸御殿はここ高知城と川越城にしか現存していません。

今も残る大きな石垣

黒鉄門

資料でも映像でもなく、間近で見て回ると感じられるものがあります。

石垣、塀、門、御殿に天守。

力強くも静かに佇むその一つ一つに、歴史という時間の流れを感じずにはいられません。

高知城の塀

1601 年に築城されてから 400 年余、この大高坂山から高知を見守り続けてきた歴史の語り部はこれからも高知を、そして日本を見守り続けてくれることでしょう。

高知城

今回で 2 回目の高知城でしたが、威風堂々の佇まいに元気をもらえました。ありがとうございました。

夜のライトアップ高知城

高知城は日本三大夜城の 1 つに数えられており、日没から 22 時までライトアップされています。

高知城のライトアップきれいでした💕

追手門のところから

ただ正直なところ、人がいないとちょっと怖い、、🥲

追手門

でもこのライトアップ、松の木もいい感じに照らされてて雰囲気は良いです

追手門と天守のライトアップの感じが良き

天守もホワイトでライトアップされて幻想的

天守のライトアップ

遠くから見るとまるで天から光が降り注いでいるかのように見える素敵なライトアップ✨

夜の高知城

私が行ったときはどうだったかわからないのですが、高知城の天守の足元からのライトアップ の他に、老舗のピアノバー「赤い靴」のオーナーさまがお店のあるビルの屋上にサーチライトを設置していて、そこから高知城を照らしたり、あとは「城西館」という旅館でもサーチライトが設置されていて、そこからも高知城を照らしていたりするのだそうです。

天から光が降り注いでいるかのように見えたのは、そのせいもあったのかな?

私が見た位置的には、城西館からのサーチライトが当たってたとかはありそう✨

夜の高知城も、オススメです💕


高知城に行くならこちらもおすすめ✨

www.ritocamp.com

日本百名城 No.81「松山城」ふたを開けてみたらとんでもツンデレ城!鉄壁の防御城なのに絶品伊予柑スイーツなどなど

松山城

松山城

愛媛県は松山市にある日本百名城「松山城」に行ってきました🥳

松山城

松山城

松山城のすごいとこ!

  • 日本百名城の一つ
    • No. 81
  • 現存 12 天守の一つ
    • 戦乱・天災・戦災によって多くの城郭が失われ、江戸時代以前に建造された天守が現代に残っているのは、全国で12城しかない
  • 登り石垣がある
  • 重要文化財
    • 大天守、野原櫓・乾櫓・隠門続櫓など櫓6棟、戸無門・隠門・紫竹門・一ノ門など門7棟、筋鉄門東塀など塀7棟
  • 国の史跡

基本情報

所在地:愛媛県松山市丸之内1

www.matsuyamajo.jp

  • 天守の営業時間
    • 9:00~17:00
      • 季節によって終了時間が前後します
  • 料金
    • 松山城+リフトorロープウェイ往復
      • 大人:520 円
      • 小人:160 円

www.matsuyamajo.jp

沿革

松山城は、松山平野の中央に位置する勝山(かつやま)(海抜132m)を中心に築かれた平山城(ひらやまじろ)で、山頂に「本丸」が、南西の山麓に「二之丸」や、堀と土塁に囲まれた「三之丸」(塩之内)」が配されています。さらに、本丸と二之丸をつなぐ全国でもめずらしい南北2本の「登り石垣」や、東と北の山麓に「東郭(ひがしのくるわ)」「北郭(きたのくるわ)」が配置されるなど、堅牢な城構(しろがまえ)です。また、それらが良好に残されている全国でも数少ない城跡で、敷地の大部分は「国史跡」に、本丸の建造物の多くが「重要文化財」に指定されています。

松山城の築城は、関が原の戦い(慶長5年(1600年)での活躍により、この地を与えられた加藤嘉明によって、慶長7年(1602年)から始められました。嘉明は、築城にあわせて、勝山の南を流れていた湯山川(現、石手川)を付け替えました。また、城下町の整備を行い、三之丸と城の周囲に侍町を、その外側に町人地(ちょうにんち)を置き、さらに、勝山の北側にある御辛子山(みきじさん)の山麓に、城を防備するために寺町を配置しました。なお、嘉明は、正木城(まさきじょう)(伊予郡松前町)から慶長8年(1603年)10月新城下に移りました。この頃から、「松山」と呼ばれるようになりました。

城の完成は、寛永4年(1627年)に嘉明が会津へ転封(てんぽう)された後、替って入った蒲生忠知(がもうただちか)によると伝えられています。忠知の死後、跡継ぎがいなかったため、寛永12年(1635年)、松平定行が松山藩に入り、以後、明治維新を迎えるまで松山城は、松平家の居城として機能しました。松山城の天守は、定行によって三重に改築されましたが、天明4年(1784年)正月に落雷で焼失したため、安政元年(1854年)に再建されました。

松山城『築城物語』

松山城は、慶長七(一六〇二)年正月十五日、賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍で有名な加藤嘉明によって起工されました。

石材などは、正木(松前)城や湯築城などから運ばれたものも多かったようです。嘉明は、足立重信を普請奉行として工事に着手、おたたさん(魚の行商をする女性)が砂を運び、近郷の農民が手ぐり渡しで瓦を運ぶなど、多くの人々が工事に従事しました。

翌慶長八年十月に、嘉明は正木(松前)から新城下に移り、城下を松山と命名し、城の名前を松山城としました。 城全体の完成は、加藤嘉明が会津四十万石に移封となった、寛永四(一穴二七)年頃といわれています。約二十六年の歳月をかけて築城されたことになります。

別称「金亀城」の名前の由来

お城は、標高百三十二メートルの山(勝山)の上にあり、勝山城または金亀城とも呼ばれています。

松山城築城の際、山麓の内堀(愛媛県庁西側)の処が、深い淵になっていて、そこに「金色の亀」が棲んでいたといわれています。その伝承にちなんで、別名「金亀城」と呼ばれるようになりました。

登り石垣

実際には見られなかったのですが、松山城といえばこの「登り石垣」が有名なところなんですよね。

登り石垣は、山腹を登るように築造された石垣のことです。松山城では、登り石垣山頂の本丸と山麓(さんろく)の二之丸との間にある大きな空間への寄手の侵入を防ぐため、それらをつなぐように南北2本一対の石垣が設けられています。

北登り石垣は、明治時代以後に破壊され、ごく一部しか残っていませんが、南登り石垣は、ほぼ完全に残っており、総延長は230m以上に及びます。登り石垣は、洲本城や彦根城などにもみられますが、松山城のものが全国で最大の規模を誇ります。

ロープウエイ・リフトのりば 山麓駅『東雲口(しののめぐち)』

松山城は山の上にあるので、往路はロープウェイで行きました

松山城ロープウエイ・リフトのりば 山麓駅『東雲口(しののめぐち)』

ちなみに松山城へのアクセスには車や徒歩(軽登山的な?)でも行けます🚗

www.matsuyamajo.jp

山麓駅入り口にある坊っちゃん像

ロープウェイ・リフト券売り場

ちなみに山麓駅からはロープウェイとリフトのどちらかに乗ることができて、往復でどちらを使っても同じ料金です。(券も共通なので購入時に選ぶ必要もありません、乗る時にどちらにするか選べば OK)

ロープウェイ・リフト料金

  • 往復券
    • 大人:520 円
    • 小人:260 円(小学生)
  • 片道券
    • 大人:270 円
    • 小人:140 円(小学生)

(往復券の方が 20 円お得✨)

記念メダルあった!

乗車券をゲットしたので乗り場に向かいます

めちゃおおきい!壁画的な(?)

乗り場まではエスカレーターで向かいます(たしかエレベーターもあったかも)

駅は結構大きい

往路はロープウェイで行きますよ〜

ロープウェイは左通路へ、リフトは右通路へ

ロープウェイとリフト、どっちが良い?

ロープウェイは 10 分間隔で運行していますが、リフトは随時運行なのですぐに乗れます。

ただしロープウェイなら約 3 分リフトは約 6 分かけて上まで行くので、ロープウェイ発車までに 3 分以上ある場合はリフトの方が到着は早いということになります。

私はロープウェイに乗りたかったので乗り場に着いた時にちょうどロープウェイ行っちゃったけど、10 分待つことにしました

ロープウェイ乗り場

ロープウェイからの眺めも結構よかったですよ✨

ロープウェイからの眺め

こっちは動画

山頂駅『長者ヶ平(ちょうじゃがなる)』に到着です

山頂駅『長者ヶ平』

ということで、、

着いた〜✨(まだお城まではこれから)

山頂駅前の風景

山頂駅にはベンチがあって休めるのと、コインロッカーもあるから、ちょっと荷物が多い人は預けてから行くのがおすすめ(ここからそこそこ歩きます)

山頂駅の改札口とコインロッカー

六実庵(むつみあん)

山頂駅前には六実庵っていう、売店と食堂が入っているお店があります

六実庵(むつみあん)

これから松山城に向かうのに、気になる看板が、、、

ぜんざい、抹茶、わらびもち、みたらし、、美味しいワードばっかり

店内はお土産やさんと食堂があって、こんな感じ

食堂エリア

お土産エリア

tabelog.com

ちなみにこの日は 8 月下旬、残暑どころじゃない暑さで既にまいっていたので、みかんのジュレ?的なやつをゲット💕

ちゅるちゅるみかん

山頂駅〜松山城公園 本丸広場

ということで、いざ松山城へ向かって出発です!

松山城の手間に「松山城公園 本丸広場」があるので、まずはそこまでの道のりです

山頂駅から松山城公園 本丸広場までの道のり

山頂駅から。松山城へ向かうスタート地点

松山城の石垣

松山城の魅力の一つはこの立派な石垣✨

松山城の石垣

歩きだしてすぐに目に入るこの景色。遠目からでもテンション上がります✨

立派な石垣

この緻密な感じが良き✨

松山城の石垣の完成度よ

松山城の石垣について案内板

松山城の石垣

石垣は、松山城を特徴づける構造物の一つで、中でも「登り石垣」は、全国で最大規模を誇ります。石材には主に花崗岩が使用され、隅部(すみぶ)はほとんどが算木積(さんぎつみ)です。

本丸を囲む高石垣(たかいしがき)は、高さ10mを越え、美しい曲線を描く扇勾配(おおぎこうばい)と、屈折を連続させることで防御性を高めた屏風折(びょうぶおり)が特徴です。江戸時代に改修を受けている部分もありますが、北側を中心に、加藤嘉明による築城時(慶長7年(1602年)~}の典型的な石垣が良く残されています。その特徴は、緩い勾配と上部のきつい反り、一部自然石を使用した打込ハギの乱積(らんづみ)です。

一方、本壇(ほんだん)の石垣は、北側と南側で異なっています。北側は、時期はわかりませんが、打込ハギの布積(ぬのづみ)で、隙間に合わせて加工された間詰石(まづめいし)が詰め込まれている特徴がみられます。南側は、北側より新しく、嘉永(かえい)年間(1848~1854年)、天守などが再建された際に、新しく積みなおされ、十分に手間をかけた切込ハギの布積で、隙間のない整った外観となっています。

※算木積・・石垣の隅部の積み方で、細長い石を使用し、長辺と短辺を交互に積み上げる方法である。16世紀後半から登用され、慶長10年(1605年)頃に完成しているため、石垣築造年代の判定ができる。

※打込ハギ・・打ち欠いた石材を用い、接合面を合わせて積み上げる方法で、自然石を用いた野面積より隙間が少なく、高く積み上げることができる。

※切込ハギ・・整形した石材を用い、密着させるように積み上げる方法である。

※乱積と布積・・乱積は、横方向の目地が通らない積み方で、布積は、横方向の目地が通る積み方である。

※長者が平(なる)から登り、最初に見える右手の美しい勾配の石垣(高さ約16m)は、昭和20年に長雨で崩れたため、同22年に修復されている。戦後、最初の大規模な石垣工事であり、その記念名が隅石に刻まれている。

あっ

石垣の上に櫓が見えますね

石垣の上の櫓

これから通る筒井門の櫓かな?

待合番所跡

ちょっと開けたところがある✨

石垣の脇(写真左)に開けたスペース

ここは昔、待合番所だったところみたい

待合番所跡

待合番所跡 案内板

大手門跡

大手門は、慶長年間(1596~1615年)の築城時に建てられ、山麓にある二之丸および三之丸(堀之内)へ通ずる重要な門です。古文書や古絵図には、「尾谷二ノ門」「待合御門」「待合一ノ門」などと記されています。明治時代に、揚木戸門とともに取り壊されました。

待合番所跡

待合所跡待合番所は、東雲口からの登城道と二之丸からの登城道の合流する地点に、警備のために設けられました。その場所は、はっきりしていません。古文書には、常時三人が詰めていたと記されています。

この場所は、東は揚木戸門、西は大手門によって仕切られ、大手の入口で最も堅固な筒井門に続く要点で、兵力運用の重要拠点ともなっています。

なお、古文書には、揚木戸門から大手門までの石垣上に、6箇所の石落、76箇所の鉄砲狭間、11箇所の矢狭間が備えられていた渡塀(土塀)があったことが記されています。

※石落(いしおとし)・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在は鉄砲の射撃としての穴として理解されている。

※狭間(ざま)・・塀や櫓などに空けられた小窓のことで、矢狭間は立って弓を引くため高い位置にあり、鉄砲狭間は片膝ついて撃つため低い位置にある。松山城では、正方形が鉄砲狭間、長方形が矢狭間である。

さて、先に進みましょう

お城って感じの通路が素敵

戸無門(となしもん)

太鼓櫓

本丸はまだ先だけど、それでもこんなに立派な櫓と石垣があるの良き✨

そしてここを折り返すと、戸無門があります。

戸無門

戸無門と中ノ門跡の案内板

平門跡中ノ門は、大手登城道の太鼓櫓石垣下に設けられていましたが、明治時代に取り壊されました。 この門を設けることで、攻めてきた寄手は、門を通り過ぎて直進する者と、戸無門へ行く者とに分かれることになりますが、直進した者は乾門(いぬいもん)下で行き止まりとなります。

太鼓櫓から乾門へ続く石垣は、屏風折と呼ばれ、石垣が屈折しています。これは、寄手がどこにいても弓や鉄砲で射撃することができる横矢掛(よこやがかり)といわれる防衛上重要な構造となっています。

※寄手・・攻めてきた敵の兵士や軍勢のこと。

※横矢・・・二方向以上からの射撃を横矢という。敵に対して二方向以上から射撃することを横矢掛という。

さっきの道を折り返さないで直進すると行き止まりなんだね。

戸無門は、本丸の大手登城道に設けられた高麗門(こうらいもん)です。門は、両脇の寄掛柱(よせかけばしら)を石垣にもたせ、脇戸(わきど)はありません。江戸時代から戸無門の名で呼ばれており、鏡柱(かがみばしら)に扉を吊る肘壺(ひじつぼ)の痕跡もないので、創建当初から扉を持たなかったものと考えられています。

建築年代は明らかではありませんが、寛永(かんえい)から正保(しょうほう)年間(1624~1648年)の建立になるものと推定されています。また、寛政(かんせい)12年(1800年)に建替えられたことを示す棟札(むなふだ)が残されています。

昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同25年(1950年)の法改正により重要文化財になりました。

戸無門を過ぎて左折すると、大手で最も堅固な筒井門(つついもん)と隠門(かくれもん)の防衛線に達します。

※棟札・・建物の建築や修理の記録として、建物内に取り付けられる札のこと。

つまりこの戸無門に入ったら最後、袋のネズミになってしまうってことですね。よく考えられてます。

この佇まいが歴史を感じます

筒井門・隠門

戸無門(左)をくぐると、開けたところに出る

戸無門をくぐると少し開けた場所に出ます

景色も開けてて眺めが良い

ここにあるのが筒井門(つついもん)と隠門(かくしもん)です。

筒井門

そして筒井門の上にあるのが西続櫓と東続櫓

筒井門西続櫓と同東続櫓は、筒井門の両側に設けられた平櫓で、筒井門・隠門とあわせて大手の防備を担っています。

昭和12年(1937年)に修理工事が行われ、その際、築城時には筒井門櫓と西続櫓が建てられ、しばらくして東続櫓が建築された可能性が指摘されました。

昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同24年(1949年)2月に焼失したため、同46年(1971年)3月に復元されました。

こっちは西続櫓

じつはこの筒井門の奥にも小さな門「隠門」があります。

奥に隠門がある

隠門

この隠門は、戸無門から入ってきて筒井門を破ろうとする敵を背後から回り込んで攻撃できるように作られた門だそうです。

よく考えられていますよね。

そして隠門の上にあるのが隠門続櫓(かくれもんつづきやぐら)です

隠門続櫓(かくれもんつづきやぐら)

隠門続櫓は、隠門2階の渡櫓の東側に接続する平橋で、長者が平(なる)からの登城道を監視する目的で、揚木戸門(あげきどもん)前の本丸石垣の上に建っています。平面形は、石垣に合わせて東側に突き出た変則的なものとなっており、西側は隠門渡櫓につながっています。

隠門と同様に慶長(けいちょう)年間(1596~1615年)の築城時に建てられたと考えられており、創建当時の技法が残されている貴重な建造物です。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同25年(1950年)の法改正により重要文化財となりました。

筒井門を抜けると少し開けた広場になっています。

筒井門を抜けた先は小さな広場になっている

目の前の太鼓門を抜ければ、松山城公園 本丸広場です。

太鼓門(たいこもん)

太鼓門

この門を抜ければ、松山城前の広場です。

太鼓門太鼓門は、本丸大手の正門と位置付けられている脇戸付(わきどつき)の櫓門で、巽櫓(たつみやぐら)や太鼓櫓とともに防衛線を構築しており、隠門や筒井門とその続櫓による第1の防衛線に続く第2の防衛線となっています。

築城時に建てられたと考えられ、明治時代になり石落や窓などが改変されました。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失したため、同47年(1972年)2月に門は欅、階上は栂(つが)で復元されました。門の両側の石垣には、戦災による剥離が残されています。

なお、戦後、太鼓門南続櫓跡には、朝6時、正午、夕方6時の時報にあわせて音楽を流すミュージックサイレンが置かれ、市民に親しまれていました。

※石落・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在は鉄砲の射撃としての穴として理解されている。

門をくぐって緩い上り坂

太鼓門をくぐると上り坂

そしてこれを超えると松山城公園 本丸広場に到着。

松山城公園 本丸広場

山頂駅からゆっくり歩いてきて、10 分くらいでここまで来れました✨

松山城公園 本丸広場

ここは松山城前の広場だけあって結構広かったです✨

本丸広場

また、ある程度の上ってきたので眺めも良き✨

本丸広場からの眺望

売店や食事処があるのもこの本丸広場ですが、それはあとのお楽しみにとっておいて、まずは本丸広場にある見どころを少し紹介します

太鼓櫓(たいこやぐら)

太鼓櫓

太鼓櫓は、本丸の西南隅に配置された矩折(かねおり)の二重櫓です。この櫓は、巽櫓(たつみやぐら)・太鼓門・同西塀と同じ高さ(約7m)の石垣の上に築造されており、これらは一連の防衛線となっています。

築城時に建てられたものと考えられ、明治時代に石落(いしおとし)や突揚戸(つきあげ)などが改変されました。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失しました。同46年(1971年)に西面の石垣が解体修理されたあと、同48年(1973年)3月に総て栂(つが)で復元されました。

なお、古絵図には、太鼓櫓前に本丸広場の警備の番所(ばんしょ)が記されています。

※矩折・・「矩」は直角を意味する。

※石落・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在は鉄砲の射撃としての穴として理解されている。

※突揚戸・窓に取り付けられた板戸で、跳ね上げ式に外へ開き、棒で支えられている。

太鼓門西塀

西塀

太鼓門西塀(太鼓櫓東塀ともいう)は、長さ24.41mで、2箇所の石落と21箇所の狭間が備えられています。

昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失しました。同43年(1968年)から始められた木造復興計画の最後として、平成2年(1990年)に復元されました。

※挟間・・塀や櫓などに空けられた小窓のことで、矢狭間は立って弓を引くため高い位置にあり、鉄砲狭間は片膝ついて撃つため低い位置にある。松山城では、正方形が鉄砲狭間、長方形が矢狭間である。

※松山城の復元建物・昭和27年の井戸上屋、同33年の馬具櫓(鉄筋コンクリート造)、同43年の小天守ほか、同46年筒井門ほか、同47年太鼓門ほか、同48年太鼓櫓、同54年天神櫓ほか、同57年乾門ほか、同59年良門ほか、同61年巽櫓など。

井戸

井戸

この井戸は、築城時に谷だった場所を埋め立てるのにあわせて、泉を掘り下げ、石を積み上げて造られたと伝えられています。深さは44.2m、水深は9mあり、戦前までは釣瓶(つるべ)が備えられ、冷水を汲み上げて飲むことが許されていました。

上屋は昭和20年(1945年)7月の戦災で焼失したため、同27年(1952年)3月に城内で初めて再建されました。

井戸には、①底がない、②天守と二之丸への抜け穴がある、③大こうもりがいる、④水をきれいにするため大判・小判が投げ込まれている、などの伝承が残されていましたが、いずれも真実でないことがわかっています。

やっぱりこういう井戸って何らかの噂立ちますよね笑

馬具櫓(ばぐやぐら)

馬具櫓

馬具櫓は、本丸広場の西側にある二重櫓で、太鼓櫓とともに、二之丸方面の監視・防衛を担う櫓です。

この櫓は、明治43年(1910年)に「松山公園」として開園される直前、管理人用寝泊所として改装されました。

昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失したため、同33年(1958年)3月に本丸の防災ポンプ操作室として鉄筋コンクリート造で再建されました。木造以外の工法で再建された城内唯一の建物で、現在は、本丸の防災を含む管理事務所となっています。

再建には、西側石垣(高さ約13m)に荷重を与えないようにするため、建物直下にケーソン工法の基礎3個が用いられています。この工事中、ケーソン基礎2個の最深部(深さ約4.7~5.9m)で、現在の石垣とは別の石積が発見されました。これは、まだ知られていない松山城の歴史を示すものかも知れません。

さて、ではいよいよ松山城に入っていきましょうか

いざ、松山城へ!

いざ、松山城の内部へ!

受付でチケットを購入して入場していきます。

入場券売り場

案内板で、大体の配置を確認しておきましょう

松山城内部の案内板

むむむっ、、、

「天守」「本丸」「本壇」とか、字が似てるのが出てきてよくわからないので案内板の解説を参照😇

本丸

本丸は城の防衛上最後の砦となる郭(くるわ)で、高さ10mを越える高石垣(たかいしがき)に囲まれ、南北約300m、東西約30~180mという全国有数の規模を誇っています。高石垣は、美しい曲線を描く扇勾配(おうぎこうばい)と、屈折を連続させることで防御性を高めている屏風折が特徴です。江戸時代には、その上に石落や狭間のある渡塀(土塀)がめぐり、また要所には櫓が配置され、城下からは塀や櫓に囲まれた天守が望めたと考えられます。

本丸北側には、松山城の中心である連立式天守の本壇(ほんだん)が配置され、本丸南側には大手(正面、表口)である大手門、北側には搦手(からめて)(背後、裏口)である乾門(いぬいもん)があります。乾門付近には、乾櫓(いぬいやぐら)や野原櫓(のはらやぐら)という城内で最古の櫓が残されています。

※郭・・城内部の区画された平地のこと。

※石落・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在は鉄砲の射撃としての穴として理解されている。

※狭間・・塀や櫓などに空けられた小窓のことで、矢狭間は立って弓を引くため高い位置にあり、鉄砲狭間は片膝ついて撃つため低い位置にある。松山城では、正方形が鉄砲狭間、長方形が矢狭間である。

※連立式・・天守と2基以上の小天守・隅櫓が中庭を囲むように建てられ、渡櫓などで連結している天守形式のこと。

本壇(ほんだん)

本壇は、本丸の北側に位置し、天守(てんしゅ)・小天守(こてんしゅ)など城の中枢となる建物が配置されています。そのため、本丸広場より更に約8m高く石垣が築かれ、出入口は一箇所に限定されるなど防備は厳重です。天守は更に約4mの高さの石垣(切石を隙間なく積み上げる切込ハギによる)上に構築されています。

本壇石垣の隅々には櫓が配置され、渡塀または多聞櫓(たもんやぐら)などで接続されています。それらには石落・狭間・突揚戸(つきあげど)が設けられています。

出入口から天守に至るまでには、両側を石垣と櫓や塀で囲まれた中、幾つもの門をくぐりながら、何度も屈曲する道を経なければならず、侵入した寄手(よりて)はあらゆるところから狙い撃ちされるように仕組まれています。

昭和8年(1933年)に小天守、南や北の隅櫓、玄関などが焼失し、残された天守、天神櫓(てんじんやぐら)、塀、門などは同10年(1935年)国宝に指定されました。焼失した建造物の復興は、同41年(1966年)から着手され、同43年に竣工しました。なお、天神櫓は同20年(1945年)の空襲で焼失しましたが、同54年(1979年)に復元されました。

天神櫓を除き、国宝に指定されていた建造物は、同25年(1950年)の法改正により重要文化財になりました。

天守

天守は三重三階地下一階で、全高は天守広場から約20mあります。また、天守台石垣は、加工された石が隙間なく積まれ(切込ハギ)、4.1mの高さがあります。この石垣に囲まれる空間が、地下階となっています。

慶長年間(1596年~1615年)、加藤嘉明の創建当初は、五重であったと言われています。寛永19年(1642年)、松平定行(まつだいらさだゆき)が、三年の年月をかけて三重に改築しましたが、天明4年(1784年)正月、落雷によって焼失しました。

安政(あんせい)元年(1854年)に再建され、わが国城郭建築史上最後の天守となりました。

形式は、塔の様に屋根を重ねた「層塔型(そうとうがた)」と言われる構造です。外観は、南北屋根妻側は、一重目に千鳥破風(ちどりはふ)が、二重目に唐破風(からはふ)が、東西屋根には一重目二重目とも千鳥破風が付けられています。随所に矢や弾丸を放つ狭間が備えられ、窓には塗籠(ぬりごめ)格子、さらに四方に張りだした破風には鉄砲狭間が備えられ、外壁も三階は漆喰塗(しっくいぬり)の白壁となりますが、一階と二階は下見板(したみいた)が張られるなど武装建築としての様相をよく留めています。

地下にある穴蔵(穀倉)入口上部には、城内最大(約6トン)と言われる花崗岩五本が並列し、また内部の柱・梁には抗腐力の強い楠材が用いられています。

では、松山城へ入っていきます。

松山城への入り口

おすすめ!松山城一番のフォトスポットはここ!

松山城の写真を撮るならこの入口のところすごくよかったです✨

映えまくる松山城

要塞感がすごくて迫力満点に撮れるのでオススメです✨

天守までの道のり

松山城の防御は鉄壁なので、そう簡単に天守までたどり着けさせてもらえません。いわゆる「七曲り」です。

下のマップのように、やはりくねくねと進んでいく必要があります。

本壇 配置図

一ノ門をくぐり、

一ノ門

二ノ門をくぐり、

二ノ門

三ノ門をくぐり、

三ノ門

筋鉄門をくぐり、

筋鉄門(すじがねもん)

ようやく天守のある広場まで辿り着けました

天守広場

ここから天守に入っていきます✨

天守入り口

天守へ

天守の中は、他の城と比べると全体的にコンパクトな造り。(重三階地下一階)

天守の階段が急なのはわかっていることだけれど、毎回、これを袴を着ている人たちが上り下りしてたのすごいなって思います。

天守の階段は急

天守の中では展示が行われていて、歴史的な資料を時代を追いながら見ることができました。

槍や刀の展示

鎧の展示

武具に限らず、資料や解説もありつつ、松山城の歴史を知りながら天守を巡ることができました。

歴史や文化の展示や解説

また、通路には階段がちょこちょこあったのですが、手すりが設置されていて配慮されているなって思いました

階段にはしっかり手すりが設置されていた

小天守

小天守内部の様子

小天守は防御の役割があるところから、天守広場も見渡せるようになっていました。

天守広場を見渡せる

ここで敵の進行の様子が確認できるようになっているんですね。

また、小天守には、松山城の上棟式に使用された弓矢が展示されていました。

松山城の上棟式に使用された弓矢

松山城の上棟式に使用された弓矢。

上棟式は棟木(むなぎ)を棟に上げる際、建物の守護神や工匠の神に工事進捗の感謝と加護を祈願し、末永く禍(わざわい)なく幸多いことを祈る祭祀(さいし)である。弓矢は式具の一つで不祥(ふしょう)を祓い除くものといわれている。

さあ、いよいよ天守最上階です

小天守から天守最上階が見える

松山市を一望!天守最上階からの眺め

天守の最上階まで上がってきました。

天守最上階

松山城の天守は三重三階地下一階(層塔型天守)なので、天守自体は3階建てみたいなものですが、

天守の全高は、本壇から20m(しゃちほこの高さを入れると21.3m)。 本壇は本丸から8.3mの高さがあり、本丸の標高は約132mであることから、天守の標高は約161mあることになります。 これは「現存12天守」の平山城の中では最も高い城郭です。

松山城 | 見どころ

と、オフィシャルサイトにもある通り、標高としては結構高いところにあるため、眺望は抜群でした✨

天守最上階からの眺め

城山荘売店で愛媛スイーツを堪能

松山城を堪能したら、松山城公園本丸広場にある城山荘売店で休憩しましょう🥳

城山荘売店

ここにはお土産売り場と食堂が入っていて、愛媛スイーツを堪能できます💕

城山荘売店の様子

tabelog.com

私もこのお店の名物「伊予柑ソフト」をいただきました

伊予柑ソフト 450 円

さっぱりしつつ、伊予柑のほどよい香りがよかった✨

夏に行ったので最高のスイーツでした💕

絶対に落とせない。だからこそ攻め込まれない。歴史が証明する鉄壁防御の要塞

松山城は防御を突き詰めて設計されたお城で有名ですが、一度も攻め込まれたことはないそうです。

攻め込む機会があったのかどうかはわからないけれど、少なくともこのお城の設計のすごさがわかるからこそ、攻め込むことを止めた武将もいたんじゃないかな。

日本百名城 No. 81「松山城」

素敵なお城でした✨

松山城

帰りはリフトで帰ったけど眺めめっちゃ良かった✨✨

全てが最高格式。京都が誇る名城「二条城」へ。

京都を代表する名城であり、世界遺産でもある「二条城」に行ってきました🥳

二条城ってこんなトコ

二条城

二条城は、徳川家康が建てたお城で、当時の天皇が住む京都御所の守備と、自ら(将軍)が京都へ上洛した(赴いた)際の宿泊所として建てられました。

ようこそ二条城へ。二条城は、かつて城の主要部分であった本丸と、それを取り囲む二の丸で構成されています。二の丸は江戸時代に造られた建築、美術工芸品、庭園等が多く残るエリアです。近世武家文化が体感できます。北部には、昭和時代に京都市が作庭した清流園があり、美しい近代庭園を御覧いただけます。本丸の江戸時代に造られた建築は、火災によりほとんどが焼失しましたが、天守閣跡と明治時代に移築された皇族の邸宅が残っています。将軍が眺めた景色に加えて、近世から近代にかかる皇族文化を体感できます。各スポットの解説をもとに、400年間の歴史に思いをはせ、日本文化の旅をお楽しみください。

二条城に関するトピック
  • 1603 年(慶長8年):築城(江戸時代の始まりと同じ)
  • 1611年(慶長16年):二条城会見(天皇譲位の時に家康が豊臣秀頼と会見を行った)
  • 1867 年(慶応3年):大政奉還(天皇へ統治権を返上し江戸時代が終わりを迎える)

〒604-8301
京都府京都市中京区二条城町541

nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp

江戸時代が始まった 1603 年に二条城ができたこと。そして 1867 年に 15 代将軍 慶喜が二の丸御殿の大広間で「大政奉還」を行ったことから、江戸の終わりと始まり、繁栄と衰退を見守った城として有名なこの二条城を巡って行きたいと思います✨

京都駅から二条城へのアクセス

京都駅から二条城へ行くならバスがおすすめ。

京都市営バスで二条城に停まる路線があるのでそれに乗れば二条城の前まで行けます。

京都駅前バスターミナルの B1 のりばに来る 9 系統、または B2 のりばに来る 50 系統のバスに乗ります。

MAP: 京都駅前バスのりば案内マップ - 京都の安い宿 より

B1 のりば(奥)と B2 のりば(手前)

B1 のりばに停車する 9 系統の京都市バス

乗車時間は 15 〜 20 分くらい。「二条城前 バス停」で降ります。

バス内の案内電光掲示板に「次は二条城前」と表示されている

バス停を降りれば、目の前が二条城です✨

その他、京都駅から二条城へのアクセス手段に関してはこちらの記事によくまとまっていたので、地下鉄での移動を考えている場合は参考にしてみると良いです

narakanko-enjoy.com

まずは入城券を購入

二条城に入るために、まずは入城券を購入します。

入城券売場

入城券は窓口か発券機で購入できます。

窓口(左)と発券機(右)

私は QR コード決済ができる窓口で購入しました。

窓口なら QR コード決済が可能

利用可能な QR コード決済(2022年3月24日時点)
  • d 払い
  • paypay
  • メルペイ
  • au PAY

paypayで入城券を購入

ちなみに料金に関しては、通常の入城料(800円)と併せて、「二の丸御殿を観覧するか(+500円)」「展示収蔵館を観覧するか(別売り 100 円)」で料金が変わってきます。

私は二の丸御殿も観覧させていただくので一般大人で 1030 円を支払いました。

入城/二の丸 一般 入城券 1030 円

そうそう、この時私は「入城+二の丸御殿」で 1030 円の支払いだったのですが、

現在の入城料金は改定されており、2022/6/1 〜 より、入城のみ 800 円入城+二の丸御殿で 1300 円になっています。

nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp

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入城料を支払ったら、いざ二条城へ!

東大手門

二条城をめぐるコース

二条城の散策範囲はこんな感じでけっこう広いです。

二条城マップ

二条城のマップは公式サイトから確認できます。

nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp

今回は、公式サイトに掲載されている「おすすめコース(2時間)」に沿って散策します。

おすすめコース(2時間)

東大手門

二条城の正門、東大手門です。

東大手門

立派ですね。大きいし、品格を感じます。

東大手門の様子

なお、東大手門は重要文化財に指定されています。

東大手門 外観

重要文化財 東大手門

二条城の正門。築城時からこの場所にあるが、現在の建物は、寛永3年(1626)天皇をお迎えした行幸(ぎょうこう)に際して建てられ、寛文2年(1662)の改修で今の姿になったと考えられている。

一階を門、二階を櫓とすることから櫓門と呼ばれ、二階の櫓は「矢倉」とも書くように本来は武器庫であるが、正面の出格子窓には、門に近づいた敵を真上から攻撃するための「石落し」を備え、攻撃と防御の要となっている。金箔を貼った飾金物は、天皇を迎える正門であるための装飾と思われる。また、天皇をお迎えした時は二階の櫓がなかったことが絵図類で分かっており、天皇が門を通られることを考えて二階は不要と判断したのではないかと推測される。その後、寛文年間の改修で再び櫓が載せられたのは、築城時の姿が正門としてふさわしいとの考えからと思われる。

二条城の正門ということで、石垣がめちゃめちゃキレイに仕上げてあります。

東大手門の石垣

番所と総合案内所

東大手門をくぐると、番所と総合案内所があります。

総合案内所(左)と番所(右)

番所は警備のための武士の詰め所です。

番所

徳川将軍不在時の二条城は、幕府から派遣された「二条在番」と呼ばれる武士たちが宿直・警備していた。一つの組は五十人で構成され、二条城には二組が常駐し、毎年四月に他の組と交代していた。 この番所は、その在番の詰所の一つで、寛文三年(一六六三)に建てられたことがわかっており、間口十間(十九六メートル)、奥行三間(六・一メートル)の切妻造りの建物となっている。現存する城郭の番所は全国的にも少なく、貴重な建物である。

総合案内所では音声ガイドを借りたりパンフレットを入手できたり、二条城を巡るための情報が集約されているところです。

総合案内所で音声ガイドを借りたりできる

要所要所の案内板がわかりやすい

二条城の素晴らしいところの一つに、散策に関する情報が要所要所にわかりやすく案内板があるところです。

案内板で、現在地と全体マップを確認できる。

こういうのってどこの城に行ってもあるにはありますが、二条城のマップは大きくてフルカラーで各所の名称も記載があってとてもわかりやすいんですよね。

各ポイントにあるこのマップを見て、次はどちらに進むかを確認・決定できるので、これは素晴らしいなって思いました。

東南隅櫓(とうなんすみやぐら)

東南隅櫓(とうなんすみやぐら)

中に入ってみたかったですが公開されていなかったのが残念。

二条城の外堀の四隅は見張り台としてこういった隅櫓が建てられており、普段は武器庫として使われていました。1788年(天明8年)の大火で多くの櫓が焼失してしまい、今ではこの東南隅櫓と西南隅櫓の2つが残るのみとなっています。

重要文化財 東南隅櫓

寛永3年(1626)の寛永行幸に際し建設された隅櫓の一つである。西南隅櫓と比べ一回り大きく、1階屋根に「千鳥破風(ちどりはふ)」が載せられているのが特徴である(西南隅櫓では優美な曲線の唐破風)。1階の外堀に面する出窓には、東大手門と同様「石落し」を備え、攻撃と防御の要となっている。内部は板敷で、2階にだけ「棹縁天井」が張られている。また火縄をかける釘が打たれており,鉄砲を収納していたことが分かる。二条城には,外堀と内堀の四隅,外堀北中央に計9棟の櫓があった。それらはほとんどが2階建てで、例外として内堀南西隅のものが5階建ての天守閣,内堀北西隅のものが3階建てであった。現存しているのは東南隅櫓と西南隅櫓の2棟だけである。

攻撃防御の要ということで、現存する 2 つの櫓のうちの 1 つがひっそりと、ここ東大手門から唐門に続く道の角にそびえています。

東南隅櫓

手前に咲いているのは寒緋桜。

唐門(からもん)/ 築地(ついじ)

唐門(からもん)

重要文化財 唐門

寛永3年(1626)の寛永行幸に際し、その前年に建てられた。屋根の前と後に、優美な曲線を描く「唐破風」が付けられていることから唐門と呼ばれ、格式が最も高く、御所や内裏では御幸門とも呼ばれる。柱から上の空間すべてに彫刻が入っており、鶴や亀、松竹梅、蝶に牡丹など長寿や吉祥を象徴する彫刻が多いが、龍に虎、唐獅子等の霊獣と考えられる彫刻も多く、唐獅子は全部で10頭もいる。聖域を守護する霊獣の多さは、貴賓を迎える門にふさわしい。

重要文化 築地

築地の東面は長さ110m、高さは石垣上に立つため6mと稀にみる大きさである。白線は、皇室との関係性の深さを本数で示すもので、5本線が最高格である。

唐門

唐門は、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)が来るぞー!ということで造られたらしいですが、そのせいもあってか豪華絢爛ですね。

金の装飾がまぶしいくらいに輝く

門もすごいのですが、ポイントはもう 1 つあって、それがこの築地に見られる「筋塀(すじべい)

唐門

築地(ついじ)は唐門から延びている土塀です。(平たく言えばこの「壁」)

筋塀(すじべい)は、この唐門から伸びている土塀において、皇族や摂家などの御所では「土塀の壁面に線を引いてその格式を示す」という風習があって、二条城は最高格式を示す 5 本線が引かれていることが見て取れます。

唐門

豪華な唐門に、最高格式の筋塀。二条城の格式の高さを感じますね。

二の丸御殿

二の丸御殿

国宝 二の丸御殿

二の丸御殿は、将軍上洛の際の居館として、徳川家康により江戸初期の慶長8年(1603)に造営され、寛永3年(1626)、後水尾天皇行幸にそなえて、第3代将軍家光の代に改造が行なわれ、現在の姿となった。慶応3年(1867)には、第15代将軍慶喜により、大政奉還の発表が行われた。御殿は全6棟の建物からなり、江戸初期に完成した住宅様式である書院造の代表例として日本建築史上重要な遺構であり、江戸城、大坂城、名古屋城の御殿が失われた今日、国内の城郭に残る唯一の御殿群として、昭和27年(1952)に国宝に指定された。内部を飾る障壁画は日本絵画史上最大の画派である狩野派により描かれた。現存面数は2000面を超え、そのうち1016面が国の重要文化財に指定されている。訪問者を迎える壮大な遠侍から、公式な対面所である大広間へと、さらには将軍が普段くつろぐ白書院へと、各棟、各部屋は機能に合わせて規模としつらえを異にしている。

来客を迎えたり将軍と対面する部屋があり、大政奉還が行われた舞台である二の丸御殿。

実物を見ると門構えの豪華さと、後ろに控える遠侍の大きな屋根の重厚感が品格の高さを感じます。

玄関の豪華さ

遠侍の屋根

二の丸御殿は撮影禁止のため、内部を撮影することはできなかったのですが、大政奉還の舞台となった大広間や、各書院などを見て回りました。

二の丸御殿の案内板

各部屋には来客の待合室的なものだったり家臣の控室的なものだったりと、それぞれに「役割り」があるのですが、その役割りに併せて襖に描かれている絵画がとても秀逸というか。

襖の絵画はただの絵画ではなくて「空気(雰囲気)を操作」しようとしている、つまりは「表現」だったんだなと思うとすごいなって感じました✨

二条城に来た際は二の丸御殿を観覧されることをおすすめします!

二の丸御殿

釣鐘(つりがね)

二の丸庭園の手前に釣鐘が展示されていました。

釣鐘

釣鐘

鐘は京都所司代屋敷で火事等の緊急事態を周辺に知らせるために使われていた。京都所司代とは主に朝廷や大名を取り締まっていた江戸幕府の出先機関である。京都所司代屋敷は二条城の北に隣接して3ヶ所あり上屋敷・堀川屋敷・下屋敷(千本屋敷)と呼ばれていたが、これらは下屋敷で使われていたものである。慶応3年(1867)に京都所司代が廃止された後、二条城に移されたと考えられる。

火事など緊急事態を知らせるために、1 つは二条城に、もう 1 つは二条城の北にある所司代に置かれていた釣鐘。

京都所司代屋敷っていうのは江戸幕府の行政機関みたいなところで、皇室・公家の監視や京都諸役人の統率なんかを行っていたところみたい。

細かいところまで装飾が彫られていて、仕事の細やかさが見て取れますね。

吊り下げる部分の装飾がかっこいい

これらの釣鐘の出番どれくらいあったんだろう。緊急事態以外では使われなかったのかな?

いずれにしても、同じ役目を持ちそれぞれの持場についていた釣鐘たちが今はこうして 1 つの場所に静かに眠っているっていうことにちょっとしたロマンを感じます。

釣鐘の上部


釣鐘の側面

二の丸庭園

二の丸庭園 入り口

特別名勝 二の丸庭園

慶長8年(1603)の築城時に作られ、寛永3年(1626)に作事奉行小堀遠州のもとで改修された庭園。この時期の城郭には、居住のための御殿と共に豪華な庭園が作られた。二条城の他には名勝名古屋城二の丸庭園、名勝和歌山城西之丸庭園、名勝旧徳島城表御殿庭園が残っているが、いずれも火災等で御殿が失われているため、二条城は御殿と庭を一体的に鑑賞することができる我が国で唯一の事例である。この庭園は、公的な領域である大広間の西面、将軍に近しい人々の対面所として用いられた黒書院の南面に位置する。かつて後水尾天皇の接遇の為に設けられた行幸御殿が園池の南側に建てられ、庭園の四方は回廊と建物で囲まれた状態にあった。行幸の後、御殿は移築されると同時に、将軍家による利用が減じて荒廃したが、明治以降にソテツを含む植栽の整理・補植が行われた。

御殿あるところに庭園あり。ですね。

二の丸庭園

大政奉還の時点では結構荒廃していたらしいですが、その後、幾多の改修を経て今の姿になったらしいです。

静かで主張し過ぎない木々たち。そして池との風景が非常に落ち着く風景を作り出していました。

二の丸庭園の風景

また、庭園から臨む二の丸御殿の姿もいい感じでした。御殿と庭園との調和が取れていて、落ち着きます。

大広間

全体的に「静か」な印象の二の丸庭園。

この日は午前中に訪れましたが、人も少なかったのでこの雰囲気を味わうのに大正解の時間帯でした。

二の丸庭園

本丸櫓門(ほんまるやぐらもん)

本丸魯門

重要文化財 本丸櫓門

寛永3年(1626)頃の建築で、本丸西櫓門(焼失)とともに本丸を防御する重要な門である。戦時には木橋を落して敵が渡れないようにし、さらに銅板で覆われた扉を閉めて火器に備えた。本丸には井戸や米蔵もあるので、籠城戦の備えもできている。内側の土塀に見える穴は、鉄砲で攻撃するためのもので、まさに要塞の構えである。 また、寛永行幸の際に天皇は2回天守に登られたが、その時の木橋は2階橋で、天皇は二の丸御殿内から橋の2階の畳廊下を通って、地上を歩くことなく天守まで行かれた。天守へ登られた天皇は、この時の後水尾天皇が唯一といわれている。その2階橋の一部は、昭和5年(1930)頃まで残っていたが、その後解体され、部材の多くは土蔵で保管されている。

本丸御殿に行くにはこの東橋(本丸櫓門)と、反対側にある西橋しかなくて、有事の際には橋を落として本丸に行けないようにしたとのこと。

今架かっている橋は改修が入っていると思いますが、短いながら擬宝珠がついていたりと、ここでも格式の高さを感じます。

東橋の様子

本丸櫓門はというと、本丸御殿に通じる門だけあって、小さいながらも重厚感があります。

がっちりした鉄門

1788年(天明8年)に起きた「天明の大火(京都を焼け野原にした京都歴史上最大の大火事)」の時にも本丸櫓門は唯一焼け残ったらしいです。門の錆にも歴史を感じますね。

ちなみに天明の大火は、空き家の民家から出火して結果的にかなりの大火事になってしまったヤバい災害。

3万7000軒の家が焼け 6万5000世帯が住む所を失った。御所や二条城,東西の本願寺も焼けてしまった。

www2.city.kyoto.lg.jp

さて、この門をくぐると、本丸です。

本丸庭園

本丸庭園

本丸庭園

明治29年(1896)に明治天皇の指示により作られた庭園である。天皇は右側に見える本丸御殿の最上階から指示を出され、それは植栽にまで及ぶものだったとの記録がある。この場所には、かつて2つの建物が建てられていた。寛永3年(1626)、3代将軍徳川家光が建てた本丸御殿と、それが焼失した後、幕末に15代将軍慶喜が建てた建物である。慶喜が建てた建物は明治14年(1881)頃に取り壊され、明治26~27年(1893~94)に京都御所の北東部にあった桂宮御殿の主要部分が移築された。これが現在の本丸御殿である。移築時には、いったん庭が作られているが、明治天皇の指示によって、すぐに改造された。

本丸御殿の庭園ではありながらシンプルな造りになっていて、全体というよりはポイントポイントで小さな世界が形成されているような印象を私は受けました。

この一視点からの風景で感じる雰囲気。眺めるポイントで印象も変わる。

天守閣跡

天守閣跡

天守閣跡

二条城の天守閣は、寛永3年(1626)伏見城から移築されたと考えられている。屋根は5重あるが、内部は地上5階、地下1階の大きさで、屋根には瓦型の銅板が葺かれていたようである。寛永行幸の時、後水尾天皇は2回天守閣へ登られ、ここが、天皇が登った唯一の天守閣と言われている。寛延3年(1750)、落雷により焼失し、再建されることなく現在に至っている。天守台の大きさは、石垣の高さ約18m、広さ約427m²である。なお、築城当初の二条城には、別の場所に天守閣があった。今の清流園のあたりである。もとは大和郡山城にあったものと考えられており、寛永年間に城域を拡張するに際し、淀城へ移築された。

二条城の天守は五重六階。そこそこ大きかったんですね。

落雷で消失したのが 1750 年ということは、9 代将軍 家重の時。江戸時代真っ只中だけど建て直さなかったんだ🤔

でも 1788 年に天明の大火が来るから、もし建て直したとしても燃えちゃった可能性はありそうですね。

ちなみに最近、この天守を復元するかみたいな話が上がったらしくて(といっても 2016 年)、その時は 100 億円くらいかかるみたいな試算が出たらしいです。

www.sankei.com

お城関係の復元・修復事業って、規模感的に自治体の一大事業ですよね。歴史の継承と経済的な発展、そして資金回収を考えなければならない。

ということで登ってみるとこんな感じで広場になっていて

天守閣跡の様子

周辺を見渡せました

天守閣跡から臨む風景

実際の天守は五重六階だからもっと高い位置からの眺めだと思うので、実際の天守からは京都の街並みも臨めたかもしれませんね。

本丸御殿

本丸御殿、絶賛改修中!

改修中工事中で今回は残念ながら見られませんでした。

工事現場の壁に貼られていた本丸御殿の案内板

「2017 年 6 月から 5 年かけて保存修理及び耐震補強工事を行っています。」

令和 6 年(2024)に完成予定。ということは 2 年後ですね。

また二条城に来る理由ができました。その時まで楽しみにしておこうと思います。

西橋

本丸櫓門(東橋)の反対側にあって、本丸御殿に行ける 2 つの橋のうちの 1 つ。

西橋

ちなみに西橋側には櫓門はなくて、石垣があるのみです。

立派な石垣の向こうに、西橋。

ただこの石垣、いわゆる「ちゃんとしてるやつ」で「切込接ぎ」ってやつですね。

あらゆるお城を回ってて、石垣ってどこのお城のを見てもすごいなって思うのですが、この切込接ぎは特にすごいなって思います。

どこまで計算されてこんなに石をキレイに切ってるんだろうって。

今みたいに精密機器もなかった時代ですよね。それなのにこの完成度を叩き出しているのがすごいなって。

切込接ぎの仕事の秀逸さよ

敷地的に裏側になるので場所的に見せ方としては荒目になる石垣ですが、それでもここの石垣はキレイに仕上げてあるなって思いました(いちおう、素人の見解です)

石垣の話になってしまいましたが、橋も、うん、きちんとしてる(急に雑)

西橋

土蔵ゾーン

さて、ここまでで主要な二条城イベントをクリアしてきました。

現在地を確認

「あとは帰るだけ」

満足感を皆の背中から感じる

いえいえ、そうではありません。

ここまでで結構たくさん巡ったのでお腹いっぱいになりがちですが、帰りルートで見られる土蔵が素敵なのです。

土蔵

重要文化財土蔵(北)(米蔵)

本丸西橋を挟んで南の土蔵と対になっている。寛永3年(1626)頃の建築である。建物は長さが17間と長く、内部が2つに分けられている。内部に床を張り、天井はない。窓は土戸を外に開く開戸で、板庇を設け、内側の鉄格子に銅網が取り付けられている。このような窓の造りは、二条城では他にない。窓は南・東・西の3方に設けられている。現在、城内には3棟の土蔵があるが、江戸時代には10棟存在した。城に土蔵が残るのはここ二条城だけである。土蔵は穀物類を収納するのが目的だが、武器をしまう蔵もあるのが城の特徴である。寛永期の絵図には、火縄銃で使う塩硝用2棟、火縄用1棟が描かれているが、いずれも現存しない。

この土蔵が結構風情があっていいんですよね。

土蔵がたくさんあるお城はここが初めて

ここの土蔵は西北側にあるものですが、西南側にもあります。

他、二の丸御殿の周囲にも土蔵があります。

二の丸御殿周辺の土蔵

北中仕切門(きたなかしきりもん)

北中仕切門

重要文化財北中仕切門

内堀の南側にある南中仕切門と対になっている。規模もほぼ同じで、寛永3年(1626)頃の建築である。本丸西櫓門への通路を塞ぐ、防御上重要な門である。門は小振りで西門より少し小さく、背面の屋根だけが延びるという変わった構造となっている。門の上に立つ土塀と石垣に囲まれていることから「埋門(うずみもん)」と呼ばれる。埋門の形はこの他に、石垣に囲まれて開口だけのものもあり、姫路城が有名で、高松城にもある。

ここで敵が裏側(西橋)に回って本丸に行くのを防ぐんですね。

「本丸西櫓門への通路を塞ぐ」ってことは、さっき通った西橋のところにも櫓門あったのかな。

土塀と石垣に囲まれている

たしかに、このタイプの門は姫路城と高松城にもあったかも。

回られるのを防ぐための門だから、重厚ですね。

重厚感のある門

加茂七石

加茂七石

枯山水的なミニな庭園が二条城にもありました。

  • 八瀬真黒石
  • 鞍馬石
  • 畑石
  • 糸掛石
  • 紅加茂石
  • 紫貴船石
  • 畚下石

賀茂川・高野川などで採石された銘石を使った庭園なんだそうです。

ameblo.jp

清流園(せいりゅうえん)

清流園

昭和40年(1965)に京都市が迎賓施設として作った庭園である。西半分は和風で2棟の建物(和楽庵、香雲亭)が建てられている。東半分は洋風で芝生が敷き詰められている。建築部材、庭石、樹木の多くは京都の豪商・角倉家の屋敷跡から譲り受けたものである。角倉(すみのくら)家は江戸時代前期に、角倉了以(すみのくらりょうい)が運河として高瀬川を整備するなど、京都の発展に大きな影響を与えた商家である。清流園南の園路沿いには曲がりくねった樹形が特徴的な「しだれえんじゅ」が植えられ,7~8月には白い蝶形の花をつける。また,春には桜が一斉に咲き「桜のトンネル」が楽しめる。

この清流園、東西で庭のコンセプトが違っていて結構面白かったです。

西側、和風の造り。

清流園の西側

東側、洋風の造りで芝生が敷き詰められている。

清流園の東側

また、訪れた時期が 3 月下旬ということで、この年(2022年)は桜の開花が遅かったので、一部桜が咲いていてキレイでした🌸

清流園の桜

大休憩所と屋台店で京都の味覚を堪能

二の丸庭園の東側、順路でいうと一番最後に、大休憩所っていうのがあって。その通りに屋台店が出ていました。

賑わう屋台店

どれも美味しそう。。

足は自然と甘味の方へ。。

旅の道中はやはりお団子でしょうか・・・

ということで、私は抹茶だんごと抹茶を堪能しました。

抹茶だんごと抹茶(600円)

二条城の散策は結構巡る所が多かったのでそれなりに疲労感ありましたが、最後にこんなご褒美が待っているとは知らなかったので疲れも一気に吹き飛びました💕

京都駅に帰るバス停はどこに?

京都駅に帰る際のバス停ですが、二条城(東大手門)を出て、正面の道を挟んだ反対側にバス停があります。

帰りのバス停は道を挟んだ反対側にある

バス停から見た二条城

9 系統のバスに乗れば京都駅に行けます。

9 系統のバスに乗りましょう

ちなみに、京都市バスの路線図とかをチェックするなら、観光マップ「地下鉄・バスなび」を入手するのがオススメです。

京都市交通局のサイトからでも PDF でゲットできます。

www.city.kyoto.lg.jp

格式高き伝統を伝える二条城。希少な現存御殿。

二の丸御殿

将軍や天皇のためのお城(御殿)ということで、門の堅牢さ、御殿の豪華さ、そして石垣の精巧さなど。

全てにおいて野戦築城とは一線を介した優美さが二条城にはありました。

二の丸御殿

格式高き品格を伝える数少ない歴史の生き証人として、これからも在り続けてほしいなって思いました。

本丸御殿の修復工事が終わったらまた来ます✨

二条城

支出と滞在時間

支出

  • バス 460 円(京都駅 - 二条城前 往復)
  • 入城料+二の丸御殿観覧 1,030 円(2022/6/1 から料金改定されています)
  • 抹茶だんごと抹茶 600円

合計:2,090 円

滞在時間

2 時間 20 分

最後に

これまでのお話を動画にしました

私と感じたのと同じ雰囲気をぜひ体感してください✨