週末はじめました。

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川越城本丸御殿ってこんなトコ〜日本百名城 No.19 川越城 本丸御殿と周辺史跡めぐり

東日本で現存する唯一の本丸御殿 川越城本丸御殿

現存している本丸御殿はここ川越城の本丸御殿高知城の本丸御殿2 つのみ。非常に貴重な川越城本丸御殿を巡ります。

本丸御殿の歴史

川越城跡

江戸時代初期の川越城の姿は、17世紀後半に制作されたと考えられる「江戸図屏風」に垣間見ることができます。屏風には川越城として、本丸とニノ丸が堀で区画された 2 つの郭として描かれています。 川越城は鷹狩などでたびたび将軍の「御成り」があった記録があり、本丸御殿は将軍のための「御成御段」であったと考えられます。

元禄15年(1702)に写された「武州河越御領分明細記」には、「ニノ丸御屋形」とあるため、城主御段はニノ丸に置かれ、本丸に関する記述がないことから、本丸の御殿は解体されていたと考えられます。 江戸時代末の弘化3年(1846)、ニノ丸御髪が火災で焼失してしまいました。そこで、御殿を再建することになりましたが、当時空き地になっていた本丸が用地に選ばれ、嘉永元年(1848)、新たに本丸に面殿が建てられました。新しい本丸御段は建物の数16 棟、1,025坪にも及ぶ広大な建物で、城主の住まいだけでなく、城主が政務を行う場や家臣たちが常する部屋なども設けられており、文字通り城の中心となる建物でした。

ちなみに徳川家康は 8 回、徳川家光は 9 回、鷹狩で川越に来たと言われています。

外観

本丸御殿

正面はシンメトリーで厳かな佇まい。玄関が大きく迫力があります。

側面は北側、徒詰所や中ノ口のある側を撮影できましたが、とてもきれいで洗練されています。

御殿北側からの様子

こちらは御殿の北西側、正面に対して裏側からの様子。右手に見えるのは家老詰所。

北西側からの本丸御殿

玄関の脇には櫛形塀(くしがたべい)が見れます。

櫛形塀

玄関

玄関は大きくてとても立派です。

玄関の様子

巨大な唐蔵風屋根に間口 3 間の広い開口部と、八寸角の太い柱が、石高17万石の大名御殿にふされしい感容を感じさせます。

開口部めちゃめちゃ広かったです。

間口 3 間の広い開口部

ちなみに当時、この玄関を使えたのは殿様以上、つまり将軍のみ(藩主でも中ノ口から出入り)ということで、格式の高さが伺えます。

受付

受付

玄関を上がってすぐに受け付けがあり、大人は入館料 100 円を支払って本丸御殿へ入ります。

受付でもらえる入館券とパンフレット

本丸御殿館内

現在の川越城本丸御殿はこのような構成になっています。ゆっくり見て回っても 20 〜 30 分くらいの内容。

本丸御殿館内案内図

廊下

廊下

座敷部分を取り巻く廊下は、場所によって床の材質が異なります。玄関のある東側部分及び中ノ口部分はケヤキ、南側から西側の広間西側部分にはツガ・マツが使われています。これは、御殿内の公的空間と私的空間を区別して材種を変えたためと考えられます。

床はしっかりしていて痛みは全く見られなかったです。しかもきれい。これも保存に努めてくださっている方々のおかげですね。

ただ、冬は床が冷たく足が冷えるので、ゆっくり見て回りたい場合は自身でスリッパなどを持ってきた方がよいかもしれません。(履物の提供はありませんでした)

廊下

静かに佇まう。そんな言葉がぴったりの雰囲気でした。

使者の間

使者の間

使者って「使い番をつとめる武士」の意?御用聞きみたいなものでしょうか。そういった人たちが待機する場所だったのかな。

欄間が結構モダンな感じですよね。襖には竹の絵。

欄間と襖

使番詰所

使番詰所

使番(つかいばん)とは、江戸幕府および諸藩の職名。古くは使役(つかいやく)とも称した。その由来は戦国時代において、戦場において伝令や監察、敵軍への使者などを務めた役職である。これがそのまま江戸幕府や諸藩においても継承された。

使番 - wikipedia

伝令が待機する場所ということかな。江戸時代における「使番」には役人の監査のひとを意味していたみたい。

こちらの襖にはキジ?の絵が描かれていました。

襖にはキジの絵

老体・番抜詰所

番抜・老体詰所

「番抜」は、事実上現役を退いたようなひとのことを指すそうです。以前はそこそこ偉かった、年齢とかで前線を退いたが一定の影響力を持つ(つまり偉い)ひとたちがここに部屋を与えられていたのかな。

この部屋の襖には絵が描かれていないですね。とても質素な造りです。

老体・番抜詰所はシンプル

物頭詰所

物頭詰所

「物頭」は「足軽頭」の意味みたい。兵でも少し偉い人のこと。現代的にいえば軍曹みたいな人のための部屋なのかな。

ここも特に装飾はなくて、もてなしというよりはやはり使える者のための部屋だったのが伺えます。

物頭詰所もシンプル

中庭

廊下

廊下を進んだ先に中庭があります。

中庭

ここも昔は「大書院」という大きな建物があったそう。

現在の本丸御殿の南側には「大書院」と呼ばれた目大な建物が建っていました。書院は明治初期に解体されてしまいましたが、本丸御殿南端の柱群には書院の部材が入れられていた「ホゾ穴」などの痕跡が残っています。

庭はよく整備されていてきれいでした。こういう風景って落ち着きます。

中庭

明治棟(第 1 展示室)

日当たりもとても良いですね

中庭沿いの通路を進んでいくと、明治棟(第 1 展示室)があります。(その先はトイレ)

明治棟(第 1 展示室)

この建物は明治29年に描かれた「三芳野神社境内図」に姿が見られるため、明治初期に建てられたものと考えられます。本丸御殿が入間県庁や入間郡公会所として利用されたため、その附属施設として使用された可能性があります。平成20年度の修理に伴う解体によって、「大書院」など同時期に解体された本丸御殿の部材の一部が天井裏に転用されていることが確認され、古材が使用されている部分はそのまま保存し、柱などの一部を交換して補強しました。

ここは明治時代に作られた部屋なんですね。だから明治棟なのか。

ここには、本丸御殿の保存修理工事の様子が展示されていました。

川越城本丸御殿保存修理工事の様子を展示

川越城本丸御股保存修理工事

昭和42年に実施された修理から約 40 年の月日が経ち、本丸御殿には雨漏りや壁のひび割れといった建物の痛みが目立つようになりました。そのため、平成 20 年 10 月から約 2 年半をかけて「川越城本丸御殿保存修理工事」が行われました。 この保存修理工事は、建物を一度管組みだけの状態に解体し、補修や補強を施しながら解体前の姿に戻す「半解体修理」という方法で行いました。修理に際しては、木造建築であり、文化財建造物であることを踏まえ、伝統的技術と現代の構造補強を両立できるように取り組んでいます。また、木材は腐朽部分のみを除去して新材を埋め込んだり、瓦は一枚ずつ点検しながら再利用できるものを選別したり、壁士は屋根に葺(ふ)かれていた土を配合してつくるなど、建築当初から残る部材は可能な再利用し、新規材は必要最小限の交換としました。 この展示室では、保存修理工事の様子をお伝えしながら、木造建築の魅力を感じていただける内容といたしました。

できる限り「当時のまま」を保てるようにの配慮と、現代技術を以て修理に当たったのですね。それを可能にする日本の建築技術はすごいと思います。

交換した南側鬼瓦

今回の工事で交換した大棟(おおむね)南側にあった鬼瓦です。 建築当初は南側に「書院」が続いていたので、鬼瓦はありませんでした。瓦表面の風合いが北側の鬼瓦に似ていることから、書院が解体された際に、鬼瓦が必要になったため、旧本丸御殿のいずれかの建物で使用されていたものを置いたと考えられます。

建築当初の屋根下地

建築当初は「土居葺(どいぶ)き」と呼ばれる屋根下地でした。これはサワラ材を短冊状に薄く切った板を重ねるもので、大変手間のかかる下地でした。

明治棟を出て先に進んでいきます。

廊下の静かな雰囲気

坊主当番詰所(第 2 展示室)

坊主当番詰所(第 2 展示室)

江戸時代では「坊主」は「僧侶」を意味していたみたい。

お坊さんの部屋だったってことかな。

今は第 2 展示室になっていて、資料が展示されています。

坊主当番詰所(第 2 展示室)の様子

川越城本丸御殿の紹介板

川越城本丸御殿

弘化3年(1846)のニノ丸御殿の焼失により造営された本丸御殿は募永元年(1848)に竣工しました。造営にあたっては、当時の城主松平大和守斉典が石高17万石を誇る大名であったことから、その格式にふさわしい威容を持つ御殿が造られました。巨大な唐破風を持つ玄関やその両脇に連なる櫛形などは、その象徴的な意匠とすることができます。 現在では玄関・広間部分と家老詰所など、その一部が残っているのみですが、その頃に描かれた「本城住居絵図」などを見ると、広大な御殿であったことがわかります。現在の本丸御殿の南には城主との対面の間を擁する「大書院」があり、その西側には城主の住まいなどの私的空間である「中奥」「奥向」が連なっていました。 また、現在の本丸御殿から西に伸びる廊下には御殿内最大の居室である「御時計の間』や城主の食事を作る厨房があり、その最も西側に家老詰所がありました。

本城住居絵図

川越城本丸御殿 年表

日本百名城スタンプ

釘隠し

坊主当番詰所と明治棟の間にある中庭

静かな時間が流れる中、ゆっくりと見て回れます。

落ち着く雰囲気の中で、ゆっくりとした時間が流れます。

また、坊主当番詰所・家老詰所・広間裏の廊下に囲まれた中庭も、良い雰囲気です。

家老詰所と大広間裏の廊下の間にある中庭

家老詰所

家老詰所は藩の政治を取り仕切った家老たちが常駐する場所。

家老詰所 案内図

本丸御殿に勤務していた満の家老が詰めていた建物です。江戸時代、落主は参勤交代があり、実質的には家老が落政を行っていました。この建物は明治初期に解体され、現ふじみ野市の商家に再築されていましたが、昭和62年に川越市に寄贈され、現在のところに移築されました。

廊下

記録方詰所

記録方詰所

中庭方面の廊下に、いい感じに陽が当たってめちゃめちゃ雰囲気よかったです。

中庭方面の廊下とその景色

年寄詰所

家老詰所

家老詰所にいる人形は、黒船来航を受けてお台場の沿岸警備をどうしていくかの話し合いの様子を再現したもの。

川越藩と江戸湾警備についての相談

雨戸と当時の施錠・固定機構

雨戸と当時のロック(施錠・固定)機構

雨戸の施錠・固定についてはこちらでくわしく解説しています。なかなかに秀逸です。

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便所

通路の先に便所

便所は通路を挟んで両側に、全く同じものが 2 つありました。

本丸御殿は多くの人が集まる建物であるため、便所は御殿内の各所に設けられていました。多くの建物から突出する形で設置されましたが、家老詰所のように建物内に設置されたものもありました。

当時は木製で作られていた

男性小便器に杉の葉?が置かれているのは、飛び跳ね防止とか消臭とかの役割があったみたい。

家老詰所を出て先に進みます。終わりも近いです。

家老詰所を出て中ノ口へ

中ノ口

中ノ口(写真左奥)

正面玄関に比べて間口 2 間半の一回り小さな規模の玄関です。屋根は当初千鳥風であったと考えられ、現在の流れ屋根は昭和 42 年の修理の際につくられました。 当初は、北側に1間分長く突出しており、正面同様階段と式台もあったと推測されています。

玄関は将軍専用だったから、藩主含め、みんなここから出入りしていたということですね。(勝手口的な?)

正面から撮れてなかったので一応補足しておくと、ここが中ノ口です。

中ノ口

また、ここには川越城跡の模型も展示されていました。

空から見た川越城跡の模型

徒詰所(かちつめしょ)

徒詰所

徒士(かち)は、江戸幕府や諸藩に所属する徒歩で戦う下級武士のことである。近代軍制でいうと、馬上の資格がある侍(馬廻組以上)が士官に相当し、徒士は下士官に相当する。徒士は士分に含まれ、士分格を持たない足軽とは峻別される。戦場では主君の前駆をなし、平時は城内の護衛(徒士組)や中間管理職的な行政職(徒目付、勘定奉行の配下など)に従事した。

徒士 - wikipedia

護衛が待機する部屋ってことかな。

玄関に出やすいし、正面に位置していることから、外の状況がわかりやすい位置ということでここに作られたのかもしれませんね。

窓も多くて外の状況を確認しやすそう

広間

広間

36 畳の広さを誇る。御殿内で 2 番目に大きかった座敷で、来客が城主のお出ましまでの間待機した部屋と考えられている。城主との対面は南側にあった「大書院」でおこなわれたようです。

襖には松が描かれていて、一番豪華です。

襖には松が描かれている

釘隠しも豪華

釘隠しも豪華

また、広間には紫裾濃威鎧(むらさきすそごおどしよろい)という鎧が展示されていました。

紫裾濃威鎧(むらさきすそごおどしよろい)

そしてこちらは、室内運動場として使われていたころの名残。天井にバレーボールの跡が残っています。

天井にバレーボールの跡

歴史的価値というのは、やはり時間の経過と共に理解され見直されていくものなのでしょうね。

現存している本丸御殿はここを含めて 2 箇所しかありませんが、バレーボールの跡がついているというのはなかなかにユニークです。

そして、

広間の前が玄関のためここで一周。見学終了となります。

広間の前は玄関

東日本唯一の現存本丸御殿「川越城本丸御殿」

現存している本丸御殿は川越城の本丸御殿と高知城の本丸御殿の 2 つのみ。

非常に貴重な史跡です。

また、御成御殿にふさわしく大きな玄関や広間も必見です。

ぜひご自身で歴史を体感してみてください。

(今回の見学時間:40 分)

川越城本丸御殿


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高知観光にオススメ!デキる男によって築かれた「高知城」昼は威風堂々と、夜はライトアップでお洒落に。

高知城

「日本 100 名城」「現存 12 天守」「日本に 2 つしか現存していない本丸御殿」として、めちゃめちゃ貴重な歴史的建造物「高知城」に行ってきました🥳✨

高知城

高知城

  • 別名:鷹城(たかじょう)
  • 指定:
    • 日本 100 名城(No.84)
    • 日本三大夜城
    • 現存 12 天守
    • 四国八十八景 27 番
  • 本丸御殿が現存しているのはこの高知城と川越城のみでとても貴重な遺構
  • 城全域は高知公園として無料で開放
    • 天守および本丸御殿(別名「懐徳館」)への入館は有料

kochipark.jp

〒780-0850
高知県高知市丸ノ内1丁目2−1

高知城ができた経緯

高知城ができた経緯は wikipedia を要約するとこんな感じ📝


山内一豊(やまうち かつとよ)っていう武将が江戸時代になって桂浜近くの浦戸城に入ったんだけど、城下町を形成しにくい場所だった(狭かったらしい)ため、今の高知城がある大高坂山(おおたかさかやま)の上にお城を建てようってなって建てたのが高知城。

ただし、大高坂山にはそれ以前からお城があったとされているんだけど、水はけが悪かったため廃城になった歴史があった。

高知城の築城に際して、水はけの問題を解決するために、石垣技術に優れた近江穴太衆を配下に持ち、築城技術に優れていた百々綱家(旧織田秀信家老)を召喚してこれを解決、築城に当たらせた。

百々綱家は関ヶ原の戦いで罪人になって京都で謹慎させられていたんだけど、山内一豊が徳川家康に懇願してこれを実現させた。


山内一豊って優秀な武将だったんだろうね😲✨

「デキる男」山内一豊

高知城がある高知城公園の入り口には、山内一豊の銅像も設置されています

山内一豊像

銅像下の案内板には、山内一豊に関する説明もありました。

土佐藩初代藩主山内一豊は、天文14年(1545)生まれ。13歳の時尾張国(愛知県)岩倉城主・織田伊勢守信安に仕えていた父が戦死し、母や幼い兄弟とともに流浪した。

天正元年(1573)豊臣秀吉に従って織田信長の朝倉浅井攻めに出陣して武功を上げた。以後も秀吉の麾下として各地の戦いに参加し、次第に頭角をあらわして近江国(滋賀県)長浜2万石の城主から、天正18年(1590)小田原攻めののち遠州(静岡県)掛川5万石を領した。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの功績により、土佐一国24万石を与えられて翌6年入国、高知城の築城と並行して城下町を整備し、現在の高知市の基礎を形作った。

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と三代の天下取りの間を生き抜いて出世したただ一人の武将といえる。

慶長10年(1605)9月20日没。61歳。

すごい人だったんですね✨

銅像の表情を見ると、凛々しい感じがデキる男感を演出していました。

「デキる男」山内一豊

高知城へ

高知城の基礎知識も入れたところで、早速高知城へ。

高知城はそのエリアを「高知公園」として無料で開放しています。

高知城入り口

高知市の中心にそびえる大高坂山(標高44.4m)にあって、天守閣からは市街地のほぼ全容が眺められます。現在は県立高知公園となっています。

高知城は、関ヶ原の戦の功で遠州掛川6万石から土佐24万石に封じられた山内一豊が、慶長6年(1601)から築いた城です。人夫は毎日1,200人から1,300人を動員し、資材は近隣から集め、瓦は大阪から取り寄せ、一豊は一日おきに浦戸から工事の督励のために現場におもむきました。慶長8年(1603)には本丸と詰門・太鼓櫓が完成し、一豊は同年8月に入城しました。享保12年(1727)には大火にあい、追手門ほか数棟を残して焼失しましたが、2年後に再建に着手し、24年かけて復旧しました。これが現在の高知城です。天守閣と追手門がそろって残っていることや、全国で唯一本丸内の建造物がほぼ完全な形で残っていることなどから、城郭史上極めて貴重な遺構です。これらを含めて15の建造物が国の重要文化財の指定を受けている他、敷地は高知城跡として国の史跡に指定されています。

追手門から東にのびる追手筋には毎週日曜日に日曜市が開催されます。この街路市は元禄3年(1690)から続く長い歴史を持っています。市の開設場所は何度かの変遷があり、追手筋で開かれるようになったのは昭和23年のことです。ここでは農産物を中心に海産物や日用品など600軒余のお店が1km以上にわたって並んでいます。

高知城、高知公園の玄関口となっている「追手門」がすごく立派です。ここから天守も見えてお城に来たぞっていう感じがします✨

追手門と天守

ちなみに、追手門と天守が一枚の写真に収められるのは高知城のみなんだそうです。

もっと言うと、江戸時代のお城で「追手門」と「天守」が揃って残っているのは 3 箇所しかないそうです。

さて、

追手門の手前には高知城のマップがあります。

高知城はけっこう広いので、「どこに何がある」とか「トイレの場所」とかは予め確認しておくと迷わなくて良いです

高知城マップ

喫煙所もここだよって丁寧に案内板が出ていました

高知公園内の喫煙場所マップ

追手門

追手門

高知城の表門です。

追手門

慶長年間創建、寛文4年(1664)に再建されたもので、当城では珍しく大きな石を積んだ石垣で枡形を構成し、内部が見通せないように右側に建てられた城の正面である。

重層で入母屋造り、その木割りは太く堂々とし、欅を用いた主柱や扉、冠木などには要所に銅製の飾り金具を取付けている。その規模が大きく、城門として豪壮優美な趣を備えている。

追手門めちゃめちゃ大きいし、案内の通り重厚感すごいです。

追手門

追手門の反対側も大きな梁が見て取れて、まさに「威風堂々」堂々とした門構えです。

追手門をくぐったところ

広場には観光案内所やトイレ

追手門をくぐるととても広い広場があります。

追手門を抜けた先の広場

この広場にはトイレの他、観光案内所もあります。

観光案内所・トイレ・高知城

板垣退助の銅像

広場には板垣退助の銅像があります。

板垣退助の像

板垣退助は土佐出身で、明治維新の前は土佐藩の藩士だったこともあり、ここ高知城に像があるのだそう。

「板垣死すとも自由は死せず」

で有名な政治家ですね。

「板垣死すとも自由は死せず」

高知城天守へ続く石段

広場から天守へ向かう道は石段になっています。

天守へ向かう階段

石段は結構ありますが、一段一段は低いので体力に不安がある人でもゆっくり上れば問題ないです。

石段を上る途中にも天守が見えます。見落とされがちのフォトポイントです📷

天守が見えるから石段もがんばれます

山内一豊の妻の銅像

石段を上っていくと小さな広場があり、そこに山内一豊の妻の銅像があります。

山内一豊の妻の銅像

山内一豊の妻の銅像

山内一豊の妻は、弘治3年(1557)生まれ。通称千代といわれているが、これを裏づけるたしかな資料はない。出身についても通説では近江国(滋賀県)浅井氏の家臣若宮友興の娘とされているが、近年では美濃国(岐阜県)八幡城主遠藤氏の娘ともいわれている。

幼い頃父を失い、17.8歳の頃一豊と結婚、貧しい暮らしの中で家を守り、戦いに明け暮れる一豊の出世を助けた逸話が残されている。中でも結婚の時持参した10両の金を出して一豊に名馬を買わせ、それが織田信長の目にとまって出世の糸口になった逸話は広く知られている。

また、関ヶ原の戦いの前に、笠の緒に縒りこめた手紙で関東にいる一豊に大阪方の情報を知らせ、その進路を決定づけさせたことが一豊の土佐一国領主への道を開くことになった。手芸や文筆にもすぐれ、賢夫人として知られている。元和3年(1617)

12月4日、京都で没、61歳。法号見性院(けんしょういん)。 この銅像は昭和40年(1965)2月26日に除幕された。

山内一豊同様、ご夫人もかなりデキるひとだったみたいですね✨

結婚の時持参した10両の金を出して一豊に名馬を買わせ、それが織田信長の目にとまって出世の糸口になった

三の丸石垣

さらに石段を上っていくと、ひときわ目を引く大きな三の丸石垣があります。

三の丸石垣

ても大きくて迫力があります。これは野面積みかな。

時間経過を経たその姿が歴史を物語っているようです。

その姿が歴史を物語っているよう

三ノ丸石垣は、孕(はら)み(石垣が外側に弧を描くように歪んだ状態)や隅角部の築石にヒビ割れが入っている等が見られたため、平成 16 〜 21 年度(2004 〜 2009年)にかけて修理工事が行われたそうです。

三ノ丸石垣 案内板

三ノ丸石垣

三ノ丸は、慶長6年(1601)の築城開始から10年を要して最後に完成した。面積は4,641㎡、出隅部分の石垣の高さは約13m。石垣に使用されている石材は主にチャートであるが、砂岩、石灰岩も一部使用されており、穴太衆(あのうしゅう)が、安土城の石垣で始めたとされる自然石の形を活かした野面積みで多くの面が構築されている。また、三ノ丸には、1,815㎡の壮大な御殿が建築されていた。

三ノ丸の入り口にあたる鉄門付近の石垣は、鉄門の改築に伴い積み直されたものと見られ、砂岩で構成された打ち込みハギで築かれている。今回の解体修理に伴う発掘調査でチャートの根石(基礎石)が確認され、改めてその事実が確認された。

三ノ丸の石垣は、慶安3年(1650)、宝永4年(1707)に地震や豪雨により、崩壊し、修理した記録が見られる。今回の修理は、平成11年に実施した調査により、割れたり、孕んだ石が多く、崩落の危険性が確認されたことから、平成12年度から事前の発掘調査や測量などを実施した後、鉄門付近から東面の花壇前まで実施した。

工事は、改修前の石垣の状態を把握した後、割れた石以外は元の石を使用し、元の場所に戻すことなど原状復旧を基本として実施した。 改修工事は、穴太衆の野面積みの技法を現代に伝える石工が携わって平成16年度から平成21年度にかけて実施、総工費約4億円を要した。

現代の技術によって歴史という名の姿が保たれているのですね。素敵です✨

石段も終盤、姿を現す天守

さて、

ここまで石段を上ってきて、だんだんと天守も大きく視界に入るようになってきました✨

段々と姿を表す天守

まだ石段を上っていますが、終盤です。

ここまでくると後少し

ここまで上ると天守も壮大で、その全貌を捉えることができます。

天守

あと一息、ここを上りきれば本丸への石段ツアーは攻略です。

本丸に続く最後の石段

ここまではずっと石段なわけですが、ルートとしては以下を通ってきたことになります。

上ってきた石段のルート

二の丸、霧吹き、アイスクリン。

石段を上り切ると、二の丸跡である広場に出ます。

二の丸跡である広場

訪問した日は真夏だったので、霧吹きとアイスクリーム屋さんが出ていました。

とても暑かった日。写真左手の霧吹きがすごく助かりました。

炎天下の中、石段を上ってきた身体にはこの霧吹きがめちゃめちゃうれしかった✨

あとアイスクリームも。

高知名物「アイスクリン」

「アイスクリン」てなんだろうってなりましたが食べてみて納得。

分類的にはかき氷に入るそうで、アイスクリームと見た目は同じなんだけど食感とかが違う感じでした。

この日は暑かったので、とにかくこのシャリシャリ冷たいアイスクリンに救われました🥰

kochi-marugoto.com

とはいえこれからが本丸御殿に天守と本番。

ここでアイスクリンと霧吹きゾーンで体力を回復させました✨

最後になりますが、この広場には昔、二の丸がありました。

ニノ丸

本丸の北、三ノ丸の西上方に位置するこのニノ丸は、三ノ丸より約8メートル高く、標高約40メートル、外輪の長さ270メートル、総面積4,128平方メートルの台地である。ここに建てられていた二ノ丸御殿は、政務をとる表御殿と藩主が日常の生活をする奥御殿が連続して建てられており、一部二階建てになっていた。総面積は1,233平方メートルもあった。明治6年(1873)公園化にともなってすべての建物が撤去されたが、現在残る築山は、奥御殿の上段の間に藩主が着座したとき、正面に見える位置にあたっている。

二ノ丸にはこのほか目付役所やスキヤ櫓、家具櫓、長局(ながつぼね)などの建物があった。特に西北隅にあったニノ丸乾櫓(いぬいやぐら)は、城内にあった8棟の櫓の内では唯一三階建てで、二階と三階の屋根には飾りの千鳥破風を配し、さながら小天守のようであった。

北側の一段下がったところに水の手門があり、綿蔵・綿蔵門を経て城八幡方面や北門の方に通じていた。

いよいよ本丸へ

さて、ここまでは入城のための試練。試練を無事に越え、いよいよ本丸へ突入です。

まずは、藩政時代に築かれた本丸御殿ではこの世に 2 つしか現存していない本丸御殿の 1 つ「懐徳館(かいとくかん)」へ向かいます。

詰門

ちなみに、高知城の本丸御殿のことを「懐徳館」と言うのですが、これは明治 6 年に高知城が公園として一般に公開された時に懐徳館と名付けたのだそうです(個人的には本丸御殿でいいのではと思いつつ)

そしてこの本丸御殿が、天守への入口にもなっています。

ちなみにここはまだ詰門です。

詰門

詰門は本丸と二ノ丸の間の堀切に設けられた櫓門。廊下橋としての役割も担っており、二階部分は、藩主のもとに向かう家老の待合場所であったことから、詰門の名が付けられたと言われている。

一階部分は、籠城に備え、塩を蓄える蔵になっている。入口は、東面と西面で食い違いになっており、攻め寄せた敵が容易に突破できない構造となっている。

そしてこの詰門を抜けると、本丸御殿と天守の登場です。

天守と本丸御殿

高知城 本丸御殿「懐徳館」

本丸御殿 入口

入城引換券は入口脇の発券機で購入できます。

入城引換券発券機

引換券を購入したら、すぐ隣りの窓口で入城券と交換してもらいます。

入城券

では本丸御殿に入って行きます!

本丸御殿に入城

高知城は天守と本丸御殿がつながっていて、本丸御殿その 1 階にあたります。

高知城全体図

ということで、2 つしか現存していない本丸御殿に、いざ参ります🥳

貴重!日本に 2 つしか現存していない本丸御殿

本丸御殿 欄間(らんま)

高知城の本丸御殿は書院造。

本丸御殿の様子

書院造

書院造は、寝殿造を母体として発展したもので、室町時代にその形式が生まれ近世に武家の住宅様式として完成した。それは、大・小両書院を中心に玄関や台所などを配した一連の建物群で、個々の建物(書院)は、畳敷きのいくつかの部屋の集合によって構成される。特徴として、部屋の外回りの建具に舞良戸(まいらど)・明障子(あかりしょう)雨戸が立てられ、内部は間仕切が増えて大小の部屋ができ、間仕切には襖・明障子が用いられる。柱は角柱で壁は張紙が貼られ障壁画などによって装飾される。また、天井には格天井(ごうてんじょう)が用いられる。

書院造は主室の床を一段高くして上段とすることや座敷飾りの位置、装飾などにより、身分と格式の序列を表現しており、武家の権威を象徴する建築様式である。

静かな雰囲気が漂います。

外の景色も結構良きです✨

本丸御殿から外を眺める

川越城の本丸御殿に比べると広くはないけれど、趣のある御殿です。

すぐ隣りに二の丸御殿があったことを考えれば、このくらいの広さでも問題は無かったってことなんでしょうね。

そしてここが上段の間

上段の間

上段の間は書院造でいうところの、主君が座ったところですね。

そして奥に見えるのが「帳台構え」ならぬ「武者隠(むしゃかくし)

武者隠(むしゃかくし)

一応帳台構えで、この扉の向こうは納戸なんですけど、藩主護衛の武士が隠れたことから「武者隠(むしゃかくし)」と呼ばれたそうです✨

そしてその納戸がこちら

帳台構えの向こう側、武者隠の納戸

君主の危険を察知したらここから飛び出して守る、現代の SP みたいな武士がここで待機してたんでしょうね。

ちなみに本丸御殿の間取りはこんな感じでした

本丸御殿の間取り

ということで、ここからいよいよ天守に入っていきます✨

天守

高知城は外観 4 重(内部 3 層 6 階)望楼型天守です!つまりここから全部で 6 階まで上がっていく!頑張って上っていくぞーっ🥳

1 階 - 当時の生活・築城の様子 -

本丸御殿からそのまま入る 1 階で築城時の様子が模型で展示されていました

築城時の様子を再現した模型

石垣を作る人、資材を運ぶ人、ご飯を用意する人などなど、、

こんな感じで沢山の人が作業に当たっていたんですね。

石垣を作る人、資材を運ぶ人、ご飯を用意する人などなど

石落としもありました

石落とし

1 階と言えど石垣の分高さはあるので、この距離から石が降ってきたらなかなか怖いですね😭

2 階 - 高知城ジオラマ -

2 階の様子

2 階には高知城の精巧なジオラマが展示してあってこれがまたかっこ良かったです✨

高知城のジオラマ

そして 2 階の時点で眺めも良かったです💕

2 階からの眺望

さて、では天守といえばの急勾配の階段を上って 3 階に行きます

階段はもれなく天守特有の急勾配

いつも思うけど、この角度を袴とか着物を着た人たちが上り下りしてたのだからすごいなって思います。

3 階 - 破風を間近で -

3 階の様子

3 階には補修工事の様子が展示されていました。

補修工事の様子

破風の間(はふのま)

そして 3 階には「破風の間」があります。

破風の間

この大きな窓から外の様子を確認(物見)したり、鉄砲を打ったり(鉄砲狭間)とかの役割があったとの事

破風の間の窓

破風の間 案内板

破風の間

破風の内側に部屋を設け、人が入れるようにしたものが初期の形態で実戦的なものである。高知城の破風の間は石打ち棚と呼ばれ、物見や鉄砲狭間の役割があり、攻撃の為の小陣地になり東西南面に設けられている。北側の破風内部は、隠し部屋となっている。

高知城は望楼型天守(ぼうろうがたてんしゅ)なので大きな入母屋破風(いりもやはふ)を持っていますね。両側の破風はきと採光の役割も果たしていたでしょうね✨

反対側にも破風がある

4 階 - 日本百名城が大集合!! -

4 階の様子

4 階にはなんと、日本百名城の写真がずらっと展示されていました✨

日本百名城の写真がずらり

高知城を見に来たはずなんだけど、ここで他のお城に釘付けになりました😇

そして 4 階からの眺望も良き✨

4 階からの眺望

真夏の天守は暑いのですが、外から風が入ってきて窓際は涼しかった💕

5 階

写真撮り忘れました😭

ので一気に最上階へ!✨

6 階 - 最上階からの抜群の眺め -

6 階の様子

さていよいよ高知城天守の最上階

眺めが抜群でした✨

天守 最上階 からの眺め

頑張って上ってきてよかったー✨

どのお城行っても毎回感動します💕

現存する天守、本丸御殿、追手門。全てが歴史の生き証人。

高知城

デキる男、山内一豊によって築かれ、修繕を続けながら今もなお時を刻み続ける高知のシンボル「高知城」

高知城

現存十二天守に数えられ、さらに本丸御殿はここ高知城と川越城にしか現存していません。

今も残る大きな石垣

黒鉄門

資料でも映像でもなく、間近で見て回ると感じられるものがあります。

石垣、塀、門、御殿に天守。

力強くも静かに佇むその一つ一つに、歴史という時間の流れを感じずにはいられません。

高知城の塀

1601 年に築城されてから 400 年余、この大高坂山から高知を見守り続けてきた歴史の語り部はこれからも高知を、そして日本を見守り続けてくれることでしょう。

高知城

今回で 2 回目の高知城でしたが、威風堂々の佇まいに元気をもらえました。ありがとうございました。

夜のライトアップ高知城

高知城は日本三大夜城の 1 つに数えられており、日没から 22 時までライトアップされています。

高知城のライトアップきれいでした💕

追手門のところから

ただ正直なところ、人がいないとちょっと怖い、、🥲

追手門

でもこのライトアップ、松の木もいい感じに照らされてて雰囲気は良いです

追手門と天守のライトアップの感じが良き

天守もホワイトでライトアップされて幻想的

天守のライトアップ

遠くから見るとまるで天から光が降り注いでいるかのように見える素敵なライトアップ✨

夜の高知城

私が行ったときはどうだったかわからないのですが、高知城の天守の足元からのライトアップ の他に、老舗のピアノバー「赤い靴」のオーナーさまがお店のあるビルの屋上にサーチライトを設置していて、そこから高知城を照らしたり、あとは「城西館」という旅館でもサーチライトが設置されていて、そこからも高知城を照らしていたりするのだそうです。

天から光が降り注いでいるかのように見えたのは、そのせいもあったのかな?

私が見た位置的には、城西館からのサーチライトが当たってたとかはありそう✨

夜の高知城も、オススメです💕


高知城に行くならこちらもおすすめ✨

www.ritocamp.com

日本百名城 No.81「松山城」ふたを開けてみたらとんでもツンデレ城!鉄壁の防御城なのに絶品伊予柑スイーツなどなど

松山城

松山城

愛媛県は松山市にある日本百名城「松山城」に行ってきました🥳

松山城

松山城

松山城のすごいとこ!

  • 日本百名城の一つ
    • No. 81
  • 現存 12 天守の一つ
    • 戦乱・天災・戦災によって多くの城郭が失われ、江戸時代以前に建造された天守が現代に残っているのは、全国で12城しかない
  • 登り石垣がある
  • 重要文化財
    • 大天守、野原櫓・乾櫓・隠門続櫓など櫓6棟、戸無門・隠門・紫竹門・一ノ門など門7棟、筋鉄門東塀など塀7棟
  • 国の史跡

基本情報

所在地:愛媛県松山市丸之内1

www.matsuyamajo.jp

  • 天守の営業時間
    • 9:00~17:00
      • 季節によって終了時間が前後します
  • 料金
    • 松山城+リフトorロープウェイ往復
      • 大人:520 円
      • 小人:160 円

www.matsuyamajo.jp

沿革

松山城は、松山平野の中央に位置する勝山(かつやま)(海抜132m)を中心に築かれた平山城(ひらやまじろ)で、山頂に「本丸」が、南西の山麓に「二之丸」や、堀と土塁に囲まれた「三之丸」(塩之内)」が配されています。さらに、本丸と二之丸をつなぐ全国でもめずらしい南北2本の「登り石垣」や、東と北の山麓に「東郭(ひがしのくるわ)」「北郭(きたのくるわ)」が配置されるなど、堅牢な城構(しろがまえ)です。また、それらが良好に残されている全国でも数少ない城跡で、敷地の大部分は「国史跡」に、本丸の建造物の多くが「重要文化財」に指定されています。

松山城の築城は、関が原の戦い(慶長5年(1600年)での活躍により、この地を与えられた加藤嘉明によって、慶長7年(1602年)から始められました。嘉明は、築城にあわせて、勝山の南を流れていた湯山川(現、石手川)を付け替えました。また、城下町の整備を行い、三之丸と城の周囲に侍町を、その外側に町人地(ちょうにんち)を置き、さらに、勝山の北側にある御辛子山(みきじさん)の山麓に、城を防備するために寺町を配置しました。なお、嘉明は、正木城(まさきじょう)(伊予郡松前町)から慶長8年(1603年)10月新城下に移りました。この頃から、「松山」と呼ばれるようになりました。

城の完成は、寛永4年(1627年)に嘉明が会津へ転封(てんぽう)された後、替って入った蒲生忠知(がもうただちか)によると伝えられています。忠知の死後、跡継ぎがいなかったため、寛永12年(1635年)、松平定行が松山藩に入り、以後、明治維新を迎えるまで松山城は、松平家の居城として機能しました。松山城の天守は、定行によって三重に改築されましたが、天明4年(1784年)正月に落雷で焼失したため、安政元年(1854年)に再建されました。

松山城『築城物語』

松山城は、慶長七(一六〇二)年正月十五日、賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍で有名な加藤嘉明によって起工されました。

石材などは、正木(松前)城や湯築城などから運ばれたものも多かったようです。嘉明は、足立重信を普請奉行として工事に着手、おたたさん(魚の行商をする女性)が砂を運び、近郷の農民が手ぐり渡しで瓦を運ぶなど、多くの人々が工事に従事しました。

翌慶長八年十月に、嘉明は正木(松前)から新城下に移り、城下を松山と命名し、城の名前を松山城としました。 城全体の完成は、加藤嘉明が会津四十万石に移封となった、寛永四(一穴二七)年頃といわれています。約二十六年の歳月をかけて築城されたことになります。

別称「金亀城」の名前の由来

お城は、標高百三十二メートルの山(勝山)の上にあり、勝山城または金亀城とも呼ばれています。

松山城築城の際、山麓の内堀(愛媛県庁西側)の処が、深い淵になっていて、そこに「金色の亀」が棲んでいたといわれています。その伝承にちなんで、別名「金亀城」と呼ばれるようになりました。

登り石垣

実際には見られなかったのですが、松山城といえばこの「登り石垣」が有名なところなんですよね。

登り石垣は、山腹を登るように築造された石垣のことです。松山城では、登り石垣山頂の本丸と山麓(さんろく)の二之丸との間にある大きな空間への寄手の侵入を防ぐため、それらをつなぐように南北2本一対の石垣が設けられています。

北登り石垣は、明治時代以後に破壊され、ごく一部しか残っていませんが、南登り石垣は、ほぼ完全に残っており、総延長は230m以上に及びます。登り石垣は、洲本城や彦根城などにもみられますが、松山城のものが全国で最大の規模を誇ります。

ロープウエイ・リフトのりば 山麓駅『東雲口(しののめぐち)』

松山城は山の上にあるので、往路はロープウェイで行きました

松山城ロープウエイ・リフトのりば 山麓駅『東雲口(しののめぐち)』

ちなみに松山城へのアクセスには車や徒歩(軽登山的な?)でも行けます🚗

www.matsuyamajo.jp

山麓駅入り口にある坊っちゃん像

ロープウェイ・リフト券売り場

ちなみに山麓駅からはロープウェイとリフトのどちらかに乗ることができて、往復でどちらを使っても同じ料金です。(券も共通なので購入時に選ぶ必要もありません、乗る時にどちらにするか選べば OK)

ロープウェイ・リフト料金

  • 往復券
    • 大人:520 円
    • 小人:260 円(小学生)
  • 片道券
    • 大人:270 円
    • 小人:140 円(小学生)

(往復券の方が 20 円お得✨)

記念メダルあった!

乗車券をゲットしたので乗り場に向かいます

めちゃおおきい!壁画的な(?)

乗り場まではエスカレーターで向かいます(たしかエレベーターもあったかも)

駅は結構大きい

往路はロープウェイで行きますよ〜

ロープウェイは左通路へ、リフトは右通路へ

ロープウェイとリフト、どっちが良い?

ロープウェイは 10 分間隔で運行していますが、リフトは随時運行なのですぐに乗れます。

ただしロープウェイなら約 3 分リフトは約 6 分かけて上まで行くので、ロープウェイ発車までに 3 分以上ある場合はリフトの方が到着は早いということになります。

私はロープウェイに乗りたかったので乗り場に着いた時にちょうどロープウェイ行っちゃったけど、10 分待つことにしました

ロープウェイ乗り場

ロープウェイからの眺めも結構よかったですよ✨

ロープウェイからの眺め

こっちは動画

山頂駅『長者ヶ平(ちょうじゃがなる)』に到着です

山頂駅『長者ヶ平』

ということで、、

着いた〜✨(まだお城まではこれから)

山頂駅前の風景

山頂駅にはベンチがあって休めるのと、コインロッカーもあるから、ちょっと荷物が多い人は預けてから行くのがおすすめ(ここからそこそこ歩きます)

山頂駅の改札口とコインロッカー

六実庵(むつみあん)

山頂駅前には六実庵っていう、売店と食堂が入っているお店があります

六実庵(むつみあん)

これから松山城に向かうのに、気になる看板が、、、

ぜんざい、抹茶、わらびもち、みたらし、、美味しいワードばっかり

店内はお土産やさんと食堂があって、こんな感じ

食堂エリア

お土産エリア

tabelog.com

ちなみにこの日は 8 月下旬、残暑どころじゃない暑さで既にまいっていたので、みかんのジュレ?的なやつをゲット💕

ちゅるちゅるみかん

山頂駅〜松山城公園 本丸広場

ということで、いざ松山城へ向かって出発です!

松山城の手間に「松山城公園 本丸広場」があるので、まずはそこまでの道のりです

山頂駅から松山城公園 本丸広場までの道のり

山頂駅から。松山城へ向かうスタート地点

松山城の石垣

松山城の魅力の一つはこの立派な石垣✨

松山城の石垣

歩きだしてすぐに目に入るこの景色。遠目からでもテンション上がります✨

立派な石垣

この緻密な感じが良き✨

松山城の石垣の完成度よ

松山城の石垣について案内板

松山城の石垣

石垣は、松山城を特徴づける構造物の一つで、中でも「登り石垣」は、全国で最大規模を誇ります。石材には主に花崗岩が使用され、隅部(すみぶ)はほとんどが算木積(さんぎつみ)です。

本丸を囲む高石垣(たかいしがき)は、高さ10mを越え、美しい曲線を描く扇勾配(おおぎこうばい)と、屈折を連続させることで防御性を高めた屏風折(びょうぶおり)が特徴です。江戸時代に改修を受けている部分もありますが、北側を中心に、加藤嘉明による築城時(慶長7年(1602年)~}の典型的な石垣が良く残されています。その特徴は、緩い勾配と上部のきつい反り、一部自然石を使用した打込ハギの乱積(らんづみ)です。

一方、本壇(ほんだん)の石垣は、北側と南側で異なっています。北側は、時期はわかりませんが、打込ハギの布積(ぬのづみ)で、隙間に合わせて加工された間詰石(まづめいし)が詰め込まれている特徴がみられます。南側は、北側より新しく、嘉永(かえい)年間(1848~1854年)、天守などが再建された際に、新しく積みなおされ、十分に手間をかけた切込ハギの布積で、隙間のない整った外観となっています。

※算木積・・石垣の隅部の積み方で、細長い石を使用し、長辺と短辺を交互に積み上げる方法である。16世紀後半から登用され、慶長10年(1605年)頃に完成しているため、石垣築造年代の判定ができる。

※打込ハギ・・打ち欠いた石材を用い、接合面を合わせて積み上げる方法で、自然石を用いた野面積より隙間が少なく、高く積み上げることができる。

※切込ハギ・・整形した石材を用い、密着させるように積み上げる方法である。

※乱積と布積・・乱積は、横方向の目地が通らない積み方で、布積は、横方向の目地が通る積み方である。

※長者が平(なる)から登り、最初に見える右手の美しい勾配の石垣(高さ約16m)は、昭和20年に長雨で崩れたため、同22年に修復されている。戦後、最初の大規模な石垣工事であり、その記念名が隅石に刻まれている。

あっ

石垣の上に櫓が見えますね

石垣の上の櫓

これから通る筒井門の櫓かな?

待合番所跡

ちょっと開けたところがある✨

石垣の脇(写真左)に開けたスペース

ここは昔、待合番所だったところみたい

待合番所跡

待合番所跡 案内板

大手門跡

大手門は、慶長年間(1596~1615年)の築城時に建てられ、山麓にある二之丸および三之丸(堀之内)へ通ずる重要な門です。古文書や古絵図には、「尾谷二ノ門」「待合御門」「待合一ノ門」などと記されています。明治時代に、揚木戸門とともに取り壊されました。

待合番所跡

待合所跡待合番所は、東雲口からの登城道と二之丸からの登城道の合流する地点に、警備のために設けられました。その場所は、はっきりしていません。古文書には、常時三人が詰めていたと記されています。

この場所は、東は揚木戸門、西は大手門によって仕切られ、大手の入口で最も堅固な筒井門に続く要点で、兵力運用の重要拠点ともなっています。

なお、古文書には、揚木戸門から大手門までの石垣上に、6箇所の石落、76箇所の鉄砲狭間、11箇所の矢狭間が備えられていた渡塀(土塀)があったことが記されています。

※石落(いしおとし)・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在は鉄砲の射撃としての穴として理解されている。

※狭間(ざま)・・塀や櫓などに空けられた小窓のことで、矢狭間は立って弓を引くため高い位置にあり、鉄砲狭間は片膝ついて撃つため低い位置にある。松山城では、正方形が鉄砲狭間、長方形が矢狭間である。

さて、先に進みましょう

お城って感じの通路が素敵

戸無門(となしもん)

太鼓櫓

本丸はまだ先だけど、それでもこんなに立派な櫓と石垣があるの良き✨

そしてここを折り返すと、戸無門があります。

戸無門

戸無門と中ノ門跡の案内板

平門跡中ノ門は、大手登城道の太鼓櫓石垣下に設けられていましたが、明治時代に取り壊されました。 この門を設けることで、攻めてきた寄手は、門を通り過ぎて直進する者と、戸無門へ行く者とに分かれることになりますが、直進した者は乾門(いぬいもん)下で行き止まりとなります。

太鼓櫓から乾門へ続く石垣は、屏風折と呼ばれ、石垣が屈折しています。これは、寄手がどこにいても弓や鉄砲で射撃することができる横矢掛(よこやがかり)といわれる防衛上重要な構造となっています。

※寄手・・攻めてきた敵の兵士や軍勢のこと。

※横矢・・・二方向以上からの射撃を横矢という。敵に対して二方向以上から射撃することを横矢掛という。

さっきの道を折り返さないで直進すると行き止まりなんだね。

戸無門は、本丸の大手登城道に設けられた高麗門(こうらいもん)です。門は、両脇の寄掛柱(よせかけばしら)を石垣にもたせ、脇戸(わきど)はありません。江戸時代から戸無門の名で呼ばれており、鏡柱(かがみばしら)に扉を吊る肘壺(ひじつぼ)の痕跡もないので、創建当初から扉を持たなかったものと考えられています。

建築年代は明らかではありませんが、寛永(かんえい)から正保(しょうほう)年間(1624~1648年)の建立になるものと推定されています。また、寛政(かんせい)12年(1800年)に建替えられたことを示す棟札(むなふだ)が残されています。

昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同25年(1950年)の法改正により重要文化財になりました。

戸無門を過ぎて左折すると、大手で最も堅固な筒井門(つついもん)と隠門(かくれもん)の防衛線に達します。

※棟札・・建物の建築や修理の記録として、建物内に取り付けられる札のこと。

つまりこの戸無門に入ったら最後、袋のネズミになってしまうってことですね。よく考えられてます。

この佇まいが歴史を感じます

筒井門・隠門

戸無門(左)をくぐると、開けたところに出る

戸無門をくぐると少し開けた場所に出ます

景色も開けてて眺めが良い

ここにあるのが筒井門(つついもん)と隠門(かくしもん)です。

筒井門

そして筒井門の上にあるのが西続櫓と東続櫓

筒井門西続櫓と同東続櫓は、筒井門の両側に設けられた平櫓で、筒井門・隠門とあわせて大手の防備を担っています。

昭和12年(1937年)に修理工事が行われ、その際、築城時には筒井門櫓と西続櫓が建てられ、しばらくして東続櫓が建築された可能性が指摘されました。

昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同24年(1949年)2月に焼失したため、同46年(1971年)3月に復元されました。

こっちは西続櫓

じつはこの筒井門の奥にも小さな門「隠門」があります。

奥に隠門がある

隠門

この隠門は、戸無門から入ってきて筒井門を破ろうとする敵を背後から回り込んで攻撃できるように作られた門だそうです。

よく考えられていますよね。

そして隠門の上にあるのが隠門続櫓(かくれもんつづきやぐら)です

隠門続櫓(かくれもんつづきやぐら)

隠門続櫓は、隠門2階の渡櫓の東側に接続する平橋で、長者が平(なる)からの登城道を監視する目的で、揚木戸門(あげきどもん)前の本丸石垣の上に建っています。平面形は、石垣に合わせて東側に突き出た変則的なものとなっており、西側は隠門渡櫓につながっています。

隠門と同様に慶長(けいちょう)年間(1596~1615年)の築城時に建てられたと考えられており、創建当時の技法が残されている貴重な建造物です。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同25年(1950年)の法改正により重要文化財となりました。

筒井門を抜けると少し開けた広場になっています。

筒井門を抜けた先は小さな広場になっている

目の前の太鼓門を抜ければ、松山城公園 本丸広場です。

太鼓門(たいこもん)

太鼓門

この門を抜ければ、松山城前の広場です。

太鼓門太鼓門は、本丸大手の正門と位置付けられている脇戸付(わきどつき)の櫓門で、巽櫓(たつみやぐら)や太鼓櫓とともに防衛線を構築しており、隠門や筒井門とその続櫓による第1の防衛線に続く第2の防衛線となっています。

築城時に建てられたと考えられ、明治時代になり石落や窓などが改変されました。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失したため、同47年(1972年)2月に門は欅、階上は栂(つが)で復元されました。門の両側の石垣には、戦災による剥離が残されています。

なお、戦後、太鼓門南続櫓跡には、朝6時、正午、夕方6時の時報にあわせて音楽を流すミュージックサイレンが置かれ、市民に親しまれていました。

※石落・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在は鉄砲の射撃としての穴として理解されている。

門をくぐって緩い上り坂

太鼓門をくぐると上り坂

そしてこれを超えると松山城公園 本丸広場に到着。

松山城公園 本丸広場

山頂駅からゆっくり歩いてきて、10 分くらいでここまで来れました✨

松山城公園 本丸広場

ここは松山城前の広場だけあって結構広かったです✨

本丸広場

また、ある程度の上ってきたので眺めも良き✨

本丸広場からの眺望

売店や食事処があるのもこの本丸広場ですが、それはあとのお楽しみにとっておいて、まずは本丸広場にある見どころを少し紹介します

太鼓櫓(たいこやぐら)

太鼓櫓

太鼓櫓は、本丸の西南隅に配置された矩折(かねおり)の二重櫓です。この櫓は、巽櫓(たつみやぐら)・太鼓門・同西塀と同じ高さ(約7m)の石垣の上に築造されており、これらは一連の防衛線となっています。

築城時に建てられたものと考えられ、明治時代に石落(いしおとし)や突揚戸(つきあげ)などが改変されました。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失しました。同46年(1971年)に西面の石垣が解体修理されたあと、同48年(1973年)3月に総て栂(つが)で復元されました。

なお、古絵図には、太鼓櫓前に本丸広場の警備の番所(ばんしょ)が記されています。

※矩折・・「矩」は直角を意味する。

※石落・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在は鉄砲の射撃としての穴として理解されている。

※突揚戸・窓に取り付けられた板戸で、跳ね上げ式に外へ開き、棒で支えられている。

太鼓門西塀

西塀

太鼓門西塀(太鼓櫓東塀ともいう)は、長さ24.41mで、2箇所の石落と21箇所の狭間が備えられています。

昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失しました。同43年(1968年)から始められた木造復興計画の最後として、平成2年(1990年)に復元されました。

※挟間・・塀や櫓などに空けられた小窓のことで、矢狭間は立って弓を引くため高い位置にあり、鉄砲狭間は片膝ついて撃つため低い位置にある。松山城では、正方形が鉄砲狭間、長方形が矢狭間である。

※松山城の復元建物・昭和27年の井戸上屋、同33年の馬具櫓(鉄筋コンクリート造)、同43年の小天守ほか、同46年筒井門ほか、同47年太鼓門ほか、同48年太鼓櫓、同54年天神櫓ほか、同57年乾門ほか、同59年良門ほか、同61年巽櫓など。

井戸

井戸

この井戸は、築城時に谷だった場所を埋め立てるのにあわせて、泉を掘り下げ、石を積み上げて造られたと伝えられています。深さは44.2m、水深は9mあり、戦前までは釣瓶(つるべ)が備えられ、冷水を汲み上げて飲むことが許されていました。

上屋は昭和20年(1945年)7月の戦災で焼失したため、同27年(1952年)3月に城内で初めて再建されました。

井戸には、①底がない、②天守と二之丸への抜け穴がある、③大こうもりがいる、④水をきれいにするため大判・小判が投げ込まれている、などの伝承が残されていましたが、いずれも真実でないことがわかっています。

やっぱりこういう井戸って何らかの噂立ちますよね笑

馬具櫓(ばぐやぐら)

馬具櫓

馬具櫓は、本丸広場の西側にある二重櫓で、太鼓櫓とともに、二之丸方面の監視・防衛を担う櫓です。

この櫓は、明治43年(1910年)に「松山公園」として開園される直前、管理人用寝泊所として改装されました。

昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失したため、同33年(1958年)3月に本丸の防災ポンプ操作室として鉄筋コンクリート造で再建されました。木造以外の工法で再建された城内唯一の建物で、現在は、本丸の防災を含む管理事務所となっています。

再建には、西側石垣(高さ約13m)に荷重を与えないようにするため、建物直下にケーソン工法の基礎3個が用いられています。この工事中、ケーソン基礎2個の最深部(深さ約4.7~5.9m)で、現在の石垣とは別の石積が発見されました。これは、まだ知られていない松山城の歴史を示すものかも知れません。

さて、ではいよいよ松山城に入っていきましょうか

いざ、松山城へ!

いざ、松山城の内部へ!

受付でチケットを購入して入場していきます。

入場券売り場

案内板で、大体の配置を確認しておきましょう

松山城内部の案内板

むむむっ、、、

「天守」「本丸」「本壇」とか、字が似てるのが出てきてよくわからないので案内板の解説を参照😇

本丸

本丸は城の防衛上最後の砦となる郭(くるわ)で、高さ10mを越える高石垣(たかいしがき)に囲まれ、南北約300m、東西約30~180mという全国有数の規模を誇っています。高石垣は、美しい曲線を描く扇勾配(おうぎこうばい)と、屈折を連続させることで防御性を高めている屏風折が特徴です。江戸時代には、その上に石落や狭間のある渡塀(土塀)がめぐり、また要所には櫓が配置され、城下からは塀や櫓に囲まれた天守が望めたと考えられます。

本丸北側には、松山城の中心である連立式天守の本壇(ほんだん)が配置され、本丸南側には大手(正面、表口)である大手門、北側には搦手(からめて)(背後、裏口)である乾門(いぬいもん)があります。乾門付近には、乾櫓(いぬいやぐら)や野原櫓(のはらやぐら)という城内で最古の櫓が残されています。

※郭・・城内部の区画された平地のこと。

※石落・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在は鉄砲の射撃としての穴として理解されている。

※狭間・・塀や櫓などに空けられた小窓のことで、矢狭間は立って弓を引くため高い位置にあり、鉄砲狭間は片膝ついて撃つため低い位置にある。松山城では、正方形が鉄砲狭間、長方形が矢狭間である。

※連立式・・天守と2基以上の小天守・隅櫓が中庭を囲むように建てられ、渡櫓などで連結している天守形式のこと。

本壇(ほんだん)

本壇は、本丸の北側に位置し、天守(てんしゅ)・小天守(こてんしゅ)など城の中枢となる建物が配置されています。そのため、本丸広場より更に約8m高く石垣が築かれ、出入口は一箇所に限定されるなど防備は厳重です。天守は更に約4mの高さの石垣(切石を隙間なく積み上げる切込ハギによる)上に構築されています。

本壇石垣の隅々には櫓が配置され、渡塀または多聞櫓(たもんやぐら)などで接続されています。それらには石落・狭間・突揚戸(つきあげど)が設けられています。

出入口から天守に至るまでには、両側を石垣と櫓や塀で囲まれた中、幾つもの門をくぐりながら、何度も屈曲する道を経なければならず、侵入した寄手(よりて)はあらゆるところから狙い撃ちされるように仕組まれています。

昭和8年(1933年)に小天守、南や北の隅櫓、玄関などが焼失し、残された天守、天神櫓(てんじんやぐら)、塀、門などは同10年(1935年)国宝に指定されました。焼失した建造物の復興は、同41年(1966年)から着手され、同43年に竣工しました。なお、天神櫓は同20年(1945年)の空襲で焼失しましたが、同54年(1979年)に復元されました。

天神櫓を除き、国宝に指定されていた建造物は、同25年(1950年)の法改正により重要文化財になりました。

天守

天守は三重三階地下一階で、全高は天守広場から約20mあります。また、天守台石垣は、加工された石が隙間なく積まれ(切込ハギ)、4.1mの高さがあります。この石垣に囲まれる空間が、地下階となっています。

慶長年間(1596年~1615年)、加藤嘉明の創建当初は、五重であったと言われています。寛永19年(1642年)、松平定行(まつだいらさだゆき)が、三年の年月をかけて三重に改築しましたが、天明4年(1784年)正月、落雷によって焼失しました。

安政(あんせい)元年(1854年)に再建され、わが国城郭建築史上最後の天守となりました。

形式は、塔の様に屋根を重ねた「層塔型(そうとうがた)」と言われる構造です。外観は、南北屋根妻側は、一重目に千鳥破風(ちどりはふ)が、二重目に唐破風(からはふ)が、東西屋根には一重目二重目とも千鳥破風が付けられています。随所に矢や弾丸を放つ狭間が備えられ、窓には塗籠(ぬりごめ)格子、さらに四方に張りだした破風には鉄砲狭間が備えられ、外壁も三階は漆喰塗(しっくいぬり)の白壁となりますが、一階と二階は下見板(したみいた)が張られるなど武装建築としての様相をよく留めています。

地下にある穴蔵(穀倉)入口上部には、城内最大(約6トン)と言われる花崗岩五本が並列し、また内部の柱・梁には抗腐力の強い楠材が用いられています。

では、松山城へ入っていきます。

松山城への入り口

おすすめ!松山城一番のフォトスポットはここ!

松山城の写真を撮るならこの入口のところすごくよかったです✨

映えまくる松山城

要塞感がすごくて迫力満点に撮れるのでオススメです✨

天守までの道のり

松山城の防御は鉄壁なので、そう簡単に天守までたどり着けさせてもらえません。いわゆる「七曲り」です。

下のマップのように、やはりくねくねと進んでいく必要があります。

本壇 配置図

一ノ門をくぐり、

一ノ門

二ノ門をくぐり、

二ノ門

三ノ門をくぐり、

三ノ門

筋鉄門をくぐり、

筋鉄門(すじがねもん)

ようやく天守のある広場まで辿り着けました

天守広場

ここから天守に入っていきます✨

天守入り口

天守へ

天守の中は、他の城と比べると全体的にコンパクトな造り。(重三階地下一階)

天守の階段が急なのはわかっていることだけれど、毎回、これを袴を着ている人たちが上り下りしてたのすごいなって思います。

天守の階段は急

天守の中では展示が行われていて、歴史的な資料を時代を追いながら見ることができました。

槍や刀の展示

鎧の展示

武具に限らず、資料や解説もありつつ、松山城の歴史を知りながら天守を巡ることができました。

歴史や文化の展示や解説

また、通路には階段がちょこちょこあったのですが、手すりが設置されていて配慮されているなって思いました

階段にはしっかり手すりが設置されていた

小天守

小天守内部の様子

小天守は防御の役割があるところから、天守広場も見渡せるようになっていました。

天守広場を見渡せる

ここで敵の進行の様子が確認できるようになっているんですね。

また、小天守には、松山城の上棟式に使用された弓矢が展示されていました。

松山城の上棟式に使用された弓矢

松山城の上棟式に使用された弓矢。

上棟式は棟木(むなぎ)を棟に上げる際、建物の守護神や工匠の神に工事進捗の感謝と加護を祈願し、末永く禍(わざわい)なく幸多いことを祈る祭祀(さいし)である。弓矢は式具の一つで不祥(ふしょう)を祓い除くものといわれている。

さあ、いよいよ天守最上階です

小天守から天守最上階が見える

松山市を一望!天守最上階からの眺め

天守の最上階まで上がってきました。

天守最上階

松山城の天守は三重三階地下一階(層塔型天守)なので、天守自体は3階建てみたいなものですが、

天守の全高は、本壇から20m(しゃちほこの高さを入れると21.3m)。 本壇は本丸から8.3mの高さがあり、本丸の標高は約132mであることから、天守の標高は約161mあることになります。 これは「現存12天守」の平山城の中では最も高い城郭です。

松山城 | 見どころ

と、オフィシャルサイトにもある通り、標高としては結構高いところにあるため、眺望は抜群でした✨

天守最上階からの眺め

城山荘売店で愛媛スイーツを堪能

松山城を堪能したら、松山城公園本丸広場にある城山荘売店で休憩しましょう🥳

城山荘売店

ここにはお土産売り場と食堂が入っていて、愛媛スイーツを堪能できます💕

城山荘売店の様子

tabelog.com

私もこのお店の名物「伊予柑ソフト」をいただきました

伊予柑ソフト 450 円

さっぱりしつつ、伊予柑のほどよい香りがよかった✨

夏に行ったので最高のスイーツでした💕

絶対に落とせない。だからこそ攻め込まれない。歴史が証明する鉄壁防御の要塞

松山城は防御を突き詰めて設計されたお城で有名ですが、一度も攻め込まれたことはないそうです。

攻め込む機会があったのかどうかはわからないけれど、少なくともこのお城の設計のすごさがわかるからこそ、攻め込むことを止めた武将もいたんじゃないかな。

日本百名城 No. 81「松山城」

素敵なお城でした✨

松山城

帰りはリフトで帰ったけど眺めめっちゃ良かった✨✨

全てが最高格式。京都が誇る名城「二条城」へ。

京都を代表する名城であり、世界遺産でもある「二条城」に行ってきました🥳

二条城ってこんなトコ

二条城

二条城は、徳川家康が建てたお城で、当時の天皇が住む京都御所の守備と、自ら(将軍)が京都へ上洛した(赴いた)際の宿泊所として建てられました。

ようこそ二条城へ。二条城は、かつて城の主要部分であった本丸と、それを取り囲む二の丸で構成されています。二の丸は江戸時代に造られた建築、美術工芸品、庭園等が多く残るエリアです。近世武家文化が体感できます。北部には、昭和時代に京都市が作庭した清流園があり、美しい近代庭園を御覧いただけます。本丸の江戸時代に造られた建築は、火災によりほとんどが焼失しましたが、天守閣跡と明治時代に移築された皇族の邸宅が残っています。将軍が眺めた景色に加えて、近世から近代にかかる皇族文化を体感できます。各スポットの解説をもとに、400年間の歴史に思いをはせ、日本文化の旅をお楽しみください。

二条城に関するトピック
  • 1603 年(慶長8年):築城(江戸時代の始まりと同じ)
  • 1611年(慶長16年):二条城会見(天皇譲位の時に家康が豊臣秀頼と会見を行った)
  • 1867 年(慶応3年):大政奉還(天皇へ統治権を返上し江戸時代が終わりを迎える)

〒604-8301
京都府京都市中京区二条城町541

nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp

江戸時代が始まった 1603 年に二条城ができたこと。そして 1867 年に 15 代将軍 慶喜が二の丸御殿の大広間で「大政奉還」を行ったことから、江戸の終わりと始まり、繁栄と衰退を見守った城として有名なこの二条城を巡って行きたいと思います✨

京都駅から二条城へのアクセス

京都駅から二条城へ行くならバスがおすすめ。

京都市営バスで二条城に停まる路線があるのでそれに乗れば二条城の前まで行けます。

京都駅前バスターミナルの B1 のりばに来る 9 系統、または B2 のりばに来る 50 系統のバスに乗ります。

MAP: 京都駅前バスのりば案内マップ - 京都の安い宿 より

B1 のりば(奥)と B2 のりば(手前)

B1 のりばに停車する 9 系統の京都市バス

乗車時間は 15 〜 20 分くらい。「二条城前 バス停」で降ります。

バス内の案内電光掲示板に「次は二条城前」と表示されている

バス停を降りれば、目の前が二条城です✨

その他、京都駅から二条城へのアクセス手段に関してはこちらの記事によくまとまっていたので、地下鉄での移動を考えている場合は参考にしてみると良いです

narakanko-enjoy.com

まずは入城券を購入

二条城に入るために、まずは入城券を購入します。

入城券売場

入城券は窓口か発券機で購入できます。

窓口(左)と発券機(右)

私は QR コード決済ができる窓口で購入しました。

窓口なら QR コード決済が可能

利用可能な QR コード決済(2022年3月24日時点)
  • d 払い
  • paypay
  • メルペイ
  • au PAY

paypayで入城券を購入

ちなみに料金に関しては、通常の入城料(800円)と併せて、「二の丸御殿を観覧するか(+500円)」「展示収蔵館を観覧するか(別売り 100 円)」で料金が変わってきます。

私は二の丸御殿も観覧させていただくので一般大人で 1030 円を支払いました。

入城/二の丸 一般 入城券 1030 円

そうそう、この時私は「入城+二の丸御殿」で 1030 円の支払いだったのですが、

現在の入城料金は改定されており、2022/6/1 〜 より、入城のみ 800 円入城+二の丸御殿で 1300 円になっています。

nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp

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入城料を支払ったら、いざ二条城へ!

東大手門

二条城をめぐるコース

二条城の散策範囲はこんな感じでけっこう広いです。

二条城マップ

二条城のマップは公式サイトから確認できます。

nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp

今回は、公式サイトに掲載されている「おすすめコース(2時間)」に沿って散策します。

おすすめコース(2時間)

東大手門

二条城の正門、東大手門です。

東大手門

立派ですね。大きいし、品格を感じます。

東大手門の様子

なお、東大手門は重要文化財に指定されています。

東大手門 外観

重要文化財 東大手門

二条城の正門。築城時からこの場所にあるが、現在の建物は、寛永3年(1626)天皇をお迎えした行幸(ぎょうこう)に際して建てられ、寛文2年(1662)の改修で今の姿になったと考えられている。

一階を門、二階を櫓とすることから櫓門と呼ばれ、二階の櫓は「矢倉」とも書くように本来は武器庫であるが、正面の出格子窓には、門に近づいた敵を真上から攻撃するための「石落し」を備え、攻撃と防御の要となっている。金箔を貼った飾金物は、天皇を迎える正門であるための装飾と思われる。また、天皇をお迎えした時は二階の櫓がなかったことが絵図類で分かっており、天皇が門を通られることを考えて二階は不要と判断したのではないかと推測される。その後、寛文年間の改修で再び櫓が載せられたのは、築城時の姿が正門としてふさわしいとの考えからと思われる。

二条城の正門ということで、石垣がめちゃめちゃキレイに仕上げてあります。

東大手門の石垣

番所と総合案内所

東大手門をくぐると、番所と総合案内所があります。

総合案内所(左)と番所(右)

番所は警備のための武士の詰め所です。

番所

徳川将軍不在時の二条城は、幕府から派遣された「二条在番」と呼ばれる武士たちが宿直・警備していた。一つの組は五十人で構成され、二条城には二組が常駐し、毎年四月に他の組と交代していた。 この番所は、その在番の詰所の一つで、寛文三年(一六六三)に建てられたことがわかっており、間口十間(十九六メートル)、奥行三間(六・一メートル)の切妻造りの建物となっている。現存する城郭の番所は全国的にも少なく、貴重な建物である。

総合案内所では音声ガイドを借りたりパンフレットを入手できたり、二条城を巡るための情報が集約されているところです。

総合案内所で音声ガイドを借りたりできる

要所要所の案内板がわかりやすい

二条城の素晴らしいところの一つに、散策に関する情報が要所要所にわかりやすく案内板があるところです。

案内板で、現在地と全体マップを確認できる。

こういうのってどこの城に行ってもあるにはありますが、二条城のマップは大きくてフルカラーで各所の名称も記載があってとてもわかりやすいんですよね。

各ポイントにあるこのマップを見て、次はどちらに進むかを確認・決定できるので、これは素晴らしいなって思いました。

東南隅櫓(とうなんすみやぐら)

東南隅櫓(とうなんすみやぐら)

中に入ってみたかったですが公開されていなかったのが残念。

二条城の外堀の四隅は見張り台としてこういった隅櫓が建てられており、普段は武器庫として使われていました。1788年(天明8年)の大火で多くの櫓が焼失してしまい、今ではこの東南隅櫓と西南隅櫓の2つが残るのみとなっています。

重要文化財 東南隅櫓

寛永3年(1626)の寛永行幸に際し建設された隅櫓の一つである。西南隅櫓と比べ一回り大きく、1階屋根に「千鳥破風(ちどりはふ)」が載せられているのが特徴である(西南隅櫓では優美な曲線の唐破風)。1階の外堀に面する出窓には、東大手門と同様「石落し」を備え、攻撃と防御の要となっている。内部は板敷で、2階にだけ「棹縁天井」が張られている。また火縄をかける釘が打たれており,鉄砲を収納していたことが分かる。二条城には,外堀と内堀の四隅,外堀北中央に計9棟の櫓があった。それらはほとんどが2階建てで、例外として内堀南西隅のものが5階建ての天守閣,内堀北西隅のものが3階建てであった。現存しているのは東南隅櫓と西南隅櫓の2棟だけである。

攻撃防御の要ということで、現存する 2 つの櫓のうちの 1 つがひっそりと、ここ東大手門から唐門に続く道の角にそびえています。

東南隅櫓

手前に咲いているのは寒緋桜。

唐門(からもん)/ 築地(ついじ)

唐門(からもん)

重要文化財 唐門

寛永3年(1626)の寛永行幸に際し、その前年に建てられた。屋根の前と後に、優美な曲線を描く「唐破風」が付けられていることから唐門と呼ばれ、格式が最も高く、御所や内裏では御幸門とも呼ばれる。柱から上の空間すべてに彫刻が入っており、鶴や亀、松竹梅、蝶に牡丹など長寿や吉祥を象徴する彫刻が多いが、龍に虎、唐獅子等の霊獣と考えられる彫刻も多く、唐獅子は全部で10頭もいる。聖域を守護する霊獣の多さは、貴賓を迎える門にふさわしい。

重要文化 築地

築地の東面は長さ110m、高さは石垣上に立つため6mと稀にみる大きさである。白線は、皇室との関係性の深さを本数で示すもので、5本線が最高格である。

唐門

唐門は、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)が来るぞー!ということで造られたらしいですが、そのせいもあってか豪華絢爛ですね。

金の装飾がまぶしいくらいに輝く

門もすごいのですが、ポイントはもう 1 つあって、それがこの築地に見られる「筋塀(すじべい)

唐門

築地(ついじ)は唐門から延びている土塀です。(平たく言えばこの「壁」)

筋塀(すじべい)は、この唐門から伸びている土塀において、皇族や摂家などの御所では「土塀の壁面に線を引いてその格式を示す」という風習があって、二条城は最高格式を示す 5 本線が引かれていることが見て取れます。

唐門

豪華な唐門に、最高格式の筋塀。二条城の格式の高さを感じますね。

二の丸御殿

二の丸御殿

国宝 二の丸御殿

二の丸御殿は、将軍上洛の際の居館として、徳川家康により江戸初期の慶長8年(1603)に造営され、寛永3年(1626)、後水尾天皇行幸にそなえて、第3代将軍家光の代に改造が行なわれ、現在の姿となった。慶応3年(1867)には、第15代将軍慶喜により、大政奉還の発表が行われた。御殿は全6棟の建物からなり、江戸初期に完成した住宅様式である書院造の代表例として日本建築史上重要な遺構であり、江戸城、大坂城、名古屋城の御殿が失われた今日、国内の城郭に残る唯一の御殿群として、昭和27年(1952)に国宝に指定された。内部を飾る障壁画は日本絵画史上最大の画派である狩野派により描かれた。現存面数は2000面を超え、そのうち1016面が国の重要文化財に指定されている。訪問者を迎える壮大な遠侍から、公式な対面所である大広間へと、さらには将軍が普段くつろぐ白書院へと、各棟、各部屋は機能に合わせて規模としつらえを異にしている。

来客を迎えたり将軍と対面する部屋があり、大政奉還が行われた舞台である二の丸御殿。

実物を見ると門構えの豪華さと、後ろに控える遠侍の大きな屋根の重厚感が品格の高さを感じます。

玄関の豪華さ

遠侍の屋根

二の丸御殿は撮影禁止のため、内部を撮影することはできなかったのですが、大政奉還の舞台となった大広間や、各書院などを見て回りました。

二の丸御殿の案内板

各部屋には来客の待合室的なものだったり家臣の控室的なものだったりと、それぞれに「役割り」があるのですが、その役割りに併せて襖に描かれている絵画がとても秀逸というか。

襖の絵画はただの絵画ではなくて「空気(雰囲気)を操作」しようとしている、つまりは「表現」だったんだなと思うとすごいなって感じました✨

二条城に来た際は二の丸御殿を観覧されることをおすすめします!

二の丸御殿

釣鐘(つりがね)

二の丸庭園の手前に釣鐘が展示されていました。

釣鐘

釣鐘

鐘は京都所司代屋敷で火事等の緊急事態を周辺に知らせるために使われていた。京都所司代とは主に朝廷や大名を取り締まっていた江戸幕府の出先機関である。京都所司代屋敷は二条城の北に隣接して3ヶ所あり上屋敷・堀川屋敷・下屋敷(千本屋敷)と呼ばれていたが、これらは下屋敷で使われていたものである。慶応3年(1867)に京都所司代が廃止された後、二条城に移されたと考えられる。

火事など緊急事態を知らせるために、1 つは二条城に、もう 1 つは二条城の北にある所司代に置かれていた釣鐘。

京都所司代屋敷っていうのは江戸幕府の行政機関みたいなところで、皇室・公家の監視や京都諸役人の統率なんかを行っていたところみたい。

細かいところまで装飾が彫られていて、仕事の細やかさが見て取れますね。

吊り下げる部分の装飾がかっこいい

これらの釣鐘の出番どれくらいあったんだろう。緊急事態以外では使われなかったのかな?

いずれにしても、同じ役目を持ちそれぞれの持場についていた釣鐘たちが今はこうして 1 つの場所に静かに眠っているっていうことにちょっとしたロマンを感じます。

釣鐘の上部


釣鐘の側面

二の丸庭園

二の丸庭園 入り口

特別名勝 二の丸庭園

慶長8年(1603)の築城時に作られ、寛永3年(1626)に作事奉行小堀遠州のもとで改修された庭園。この時期の城郭には、居住のための御殿と共に豪華な庭園が作られた。二条城の他には名勝名古屋城二の丸庭園、名勝和歌山城西之丸庭園、名勝旧徳島城表御殿庭園が残っているが、いずれも火災等で御殿が失われているため、二条城は御殿と庭を一体的に鑑賞することができる我が国で唯一の事例である。この庭園は、公的な領域である大広間の西面、将軍に近しい人々の対面所として用いられた黒書院の南面に位置する。かつて後水尾天皇の接遇の為に設けられた行幸御殿が園池の南側に建てられ、庭園の四方は回廊と建物で囲まれた状態にあった。行幸の後、御殿は移築されると同時に、将軍家による利用が減じて荒廃したが、明治以降にソテツを含む植栽の整理・補植が行われた。

御殿あるところに庭園あり。ですね。

二の丸庭園

大政奉還の時点では結構荒廃していたらしいですが、その後、幾多の改修を経て今の姿になったらしいです。

静かで主張し過ぎない木々たち。そして池との風景が非常に落ち着く風景を作り出していました。

二の丸庭園の風景

また、庭園から臨む二の丸御殿の姿もいい感じでした。御殿と庭園との調和が取れていて、落ち着きます。

大広間

全体的に「静か」な印象の二の丸庭園。

この日は午前中に訪れましたが、人も少なかったのでこの雰囲気を味わうのに大正解の時間帯でした。

二の丸庭園

本丸櫓門(ほんまるやぐらもん)

本丸魯門

重要文化財 本丸櫓門

寛永3年(1626)頃の建築で、本丸西櫓門(焼失)とともに本丸を防御する重要な門である。戦時には木橋を落して敵が渡れないようにし、さらに銅板で覆われた扉を閉めて火器に備えた。本丸には井戸や米蔵もあるので、籠城戦の備えもできている。内側の土塀に見える穴は、鉄砲で攻撃するためのもので、まさに要塞の構えである。 また、寛永行幸の際に天皇は2回天守に登られたが、その時の木橋は2階橋で、天皇は二の丸御殿内から橋の2階の畳廊下を通って、地上を歩くことなく天守まで行かれた。天守へ登られた天皇は、この時の後水尾天皇が唯一といわれている。その2階橋の一部は、昭和5年(1930)頃まで残っていたが、その後解体され、部材の多くは土蔵で保管されている。

本丸御殿に行くにはこの東橋(本丸櫓門)と、反対側にある西橋しかなくて、有事の際には橋を落として本丸に行けないようにしたとのこと。

今架かっている橋は改修が入っていると思いますが、短いながら擬宝珠がついていたりと、ここでも格式の高さを感じます。

東橋の様子

本丸櫓門はというと、本丸御殿に通じる門だけあって、小さいながらも重厚感があります。

がっちりした鉄門

1788年(天明8年)に起きた「天明の大火(京都を焼け野原にした京都歴史上最大の大火事)」の時にも本丸櫓門は唯一焼け残ったらしいです。門の錆にも歴史を感じますね。

ちなみに天明の大火は、空き家の民家から出火して結果的にかなりの大火事になってしまったヤバい災害。

3万7000軒の家が焼け 6万5000世帯が住む所を失った。御所や二条城,東西の本願寺も焼けてしまった。

www2.city.kyoto.lg.jp

さて、この門をくぐると、本丸です。

本丸庭園

本丸庭園

本丸庭園

明治29年(1896)に明治天皇の指示により作られた庭園である。天皇は右側に見える本丸御殿の最上階から指示を出され、それは植栽にまで及ぶものだったとの記録がある。この場所には、かつて2つの建物が建てられていた。寛永3年(1626)、3代将軍徳川家光が建てた本丸御殿と、それが焼失した後、幕末に15代将軍慶喜が建てた建物である。慶喜が建てた建物は明治14年(1881)頃に取り壊され、明治26~27年(1893~94)に京都御所の北東部にあった桂宮御殿の主要部分が移築された。これが現在の本丸御殿である。移築時には、いったん庭が作られているが、明治天皇の指示によって、すぐに改造された。

本丸御殿の庭園ではありながらシンプルな造りになっていて、全体というよりはポイントポイントで小さな世界が形成されているような印象を私は受けました。

この一視点からの風景で感じる雰囲気。眺めるポイントで印象も変わる。

天守閣跡

天守閣跡

天守閣跡

二条城の天守閣は、寛永3年(1626)伏見城から移築されたと考えられている。屋根は5重あるが、内部は地上5階、地下1階の大きさで、屋根には瓦型の銅板が葺かれていたようである。寛永行幸の時、後水尾天皇は2回天守閣へ登られ、ここが、天皇が登った唯一の天守閣と言われている。寛延3年(1750)、落雷により焼失し、再建されることなく現在に至っている。天守台の大きさは、石垣の高さ約18m、広さ約427m²である。なお、築城当初の二条城には、別の場所に天守閣があった。今の清流園のあたりである。もとは大和郡山城にあったものと考えられており、寛永年間に城域を拡張するに際し、淀城へ移築された。

二条城の天守は五重六階。そこそこ大きかったんですね。

落雷で消失したのが 1750 年ということは、9 代将軍 家重の時。江戸時代真っ只中だけど建て直さなかったんだ🤔

でも 1788 年に天明の大火が来るから、もし建て直したとしても燃えちゃった可能性はありそうですね。

ちなみに最近、この天守を復元するかみたいな話が上がったらしくて(といっても 2016 年)、その時は 100 億円くらいかかるみたいな試算が出たらしいです。

www.sankei.com

お城関係の復元・修復事業って、規模感的に自治体の一大事業ですよね。歴史の継承と経済的な発展、そして資金回収を考えなければならない。

ということで登ってみるとこんな感じで広場になっていて

天守閣跡の様子

周辺を見渡せました

天守閣跡から臨む風景

実際の天守は五重六階だからもっと高い位置からの眺めだと思うので、実際の天守からは京都の街並みも臨めたかもしれませんね。

本丸御殿

本丸御殿、絶賛改修中!

改修中工事中で今回は残念ながら見られませんでした。

工事現場の壁に貼られていた本丸御殿の案内板

「2017 年 6 月から 5 年かけて保存修理及び耐震補強工事を行っています。」

令和 6 年(2024)に完成予定。ということは 2 年後ですね。

また二条城に来る理由ができました。その時まで楽しみにしておこうと思います。

西橋

本丸櫓門(東橋)の反対側にあって、本丸御殿に行ける 2 つの橋のうちの 1 つ。

西橋

ちなみに西橋側には櫓門はなくて、石垣があるのみです。

立派な石垣の向こうに、西橋。

ただこの石垣、いわゆる「ちゃんとしてるやつ」で「切込接ぎ」ってやつですね。

あらゆるお城を回ってて、石垣ってどこのお城のを見てもすごいなって思うのですが、この切込接ぎは特にすごいなって思います。

どこまで計算されてこんなに石をキレイに切ってるんだろうって。

今みたいに精密機器もなかった時代ですよね。それなのにこの完成度を叩き出しているのがすごいなって。

切込接ぎの仕事の秀逸さよ

敷地的に裏側になるので場所的に見せ方としては荒目になる石垣ですが、それでもここの石垣はキレイに仕上げてあるなって思いました(いちおう、素人の見解です)

石垣の話になってしまいましたが、橋も、うん、きちんとしてる(急に雑)

西橋

土蔵ゾーン

さて、ここまでで主要な二条城イベントをクリアしてきました。

現在地を確認

「あとは帰るだけ」

満足感を皆の背中から感じる

いえいえ、そうではありません。

ここまでで結構たくさん巡ったのでお腹いっぱいになりがちですが、帰りルートで見られる土蔵が素敵なのです。

土蔵

重要文化財土蔵(北)(米蔵)

本丸西橋を挟んで南の土蔵と対になっている。寛永3年(1626)頃の建築である。建物は長さが17間と長く、内部が2つに分けられている。内部に床を張り、天井はない。窓は土戸を外に開く開戸で、板庇を設け、内側の鉄格子に銅網が取り付けられている。このような窓の造りは、二条城では他にない。窓は南・東・西の3方に設けられている。現在、城内には3棟の土蔵があるが、江戸時代には10棟存在した。城に土蔵が残るのはここ二条城だけである。土蔵は穀物類を収納するのが目的だが、武器をしまう蔵もあるのが城の特徴である。寛永期の絵図には、火縄銃で使う塩硝用2棟、火縄用1棟が描かれているが、いずれも現存しない。

この土蔵が結構風情があっていいんですよね。

土蔵がたくさんあるお城はここが初めて

ここの土蔵は西北側にあるものですが、西南側にもあります。

他、二の丸御殿の周囲にも土蔵があります。

二の丸御殿周辺の土蔵

北中仕切門(きたなかしきりもん)

北中仕切門

重要文化財北中仕切門

内堀の南側にある南中仕切門と対になっている。規模もほぼ同じで、寛永3年(1626)頃の建築である。本丸西櫓門への通路を塞ぐ、防御上重要な門である。門は小振りで西門より少し小さく、背面の屋根だけが延びるという変わった構造となっている。門の上に立つ土塀と石垣に囲まれていることから「埋門(うずみもん)」と呼ばれる。埋門の形はこの他に、石垣に囲まれて開口だけのものもあり、姫路城が有名で、高松城にもある。

ここで敵が裏側(西橋)に回って本丸に行くのを防ぐんですね。

「本丸西櫓門への通路を塞ぐ」ってことは、さっき通った西橋のところにも櫓門あったのかな。

土塀と石垣に囲まれている

たしかに、このタイプの門は姫路城と高松城にもあったかも。

回られるのを防ぐための門だから、重厚ですね。

重厚感のある門

加茂七石

加茂七石

枯山水的なミニな庭園が二条城にもありました。

  • 八瀬真黒石
  • 鞍馬石
  • 畑石
  • 糸掛石
  • 紅加茂石
  • 紫貴船石
  • 畚下石

賀茂川・高野川などで採石された銘石を使った庭園なんだそうです。

ameblo.jp

清流園(せいりゅうえん)

清流園

昭和40年(1965)に京都市が迎賓施設として作った庭園である。西半分は和風で2棟の建物(和楽庵、香雲亭)が建てられている。東半分は洋風で芝生が敷き詰められている。建築部材、庭石、樹木の多くは京都の豪商・角倉家の屋敷跡から譲り受けたものである。角倉(すみのくら)家は江戸時代前期に、角倉了以(すみのくらりょうい)が運河として高瀬川を整備するなど、京都の発展に大きな影響を与えた商家である。清流園南の園路沿いには曲がりくねった樹形が特徴的な「しだれえんじゅ」が植えられ,7~8月には白い蝶形の花をつける。また,春には桜が一斉に咲き「桜のトンネル」が楽しめる。

この清流園、東西で庭のコンセプトが違っていて結構面白かったです。

西側、和風の造り。

清流園の西側

東側、洋風の造りで芝生が敷き詰められている。

清流園の東側

また、訪れた時期が 3 月下旬ということで、この年(2022年)は桜の開花が遅かったので、一部桜が咲いていてキレイでした🌸

清流園の桜

大休憩所と屋台店で京都の味覚を堪能

二の丸庭園の東側、順路でいうと一番最後に、大休憩所っていうのがあって。その通りに屋台店が出ていました。

賑わう屋台店

どれも美味しそう。。

足は自然と甘味の方へ。。

旅の道中はやはりお団子でしょうか・・・

ということで、私は抹茶だんごと抹茶を堪能しました。

抹茶だんごと抹茶(600円)

二条城の散策は結構巡る所が多かったのでそれなりに疲労感ありましたが、最後にこんなご褒美が待っているとは知らなかったので疲れも一気に吹き飛びました💕

京都駅に帰るバス停はどこに?

京都駅に帰る際のバス停ですが、二条城(東大手門)を出て、正面の道を挟んだ反対側にバス停があります。

帰りのバス停は道を挟んだ反対側にある

バス停から見た二条城

9 系統のバスに乗れば京都駅に行けます。

9 系統のバスに乗りましょう

ちなみに、京都市バスの路線図とかをチェックするなら、観光マップ「地下鉄・バスなび」を入手するのがオススメです。

京都市交通局のサイトからでも PDF でゲットできます。

www.city.kyoto.lg.jp

格式高き伝統を伝える二条城。希少な現存御殿。

二の丸御殿

将軍や天皇のためのお城(御殿)ということで、門の堅牢さ、御殿の豪華さ、そして石垣の精巧さなど。

全てにおいて野戦築城とは一線を介した優美さが二条城にはありました。

二の丸御殿

格式高き品格を伝える数少ない歴史の生き証人として、これからも在り続けてほしいなって思いました。

本丸御殿の修復工事が終わったらまた来ます✨

二条城

支出と滞在時間

支出

  • バス 460 円(京都駅 - 二条城前 往復)
  • 入城料+二の丸御殿観覧 1,030 円(2022/6/1 から料金改定されています)
  • 抹茶だんごと抹茶 600円

合計:2,090 円

滞在時間

2 時間 20 分

最後に

これまでのお話を動画にしました

私と感じたのと同じ雰囲気をぜひ体感してください✨

美しすぎるスーパーウーマン。難攻不落の日本三名城「姫路城」

姫路城

姫路城に行ってきました🥳🏯✨

姫路城

姫路城

姫路城

姫路城は 1346年に築城された、別名「白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう)」とも呼ばれる、外観の美しさが特徴的な城です。

〒670-0012
兵庫県姫路市本町68

  • 開城時間:9:00 〜 16:00(閉門 17:00)
  • 休城日:12月29日, 30日
  • 入城料金
    • 大人(18才以上)1000円
    • 小人(小学生・中学生・高校生)300円

www.city.himeji.lg.jp

姫路城は歴史的価値のあるお城なので、以下に登録されています。

  • 世界遺産
  • 国宝
  • 重要文化財
  • 特別史跡
  • 日本 100 名城

タイトル総なめですごい!!

でもこれは、実際に訪問すると納得のお城でした✨

映画「007 は 2 度死ぬ」のロケ地にもなった

姫路城って実は 1967 年に公開された映画 007 シリーズ「007 は 2 度死ぬ」のロケ地にもなったんですよね

この作品の舞台は日本なんだけど、この姫路城が作戦本部みたいになって後半あたりで出てきます

ジェームズ・ボンドがヘリコプターから姫路城にログイン

共演しているのが丹波哲郎さんなんだけど、英語もペラペラでイケメン!

三の丸広場に降り立つジェームズ・ボンドと迎える丹波哲郎

ということで、巡ってきましょう🥳

桜門橋

桜門橋

姫路城を訪問するとまず渡ることになるこの「桜門橋(さくらもんばし)」

姫路城の玄関口である桜門橋は木の風合いが美しい橋で、遠くに見える天守や次にくぐる大手門との風景が最高にこれからの姫路城めぐりへの気持ちを高まらせてくれます✨

桜門橋から臨む天守と大手門。のっけからこの景色を目にしたらわくわくが止まらない!

大手門

大手門

まさに姫路城の玄関。すごく大きくて迫力があります。

大手門

姫路城三の丸広場

大手門を抜けると、すぐにとても広い広場があります。

姫路城三の丸広場

この開放感✨

姫路城はすごく広く、お城自体も大きいんだなって見ただけでわかります。

天守も存在感ありますね

広場から臨む天守

さて、整備されていてとても綺麗な通路を歩いてお城へ向かいます。

お城に向かって時計回りの道を歩いてお城へ

途中、お土産屋さん「西の丸茶店店(にしのまるちゃみせてん)」がありました

西の丸茶店店(にしのまるちゃみせてん)

入場受付のあたりまで来て、いよいよ天守も近くなってきました✨

入城口付近の様子

いざ、入城!

入城口の様子

平日だったこともあって、待ち時間なしで入れるみたい✨

この日もそこそこ人はいたけれど、休日はやっぱり混むのかな?

受付で入城券を購入します。

入り口

こんな感じで入城券はタッチパネル式の券売機で購入できるようになってました 🎫

タッチパネル式の券売機

クレカとか交通系 IC、電子マネーが支払いに使えるのがうれしいね😊✨

( paypay は使えなかったので私は現金で支払いました😇)

ということで、入場券をゲット!

姫路城入城券

入り口ゲートをくぐると一気にお城感出てきます

入り口ゲートくぐってすぐはこんな感じの様子

この石垣の感じもテンション上がります✨

このぎゅっとした感じの石垣が良いのよね

菱の門(ひしのもん)

そんなこんなで、天守に向かってこれから進行して参りましょう🥳

菱の門と天守

天守までは長い道のり。だがしかし

たくさんのお城に来たことがあるわけじゃないけれど、入城口から天守までもそこそこ距離があって姫路城は全体的に広いなって思いました。

でも道中に見どころが結構あって、ツアーしているみたいで結構楽しかったです✨

天守と周辺の画の美しさ

ここは将軍坂。結構迷路みたいに細い道もあって、景観にわくわく。

こういうところの雰囲気、時が止まったみたいでいいですよね。

将軍坂

壁に開いている四角や三角の穴は「狭間(さま)」と言って、円形や三角の狭間からは鉄砲を打ち、長方形の狭間からは矢を射ることができるように作られているのだそうです。

防御用の壁の穴

先に見えるのは「はの門」上の写真で天守が一緒に写っていますが、敵に天守閣がすぐそこだと錯覚するように造られているのだそうです。

(それが現代では格好のフォトスポット)

はの門

こんな感じで狭い道もありますが、櫓の白壁が空に映え、所々で姿を現す天守の壁と屋根瓦のコントラストにも心が踊ります。

天守

こちらは「にの門」

敢えてめっちゃ狭く造ってあって、敵が一気に攻め込めないようになっています

にの門

しかもただ狭いだけじゃなくて曲がってるんです。これでは馬で突撃は絶対に無理ですよね。

にの門の内部は、狭い上に右折している。

これまでそこそこ細い道を進んできたのですが、にの門を出たら、一気に視界が開けました。

姫路城の天守

いよいよ天守の足元までやって来ました。

三の丸広場では小さく見えていた姫路城大天守も、この辺までくると大きいです。

天守まであと少し

ほの門をくぐって先を急ぎます。

ほの門

ダイナミックな天守の足元

このあたりまで進んでくると、もう天守の足元なので所狭しと見どころが現れます。

イの渡櫓

ロの渡櫓(腰曲輪)

姫路城の天守は「連立式天守閣」といって、「大天守」「小天守」とそれらをつなぐ「渡り櫓」で構成されているのですが、下から見上げてもこれらのラインの交差と重なりが美しかったです。

連立式天守郡

水の五門

さて、ここからついに天守へと入っていきます。

姫路城 大天守

地階

大天守 地階 案内板

扱い的には地下 1 階にはなるようですが、地中に埋まっているわけではなく石垣の中にあるので外から光は入ってくるし閉塞感は全然ない感じでした。

地階の様子

写真右に見えている西大柱はお城を支えている大黒柱の一つで、この柱が上の階まで伸びてるんですね。

一階・二階

最初に言っておくと、写真が混ざっちゃって一階のものか二階のものか、どっちのかよくわからなくなってしまいました😇笑

なのでここはまとめますね

大天守 一階 案内板

大天守 二階 案内板

通路が多かったですが、鉄砲や槍、弓などを置いておく「武具掛け」や、火縄や鉄砲の弾を入れた袋などをぶら下げておく「用具掛け」、大きな梁や側面の木材の風合いなど、楽しめるポイントとても多かったです

武具掛け

鉄砲や槍、弓などを置いておく「武具掛け」

ちなみにこっちは天守ではなくて「ハの渡櫓」になりますが、こっちにも武具掛けありました。

割りと至るところに武具掛けがあった(写真右)

用具掛け

火縄や鉄砲の弾を入れた袋などをぶら下げておく「用具掛け」

用具掛けは最初、鳩とかカラスが留まるのを防ぐやつかと思った。というか、位置が高すぎてあんなところに袋をぶら下げることなんてできたの??という気持ちには正直なりました😇

だって高さこんなんよ😇

用具掛けの位置、高くない?

武者走り

さて、こちらの通路は「武者走り」と呼ばれていて

「武者走り」

戦闘中はここを武士が走り回って、右側にある格子窓から鉄砲を撃ったりするので「武者走り」と呼ばれているのだそうです。

たしかに廊下長いですよね。

個人的には、天井の風合いや梁が趣あって素敵ポイントでした。

天井の風合いや梁が趣あって素敵

三階

大天守 三階 案内板

三階の様子

四階

大天守 四階 案内板

四階の様子

五階

大天守 五階 案内板

この辺までくるとだいぶ位置も高くなってきて、窓からの形式もなかなかの高さになります。

五階からの景色

地階にもあった西大柱、ここまでしっかり伸びてますね。すごい。

左側上り階段に脇に西大柱

階段はそこそこ急で、さすがお城といった感じです。

六階

ついに来た、最上階。

大天守 六階 案内板

最上階なので広いわけではないですが、細々した部屋もないので開けてて開放感あります。

ワンルームなので開放感はある

長壁(刑部, おさかべ)神社

御祭神が祀られていました。火災や災いから救ってくれる神様なんだとか。

御祭神

江戸時代には地上にあったものを近代でこちらに持ってきたんだそうです。

(ひとまずお賽銭してご挨拶。。。)

幻の窓

6 階は壁面すべて窓が開けられる予定だったけど途中で設計が変更になったので四隅の窓は塞がれたんだそう

写真右上の壁みたいになっているところが塞がれたところ

最上階からの眺望

他のお城のように、ベランダ的なところはありませんでしたが、6 階まで上がってきたこともあり眺めはとても良かったです。

最上階からの眺望

下の写真の中央左に見えている赤壁の建物は姫路市立美術館

姫路市立美術館(中央左の赤壁の建物)

ここ、元々は旧第十師団兵器庫だったっていう話でちょっと驚きでした。

事前に知ってたら行ったんだけどな。。多分赤レンガなんですよね?外観とか見たかったー!!

こうして後から振り返って知ることも多いので、また訪問する理由ができました。これだから旅はやめられないですね。

「備前丸」最も近くで堪能する姫路城の美しさ

姫路城の優美さを最も堪能できるスポットは「備前丸」という、昔御殿があった場所で、今は広場になっているところです。

天守見学の順路が終わって出口を出ると、

天守見学の出口を出たところ

とても開けた場所に出ます。

備前丸(現在は広場になっている)

「さっそく広場に下りてみよう!」

という気持ちが足を早めるのですが、ここで一旦落ち着いて。

出口で後ろを振り返ると、、

姫路城天守閣

なんと雄大な✨

これまでずっと天守の中にいたので、姫路城と大きな空のコントラストに感動できます。

白壁と瓦のコントラストも相変わらず素敵

どこから眺めても画になる姫路城天守閣

備前丸(広場)の全体感はこんな感じになっていて、一休みもできそうでした。(トイレもありました)

備前丸(広場)

そして、備前丸から眺める姫路城天守閣がこちら

姫路城天守閣

なんとも優美な✨

ここまでそこそこ歩いて、天守にも上ったので、一息入れつつ眺めるこの光景は最高以外のなにものでもなかったです💕

西小天守(左)と天守(右)

姫路城

備前丸は小高い丘になっているので、街の眺望も良かったです✨

ちょっと石垣がかぶっちゃってますが眺めは良かったです

お菊井戸

姫路城といえば「お菊井戸」ですね。怪談話で有名なので聞いたことある人も多いと思います。

備前丸を出て進んだところにあります。

お菊井戸のあるところ

お菊井戸

お菊井戸の案内板

この井戸は、播州皿屋敷の怪談で知られる「お菊井戸」といわれています。

永正年間(1500年頃)、姫路城主小寺則職の執権青山鉄山は町坪弾四郎と語らい、城を奪おうと企てていました。則職の忠臣衣笠元信は、お菊を青山家に女中として住み込ませ、その企てを探らせました。

則職暗殺を探知したお菊が元信に知らせたため、則職は家島(姫路市)に逃げて殺されずにすみましたが、城は鉄山に乗っ取られました。

お菊の動きを知った弾四郎は、お菊を助ける代わりに結婚を強要しました。元信を慕うお菊はそれを拒みました。

弾四郎はそんなお菊を憎み、青山家の家宝の10枚揃いの皿の1枚を隠し、その罪をお菊にかぶせて責めあげました。

それでも弾四郎を拒むお菊は、ついに切り殺されて井戸に投げ込まれました。

その後、毎夜この井戸から「1枚2枚3枚・・・9枚」と9枚目まで何度も数えるお菊の声が聞こえたといいます。

やがて元信らが鉄山一味を滅し、お菊は「於菊大明神」として、十二所神社内に祀られました。

怖い話で有名ですが、実は結構悲しいお話なんですよね。

ほっと一息、お菊さんに思いを馳せてクールダウンな一時でした。

ここから見える姫路城もいい感じ

入城口に戻って

順路を進むともう出口で、入城口(入城券を購入したところ)に戻ってきました。

姫路城

めちゃめちゃ楽しかった✨

美しすぎる難攻不落の「姫路城」はまさに「スーパーウーマン」

だけどもこの包容力、、いつまでも眺めていたくなる悪魔的美女城でした💕

三の丸広場にある石碑

姫路城 訪問目安

姫路城

滞在時間の目安

今回姫路城を巡ったルールはこんな感じ✨

姫路城散策ルート

王道コースであまり周囲の施設とかには寄らなかったのですが、それでも大手門からの計測で 1 時間 40 分ほど滞在しました。

敷地が結構広いので、時間には余裕を持って行くと良いと思います😊✨

姫路駅からバスで行く

姫路駅から姫路城まではバスが出ていて、大体 5 分くらいです。

大通りを真っ直ぐ行くだけなので体力と時間に余裕のある人は徒歩でも迷わずに行けると思います。

姫路駅から見える姫路城

徒歩だと 15 分。地味に距離ありますね

個人的にはバスかタクシーがオススメです。一瞬で到着しますし🚌✨

意外と迷う帰りのバス

姫路駅へ帰る時のバス停は予め調べておくと迷わなくて良いです 🚌

私は「姫路城大手門前」というバス停から姫路駅行きに乗れました✨

ということで、評判とおり美しい要塞でした。

姫路城、ありがとうございました!✨✨

姫路城

動画はこれっ🥳

広島城〜焼杉と漆喰のコントラストが織りなすシックでクールなダンディキャッスル

広島城

広島城に行ってきました🥳

広島城

広島城

〒730-0011
広島県広島市中区基町21−1

  • 開館時間
    • 3月~11月:9:00~18:00
    • 12月~2月:9:00~17:00
  • 天守閣観覧料
    • 大人:370円
    • 高校生:180円
    • 中学生以下:無料

www.rijo-castle.jp

広島城の歴史

広島城は、16世紀後半の安土桃山時代に、中国地方一帯を統治していた毛利輝元(もうりてるもと)が瀬戸内海へと流れ込む太田川河口の三角州に築いた平城(ひらじろ)です。

元来毛利氏は、郡山城(こおりやまじょう,安芸高田市)を居城としていましたが、天正16年(1588年)に、輝元が豊臣秀吉に謁見した際、大坂城や聚楽第(じゅらくてい)といった当時の最先端の城を見て、郡山城に代わる新たな城の必要性を実感し、太田川河口の三角州に城を築いたとされています。

関ヶ原の合戦の後、輝元が長門・周防へ転封となると、代わって福島正則(ふくしままさのり)が城主となり、城の大規模な改修を行いました。元和5年(1619年)に正則が石垣の無断修復をきっかけに転封となった後は、浅野長晟(あさのながあきら)が城主となり、その後浅野氏が12代に亘(わた)り、廃藩置県まで城主を務めました。

広島城自体は太平洋戦争の時の原爆によって倒壊してしまったため、1958年以降に再建されたものだそうです。

広島城マップ

表御門(おもてごもん)

表御門

広島城の入り口にあたる門で、二の丸の入り口になっています

  • 規模
    • 桁行:7.64m
    • 梁間:4.85m
    • 軒の出:1.27m
    • 軒高:7.03m
    • 棟高:10.61m
  • 構造
    • 木造脇戸付櫓門
    • 入母屋造
    • 本瓦葺
    • 軸部真壁
    • 軒塗籠
    • 両側面一間庇付

表御門は天正期末(16世紀末)頃の建造と推定され、昭和20年の原爆被爆による焼失までの約350年間存続していました。

現在の表御門は、平成元年の広島城築城四百年を記念して復元に着手し、平成3年に完成したものです。

この平成の復元では、昭和9年に当時の陸軍第五師団経理部が作成した実測図をもとに、発掘調査の成果や明治期から昭和期にかけての写真を総合的に検討して、焼失後も残存した表御門の礎石(柱下の石)上に、昔どおりの工法によって往時の姿をよみがえらせています。

表御門と表御橋

立派✨さすが入り口って感じの、格式高い感じが伝わります✨

表御門

表御門の中に入れたので入ってみます

表御門に入ってみます

天井の造りとかかなり秀逸です

表御門の天井

窓の枠内の柱に角度がついていてなんかおしゃれ(知識浅)

表御門の窓枠

表御門から表御橋を臨む

天守閣もいいんですけど、櫓って隠れて趣があるから結構好きです。

こういう櫓の雰囲気、好き。

二の丸

門をくぐると二の丸に入りますが、結構広い広場みたいになっています。

表御門をくぐると広がる広場

右手には「平櫓(ひらやぐら)」「多聞櫓(たもんやぐら)」「太鼓櫓(たいこやぐら)」があります。

平櫓(門の脇、角のところ)

多聞櫓(長屋みたいな部分)と太鼓櫓(奥の角にあるたてもの)

構造

  • 平櫓:木造一重隅櫓・入母屋造・本瓦葺
  • 多聞櫓:木造一重渡櫓・切妻造・本瓦葺
  • 太鼓櫓:木造二重二階隅櫓・入母屋造・本瓦葺

規模

  • 平櫓:桁行12.43m・梁間8.64m・棟高7.76m
  • 多聞櫓:桁行67.86m・梁間4.93m・棟高5.13m桁行
  • 太鼓櫓:桁行8.49m・梁間7.76m・棟高10.60m

平櫓、多聞櫓及び太鼓櫓の創建時期は、天正期末(16世紀末)頃と推定されています。このうち太鼓櫓は17世紀初期に改修されたものの、3棟とも江戸時代を通して、二の丸の馬出機能を確保する建物として存在していました。その後、平櫓及び多聞櫓西半分(平櫓側)は明治初期に取り壊され、残った太鼓櫓や多聞櫓東半分についても昭和20年8月6日の原爆被爆によって倒壊炎上しました。この建物は、平成元年の広島城築城四百年を記念して、発掘調査や昭和初期に当時の陸軍築城本部が作成した実測数値、明治から昭和にかけての写真等をもとに、復元に着手し、平成6年8月に完成したものです。

櫓の中は一本の長い廊下みたいになっていて、展示とかが行われていました✨

多聞櫓での展示

櫓に長居してたらサムライショーのリハーサルが始まって、段取り確認したりとちょっと貴重な場面に出くわせました😊✨

サムライ役者さまたち、ごくろうさまです。

櫓ですが、再建されたものとはいえ質感がけっこう良くて、天守閣もですが、全体的にシックな感じでまとまっているのが素敵だなと思います。

落ち着いた風合いの木材処理

この木材の感じってたしか、防腐処理で焼いてるんですよね。

廣島護国神社

先を進んでいくと、廣島護国神社がありました。

廣島護国神社

城の敷地の中にこんな大きく神社があるパターンは初めてだったので驚きました😲

広島大本営跡

広島大本営跡

明治 27 年(1894)8月に日清両国に戦端が開かれたのち、それまでに山陽鉄道が開通していたことや宇品港を擁するといった諸条件により、同年9月広島市に大本営が移されることとなり、広島城内にあった第五師団司令部の建物が明治天皇の行在所(あんざいしょ)とされ、ここに大本営が設けられた。

明治天皇の広島滞在は、同年9月15日から翌年の4月27日までのか月あまりに及んだ。その後、建物は広島大本営跡として保存されたが、原爆により倒壊し、今は基礎石のみ残されている。

ふむふむ、日清戦争の戦争指揮のためにここに大本営が作られたんだね。

太平洋戦争の時には特に使われてはなかったんだ。

広島大本営跡

天守閣

天守閣に向かう階段

いざ、天守閣へ!

どーん✨ 広島城 天守閣

焼杉と漆喰のコントラストが美しい✨✨

なんていうか、めっちゃシックですよね💕

焼杉と漆喰のコントラストが美しい

受付でチケットを購入して、、

入り口にある受付でチケットを購入

いざ、天守閣の中へ!

天守閣ツアーのはじまりはじまり

と、言いたいところだったのですが、天守閣の中はほとんどが撮影禁止だったため、ぜひ訪問してその目でお楽しみください😇

歴史についてや、当時の生活を再現したもの、それに文化財の展示なんかが行われていました😊✨

撮影 OK だったところをいくつか 📷

天守閣の中の展示エリアの様子

天守閣最上階からの眺め

展示エリアがほとんど撮影できなかったおかげでかなり端折りましたが、、

お殿様が毎日眺めていたであろう天守閣の最上階からの眺め現代版をどうぞ!

天守閣最上階からの眺め

もうちょっとだけ天気よかったなあ

なんて、こういうところにくるとちょっとだけわがままになりますよね✨

次来る時は快晴だといいな✨

中御門跡のところの土塁に上がれる

私、お城マニアでもなんでもないので何も知識はないんだけれど、土塁に上ると景色が良いことくらいは知っているので、お城に行ったら「上れるところあるかな〜」なんて探すんですけど、広島城にもありました✨

ここの、中御門跡のところにある土塁です

中御門跡のところの土塁

中御門跡のところの土塁

気づかれてないだけなのか誰も興味がないのか、、がらーんとしてる

上ってみましょ

階段を上がるとこんな感じ

土塁の上の様子

そして、土塁の上からの景色がこちら

土塁の上から眺めた景色

結構開けてていい感じ✨

被爆時の火災で変色した石

被爆時の火災で変色した石の場所(史跡広島城マップより)

広島城を囲む石垣は結構立派だったんだけど、戦争時の火災で変色した石があって、結構痛々しかった。

被爆時の火災で変色した石

「被爆時」ってことは原爆のときの火災なのかな?

お城っていうと結構江戸時代より前くらいのイメージ感持って見るけど、そこに昭和の大きな歴史的な爪痕を遺すものってなかなか少ないですよね。

きちんと保存し、後世に伝えていくって大切なことだなあって思いました。

この石垣、実際に意味わかってて見るとなかなか衝撃ありました。

歴史を伝えるシックなお城

広島城は焼杉と漆喰のコントラストが素敵な、シックなお城でした。

敷地がコンパクトなのが巡りやすくってよかったなっていうのもありますね。 (私はだいたい 1 時間くらいで回れました)

同時に太平洋戦争の歴史の爪痕も残す、感慨深い場所だなって思いました。

そういえば、

広島城って、「鯉城(りじょう)」とも呼ばれているみたいなんですけど、

別称は「鯉城(りじょう)」。広島城があった一帯は昔「己斐浦(こいのうら)」と呼ばれ、広島市西区己斐の地名は延喜式で嘉字地名とされる前は「鯉」であったと言われていることから、この名がついた。一説には堀にたくさんの鯉がいたからとも、天守が黒いからとも言われる。その他、「在間城(ざいまじょう)」、「当麻城(たいまじょう)」の別称がある。

引用元:広島城 - Wikipedia

たしかに、お堀に鯉結構いたなあなんて

近づくと鯉さんたちが集まってきた

こんな感じで細かな見どころポイントも結構あるんですよね😊✨

広島観光する時には是非オススメのスポットなので立ち寄ってみてください✨

広島城

秋の名古屋城をぶらり散歩〜現代に蘇った天下の名城!匠の技が紡ぐ歴史の足跡

名古屋城

秋の名古屋城をぶらり散歩してきました🥳✨

特別史跡 名古屋城

特別史跡 名古屋城

名古屋城は、御三家筆頭尾張徳川家の居城であり、初代の城主は、江戸幕府を開いた徳川家康の第九男義直です。慶長 14 年(1609)、家康自ら築城を決定し、翌 15 年に石垣晋請(ふしん)が着工され、17 年に大小の天守や各櫓が完成しました。普請を命じられたのは加藤清正ら西国の大名 20 名で、城内の石垣には目印として各大名が刻んだ刻印が多数残っています。

慶長 20 年(1615)に本丸御殿、元和 3 年(1617)には二之丸御殿が完成し、二之丸御庭、御深井御庭なども整備され、名古屋城は天下の名城としてその名をとどろかせました。

明治維新後、名古屋城は陸軍省の管轄となり、名古屋鎮台司令部や兵舎がおかれましたが、明治 26 年(1893)に宮内省に移管され「名古屋離宮」となりました。昭和 5 年(1930)12 月、名古屋に下賜されると同時に国宝に指定され、翌年から一般公開が始まりました。昭和 7 年(1932)には、名古屋城全域が特別史跡に指定されました。

昭和 20 年(1945)5 月、第二次世界大戦末期の空襲により、天守や本丸御殿など国宝建造物 24 棟が消失しましたが、消失を免れた 3 つの隅櫓と 3 つの門、空襲の直前にとりはずされていた本丸御殿障壁画 1047 面が、戦後重要文化財に指定されました。

昭和 34 年(1959)、天守閣と正門が、ほぼ昔どおりの外観で再建されました。

平成 21 年(2009)には本丸御殿の復元工事が始まり、平成 25 年(2013)に玄関・表書院部分が完成しました。

〒460-0031
愛知県名古屋市中区本丸1−1

1615年(慶長20)、徳川家康によって建てられた名古屋城。

黄金の鯱を頂き、史上最大の延床面積を誇った大天守、絢爛豪華な本丸御殿、さらに鉄壁の守りを固めた要塞としての機能を備え、 城郭として国宝第一号に指定された名城でした。

戦災で焼失後も、国内屈指の城郭として国の特別史跡に指定され、復元された本丸御殿などが、往時の姿を鮮やかに伝えてくれます。

引用元:名古屋城公式ウェブサイト

料金や開園時間、アクセス方法や駐車場についても公式サイトにわかりやすく掲載されているのでそちらを見てもらえると常に最新情報で良いと思います📝

www.nagoyajo.city.nagoya.jp

加藤清正公と不思議な岩

(↑ ハリーポッターの映画のタイトルみたいになった😇)

まずは名古屋城の前に、その手前の名城公園エリアから

名古屋城の手前に「名古屋能楽堂」というのがあって、一応名城公園のエリアになるのかな?って勝手に思ってるけど、南方面から来たのでそこから名古屋城が領域展開しているエリアに足を踏み入れました🐒

南側名城公園エリアの補足説明のマップ

入り口付近に大きな銀杏の木があって、秋という季節も相まって空も道路も銀杏の黄色がとても綺麗でした🥰

大きな銀杏の木。一面の黄色が空に映えて綺麗

篠島の矢穴石

その敷地に現れた加藤清正公の像、

の手前に、不思議な石がありました🤔

篠島の矢穴石(しのじまのやあないし)

これはなんだろう。。

岩に穴が空いてる

篠島の矢穴石

矢穴とは石を切り取る際に彫られた穴であり、矢穴を使って石を切り取る方法は戦国時代の終わり頃から使われ始め、道具を変えつつ現在も用いられています。名古屋城の石垣には「矢穴」が残された石が多く見られます。

石の切り取り方は、まず「セットウ」と「ノミ」という道具で、切り取ろうとするラインに沿って矢穴を彫ります。次に矢穴に断面が三角形状の「ヤ」を差し込み、叩きます。ヤが叩かれると矢穴を押し広げるように力が加わり、矢穴に沿って石が切り取られます。

しかし、矢穴を彫っても思い通りに切り取れるとは限りません。石には目と呼ばれる割れやすい方向があり、矢穴が目に沿っていなければ割れません。また、矢穴が目に沿っていても割れなかった石もあります。そのような石には表面に矢穴の列が残ります。

展示しているのは知多半島の先に位置する篠島に残されていた石です。矢穴の形から江戸時代に彫られたと考えられ、当時の石を切り取る技術の一部を観察できる資料です。篠島には矢穴の残る石が多く点在し、加藤清正が名古屋城の石垣を築くために篠島で石を採ったという伝承も残されています。

なるほど、石を切る時にこの矢穴っていうのを開けて切ってたんだけど、それでも切れなかった石にはこうして矢穴が残ってるってことなんだね😊✨

また一つ歴史を学べました✨

加藤清正像

加藤清正像

名古屋城の歴史を何も知らないで訪問しているけれど、「加藤清正」という名前くらいは聞いたことあるので、いきなり現れた加藤清正公に驚きました🤭

(加藤清正公と名古屋城とのゆかりは後に知ることとなる)

威厳のある感じでかっこよかった

もちろん、偉人様なのできちんとご挨拶しておきました😊✨

建立の記

建立の記

本像は、名古屋城築造にあたり、多大の貢献があった加藤清正公の業績を顕彰し、カゴメ株式会社創業八十周年記念として、同社が建造しこれを名古屋市に寄付されたものです。

昭和五十四年三月 名古屋市

ほうほう、加藤清正公は名古屋城築城で活躍したんだね😲

そしてカゴメさんは愛知がホームなんだね(ケチャップや野菜ジュースでいつもお世話になってます🍅)

世界最大の能楽堂「名古屋能楽堂」

そんな加藤清正公像の後ろにあるのが、「名古屋能楽堂」

名古屋能楽堂

www.bunka758.or.jp

朝だったので閉まっていましたが、世界最大と言われるだけあって大きな施設でした🐘🦔

あと何ていうか、この「建築美」っていうか、こういう日本建築様式においての骨組みの緻密さってどこを見ても惚れ惚れしてしまうのは私だけでしょうか🥰

寸分狂わず組まれた骨組みから、こんな感じで幾何学的な光景を臨めるの好き。

誰もいない能楽堂前で一人「朝から良いものが見られたな」ってキュンキュンしてました🥰

門とかも趣があります

先に見えるのが駐車場で、ここともつながってる。写真では左に進むと名古屋城の入り口に行ける。

さて。いよいよここから名古屋城へ登城いたします🥳✨

名古屋城正門

名古屋城正門

駐車場を抜けるとすぐに横断歩道があって、その先が名古屋城正門になっています。

バス停「名古屋城正門前」

そっか、徒歩できたから特には調べなかったけど、名古屋城まではバスでも来れるんですね😊✨

名古屋駅からなら、名古屋市営バスに乗って大体 15 〜 20 分くらいみたい🚌✨

www.navitime.co.jp

そんなわけで、横断歩道を渡ります👮🏻‍♀️🙋🏼‍♀️🙋🏻🙋🏻‍♂️

わかりやすい場内地図看板

ふむふむ、拝観料は大人 1 人 500 円、っと📝

開園時間は 9 時から📝

今は、、🕛 9:01 うん、ジャスト👍✨

書体の重厚感にちょっと気が引き締まる

検温・消毒体制もきちんと整えられていて、入場前にそれらを受けます。

入場前に検温が実施されている

検温時のちょっとしたハプニング

いざ、検温という名の関所へ。

検温してもらった時に、スタッフさんが微妙な反応したんです。

ちょっと固まった感じになったので、大丈夫ですか?って聞いたんですけど、

「うん、問題は無いです。けどちょっと体温が低すぎますね笑」

って言われました😇

そうなんです、私、超低血圧人間で、血圧も下の値が取れなくて図り直すみたいなこともちょくちょくある人種なのですが、今日はモーニングチャレンジも失敗したので尚のこと体温が低かったと思います😇

スタッフさん、驚かせてごめんなさい😇笑

正門と観覧券

さて。検温を抜ければ名古屋城正門が姿を現します。よく見ると、門にも鯱(シャチホコ)がいますね😲✨

名古屋城正門

名古屋城正門の説明看板

名古屋城正門(旧榎多門)

ここにはかつて、榎多門(えのきたもん)と呼ばれる櫓門(やぐらもん)がありました。南側に「冠木門(かぶきもん)」と呼ばれる外門、北側と西側の石垣上には多聞櫓(たもんやぐら、長屋状の櫓)が建てられていました。内門の榎多門とあわせて、防御力の高い城郭の出入口である枡形虎口(ますがたこぐち)が形成されていました。榎多門は明治 24 年(1891)の濃尾地震で大破し、代わりに明治 44 年、旧江戸城から蓮池門(はすいけもん、元禄 17 年・1704 年頃建築)が移築され、石垣も組み直されました。国宝に指定されていましたが、昭和 20 年(1945)の空襲で消失しました。現在の正門は昭和 34 年に、旧蓮池門を鉄筋コンクリート造で、外観復元したものです。

まずは観覧券(入場券)を購入しましょう🎫

入場券売り場

観覧券購入は、支払い方法によって 2 つの購入口があって、「現金のみ」と「クレジットカード・電子マネー(交通系 IC など)」に分かれていました

入場券購入口

最初は1つの列だけど、購入窓口が近づくにつれてどちらかを選んでそっちの列に行くような流れになっていたので、予めどちらの支払いにするか決めておく、もしくは両方どちらでも支払えるようにしておいて、空いている方に行くっていうのも賢い方法だなって思います📝

ということで、無事に観覧券をゲット✨

名古屋城観覧券

正門をくぐるとすぐに総合案内所があって、ここで案内を受けたりパンフレットをゲットしたりもできます✨

総合案内所

何かのスタンプラリーのスタンプもここに置いてありました💰

名古屋城観覧ルート

今回は、こんな感じで名古屋城を巡りました🗺🐿

名古屋城観覧ルート

地図右手にある庭園までは行けなかったので、全部は回りきれなかったっていう事になるんですけど、それでも上のルートで所要時間は大体 1 時間 30 分くらいでした😊

広々とした通り

さすが名城だけあって、正門から本丸に続く道はとても広かったです✨

正門入ったところ

本丸に向かう道

広場から天守閣が見える

金のシャチホコとご対面

金のシャチホコと記念撮影ができる列に並んでみる

正門をくぐったらすぐのところで、金のシャチホコと記念撮影ができました😊

間近で金のシャチホコを見られる良い機会なので私も早速列にならんでみる✨

(5 分くらい並んだかな〜)

金のシャチホコ、大きい!そして、、まぶしい!!

質感が、本当に金ピカって感じで存在感ハンパない感じでした🐋✨

そして意外とポップな目つき

金シャチの脇にはおみやげやさんもありました

西の丸御蔵城宝館

西の丸御蔵城宝館

名古屋城のことを知ってから本丸に行こうと思い、先に西の丸御蔵城宝館に行きました😊📝

www.ritocamp.com

ここ、開館したて(2021 年 11 月 1 日オープン)だったんですけど、名古屋城に行ったならマストで行った方が良いです✨

それくらい名古屋城の歴史について勉強になりました😊

これで名古屋城の歴史はばっちりになったので、いざ本丸を拝みに行こうと思います✨

いざ、本丸へ

ということで本丸へ向けて歩き出したわけですが、西之丸のこの通りはとにかく広かった😲✨

西之丸から本丸に向かう通り

天守閣(奥)と西南隅櫓(手前)

本丸への入り口、表二之門

表二之門から向かって左手。お堀に水は無くて草が生い茂っていました

表二之門から向かって右手。東南隅櫓が見える。

表二之門をくぐったところ。定番のすぐ折り返し道でさすがお城って感じ。

上の写真の石垣の切れ目から、ほんの少しだけ屋根っぽいものが見えると思いますが、ここを抜けると本丸御殿になります✨

で、一旦本丸御殿は通過して、、

道が開けると、天守閣です🏯✨

天守閣

名古屋城 天守閣

近くで見るとさすがの迫力で、エッジの効いた輪郭がかっこいい✨✨

金のシャチホコも健在ですね

天守閣の左隣にある白い建物は小天守で、その手前の木造りの建物は本丸御殿

真下から見上げるとまた迫力があって素敵です🏯✨

天守閣を、真下から見上げる

名古屋城の天守閣ってなんか凛としている感じですよね

主張し過ぎてないんだけどしっかりかっこいい感じが最高でした😊✨

(天守閣の話題はまた後ほど)

本丸にある売店やおみやげ屋さん

私が天守閣の写真を撮っているここは本丸のちょうど真ん中あたりに位置していて、ここはとても広い広場になっています。

ぐるっと一回転

そしてこの場所にはおみやげ屋さんもありました😊✨

本丸のおみやげ屋さん

名古屋城限定のお土産が置いてあったり、

名古屋城限定のお土産

歩き疲れた体に染みる甘味も沢山で🥰

大好物の甘味も充実

売店では「からあげ」「フランクフルト」「たこ焼き」「みたらし団子」といった軽食も販売してました😊

おみやげ屋さん脇の売店

ちなみに私は「抹茶ソフト」いただきました😊✨

先に食券を購入するスタイル

ちなみに、おみやげ屋さんはこんな感じで、沢山の種類のおみやげ屋がありました✨

おみやげ屋さん店内の様子

名古屋城本丸御殿ミュージアムショップ

名古屋城本丸御殿ミュージアムショップ

本丸御殿の一部がおみやげ屋さんになっていて、こっちではさっきのおみやげ屋さんとは違った品揃えでした。

文化的なものが多いというか、民芸品とか書籍とか雑貨とか(と言いつつお菓子もあったけど)そういうのが多かったです🧐

名古屋城本丸御殿ミュージアムショップ内の様子

でもなんだろ、歴史を重んじてたりする商品ももちろんあるんだけど、今どきのモダンな感じの商品もあって見てて楽しかったです😊✨

本丸御殿

もちろん本丸御殿の中も見学してきました😊

本丸御殿

名古屋城の本丸御殿といえば、かつて将軍の御成御殿として使用された格式高き御殿なわけで、名古屋城に来たら見学は必至のスポットなわけです🥰

というわけで、じっくり本丸御殿を見学したい方はこちらからどうぞ🥳

www.ritocamp.com

天守閣、再び。

本丸御殿を堪能してテンションが上がった私は、次は天守閣を制覇しようと再び天守閣を訪れます。

うーんこの佇まいですよ

引きで見てもかっこいい、天守閣💕


しかーし!!!!


え!!!!

名古屋城の天守閣には入場できません

「現在、耐震性が低いことに対応するため、天守閣を閉館しています。」

まじですかーー😭


そんなわけで私の名古屋城散歩は終わりを告げました。

不明門から臨む要塞感満載の天守閣

と、せっかく名古屋まで来てそんなことではへこたれません😊✨

天守閣の脇にある「不明門」という門があるのですが、

不明門

ここから臨む天守閣がすごかった✨✨

要塞名古屋城天守閣

なんかロボ感あるのわかりますか?要塞みたいな雰囲気がバンバン出てるんですよね😲✨

アップにすると

要塞感、伝わりますか?

ちなみに写真の中央にある白い建物はどうやら天守閣に入るための階段とかエレベーターとかがあそこにあるみたいです。

そんなこんなで、天守閣には入れませんでしたが、裏手から天守閣を楽しむことができました💕

名古屋城の天守閣は芸術の域

御深井丸

要塞天守閣にキュンキュンしながらシャッターを切りまくっていたわけですが、それでもいる場所はこんなシックな雰囲気だったりします。

御深井丸エリアの通路

要塞感がどうのこうのはしゃいではいましたが、しっかり秋という季節もコミコミで名古屋城を楽しみました😊

こんな風景も風情があって良いですね

豊臣秀吉に会った

西之丸に戻ってきた

ぐるっと一周してきて、西之丸(正門があるところ)に戻って来ました。

そこですごい有名人と遭遇したんです

まさかの秀吉さん

この秀吉さんがまた良いキャラしていて、良い感じに殿様面っていうかオラオラな感じで見ていて楽しかった✨

名古屋城では、「名古屋おもてなし武将隊」っていう人たちがいて、訪れた人たちを楽しませているようですね😊✨

名古屋おもてなし武将隊

歴史と文化と観光と。名古屋城。

名古屋城正門を出てきた

名古屋城を堪能しまくった結果、気がついたら 2 時間近くも経ってしまっていました😇

あっという間の時間でしたが、お城ってやっぱりその城に関する歴史に気軽に触れられるっていう要素はすごく大事だなって思いました😊

もちろん、城自体が歴史的建造物なのでそれを見るだけでも十分に価値があるとは思うんですけど、こういった名古屋城みたいに、歴史についても気軽に知る(西の丸御蔵城宝館)ことができたり、城や歴史のマニアじゃないような人たちがきても楽しめるコンテンツ(名古屋おもてなし武将隊)が用意されていたりすることは、観光という意味ではかなりアドバンテージがあるなって思いました。

(同じ感じの例としては、神奈川県の小田原城なんかも、天守閣自体がミュージアムになっていたり、鉄砲隊が空砲打ちにきたりと、楽しめるコンテンツが沢山あったりしますよね)

名古屋城は天守閣も本丸御殿も復元されたものではありますが、匠の技によってその凛々しさや豪華・繊細さを以て現代に蘇った素晴らしい歴史的建造物だと思いました。


名古屋城、ナイスキャッスル!

【北海道・函館】五稜郭跡(五稜郭公園)をぶらり散歩〜戊辰・箱館戦争、箱館奉行所。そして土方歳三センセイに思いを馳せて〜

函館の朝〜!

箱館戦争の舞台となった「特別史跡 五稜郭跡」に行ってきました😊✨

※ 歴史的な話や名称の時は「函館」を旧名の「箱館」と表記している部分があります🐰📝

函館駅から五稜郭までは路面電車が便利

函館の路面電車

函館には路面電車が通っており、函館駅前にすぐ路面電車の駅「函館駅前駅」があるので、そこから路面電車に乗ると五稜郭公園までのアクセスは便利です🚃✨

函館駅前駅

〒040-0063
北海道函館市若松町16

函館駅前駅

函館駅を背にして函館駅前駅を見た時に、手前側のホームから乗車すれば、五稜郭方面に乗れます🚃✨

五稜郭公園前駅

五稜郭に行くには、五稜郭公園前駅で下車します🚃

函館駅前駅にある運行表

函館駅前駅 → 五稜郭公園前駅
大人:230 円
子供:120 円

函館駅前駅から五稜郭公園前駅まで、路面電車で大体 20 分くらい 🚃

実際乗ってみた感じもそれくらいでした😊

五稜郭公園前駅

五稜郭公園までの道のり

五稜郭公園前駅から、五稜郭公園までは徒歩でも全然行ける距離です。

実際に歩いた感じ 10 分ちょっとくらいかな🐰🐰🐰

散歩レベルで向かえる距離感でした😊✨

五稜郭公園前駅を降りたところの交差点

駅を降りたら、しばらくこの道をまっすぐに進む

五稜郭公園に到着すると、手前の交差点に案内板が出ていて、それを見れば入り口がわりと分かりやすいです😊

五稜郭手前の交差点にある案内板

ただ、Google MAP 見てるとどこから五稜郭公園に入場したらよいのか若干わかりにくいので注意です📝

Google MAP から見た五稜郭公園入口

特別史跡 五稜郭跡(五稜郭公園)

五稜郭跡の入り口

五稜郭って何?

五稜郭は、箱館奉行が蝦夷地(北海道)を統治するために役所を新築する敷地として整備した洋式の城郭で、5 つの突角(とっかく)をもつ星型であるところから五稜郭と呼ばれている📝

元々は役所だったって事ですね😊

五稜郭と、戊辰戦争・箱館戦争

「函館の五稜郭」っていうと、「箱館戦争」「戊辰戦争」「土方歳三」なんてワードがよく出てきます😊

五稜郭を知る上での最低限の歴史を超ざっくりおさらいしておきましょう🐰🐰🐰


戊辰戦争は、王政復古(明治維新→江戸最後の将軍徳川慶喜の大政奉還→江戸幕府廃止)を経て明治新政府を樹立した新政府軍と、それに不満を持つ旧幕府軍が戦った日本最大の内戦。

箱館戦争は、そんな戊辰戦争の中の戦の一つで、戊辰戦争の最後の戦が箱館戦争です。

明治元年(1868年)10 月に江戸湾から軍艦 8 隻と共に脱走した海軍副総裁の榎本武揚(えのもと たけあき)率いる旧幕府脱走軍が箱館に入り、五稜郭を占拠。箱館の地にて旧幕府軍 vs 新政府軍の戦い「箱館戦争(五稜郭の戦い)」が始まります。

有名な新撰組の土方歳三もこの戦いに参戦。五稜郭を本拠に戦いました。

7 ヶ月後、新政府軍との戦いに敗れ五稜郭は新政府軍に明け渡され、箱館戦争が集結した事で戊辰戦争は集結しました。


ちなみに、五稜郭公園にも歴史をさらえる案内板があります😊

箱館戦争と特別史跡五稜郭跡

五稜郭全体図

入り口のところに模型があって、五稜郭の全体的な配置を俯瞰できます😊

五稜郭の全体図

ちなみにこれは当時のものなので、建物が全て残っているわけではなかったです。

箱館奉行所へ

入り口から進んでいきましょう

箱館奉行所へ向かう遊歩道

こんな感じですごく開放感があって、それでいて静か。散歩するにはめっちゃ良いところです

「半月堡」と呼ばれる、郭内への出入り口を防御するための出塁。「馬出塁」とも呼ばれる。

旅先でお城を見ることも多いせいか、土塁や石垣といった類にはつい反応してしまいます🙂

上ったりもできます。奥に見えるのは五稜郭タワー。

箱館奉行所への橋

ここを渡ると、箱館奉行所に入るための門番所跡があります😊💕

いよいよって感じの立派な橋。ちょっと渡るのどきどき。

五稜郭跡 門番所跡

門番所跡

箱館奉行所の入り口。役所の入り口だけあってどこか圧を感じるような、そんな凛としていて静かな佇まいです。

門番所跡

藤棚

門をくぐると、藤棚、藤のトンネルがありました😊

藤のトンネル

藤の花が咲くのって春ですよね、藤棚も結構距離あるので、その時期に来たらめっちゃキレイだったろうなあ😊✨

広い敷地、静かな雰囲気

さらに進んでいくととても広い敷地が広がってきます。

門をくぐり藤棚を抜けるとこんなふうな開けた道になる

箱館奉行所が見えてきた

箱館奉行所

箱館奉行所

おお〜✨立派なお屋敷って感じ😊✨

ちょっとあれかも、鬼滅の刃に出てくるお館様・産屋敷耀哉のお屋敷感ありました🥳

入り口の案内板

箱館奉行所の中に入ることが出来て、歴史や奉行所復元の様子とか、あと映像も観られるみたいです😊

開館時間

  • 9:00 ~ 18:00(4月-10月)
  • 9:00 ~ 17:00(11月-3月)

大人:500 円

hakodate-bugyosho.jp

土塁に登ってみる

土塁の上の様子

ここも広い〜🥰

思わず寝っ転がりたくなる💕

隣に五稜郭タワー

向こうに見えるのは五稜郭タワー✨

土塁から箱根奉行所を望む

一つ高いところから観るとまた違った風景っていうか、箱館奉行所の敷地の広さがよくわかります😊✨

五稜郭タワー

五稜郭タワー

営業していなくて行けなかったのですが、次また来た時に五稜郭タワーにも登ってみたい✨

(2010 年 10 月から営業を再開したみたいです😊)

www.goryokaku-tower.co.jp

隣に箱館戦争供養塔もありました

箱館戦争供養塔

五稜郭タワー

歴史を感じつつも、静かで穏やかな時間を過ごせるところ。

五稜郭公園、箱館奉行所と散歩してみましたが、静かで落ち着いていて素敵なところでした🥰

また、藤棚があったり五稜郭公園全体に桜が植えられていることから、春に行くと色とりどりでキレイなんじゃないかなって思いました😊✨

春に五稜郭タワーに登って、星型の敷地に沿って植えられた満開の桜を眺めるとか最高そう🥰

という事で、次は春に来たいなと思います✨

路面電車に乗って函館駅に戻ります。

おまけ

路面電車待ってたら脇道の奥にめっちゃ昭和感のある建物を見つけて思わず撮ってしまいました。

ここがすごい!小田原城〜国内トップレベルのエンタメ性を備える現代でも難攻不落の城

ここがすごい!小田原城〜国内トップレベルのエンタメ性を備える現代でも難攻不落の城

小田原城

小田原城

小田原城は、神奈川県小田原市にある戦国時代から江戸時代にかけての日本の城です。北条氏の本拠地として有名であり、豊臣秀吉による小田原征伐でも難攻不落の城として有名です。

小田原城は現在、小田原城址公園として市民の憩いの場となっています。

文化財等指定
国の史跡
日本100名城(No.23)
天守
あり
営業時間
9:00 〜 17:00
料金
一般: 510 円
小中学生: 200 円
定休日
12 月の第 2 水曜日
12 月 31 日〜 1 月 1 日
Wi-Fi
天守閣・常盤木門・歴史見聞館・本丸売店・藤棚臨時観光バス駐車場・二の丸観光案内所では無料で Wi-Fi を利用可能
最寄り駅
JR 小田原駅
駐車場
小田原城址公園内には駐車場無し。周辺にコインパーキングあり。
小田原駅周辺駐車場一覧
所在地
〒250-0014 神奈川県小田原市城内

小田原城 - 公式サイト

パンフレット - 小田原城址公園 [PDF] - 小田原城天守閣 [PDF] - 常盤木門SAMURAI館 [PDF] - 小田原城NINJA館(歴史見聞館) [PDF]

日本トップクラス!高品質な天守閣内ミュージアム

小田原城は、天守閣に入ることができます。

天守閣

階段を上がると受付があり、そこで料金を支払うと天守閣へ入る事ができます。

  • 一般: 510 円
  • 小中学生: 200 円

天守閣

天守閣は 5 階建てです。それぞれの階にて、小田原城の歴史に関する資料展示が行われています。天守閣内は改装されているため、昔の姿はなく現代的な内装ですが、館内は清潔感があり非常に綺麗です。

天守閣

天守閣はとても内容の充実したミュージアムになっていて、小田原城の歴史や小田原城の工事の事など、大量の情報と資料が公開されています。

映像コンテンツなどもあり、わかりやすく、かつ、興味を引く内容になっています。

天守閣内のミュージアムでここまで内容濃く作り込まれている所は少ないです。天守閣内は撮影禁止のため、本記事に掲載できる写真はありませんが、天守閣内のミュージアムとしては日本でもトップクラスのクオリティです。

開放感抜群!天守閣最上階からの眺望

天守閣の最上階は展望デッキになっています。北には小田原市街地、東、南に相模湾、そして西側の山々などを見渡せます。

北側: 小田原駅や小田原市街地が見渡せます。
天守閣からの眺望

東側: 小田原城址公園の木々、市街地の建物、そしてその先の相模湾とのコントラストが美しいです。
天守閣からの眺望

南側: 海の先に伊豆半島が見えます。
天守閣からの眺望

西側: 先にあるのは箱根の山々です。
天守閣からの眺望

天守閣を建てる際には、近隣諸国を見渡せる場所や、その他の要素を考慮して場所を決めています。それが結果としては抜群に良い眺望に繋がっています。

大名は必ずしも天守閣に常駐しているわけではありませんが、少なくとも天守閣の最上階には、限られた人しか上がれなかったはずです。

つまりこれらの景色は、当時は大名や関係者のみが眺めることができたということです。

それが現代において公開されており、私たちも同じ眺めを味わえることは、素晴らしいことだと思います。

侍に会える!手裏剣を投げられる!本丸広場

本丸広場

天守閣前には、本丸広場があります。ここでは、ベンチで休憩できたり、売店で飲み物や食べ物、お土産を購入できます。

そんな本丸広場には、侍が常駐しており、一緒に記念撮影を行うことができます。

侍

侍

また、本丸広場には鉄砲隊もいて、昔の銃である「火縄銃」の空砲を定期的に発砲してくれます。結構すごい音がするので、必見です。

侍

本丸広場には、露店も出ており、飲食も出来る他、手裏剣を投げることのできる催しもあるので、休憩もしつつ、色々と楽しめます。

忍者好きにはたまらない!NINJA 館

NINJA館

NINJA 館(歴史見聞館)では、小田原城にいた風魔忍者についての映像や資料の展示がされています。

また、忍者を体験できるアクティビティがあり、忍者好きなら必ず訪問すべきスポットです。

小田原城NINJA館(歴史見聞館)

侍を愛しているならここ!SAMURAI 館

常盤木門の 2 階には、SAMURAI 館が営業しており、侍の武具を展示しています。

SAMURAI館

日常では決して見ることのできない、貴重な武具が展示されています。

SAMURAI館

並べられた幾つもの鎧は全てに重厚感があり、眺めているだけでも迫力があります。

SAMURAI館

甲冑を実際に着ることもできます。SAMURAI 館に行けば、あなたも侍になることができます。

常盤木門SAMURAI館

小田原城へのアクセスと正面入口「馬出門」

小田原城へ入るための門はいくつかありますが、南東にある「めがね橋」を渡った先にある「馬出門(うまだしもん)」から入るのが一般的です。

馬出門

馬出門

馬出門は、小田原駅から徒歩で 10 分程度のところにあります。

土日祝日であれば、うめまる号という小田原市の観光バスを使っても行けます。

小田原宿観光回遊バス うめまる号

小田原駅からうめまる号に乗る場合、眼鏡橋バス停で下車します。(所要時間: 3分)

ガイドは二の丸観光案内所へ

さて、馬出門を抜けると、馬屋曲輪と呼ばれる広場が現れます。

広場

ここには、二の丸観光案内所があります。

二の丸観光案内所

ここでは、小田原城の歴史や見どころなどを案内してくれるガイドの同行を申し込めます。

当日、二の丸観光案内所へ来て申し込めば、無料で案内してくれます。(9:00 〜 16:30)

二の丸観光案内所は昭和初期に建てられたものですので、見て回るだけでも価値があります。天守閣までの通り道にあり、トイレもありますので、是非立ち寄ってみてください。

巨大!堅牢の象徴「銅門」

順路を進むと、銅門(あかがねもん)があります。

銅門

銅門は、二の丸の正門です。天守閣へつながる門であるためにセキュリティを強化するため、非常に大きく、堅牢に造られています。

銅門

銅門は、小田原城の正門である常盤木門に次ぐ規模の門であり、小田原城の象徴的な門の一つです。

銅門

土日祝日には、銅門内部に入ることができます。(10:00 〜 15:00)

銅門内部

石落としが備えられています。

石落とし

そしてここには、北条氏政・氏直・氏照と、重臣 2 名が議論をしている様子が再現されています。

小田原評定

これは、小田原評定(おだわらひょうじょう)という重臣会議の様子を再現しています。

小田原征伐(小田原合戦)で豊臣軍が攻めてきた際、北条氏側はどう迎え撃つか。という話し合いが 2 回が行われました。これを小田原評定といいます。

意見が別れ、結局結論が出ないまま北条氏は滅ぼされてしまいました。

小田原評定

小田原城の正門「常盤木門」

小田原城の常盤木門(ときわぎもん)は、小田原城本丸の正門にあたります。ここを抜ければ天守閣。重要な防御拠点のため他の門と比べても大きく、堅固に造られています。

常盤木門

常盤木門は、多聞櫓と渡櫓門を配し、多聞櫓は武器等の貯蔵庫として用いられていました。

常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたといわれています。

常盤木門

この門を抜ければ本丸広場です。そして天守閣があります。私の案内はここまです。一番の見どころである天守閣へ、いってらっしゃい。

小田原城から小田原駅へ

小田原城から小田原駅までは近いので、バスに乗らなくてもすぐに移動できます。

天守閣から北入口に向かい、北入口を出たら小田原駅はすぐそこです。

地図

小田原城の歴史

小田原城の築城は、室町時代に西相模に進出した大森氏が築いた城郭が前身とされます。城の規模や築城年は明らかになっていませんが、15世紀の中頃に造られたのではないかと考えられています。

その後、小田原氏が城主となり、北条氏康の代になると、城は大きく拡張されました。小田原城が難攻不落の城として有名なのは、この拡張によるものです。

江戸時代には、徳川家康に降伏した北条氏直が、小田原藩の藩主となり、城は小田原藩の藩庁となりました。

明治時代には廃城となり、多くの建物は解体されましたが、天守閣は残され、国の重要文化財に指定されています。

全盛期の小田原城

小田原城の全盛期は、北条氏康の代であると考えられています。

北条氏康は、1560 年(永禄 3 年)に家督を継承し、関東の覇権を握ります。氏康は、小田原城を関東支配の中心拠点として整備拡張し、総延長 9km に及ぶ総構を築きました。また、城内の建造物も整備され、小田原城は関東最大の城郭となりました。

これにより氏康は、上杉謙信や武田信玄などの強大な敵に立ち向かい、何度も勝利を収めました。これは、小田原城の堅牢さに加え、氏康の優れた軍事的才能によるものでした。

小田原城が難攻不落と言われている理由

小田原城が難攻不落と言われているのは、北条氏康の時代に、総構などを築き、豊臣軍に対抗するため城を大きく拡張したからですが、具体的には以下 4 つのポイントがあります。

総構(そうがまえ)

小田原城の最大の特徴は、総構と呼ばれる広大な外郭です。八幡山から海岸まで、小田原の町全体を、土塁と空堀でぐるっと囲んだもので、総延長は 9km にもなります。これは、後に豊臣秀吉が築いた大阪城の総構えよりも長いです。

総構えは、城の周りをぐるっと城壁で囲むことで敵の侵入を防ぐためのものです。小田原城の総構えは、その広大さゆえに、敵の兵を足止めし、攻め手を削ぐ効果を発揮しました。

自然の地形の利

小田原城は、相模湾に面した丘陵地帯に築かれています。東側は海に、西側は山に囲まれているため、天然の要塞としての役割を果たしていました。

また、城の周囲には、多くの沼や池が存在していました。これらは、敵の兵を足止めしたり、水攻めにしたりするために利用されました。

城の堅牢さ

小田原城の天守は、当時としては最大級の高さを誇っていました。また、城郭の内部には、多くの櫓や門が配置されており、敵の侵入を阻むための工夫が施されていました。

さらに、小田原城には、豊富な食料や水が豊富に備蓄されていました。そのため、籠城戦を展開しても、長期にわたって戦いを継続することができました。

強者を退け、大軍に長く耐えた実績

これらの拡張で日本最大級の堅牢さを持った小田原城は、上杉謙信や武田信玄といった勇猛な戦国武将からの攻撃をも退けました。

後の小田原征伐の際も、攻め入る豊臣軍勢約 20 万に対して、小田原城の北条軍勢は約 6 万。それでも小田原城は、約 100 日に及ぶ籠城戦を繰り広げました。

これらの実績から、小田原城は、難攻不落の城として名を残すことになりました。

小田原城最大の出来事

小田原城での最大の出来事といえば、「小田原征伐」です。

小田原征伐は、小田原合戦、小田原攻め、小田原の役など、様々な名称で表現されていますが、出来事としては同じものです。

まず、前提として、当時、豊臣秀吉は、1588 年(天正 16 年)に「惣無事令(そうぶじれい)」という、大名同士の戦争を禁止した法令を出していました。この令に違反した者は、秀吉の大軍を持って包囲攻撃され一族皆殺し、そして所領は没収といった厳しいものでした。つまり討伐です。

小田原征伐の発端となった背景には、北条氏が関東の覇権を握り、秀吉の天下統一を阻む勢力として成長してきたことにあります。北条氏は、秀吉に臣従する姿勢を見せながらも、実質的には独立した勢力として振る舞っていました。

そして、1589 年(天正 17 年)10 月、北条氏の家臣である猪俣範直が、真田氏の領地である上野国名胡桃城を奪いました。この行為は、惣無事令に違反するものであり、秀吉はこれを口実に北条氏を討伐することを決意しました。

秀吉は、1590 年(天正18年)3 月、全国の諸大名を率いて小田原城を包囲し、小田原征伐が始まりました。北条氏は、約 3 万の兵で小田原城にて籠城戦を展開しましたが、秀吉の圧倒的な兵力に包囲され、3 ヶ月後の 6 月に降伏しました。

小田原征伐の結果、北条氏は滅亡し、関東は秀吉の勢力下に入ることとなりました。

エンターテイメント性、商業性共に高レベルな城。

小田原城

小田原城天守閣のミュージアムは、圧巻の資料量と映像など様々なアプローチで私達を戦国時代へタイムスリップさせてくれます。

NINJA館では、忍者を体験できるアクティビティがあり、SAMURAI館では、甲冑を装備してみるこができます。

小田原の歴史、そして小田原城の歴史を楽しみ、侍になれるし、忍者にもなれる。

日本の歴史が好き、侍が好き、武士が好き、そして忍者が好き。そんなあなたには、マストで訪れるべき城です。

小田原城は、とてもエンターテイメント性の高い施設です。日本の城としてとても高いレベルの商業性を兼ね備えているので、是非足を運んでみてください。

小田原城


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武田神社の魅力を徹底解剖!戦国武将の雄、武田信玄を祀る「武田神社」

武田神社の魅力を徹底解剖!戦国武将の雄、武田信玄を祀る「武田神社」

武田神社

武田神社

武田神社は、山梨県甲府市古府中町にある、戦国時代の武将、武田信玄を祭神としている神社です。

武田神社は、武田氏の居館であった「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)」の跡地に建てられています。1919 年(大正8年)に創建され、1923 年(大正12年)には神饌幣帛料供進神社に指定された経歴があります。

参拝時間
9:00 〜 16:00
定休日
年中無休
電話番号
055-252-2609
駐車場
無料駐車場あり
最寄り駅
JR 甲府駅
所在地
〒400-0014 山梨県甲府市古府中町 2611

武田神社 - 公式サイト

所要時間は 15 〜 20 分

武田神社全図

武田神社の敷地はそれほど広くはありません。武田神社の境内はゆっくり観て回っても 15 〜 20 分あれば参拝できます。

他、武田神社の前には土産物店や信玄ミュージアムがありますので、そちらに立ち寄る場合はその時間も加味するとおおよその滞在時間が見積もれます。

JR 甲府駅からバスで約 8 分

電車とバスを乗り継げば、車が無くてもアクセス可能です。

JR 甲府駅の北口にバスターミナルがあります。2 番のりばから山梨交通 [10・11] 武田神社 または [12] 積翠寺に乗車し、バス停「武田神社」で下車します。

  • 乗車
    • 場所
      • JR 甲府駅北口 バスターミナル
        • 2 番のりば
    • バス
      • 山梨交通
        • [10・11] 武田神社行き
        • [12] 積翠寺行き
  • 下車
    • バス停「武田神社」

甲府駅北口バス乗り場・時刻表 - 山梨交通

バス停 武田神社

下車するバス停「武田神社」は、武田神社の入口目の前で停車しますので、下りたらすぐ目の前が武田神社です。

参拝者専用駐車場(無料)

車で行く場合は、武田神社に無料の駐車場があります。

武田神社 参拝者専用駐車場

駐車可能時間
9:00 〜 16:00
所在地
〒400-0017 山梨県甲府市屋形 3-8-13

武田神社 参拝者専用駐車場

駐車場は武田神社の西側に位置しています。駐車場から武田神社の入口までは徒歩約 5 分です。

国指定史跡 武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡)

武田氏館跡 案内板

国指定史跡 武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡)

「武田氏館」は「躑躅(つつじ)ヶ崎館」とも呼ばれ、武田信玄の父、信虎が、1519 年(永世 16 年)に石和からこの地に、館を移したことから始まります。

その後、信玄・勝頼と、武田家当主の館として使われました。

そして武田家の滅びた後、文禄年間に館の南方に今の甲府城が作られるまでの、約 70 年に渡り、この館一帯は、領国の政治・経済と文化の中心地として発展しました。

館は、一辺が約 200m の正方形の主郭(現武田神社)を中心に、その回りのいくつかの副郭とによって構成された平城形式のものです。

館の回りには、家臣の屋敷が建てられ、南方一帯にっは格子状に整備された道路に沿って、城下町が開けていました。

この館と城下町は、戦国時代の大名の本拠として、第一級の規模と質を誇るものです。

神橋

神橋

武田神社の入口に掛かる橋「神橋」は、戦国時代に武田氏の居館である躑躅ヶ崎館の正門前に架けられていた橋を模して、1934年に再建されたものです。

橋の長さは約20メートル、幅は約6メートルで、石造りの橋脚と木造の橋桁で構成されています。橋脚には武田氏の紋である「武田菱」が刻まれており、橋桁には「武田神社」の扁額が掲げられています。

鮮やかな朱色が美しいです。

神橋

また、神橋は甲府市の市指定文化財に指定されており、武田氏の歴史と文化を伝える貴重な遺産となっています。

神橋

鳥居・狛犬

鳥居

神社において、鳥居は神社の入口であり、神聖な空間への境界を示すもです。そしてその前に鎮座する狛犬は、神社を守る神獣として信仰されています。

武田神社の鳥居の前に鎮座する狛犬も、非常に力強い表情と佇まいです。

狛犬と鳥居

鳥居を通過する前のオススメ風景

鳥居を通過する前に、後ろを振り返って武田神社の入口方面を眺めてください。四季折々の花木、鮮やかな朱色の神橋、そしてまっすぐに伸びるメインストリート。昔の城下町を思わせる、非常に美しい日本の景色が広がります。

美しい日本の景色

境内

境内は自然豊かで閑静。落ち着いた雰囲気です。

境内

春になると桜が咲き誇り、非常に美しい風景に出会えます。

境内に咲く桜

境内に咲く桜

境内に咲く桜

拝殿

拝殿

拝殿は 1955 年に再建されたもので、入母屋造りの木造建築です。正面3間、側面2間の規模で、屋根は銅板葺です。

拝殿の奥にある本殿は 1919 年に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。

拝殿の内部には、中央に武田信玄を主祭神とする神座が設けられています。また、拝殿の左右には、武田信玄の二男である武田勝頼と、武田氏の重臣である馬場信春の神座が設けられています。

拝殿

歴史を感じる神聖な自然の風景

武田神社の特徴の一つに、豊かな自然が挙げられます。

神聖な自然の風景

境内には年月を感じさせる苔むした木々が散見され、歴史を感じると共に、神聖な雰囲気を感じることができます。

神聖な自然の風景

売店・御朱印

売店は拝殿の隣にあり、御朱印やお守りを購入したり、おみくじを引くことができます。

売店・御朱印

武田神社の御朱印について

御朱印

  • 御朱印帳に押印: 300 円
    • 御朱印帳には、専用紙の「武田信玄公の立ち姿・座り姿」を押印する事はできません。
    • 立ち姿・座り姿をご希望の方は、下記の専用紙でお受け下さい。
  • 専用紙に押印: 500 円
    • 専用紙は見開きとなっており、左面には切り絵による武田信玄公の立ち姿・座り姿の、どちらかが「印刷」されております。
    • 御朱印帳をお持ちの方も、専用紙で御朱印をお受けになる事ができます。
    • 立ち姿・座り姿の両方をお受けになること、またはそれぞれを複数でお受けになる事もできます。
  • 御朱印帳: 1,700 円(武田神社オリジナルの朱印帳)
    • 黒の錦布で表紙を装丁し、表表紙にヨロイを、裏表紙に富士山と軍配が刺繍で描かれております。
    • 武田神社御朱印をこの御朱印帳でお受けになりたい方は、御朱印帳の 1,700 円に御朱印料 300 円を加え、合計 2,000 円となります。

甲陽武能殿

甲陽武能殿

甲陽武能殿(こうようぶのうでん) は、1985年に建立された、能楽専用の能舞台です。

甲陽武能殿の名称は、武田信玄が著した軍学書「甲陽軍艦」に由来しています。

「甲陽」は、甲斐の国の輝く様を表し、「武能」は、武田氏の「武」と能楽の「舞」が同じ音につながることに由来しています。

この能楽殿は、武田信玄の武勇と文化を讃え、能楽の継承と発展を願って建立されました。

甲陽武能殿

ハローキティ石像

宝物殿の入口には、ハローキティの石像が奉納されています。

ハローキティ石像

この石像は、サンリオの創業者である辻信太郎氏の出身地である甲府市の市民有志によって奉納されました。

信玄ミュージアムと土産物店も併せて訪問がオススメ

武田神社の前には土産物店や信玄ミュージアムがあります。

写真の右手が土産物店、左手が信玄ミュージアムです。 武田神社前のストリート

双方は武田神社の目の前にありますのでアクセスも簡単です。信玄ミュージアムは本記事の後半で紹介しますが、武田神社に行くなら両方とも立ち寄るのがオススメです。

土産物店

土産物店も、桔梗信玄餅をはじめとする山梨の名物から、ここでしか購入できない武田神社、そして武田信玄のオリジナルグッズなど幅広く多くの商品を取り扱っており活気があります。

その中でも特に、バニラアイスにきな粉と黒蜜をかけた「信玄アイス」と武田神社御用達の「カステラ焼き」が人気です。

両方ともオリジナル商品のためここでしか食べられません。武田神社に行った際にはぜひチェックしてみてください。

信玄ミュージアム

武田家の歴史についての展示が行われている「信玄ミュージアム」が、武田神社のすぐ目の前にあります。

信玄ミュージアム 信玄ミュージアム

営業時間
9:00 〜 17:00
定休日
火曜日(祝日の場合はその翌日)
12/29 〜 12/31
電話番号
055-269-5030
観覧料(特別展示室)
300 円
所在地
〒400-0015 山梨県甲府市大手 3-1-14

特別展示室は有料ですが、常設展示室は無料のため、気軽に立ち寄れます。

常設展示室
常設展示室

旧堀田古城園
旧堀田古城園

また、土産物店や食事処も併設されているため、隣の土産物店と併せてこちらも立ち寄ると、武田神社訪問をより充実したものにできるでしょう。

信玄ミュージアム - 公式サイト

歴史を空気と情報から感じられる

境内

武田神社は、武田信玄の父である武田信虎が、永正16年(1519年)に、甲府城の北東に「躑躅ヶ崎館」を築いた際に、館の鎮守として創建されました。

その後、武田信玄が甲斐国を統一すると、武田氏の氏神として、隆盛を極めました。しかし、武田勝頼の時代になると、武田氏は織田信長に滅ぼされ、武田神社も荒廃しました。

明治維新後、神仏分離令により、武田神社は再興されました。昭和15年(1940年)には、国の史跡に指定されました。

武田神社の境内には、神橋、拝殿、甲陽武能殿、ハローキティ石像などの見どころがあります。

春には美しい桜が、武田神社を彩ります。

武田神社脇の歩道

武田神社で歴史を肌で感じて、信玄ミュージアムで歴史をより深く知る。

土産物店で、人気のスイーツや武田信玄のオリジナルグッズを購入する。

武田神社では歴史を感じ、美しい日本の風景にも出会いつつ、信玄ミュージアムや土産物店で武田神社訪問をより充実させられます。

武田信玄の魂を現代に伝える武田神社へ、是非足を運んでみてください。

境内

桜の名所、甲府城〜武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康。甲斐の国と城は名将と共に

桜の名所、甲府城〜武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康。甲斐の国と城は名将と共に

甲府城(舞鶴城公園)

甲府城

甲府城は、山梨県甲府市にある平山城です。江戸時代初期に豊臣秀吉の命により浅井長政によって築城され、江戸の徳川家康けん制の目的で築城されました。現在は国指定史跡に指定されています。

築城
1583年(天正11年)
別名
舞鶴城
文化財等指定
国の史跡
天守
無し
料金
無料
営業時間・定休日
常時開放
最寄り駅・アクセス
JR 甲府駅から徒歩 10 分(500m)
駐車場
甲府駅周辺に有料駐車場あり
城内にバス・体の不自由な人のみ利用可能な駐車場あり(事前予約制)
所在地
〒400-0031 山梨県甲府市丸の内 1-5-4

甲府城 - 甲府市公式サイト

甲府城は、甲府盆地の北部、一条小山に築かれています。山梨県を代表する城郭の一つで、江戸時代には甲斐の守護神として重要な役割を果たしました。

甲府城の築城は、武田氏の滅亡後、関東の徳川家康に対抗するためでした。豊臣秀吉は、甲斐を支配する加藤光泰に命じて築城を開始させ、その後、浅野長政・幸長父子によって完成させました。

甲府城は、内堀・二ノ堀・三ノ堀で囲まれた広大な城郭です。本丸には天守台があり、その周囲には諸曲輪が配置されています。天守は現存していませんが、天守台からは甲府盆地を一望することができます。

甲府城は、江戸時代を通じて甲斐国の中心城として機能しました。将軍家一門や譜代大名が城主を務め、城下町とともに大きく発展しました。

甲府城は、現在は「舞鶴城公園」として整備されています。天守台や本丸跡などの遺構を自由に散策することができます。また、甲府城に関する資料を展示する「甲府城博物館」も併設されています。

オススメは鍛冶曲輪門からの入場

甲府城に入るにはいくつかの入口があります。甲府駅から近いのは北側ですが、北側は裏手に当たるため、南側から入場したほうが本丸までの道も雰囲気があって楽しめます。

特に歴史的な建造物に多く触れられる南西側の鍛冶曲輪門 から入るのがオススメです。

鍛冶曲輪門

鍛冶曲輪門

鍛冶曲輪門(かじくるわもん)は、甲府城の楽屋曲輪と鍛冶曲輪をつなぐ門で本丸の南西側に位置します。現在は山梨県庁東門側から 甲府城へむかうところにあります。

鍛冶曲輪門は、発掘調査の成果から平成 9 年に復元しました。門は薬医門という形式で、前の親柱2本、後ろの控柱 2 本のうえに本瓦葺きの切妻屋根がのります。

屋根は前側に少しずれてのるので前の柱はやや太いものになっており、門の横には潜り戸がついています。

鍛冶曲輪門

日本庭園

鍛冶曲輪門をくぐると、本丸までは日本庭園が広がっています。本丸までは、ゆっくり歩いても 5 分くらいです。

庭園の雰囲気が素敵です。優美なため時間がゆっくりと流れているように感じます。

日本庭園

桜が沢山植えられています。春にはこの道が桜で満開になり綺麗です。

日本庭園

通路の庭が落ち着いててゆったり散歩できます

日本庭園

石段を上がると、鉄門です。 石段

鉄門

鉄門

鉄門(くろがねもん)は、本丸と天守曲輪の南側の境にある、左右に石垣を有する 2 階建ての櫓門です。江戸時代初期に建てられ、明治初年に取り壊されましたが、2010 年から2011 年にかけて復元されました。

鉄門

鉄門の名称は、門の扉が鉄製であったことに由来しています。門の扉は、鉄板を溶接して作られており、厚さは約1センチメートルにもなります。また、扉の周囲には、鉄の装飾が施されています。

鉄門

鉄門の内部は、2階建てで、1階には弓矢や銃などの武器を保管する武具蔵が、2階には見張り台や居室があったと考えられています。

鉄門は、甲府城の重要な防御施設のひとつでした。門の扉が鉄製であったため、火縄銃の攻撃にも耐えることができ、城の防衛に大きな役割を果たしたと考えられます。

本丸

鉄門を通ると本丸エリアに入ります。天守は現存していないため、現在は広場になっています。

本丸広場

天守台があり、上ることができます。

天守台

天守台は展望デッキになっており、甲府市内を見渡すことができます。

天守台からの眺め(南側)
天守台からの眺め(南側) 天守台からの眺め

天守台からの眺め(北東側)
天守台からの眺め(北東側)

天守台からの眺め(北側・甲府駅方面)
天守台からの眺め(北側・甲府駅方面)

天守台から本丸広場を見下ろす
天守台から本丸エリアを見渡す

稲荷曲輪(いなりくるわ)

天守台を降りて北に向かうと、稲荷曲輪に出られるので行ってみましょう。

天守台の石垣がとにかく壮大です。
天守台の石垣

稲荷曲輪に向かう坂道 稲荷曲輪に向かう坂道

こっちは坂道になっているので、階段無しで本丸広場まで来れると考えると、ベビーカーを押しているファミリーとかは北側から入場すると良いかもしれませんね。

稲荷曲輪に到着です。

稲荷曲輪

稲荷曲輪は、本丸の北側に位置する曲輪です。江戸時代初期に築かれ、天守台や本丸と直結する重要な曲輪でした。

稲荷曲輪の周囲は、幅 10m, 深さ 6m の堀で囲まれています。堀の外側には、高さ 10m ほどの石垣が築かれており、城の防御を高める役割を果たしていました。

現在は桜が咲き誇る広場になっていますが、 稲荷曲輪内には、井戸や煙硝蔵跡、古い石垣展示など、往時の姿を今に伝える遺構が数多く残されています。

稲荷曲輪

稲荷櫓(いなりやぐら)

稲荷曲輪の東側に、稲荷櫓(いなりやぐら) という武具蔵があり、中に入れます。稲荷櫓では展示が行われています。

稲荷櫓

稲荷櫓は 2 階建てになっており、それぞれ歴史的な出土品などが展示されています。

稲荷櫓での展示

金箔鯱瓦(きんぱくしゃちほこがわら)
金箔鯱瓦(きんぱくしゃちほこがわら)

鯱瓦(しゃちがわら)
鯱瓦

2 階には甲府城全体のジオラマ模型や、城壁の石の切り出しの様子などが展示されています。

稲荷櫓

桜の名所、甲府城。

甲府城は、江戸時代を通じて甲斐国の中心城として機能しました。将軍家一門や譜代大名が城主を務め、城下町とともに大きく発展しました。

そんな甲府城も、明治の廃城令で廃城となり、現在は「舞鶴城公園」として整備されています。歴史的な遺構を残しつつ、現在は静かに市民の憩いの場としてその姿を留めています。

一方で甲府城は、春になると約 160 本の桜が咲き誇る桜の名所としても知られています。桜は、天守台や本丸跡などの遺構を囲むように植えられており、遠くに見える富士山とのコントラストが美しく、多くの観光客が訪れます。

桜

甲府城の桜の見頃は、例年 3 月中旬から 4 月上旬です。桜のライトアップも行われており、夜桜の散策も楽しめます。

桜

豊臣秀吉が徳川家康を牽制するために築城された甲府城。

今はその歴史を背負って静かに佇む。しかしその存在は桜によって華やかです。

山梨県に旅行に行った際には甲府市へ赴いていただき、甲府駅からも近い甲府城へ足を運んでみてください。