週末はじめました。

自然に癒やされたいわたしのキャンプ・アウトドア、そして日常ではない何者かになりたいわたしの旅や遠足の記録

大阪城 西の丸庭園〜静寂に描かれる色彩豊かな日本の美。

大阪城 西の丸庭園〜静寂に描かれる色彩豊かな日本の美。

西の丸庭園

西の丸庭園

大阪城の西の丸庭園は、大阪城の西側にある約 2 万坪の広大な芝生庭園です。大阪城の天守閣を美しく眺めることのできる庭園で、春には約 300 本の桜が咲き誇り、花見の名所としても有名です。 豊臣秀吉の正室である北政所(寧々)の住居も、この西の丸にありました。

西の丸庭園

開園時間
[3 月 ~ 10 月] 9:00 ~ 17:00
[11 月 ~ 2 月] 9:00 ~ 16:30
定休日
月曜日(月曜が祝日の場合は翌日)
12 月 28 日~ 1 月 4 日
入園料
大人: 200 円

大阪城の天守閣を美しく眺めることのできる庭園

西の丸庭園からは、大阪城の天守閣を美しく眺めることができます。

大阪城

大阪城

大阪城

大坂城代屋敷跡

西の丸庭園の南側には江戸時代、幕府重職で大坂城の防衛や維持管理の最高責任者である大坂城代の屋敷(官邸)がありました。

西の丸庭園

明治維新の際の火災で焼失してしまい、現在は芝生の広場となっています。東向きの玄関は着心造りで、公務を行う広間や書院だけでなく、城の妻子が居住する建物も備えており、本丸倒殿に次ぐ規模の殿でした。

豊松庵

豊松庵

西の丸庭園には、松下幸之助氏から寄贈された茶室「豊松庵」があります。

豊松庵

豊松庵の庭に作られた枯山水(日本庭園)越しに見る大阪城天守閣は、最も美しい姿であると言われています。

現在、豊松庵は一般公開はされておらず、主に結婚式の新郎新婦や家族の控室になっています。時々、特別公開でレストランとして予約制で入ることができる場合もあります。

大阪迎賓館

大阪迎賓館

大阪迎賓館は、1995 年の APEC 大阪開催に際し、各国首脳をもてなすために建てられました。京都二条城白書院を模した格式高い建築様式で知られています。その後、2019 年の G20 大阪サミットでは晩餐会会場として使用され、世界中の注目を集めました。

現在は主に結婚式、パーティで使用されています。期間限定でレストランとして利用できる場合があります。

大阪迎賓館

焔碵蔵(えんしょうぐら)

焔碵蔵

大阪城西の丸庭園にある焔硝蔵は、江戸時代に徳川幕府が火薬を保管していた石造りの蔵です。1685 年に建造され、その特徴的な石造りは耐火性や耐久性、防水性を重視しています。

焔碵蔵

石造りの火薬庫は全国的にも珍しいです。大坂城は西日本の幕府の軍事拠点であり、この蔵はその一部として機能していました。焔硝蔵は花崗岩で作られ、壁や床、天井、梁はすべてこの丈夫な素材で覆われています。厚さ約2.4メートルの石壁と土で固められた屋根の下には、火薬を安全に保管するための工夫が施されています。

焔碵蔵

静寂の中に描かれる、色彩豊かな風景の数々。

大阪城西の丸庭園。その静謐な雰囲気は、訪れる者の心を穏やかな旅に誘います。

西の丸庭園

静かな園内でありながらも、季節ごとに移り変わる自然の鮮やかな色彩が、まるで詩情豊かな絵巻物をめくるような感動を与えてくれます。桜の花が咲き誇る春、緑の繁茂する夏、紅葉が彩る秋、そして雪景色が広がる冬―四季折々の美しさが魅力的に広がります。

西の丸庭園

緑豊かな芝生の上をそよぐ風を感じながら、歴史を感じさせる石垣や大阪城を眺めれば、まるでタイムスリップしたかのような感覚を味わえるでしょう。

大阪城

都会の喧騒を忘れて、静寂の中で自分と向き合いたいとき。大切な人とロマンチックな時間を過ごしたいとき。大阪城西の丸庭園は、そんな願いを叶えてくれる特別な場所です。

大阪城天守閣の威厳と西の丸庭園の優美さが織りなす、至福の空間をぜひ感じてみてください。

大阪城


www.ritocamp.com

www.ritocamp.com

www.ritocamp.com

www.ritocamp.com

大阪城最古にして、最強の番人「千貫櫓」

大阪城最古にして、最強の番人「千貫櫓」

千貫櫓

千貫櫓

千貫櫓(せんがんやぐら)は、大阪城内で最も古い櫓のひとつです。年間を通しては見学できない櫓の一つで、毎年、特別一般公開として期間限定で見学することができます。

千貫櫓は大手口を北側から守る隅櫓であり、その位置は西・南側に西外堀に面しています。

千貫櫓

この二層建ての隅櫓は、西の丸庭園の西南隅にあり、大阪城の正門である大手門を側面から防御する重要な役割を果たしています。

大阪城最古の櫓

千貫櫓

千貫櫓は、元和6年(1620年)に桂離宮などの設計で知られる小堀遠州によって創建されました。昭和36年(1961年)の解体修理の際には、創建年月日が明確になる板が発見されました。城内で最も古い建造物の一つとして、その歴史を刻んでいます。

千貫櫓

防御特化の内部構造

千貫櫓

内部には 1 階と 2 階にそれぞれ武者走りと呼ばれる回廊があり、その内側には 4 室ずつの天井板張りの部屋が配置されています。一階の面積は 199㎡ で、二階は 143.32㎡ です。

千貫櫓

千貫櫓

千貫櫓

千貫櫓

武者走りには大手門と外堀対岸に向かって隠し銃眼が設けられており、一階には石垣をよじ登ってくる敵に対する右落としの装置がみられます。また、二階の武者走りには格子ぶたの荷揚げ装置がありますが、その設置時期については不明です。

千貫櫓

火縄銃

千貫櫓では、当時の火縄銃を再現したレプリカが展示されており、自由に触れることができます。

火縄銃

実際に手にとって構えてみてください。金属部分は鉄製のため、見た目のイメージに反してずっしりと重たいです。

火縄銃

火縄銃

千貫の名に込められた攻防のドラマ

千貫櫓

千貫櫓という名は、織田信長が石山本願寺攻め時に「攻略が難しければ千貫文を褒美とする」と語った逸話に由来します。難攻不落の象徴として、その後も大手の守りとして重要な役割を果たしました。

千貫文とは、「文」という日本の昔の通貨で表す金額のこと。

1000 文 = 1 貫文 となる。

当時の 1 文は、現代の日本円に換算すると約 120 円。

1000貫文(=千貫文)は現在の円に換算すると 1 億 2000 万円ほどになる。

高額な報酬を提示するほどに攻め落とすのが難しい櫓であったということが分かります。

千貫櫓

大阪城最古、最強の番人

千貫櫓

大阪城の北西に威厳を放つ千貫櫓。白壁と黒い瓦屋根が織りなすコントラストは、まるで水墨画から飛び出したような趣きです。時を超えて語り継がれる歴史と、重厚な木造建築が醸し出す圧倒的な存在感は、見る者を魅了して止みません。そして大手門を北側から守り、西外堀に面するその姿は、まさに大阪城の守護神。石垣に根を張り、力強く立ち尽くす姿は、幾多の戦乱を乗り越えてきた強さを物語っています。

千貫櫓

千貫櫓は、大阪城で最も古くからそびえ立つ構造物のひとつとして見どころの一つです。いつでも見学できるわけではありませんが、特別公開が行われた際には、この荘厳な姿と歴史の重み感じに足を運んでみてください。

千貫櫓


www.ritocamp.com

www.ritocamp.com

www.ritocamp.com

盛れる!映える!最も美しい大阪城を撮りたいなら御座船がオススメ。

盛れる!映える!最も美しい大阪城を撮りたいなら御座船がオススメ。

大阪城を最も美しく写真に収めることのできる「大阪城御座船」を紹介します。

大阪城御座船

大阪城御座船

大阪城御座船(ござぶね)は、大阪城のお掘りをクルージングするサービスです。大阪城内壕を約 20 分で周回します。

どこよりも美しい写真が撮れる

御座船に乗ると、お掘りの水、そして空を含めて、非常に美しい大阪城の姿を写真に収めることができます。

大阪城

水面がまるで鏡のように大阪城天守閣や空を反射し、とてもダイナミックな写真を撮ることができます。

大阪城

さらに、御座船に乗ると、歩いて行くことのできない場所からの大阪城を写真に収めることができます。

大阪城

御座船は席と水面が近いため、水面に近い位置でシャッターを切れます。そのおかげで、まるで水城のような大阪城の姿を見ることができます。

水の都、大阪。クルージングは癒やし要素の宝庫。

御座船に乗れば美しい大阪城の写真を撮れますが、クルージング自体も非常に楽しめるのでオススメです。船からだからこそ見ることのできる風景。いつもとは違った大阪城の景色を楽しめます。

大阪城

大阪城

流れる雲、水面。木々と都会の風景との対比。押し迫るダイナミックな石垣。20 分間という時間の中に、癒やし要素が満載です。

こちらの動画をご覧ください。

日本人は特に誰も知らない穴場スポット

船の船頭さんの話では、御座船に乗るお客さんのほとんどは海外観光客で、日本人はほとんど乗らないのだそうです。

私が乗ったときも、定員 18 名の船に対して、日本人は私のみでした。

御座船

つまり、日本人はほとんどの人がこの素敵な風景を見られることを知りません。

御座船について

御座船は、大阪城の北側に乗船場所とチケット販売所があります。

大阪城御座船 乗船所

チケット販売所

乗船所

大阪城御座船 料金表
大人 1500 円 16 歳以上(高校生以上)
高齢者 1000 円 65 歳以上(年齢が確認できるものを提示)
子供 750 円 小中学生(但し、子供のみでの乗船はできません)
幼児 無料 1 ~ 6 歳未満
乳児 無料 1 歳まで
障害者 750 円 本人・介護者 1 名まで

チケットは当日販売のみです。事前予約はできませんので、現地で購入する必要があります。

運行時刻は時期によって変動します。公式の運行スケジュールを確認してください。

お得に御座船に乗る方法

御座船に乗るには 1500 円かかります。最もお得に乗るなら、大阪周遊パスがオススメです。

www.osp.osaka-info.jp

大阪周遊パスを使えば御座船は無料で乗船できるので、大阪周遊パスの料金以上に大阪の観光スポットを巡ったり、電車に乗ったりすれば、それだけ割安になります。(大阪周遊パスが利用できない日があるため、公式の運行スケジュールを確認してください。)

御座船は隠れたインスタ映えスポット

大阪城

意外と知られていない大阪城御座船。大阪城を最も美しく写真に収めることのできるオススメスポットです。

また、徒歩では絶対に行けない場所から天守閣を眺められることも魅力です。高くそびえる石垣の迫力や、揺れる水面、心地よい風。全てが癒やし要素でもあります。

旅行に来たら、その観光地の素敵な写真を撮りたい。SNS にアップしたり、思い出に残るような素敵な写真を撮りたいですよね。

春は桜の中を。夏は新緑の中を。秋は紅葉の中を。冬は静寂の中を。

御座船に乗って、四季折々の最高に美しい大阪城を見てみてください。

大阪城

行列に並ばない!階段は上らない!失敗しない大阪城天守閣の歩き方

行列に並ばない!階段は上らない!失敗しない大阪城天守閣の歩き方

大阪城 天守閣

大阪城 天守閣

大阪城天守閣は、大阪市中央区にある大阪城公園内にある天守閣です。現在の天守閣は、豊臣秀吉が築城した天守閣を参考に 1931 年(昭和 6 年)に復興されたもので、国の登録有形文化財です。地上 55m, 8 階建てで、最上層からは大阪市街を一望できます。内部は歴史博物館となっており、豊臣秀吉や大阪城の歴史に関する資料が展示されています。

営業時間
9:00 ~ 17:00
定休日
12 月 28 日 ~ 1 月 1 日
料金
大人: 600 円
子供(中学生以下): 無料
所要時間
30 ~ 40 分
電話番号
06-6941-3044
公式サイト
https://www.osakacastle.net/
トイレ
2 階にのみトイレがあります。

壮麗な大阪のシンボル。現在の天守閣は 3 代目

大阪城天守閣

大阪城天守閣は、白亜の巨体が青空に映える、まさに壮麗という言葉がふさわしい姿をしています。太陽の光を浴びて輝く瓦屋根と、力強い石垣の組み合わせは、大阪のシンボルとしてふさわしい威厳を漂わせています。

大阪城天守閣

その壮麗な外観は、豊臣秀吉の天下統一の夢を体現しているかのようです。歴史の重みを感じさせる石垣や瓦屋根は、日本の伝統美を余すところなく表現しています。

大阪城天守閣

ちなみに、現在の天守閣は 3 代目になります。

初代天守は、豊臣時代の1585 年(天正13年)から 1615 年(慶長20年)までの31年間。

2 代目天守は、徳川時代の 1626 年(寛永3年)から 1665 年(寛文5年)までの40年間。

そして現在の 3 代目天守閣は、1931 年(昭和6年)から現在に至ります。

1 階: 天守閣の入口

1 階には、エレベータ、インフォメーションカウンター、そしてミュージアムショップがあります。

1 階

インフォメーションカウンターでは、各国の音声ガイドを貸し出しています。(日本語・英語・韓国語・中国語)

ミュージアムショップでは、お土産や大阪城グッズが販売されています。ミュージアムショップでしか購入できないオリジナルグッズも販売されています。

ミュージアムショップ

ミュージアムショップ

ミュージアムショップ

体力温存!エレベータを使って効率よく巡ろう

エレベータ

1 階のエレベータに乗ると、5 階まで上がることができます。

エレベータ

まずは 5 階までエレベータで上がり、5 階からは階段で 8 階の展望台に行きましょう。

エレベータ

8 階の展望台で景色を楽しんだ後は、階段を降りながら各階の展示を見て回り、1 階まで降りて行くれば、階段の上りを最小限に抑えることができます。

階段

車椅子でも天守閣を楽しめる

エレベータは基本的には上りのみですが、車椅子の方には、上りも下りもエレベータで移動することができます。展望台や、各フロアの展示も見て回ることができますので、天守閣 1 階のスタッフさんにお声がけください。

2 階: ダイナミック!大阪城の情報コーナー

2 階は、大阪城についての解説や展示のエリアです。

展示

展示

豪華な、金の鯱瓦なども展示されています。現在の天守閣で使われているものと同じ大きさのレプリカです。とても迫力があります。

展示

展示

兜・陣羽織の試着体験

2 階のオススメは、兜や陣羽織を試着しできるコーナーです。戦国武将の兜や陣羽織などを試着でき、自分のカメラで記念撮影が行えます。料金は 500 円です。

兜・陣羽織の試着体験

兜

3 階・4 階(企画展示)

3 階と 4 階は企画展示エリアです。2 ヶ月ごとに展示内容が変更になります。

現在の展示内容や企画展の予定は、公式サイト から確認できます。

なお、3 階と 4 階は撮影禁止エリアです。

展示

5 階: 大坂夏の陣図屏風の世界

5 階は、大坂夏の陣図屏風の世界についての展示です。

展示

大坂夏の陣図屏風は、1615年(慶長20年)の戦いを描いた六曲一双の屏風絵です。徳川家康率いる幕府軍と豊臣秀頼率いる大坂方の戦の様子が迫力満点に描かれ、戦国時代最後の戦いの激しさを伝えています。人物5000人以上、馬300頭以上が緻密に描かれ、戦の様子だけでなく、戦後の混乱や市民の苦しみも表現されています。大阪城天守閣所蔵で重要文化財です。

wikipedia で、屏風の絵を見ることができます。

展示

その中でも是非見ていただきたいのが、大坂夏の陣を再現したミニチュアです。

ミニチュア人形

真田幸村隊(158体)と松平忠直隊(149体)の激戦を、ミニチュア人形(計307体 スケール1/20)で、非常に精巧に再現されています。

ミニチュア人形

ミニチュア人形

ミニチュア人形

ミニチュア人形

6 階(立入禁止)

6 階には展示は無く、立入禁止エリアになっています。

7 階: 豊臣秀吉の生涯

7 階では、豊臣秀吉の生涯に関する展示が行われています。豊臣秀吉が生まれてからその生涯を閉じるまでの一生が分かりやすく簡潔にまとめられています。

展示

展示

展示

中には以下のような、3D による立体映像を用いたコンテンツもあり、楽しいです。

映像コンテンツ

8 階(展望台): 地上 50m!豊臣秀吉も眺めた大阪市街地を一望

8 階は展望台になっています。大阪市街地を一望することができます。

展望台

展望台

展望台

展望台

展望台

展望台

展望台

行列に並ばなくて済む!魔法のチケットたち

大阪城の天守閣に入るためには、窓口でチケットを購入する必要があります。

チケット販売所

しかし、大阪城天守閣は人気のため、チケットを購入するために並ばなければなりません。

チケット購入の列

この行列に並ぶことを回避するために、予め web チケットを購入しておきましょう。

web チケットを購入しておけば、窓口でチケットを購入する必要がなくなるため、行列に並ばなくてすみます。

大阪周遊パスを持っている場合も同様です。パスを見せるだけで入場できますので、行列に並ばずに天守閣へ入場できます。

大阪周遊パス

賢く歩いて大阪城を楽しもう

大阪城天守閣は人気が高く、訪れる人も多いです。当日チケット販売窓口は常に混雑するため、Web チケット購入や大阪周遊パスなどを購入し、並ぶ時間を省きましょう。

入口

大阪城天守閣は全ての階の展示が魅力的ですが、8 階建てもの天守閣を巡るとなれば、それだけ階段を上り下りしなくてはなりません。全て階段で移動すると疲れてしまいますので、最大限エレベーターを利用して快適に巡りましょう。

階段

大阪城に来たら、天守閣への訪問はマストの観光スポットです。賢く歩いて、是非大阪城の天守閣を楽しんで来てください。

大阪城天守閣

新発田城~桜、紅葉、海鼠壁。美しすぎる新潟の宝石。時が止まった戦国自衛隊の世界へ。

新発田城~桜、紅葉、海鼠壁。美しすぎる新潟の宝石。時が止まった戦国自衛隊の世界へ。

新発田城

新発田城

新発田城(しばたじょう)は、新潟県新発田市にある城です。1598年(慶長3年)に初代新発田藩主の溝口秀勝によって築城されました。

城の北部を流れる加治川を外堀に利用した平城で、本丸を中心に北の古丸と南の二の丸で囲い、その南側に三の丸を配する構造でした。

新発田城は、戦闘や防御といった事よりも、地域経済の発展に重きを置き平地に造られたと言われています。江戸時代には新発田藩の藩庁が置かれていました。

築城年
1598年
築城主
溝口秀勝
別名
菖蒲城
舟形城
文化財等指定
天守閣
存在するが入場不可
料金
無料
開門時間
4月~10月: 9:00 ~ 17:00
11月: 9:00 ~ 16:30
閉鎖期間
冬季閉鎖: 12月~3月
最寄り駅
JR白新線・羽越本線 新発田駅(徒歩約 25 分)
新発田駅にはタクシー乗り場があるため、駅からタクシー移動も可能(距離: 約 2.9 km, 所要時間: 約 8 分, 料金目安: 1,200 円前後)
駐車場
無料駐車場があります
(記事の最後に無料駐車場について案内しています)
所在地
〒957-0052 新潟県新発田市大手町 6-4-80

理にかなった美しき海鼠壁

新発田城の最も特徴的な点は、櫓と表門に施された海鼠壁(なまこかべ)です。

海鼠壁

海鼠壁とは、平瓦を張り合わせて、その隙間を漆喰で蒲鉾型(かまぼこがた)に固める工法のことです。目地の盛り上がった形が海鼠に似ていることから、その名が付けられました。一般的には土蔵などに用いられており、日本伝統の壁塗りの様式の一つです。また、城の装飾としては、主に北陸地方の城で採用されています。

隅櫓

新発田城の表門と櫓に施されている海鼠壁の、白と黒のコントラストは非常に美しいです。平瓦の正方形の形と、漆喰の蒲鉾型の形が組み合わさることで、まるで幾何学模様のような美しい風情を醸し出します。

表門

城の門や櫓に海鼠壁を採用しているのは、銃弾の貫通を防ぐためでもあります。一方で、防水性や耐火性に優れているという特徴もあります。風雨や火災に強いという点で、装飾としての美しさを演出しながらも機能面も担保した、非常に合理的かつ秀逸な工法です。

海鼠壁

新発田城の表門や櫓に施された海鼠壁は、壁全体ではなく、およそ人の背丈くらいの高さに留まっていることから、特に新潟県が位置する北陸地方では積雪も多いため、海鼠壁を採用することで耐水性を強化したと考えられます。

新発田城以外で海鼠壁が施されている城を見てみても、石川県金沢市の金沢城、長野県松本市の松本城、そして、北海道函館市の五稜郭と、積雪の多い地域で見られます。

新発田城の海鼠壁は、特に美しいことで知られており、旧二の丸隅櫓は国の登録有形文化財に指定されています。

新発田城を訪問した際は、必ずチェックしてください。一番のオススメポイントです。

春は華やぎ、夏は力強く、秋は静寂。

新発田城は、12 月 から 3 月は城内へ入ることができません。積雪と除雪の関係で安全面を考慮し冬季閉鎖となります。

冬季以外の訪問可能期間では、春、夏、秋と、全ての季節で違う表情があり、どの季節に行っても新発田城の美しさを堪能できます。

春は、桜と新発田城の白壁とのコントラストが美しく、温かな気候も手伝って華やいだ雰囲気を楽しめます。桜の見頃は 4 月上旬~ 4 月中旬です。

桜と新発田城

夏は、新緑が力強く、青々とした木々の緑と空、そして新発田城の白壁のコントラストが美しいです。

夏の新発田城

秋は、紅葉です。紅葉の彩りと新発田城が作り出す静寂の雰囲気は、その場にいるだけで心が洗われるようです。

紅葉と新発田城

戦国自衛隊の世界観

新発田城は現在、その敷地を陸上自衛隊 新発田駐屯地と共有しています。そのため、櫓からは新発田駐屯地を眺めることができます。

自衛隊駐屯地

このように、城と自衛隊駐屯地が同時に眺められるという、非常に珍しい風景を目にすることができます。

自衛隊駐屯地

日本には、戦国自衛隊という有名な SF 小説があります。自衛隊が演習中に戦国時代にタイムスリップしてしまい、近代兵器と共に戦国時代を生き抜くストーリーです。

ここ新発田城は、そんな戦国自衛隊の世界観が垣間見える場所としても有名です。

自衛隊駐屯地

表門

表門は、本丸の南側に位置する櫓門です。国の重要文化財に指定されています。

表門

表門は、新発田城の玄関口であり、正門として城主や重要な来客を迎え入れてきました。その堂々とした姿勢で訪れる者を迎える、歴史と格式が漂う美しい門です。

表門

冒頭でも紹介した海鼠壁が施されており、白と黒の石を組み合わせた模様は、まるで幾何学模様のような美しさです。

表門

表門は 1732 年に再建されて以降、現存しているものです。歴史を歩み続けているからこそ見られる木材の風合は重厚感があり、非常に美しいです。木の質感や彫り物など、ディテールにまでこだわりが感じられ、時代を超えた美しさが存分に表現されています。

表門

表門

表門は 2 階建てとなっており、中に入ることができます。

表門

表門の 2 階では、三階櫓と辰巳櫓の復元に関する資料が展示されています。

表門内部

表門

表門はまさに城への玄関口として、訪れる者に歴史や物語を感じさせます。新発田城へ到着したら、まず表門をくぐり、気持ちを江戸時代へタイムスリップさせてください。

表門を通過すると、新発田藩初代藩主である溝口秀勝の像が迎えてくれます。

溝口秀勝像

旧二ノ丸隅櫓

旧二ノ丸隅櫓は、二の丸の南西隅に位置する二重二階櫓です。1598 年(慶長3年)に築城された当時の姿を残しており、国の重要文化財に指定されています。

旧二ノ丸隅櫓

胴回りには、海鼠壁を見ることができます。海鼠壁は、石を正確に組み合わせて積む必要があるため、非常に難易度の高い工事であったといわれています。

海鼠壁

隅櫓の内部にも入ることができます。建ててから 400 年以上経過しているとは思えないほど内部は堅牢であり、当時の雰囲気を感じることができます。

旧二ノ丸隅櫓内部

旧二ノ丸隅櫓内部では、資料展示は最小限となっていますが、代わりに 400 年という歴史を感じることができるはずです。

旧二ノ丸隅櫓内部

旧二ノ丸隅櫓内部

旧二ノ丸隅櫓内部

旧二ノ丸隅櫓内部

辰巳櫓

辰巳櫓は、本丸の南東隅に位置する二重櫓です。2004 年(平成16年)に復元されたもので、国の重要文化財に指定されています。

辰巳櫓

辰巳櫓は、木造・本瓦葺き・漆喰による伝統工法により史実に復元されており、現代建築技術の高さと共に、内部の美しさも含め、400 年以上生き続ける旧二ノ丸隅櫓とのギャップを楽しめます。

辰巳櫓内部

内部には様々な資料展示があり、新発田城の当時の様子を知ることが出来ます。

辰巳櫓内部

三階櫓

三階櫓は、本丸の中央に位置する櫓です。2004年(平成16年)に復元されたもので、国の重要文化財に指定されています。

三階櫓

三階櫓は「櫓」と銘打っているものの、新発田城の実施的な天守閣であったとされています。

しかし、三階櫓は自衛隊駐屯地の敷地内にあるため、一般には足を踏み入れることができません。

三階櫓

三階櫓を近くで見たい場合は、新発田城址公園駐車場から延びる遊歩道を進むと最も三階櫓に近づけます。

無料駐車場

新発田城へ車で行く場合は、「新発田城址公園駐車場」または「アイネス新発田駐車場」に無料で駐車可能です。

先程紹介した三階櫓を近くで見たい場合は、新発田城址公園駐車場に駐車すると、見学の効率が良くオススメです。

新発田城址公園駐車場
〒957-0052 新潟県新発田市大手町 3-2-19

アイネス新発田駐車場
〒957-0052 新潟県新発田市大手町4-5

なお、表門の東側にも小さな駐車場のようなスペースがありますが、そこは「新潟県思いやり駐車場」という、体の不自由な訪問者専用の駐車場になるため、駐車しないでください。

400 年。時を超えた歴史の証人。

新発田城、その堂々たる姿勢はまさに時を超えた歴史の証人。その美しさは、訪れた者を心から魅了します。

城の石垣は、穏やかな風雨に耐え、時の流れとともに歴史の深みを増しています。太陽の光が優雅に差し込み、影と光が城壁を彩る様は、まるで昔の物語がそのまま石に刻まれたかのようです。

新発田城

城内は季節ごとに美しい花々が咲き誇り、訪れる人々に四季折々の彩りを贈ります。桜の花が舞い散る春、青葉が風に揺れる夏、紅葉が城を彩る秋、そして雪に覆われた冬。その美しい風景は、まさに心に残る瞬間となることでしょう。

新発田城

城内の櫓や門は、緻密な細工と伝統的な和の美を感じさせます。歴史の中で培われた職人の技が、今もなおその美しさを輝かせています。城の中に足を踏み入れると、まるで時空を超えて当時の物語が見えてくるかのようです。

新発田城

新発田城は、ただの建造物ではなく、日本の歴史と文化が息づく場所。その情緒的な雰囲気は、訪れる者の心を引き込み、新潟の地に刻まれた重要な歴史の一部として誇り高く立ち続けています。

新発田城

桜まつりでドヤれる福岡城訪問ガイド〜咲き誇る桜 500 本、麗しの桜城。黒田官兵衛・長政の歴史を歩く〜

福岡城訪問ガイド〜咲き誇る桜 500 本、麗しの桜城。黒田官兵衛・長政の歴史を歩く〜

黒田官兵衛・長政が築き、毎年桜が咲く時期には「福岡城桜まつり」が開催され、非常に大勢の人々で賑わいを見せる福岡城を紹介します。

福岡城の歴史やみどころを知ることで、桜まつりがもっと楽しくなること間違いなしです。

福岡城

福岡城

福岡城は、1607年(慶長12年)に黒田官兵衛によって築城されました。

黒田官兵衛の息子である黒田長政は、関ヶ原の戦いで徳川家康側に付き活躍。功績を称えられ筑前国(ちくぜんのくに, 現在の福岡県)を与えられました。それまで住んでいた豊前国中津(現在の大分県中津市)から筑前国へ移った際、築城したのがこの福岡城です。

築城
1607年(慶長12年)
初代城主
黒田官兵衛
別名
舞鶴城
石城
文化財等指定
日本100名城
国指定史跡
天守台・多聞櫓(国指定重要文化財)
潮見櫓(県指定有形文化財)
下之橋御門(県指定有形文化財)
旧母里太兵衛邸長屋門(県指定有形文化財)
名島門(市指定有形文化財)
天守
天守は存在しませんが、天守台があります。
料金
無料
営業時間・定休日
公園として開放されているためいつでも入れる
最寄り駅
地下鉄空港線 赤坂駅 2 番出口
駐車場
第 1 ~ 第 4 駐車場(有料)
約 450 台駐車可能
所在地
〒810-0043 福岡県福岡市中央区城内 1

fukuokajyo.com

黒田官兵衛と黒田長政について

黒田官兵衛は豊臣秀吉に仕える優秀な軍師でした。息子である長政は幼少期、人質として織田信長に渡され、そこから豊臣秀吉が預かっていたという経緯があります。

豊臣秀吉の没後、関ヶ原の戦いが起きますが、そこに至る過程で黒田長政が西軍の石田三成らと方針を巡って対立、最終的に東軍の徳川家康側に付いたという説があります。黒田長政は関ヶ原の戦いでは最前線にて、中心人物として活躍しました。

オススメコース

電車で行く場合は、最寄り駅である地下鉄空港線 赤坂駅 2 番出口から出て向かいます。

上之橋を渡って天守台へ行く以下のルートが主要なスポットを見て回れてオススメです。

  1. 上之橋
  2. 東御門跡
  3. 扇坂御門
  4. 梅園
  5. 天守台

福岡城オススメコースマップ

上之橋

上之橋(かみのはし)は、城内に入るための最初の門があった所です。

上之橋

福岡城の正門として江戸時代に使用されていた橋で現在は石垣のみが残っていますが、かつては2層の櫓門が築かれていました。

上之橋

上之橋が架かるお堀

上之橋は福岡城の表玄関として、黒田藩主や客人などの公式の出入り口として使用されていました。藩主が参勤交替の時に渡るなど、下之橋よりも格式が上でした。上之橋から東御門、本丸表御門を経て本丸御殿へ至るのが正式な登城ルートとされていました。

上之橋

東御門跡

東御門は、三の丸から東二の丸へと続く櫓門です。

東御門跡

門を入ると右手に直角に曲がる階段があり、攻め手が簡単に攻められない構造になっています。

東御門跡

東御門跡

東御門を抜けると、広場に出ます。

広場

ここには烽火番所跡や東二の丸跡があります。

烽火番所跡 烽火番所跡

東二の丸跡 東二の丸跡

見晴らしも良く、広場からはテニスコートや競技場が見渡せます。

広場からの眺望

広場の先には、扇坂御門があります。

扇坂御門

扇坂御門

扇坂御門(おうぎざかごもん)は、二の丸への入口として、主に城内で働く人々や庶民が使用していた門です。

扇坂御門

現在は石垣のみが残っていますが、かつては2層の櫓門が築かれていました。櫓門の下層には、城門の守備に当たる武士たちが詰め、上層には、城内を見渡せる見張り台が設けられていました。

扇坂御門

扇坂御門には、ある怪談が伝わっています。それは、扇坂御門に手を触れると熱病に冒されたり、夜中にうなされたりするというものです。この怪談は、二代目黒田忠之の側用人・浅野四郎左衛門の妻・お綱の怨念が原因だという伝説があります。

お綱は、夫に裏切られ、別宅に追いやられていました。ある日、夫の愛人・采女を殺そうとしたお綱は、失敗して捕らえられてしまいます。そして、扇坂御門の石垣に縛り付けられ、打ち首に処されたのです。

お綱の怨念が今も扇坂御門に残っていると言われ、人々は扇坂御門を「お綱門」とも呼んでいました。

この怪談は、江戸時代には広く知られており、福岡城を訪れる人々を恐れさせていました。

扇坂御門を訪れた際には、お綱の怨念がまだ残っていないことを確かめるために、後ろを振り返ることを忘れずに。

扇坂御門

梅園

扇坂御門を抜けた先には、梅園があります。

梅園

園内には約 270 本の梅の木が植えられており、毎年 2 月から 3 月にかけて、白やピンクの梅の花が咲き誇ります。

梅園

梅園の梅の種類は、白梅、紅梅、しだれ梅など、さまざまな種類があります。梅の花の見頃は、2月下旬から3月中旬頃です。梅の花が咲く時期には、福岡城梅まつりが開催されます。

福岡城梅園は、福岡を代表する梅の名所です。

梅園を抜けると、天守台です。

天守台

天守台

福岡城には天守は残っていませんが、天守閣を置くための台座である天守台が残っています。

天守台

東西約 25 m、南北約 22 mの敷地内に約 40 個におよぶ天守の礎石が残っています。

天守台入口 天守台入口 天守台入口

天守への入口だけあって、通路が枡形になっている構造も見て取れます。

枡形構造 枡形構造

通りが狭くなっているところもあります。大勢で一気に攻められないようにしている工夫です。 枡形構造 枡形構造

展望デッキ

天守台には展望デッキがあり、福岡市内を眺めることができます。

展望デッキ

展望デッキは現存している石垣の上に作られています。

石垣

展望デッキに上ってみましょう。

展望デッキ入口

まだ頂上ではありませんが、階段を上がってすぐのところにも景色を眺められるデッキがあります。

展望デッキ

展望デッキからの眺め

展望デッキからの眺め

さらに進みます。

展望デッキの通路

大天守台跡

大天守台跡には、天守の柱を支えていたであろう石が埋め込まれた遺跡を見ることができます。

大天守台跡 大天守台跡 大天守台跡 大天守台跡 大天守台跡

最上層の展望デッキへ行ってみましょう。

階段

大天守台 展望デッキ

大天守台 展望デッキ

大天守台の展望デッキは高さ 36 メートル。開放感抜群で福岡市内を見渡すことができます。

大天守台展望デッキからの眺め 大天守台展望デッキからの眺め 大天守台展望デッキからの眺め 大天守台展望デッキからの眺め 大天守台展望デッキからの眺め

天守はなくとも。満開の桜に囲まれて。

福岡城にはすでに天守や御殿、櫓や門などの建築物はほとんど残っていません。そこには石垣とそこにあったであろう建物の印のみが残っています。

しかし、福岡城のある舞鶴公園にはたくさんの桜が植えられており、毎年桜が咲く時期には「福岡城桜まつり」が開催され大勢の人々で賑わいます。

福岡城と桜

福岡城と桜

福岡城は、当時の九州の中心となる城として栄え、黒田藩の居城として約 270 年間にわたって使用されました。廃城令によってそのほとんどが解体されましたが、今でもこうして福岡市民の憩いの場となっています。

あなたもぜひ、福岡城跡へ足を運んでみてください。

福岡城と桜

旅行好きがオススメするベストな熊本城の巡り方〜お得に無駄なく穴場まで〜

【お得に無駄なく穴場まで】旅行好きがオススメするベストな熊本城の巡り方

熊本城に行こう!でも熊本城は、お城だけではなく周辺も含めて沢山の見どころや楽しいスポットがあります。

熊本城を観光する際に抑えておきたいスポットや巡り方を紹介します。

熊本城に関連する主要な観光スポット

はじめに、熊本城に関連する主要な観光スポットを整理しておきましょう。

熊本城観光スポットマップ

熊本城マップ南ルート

  • 熊本城
    • 完全復活を遂げた天守閣
    • 「熊本城に行く」は天守閣へ行くことを指す。
  • 熊本城ミュージアム わくわく座
    • 体験型で楽しく熊本城の歴史に触れられる
  • 城彩苑
    • お土産や飲食店がたくさん
    • 観光案内所やロッカーもここにある
  • 加藤清正公像
    • 熊本城の入口にあります。
  • 熊本城稲荷神社
    • 熊本城に縁のある、紅白の色合いが美しい神社。
  • 高橋公園
    • 熊本近代史の偉人や遺構が眠る。
    • 歴史好きにはたまらない穴場スポット
  • 熊本市役所無料展望台
    • 14 階から熊本城を一望できる。夜景が最高に綺麗!
  • 熊本博物館
    • 熊本の歴史をまるごと展示。その中に熊本城に関する展示が一部あり。
    • たまに大々的に熊本城関連のイベントを開催

熊本駅からのアクセスはバスや路面電車で楽々

熊本城からは、バス、または路面電車で熊本城に行くことができます。

熊本城周遊バス(しろめぐりん)

熊本駅の白川口(東口)にあるバスターミナル 2 番のりばから、熊本城に行くバスが出ています。

熊本駅の白川口(東口)バスターミナル 2 番のりば

熊本駅からは約 23 分。料金は、大人 180 円、子供 90 円です。

しろめぐりん時刻表

バス停「桜の馬場 城彩苑」で降りましょう。熊本城内の施設「城彩苑」の前で降りられます。

バス停「桜の馬場 城彩苑」

バス停「桜の馬場 城彩苑」 バス停「桜の馬場 城彩苑」

路面電車 A 系統

路面電車は 8 分間隔で運行しているので、バスに比べたら出発時刻にシビアにならなくて良い(とりあえず駅に行って待っていればすぐ電車が来る)というメリットがあります。

熊本市交通局(時刻表・路線図)

熊本駅から路面電車で行く場合は、「熊本駅前駅」からA 系統に乗ります。最寄り駅は「花畑町駅」もしくは「熊本城・市役所前駅」です。(所要時間:17 分・180 円)

両者はさほど距離は変わりませんが、熊本城・市役所前駅で降りるのがオススメです。

駅からの徒歩ルートマップ

花畑駅から熊本城入口までは街中を歩きますが、熊本城・市役所前駅で降りると、熊本城の長塀(ながべい)を眺めながら入口まで行くことができて旅感がグッと増します。

長塀は、現在の坪井川に沿って建てられた全長 242m の長い堀です。国指定の重要文化財に指定されています。

長塀

熊本城 駐車場

自家用車やレンタカーで熊本城に行く場合は、場内に駐車場があります。駐車場は広いので、駐車に困ることはないでしょう。

熊本城にはいくつか駐車場がありますが、最も熊本城天守へアクセスが良く、駐車台数も多いのは二の丸駐車場(普通車:210台・二輪車:10台程度)です。

二の丸駐車場の位置と入口

  • 二の丸駐車場
    • 普通車:210台
    • 二輪車:10台程度
    • 【4月~10月】8:00~18:30(最終入庫17:30)
    • 【11月~3月】8:00~17:30(最終入庫16:30)

二の丸駐車場

二の丸駐車場の入口 二の丸駐車場の入口

castle.kumamoto-guide.jp

観光案内所に無料ロッカー有り

観光案内所

城彩苑の中に観光案内所があります。その中に無料ロッカーがあるので、荷物を収納できます。

観光案内所

ロッカー

使用可能時間は 9:00 ~ 17:00 です。

コインロッカーのため、鍵をかけるために 100 円を入れる必要がありますが、解錠時に 100 円は戻ってきます。

ロッカーの大きさは、大小 2 つのサイズがあります(両方無料です)

小サイズのロッカー

小サイズのロッカー

小サイズのロッカーは、通常のリュックサックなどを入れておくには十分な広さです。

小サイズのロッカー

大サイズのロッカー

大サイズのロッカー

大サイズのロッカーは結構大きいですが、大きなスーツケースを入れるのは難しいかもしれません。

大サイズのロッカー

有料ロッカーも有り。荷物預かりも。

無料ロッカーだけでなく、有料ロッカーも観光案内所にあります。

さらに、ロッカーが全て使用中となってしまった場合や、ロッカーに入り切らない大きさの荷物も、観光案内所にて有料で預かってもらえます。

  • 有料ロッカー
    • 100硬貨のみ使用可
    • 利用料金:[大] 500 円, [中] 400 円, [小] 200 円.
    • 利用時間:8:00 ~ 22:30(時間内は課金せずにロッカーの使用が可能)
  • 荷物預かり
    • 観光案内所にてお声がけください。
    • 利用時間:9:00 ~ 17:00

www.sakuranobaba-johsaien.jp

お得で無駄の無いオススメの熊本城の巡り方

ではここからは、効率よく、しかもお得に熊本城を巡れるモデルコースを紹介します。

  1. 熊本城ミュージアム わくわく座
  2. 熊本城
  3. 城彩苑でランチ&お土産購入

1. 熊本城ミュージアム わくわく座

熊本城に着いたら、まずは「熊本城ミュージアム わくわく座」に行きましょう。わくわく座は、城彩苑の中にあります。

熊本城ミュージアム わくわく座 熊本城ミュージアム わくわく座

大人の場合、熊本城への入場料は 800 円、わくわく座への入場料は 300 円ですが、「城満喫コース」という、わくわく座+熊本城のセット割のチケットを購入すれば 850 円になり、わくわく座へ実質 50 円で入れます。

城満喫コース(熊本城+わくわく座)850 円

わくわく座には、ゲームやプロジェクションマッピング、特大スクリーンの VR など、体験型のコンテンツが沢山あります。必ずしもあなたが歴史好き、城好きで無かったとしても十分に楽しめるコンテンツが揃っています。

わくわく座の様子

わくわく座の詳細は以下で紹介しています。

www.ritocamp.com

2. 熊本城

わくわく座の出口から熊本城へ向かうための通路があり、熊本城まで簡単にアクセスできるようになっています。

熊本城マップ

熊本城への通路

特別見学通路(南ルート)

熊本城の天守へは、綺麗に整備され最も眺めの良い南ルートから向かいます。

熊本城マップ

特別見学通路(南ルート)入口

南ルート

まだ修復が終わっていない数寄屋丸五階櫓跡が見えます。

南ルート

熊本城の天守は修復が終わっており完全復活を遂げています。

熊本城天守

お城といえば、曲がりくねって坂道も多く、歩きづらいイメージがありますが、南ルートの通路は綺麗に整備し直されため、とても歩きやすいです。

南ルート 南ルート

二様の石垣

ここは「二様(によう)の石垣」という、2つの時代の石垣が重なっている、熊本城の見どころの一つです。

二様の石垣

  • 右側:加藤清正時代の石垣
  • 左側:細川忠利時代の石垣

傾斜が緩やかな古い石垣(右側)に、傾斜が急な新しい石垣(左側)が築き足されています。特徴を比べる事で石積みの技術革新がよく分かります。

二様の石垣

地下通路(闇り通路)

熊本城の天守へは、地下通路を通って行きます。本丸御殿への通路であったりもします。

熊本城地下通路 熊本城地下通路 熊本城地下通路 熊本城地下通路

地下通路を抜けると、天守へ到着です。

熊本城地下通路

熊本城天守

熊本城 大天守

2016 年の熊本地震で大きな被害を受けた熊本城ですが、天守は修復が完了し、完全リニューアルとして公開されています。

熊本城大天守

展示もフルリニューアルされ、設備の充実と併せて内容もとても充実しています。天守の中の様子は以下で紹介しています。

www.ritocamp.com

天守の隣にはおみやげを販売している売店があります。

売店 売店 売店

3. 城彩苑でランチ&お土産購入

城彩苑

城彩苑は、お土産屋さんや飲食店が沢山立ち並んでいる商業施設です。先に紹介した観光案内所やわくわく座もこの城彩苑の中にあります。

ここで、お土産を購入したり、ランチを食べたりしましょう。

城彩苑マップ

城彩苑 城彩苑 城彩苑

食事処

熊本の名物はもちろんの事、食べ歩きができるものも販売していますし、食事処でゆっくり過ごすこともできます。

海鮮を食べたい人は「海まる」がオススメ。

海まる 海まる

熊本の郷土料理を食べたい!という人なら「山見茶屋」がオススメ。

山見茶屋 山見茶屋

熊本ラーメンを食べたい人は「山むら」へどうぞ。

山むら

ぜんざい、アイスクリーム、ラテなどのデザート、カフェメニューをいただきたい人には「いずみ茶」があります。

いずみ茶

食べ歩きに最適「うにコロッケ」

オススメは先ほど紹介した、海鮮メインの食事処「海まる」が販売している、食べ歩きに最適な「うにコロッケ」です。

うにコロッケ うにコロッケ うにコロッケ うにコロッケ うにコロッケ

とってもクリーミーで、ウニの味わいが柔らかくて美味しいです。

うにコロッケ うにコロッケ

お土産

お土産は取り扱っている品数が豊富なので、ここで購入するのは良い選択です。

売店売店売店売店売店売店

所要時間は 3 時間

わくわく座から始まり、熊本城を巡って最後に城彩苑でランチとお土産購入。

時間にして 9:00 ~ 11:40 の工程です。所要時間は約 3 時間で回れました。

もっと楽しみたいひとのために

熊本城をもっと楽しみたい!という人には、以下も是非訪れてみてください。全て有名なスポットですがあまり知られておらず、穴場です。

熊本城稲荷神社

熊本城稲荷神社

加藤清正公が肥後国主として入国するにあたり、京都の伏見稲荷大社から勧請した神社です。

熊本城の隣にあるため徒歩で十分行けるのと、紅白の色合いが美しいので神社好きならオススメです。神社自体も大きくはないので、熊本城のついでにでも気軽に見て回れます。

www.ritocamp.com

高橋公園

高橋公園

熊本近代史の偉人や遺構が公園に詰め込まれまくっているという、歴史好きにはたまらない穴場スポットです。

こちらも熊本城から徒歩で十分行ける距離です。熊本城稲荷神社の隣にあります。

www.ritocamp.com

熊本市役所無料展望台

熊本城夜景

熊本市役所の 14 階から熊本城を一望できます。しかも無料です。

日中でも良いですが、夜景が最高に綺麗なので、夜に行くのがオススメです。

www.ritocamp.com

詳しくは紹介記事に記載していますが、夜の歓楽街からも近いので、夕食後に徒歩で行くこともできます。

蘇った日本屈指の観光城「熊本城」

城彩苑

2016 年の熊本地震で大きな被害を受けた熊本城ですが、天守の完全復活と共に、熊本城周辺の観光スポットも盛り上がっています。

紹介したわくわく座や熊本城の天守では、昔の城のような「ただ歴史や資料展示してあるだけ」ではなく、訪れた人が実際に体感・体験できるコンテンツが提供されており、五感が刺激され、純粋に「楽しい」と思える体験づくりがなされています。

城彩苑では、今回紹介できていない食事処やお土産屋さんもまだまだ沢山あります。

地酒専門販売、着物レンタル、馬刺し販売などなど…

さらには、最後に紹介した「実はすごいところなんだけどあまり知られていないスポット」も熊本城のすぐ近くにあり、熊本城、そして熊本観光を最大限に楽しめるスポットが熊本城の周辺に揃っています。

熊本城は今もなお修復工事が続いていますが、熊本城、そして熊本の観光は復活し活気を取り戻しています。

是非、熊本城に足を運んでください。

熊本城

熊本城 大天守は今、間違いなく日本で最も熱い城。震災を乗り越え、最先端技術と伝統の技が生み出した奇跡。

熊本城 大天守は今、間違いなく日本で最も熱い城。震災を乗り越え、最先端技術と伝統の技が生み出した奇跡。

2016 年(平成 28 年)7 月 14 日に発生した熊本地震の被害から完全復活を果たし、最新テクノロジーで革新的な進化を遂げた熊本城の大天守を紹介します。

熊本城

熊本城

熊本城は、熊本県熊本市中央区にある城郭です。国の特別史跡に指定されており、日本三名城の一つに数えられています。

熊本城は、戦国武将の加藤清正によって築城されました。清正は築城の名人として知られており、熊本城は当時の最先端の技術と工夫が盛り込まれた城郭です。

熊本城の特徴はその堅牢な構造にあります。石垣は高さ 20 メートル、厚さ 10 メートルにも達し、また、天守は 6 層からなる複雑な構造となっています。この堅牢な構造により、熊本城はこれまで一度も攻め落とされたことがありません。

しかし熊本城は、2016 年の熊本地震で大きな被害を受けました。現在も復旧作業が進められていますが、2023 年 7 月 22 日には大天守の一般公開が再開されました。熊本城全体としては 2023 年現在も復旧作業が続いていますが、修復が完了した大天守は、「建築」「歴史の継承」そして「観光」の両面で現代技術を纏った最先端城として復活を遂げました。

開園時間
9:00 ~ 17:00(最終入園, 天守への入場は 16:30 まで)
休園日
12 月 29 日 ~ 12 月 31 日
料金
  • 高校生以上:800 円
  • 小・中学生:300 円
  • 未就学児:無料
所在地
〒860-0002 熊本県熊本市中央区本丸 1-1

熊本城 - 公式サイト

完全復活!現代技術で生まれ変わった天守閣

2016 年の熊本地震で大きな被害を受けた熊本城天守ですが、「最新技術の耐震補強」そして「バリアフリー化」を果たし、2023 年に完全復活を遂げました。

完全復活を遂げた熊本城天守

さらには天守内の展示や内装もフルリニューアル。体験・体感型のアプローチを取った天守の展示は、現代技術によって「ただの展示」ではない、エンターテイメントとしての歴史の学びを提案します。

本記事では、そんな熊本城の天守内部を紹介していきます。

興味と楽しいを誘発!体感型コンテンツ

熊本城天守の展示はただの展示ではありません。映像や造形をふんだんに使用し、訪れた私達の興味関心を強く引くようなアプローチを取っています。

代表的なのは映像コンテンツ。解説もあり分かりやすい上、ついつい見入ってしまいます。

映像コンテンツ

巨大な熊本城天守の模型。

熊本城天守の模型

熊本城天守の模型

これらは私達の背丈よりも大きな模型です。覗き込めば模型の精巧さに驚きますが、何より巨人にでもなった気持ちになれるのにも楽しさを感じます。

精巧に作られた模型

精巧に作られた模型

精巧に作られた模型

この模型に映像コンテンツが添えられており、天守の構造をより深く知る機会の提供も逃しません。

模型の解説映像

さらには、大きなパネルを使った展示で、歴史に詳しくない我々でも入りやすく、シンプルに「眺めるだけでも楽しい」要素が盛り込まれています。

大きなパネルを使った展示

大きなパネルを使った展示

大きなパネルを使った展示

そうかと思えば、ミニチュアサイズで超絶精巧な熊本城が現れます。

ミニチュアサイズの熊本城

ミニチュアサイズの熊本城

ミニチュアサイズの熊本城

ミニチュアサイズの熊本城

ミニチュアサイズの熊本城

極めつけは、まるで原寸大かのような巨大な「御上段模型(おじょうだんもけい)」です。

御上段模型

「御上段」は、大天守最上階(6階)にあった部屋です。模型は時代の平面図や古文書をもとに復元されました。

近づいて見ると迫力がすごい。再現性が高いので、覗き込むと本当にそこにいるかのように感じます。

御上段

南には「松」、北には「秋野花」が描かれています。

御上段

他にも、シアタールームでの映像コンテンツ「天守シアター」や、プロジェクションマッピングを利用した解説など、直感的に分かりやすく興味を引くコンテンツが沢山用意されています。

天守シアター

プロジェクションマッピングを利用した解説

これはまだ一部です。こういうコンテンツが大天守内に沢山あるので、根っからの歴史好き、城好きでなくても楽しめます。

天守のバリアフリー化と車いすについて

熊本城天守閣 施設案内板

天守に入る前に、熊本城天守のバリアフリーについて触れておきたいと思います。

日本のお城とは元来、敵の侵入を少しでも防ぐ工夫がなされているものです。その一つとして、階段が急勾配に作られており、健常者であっても上りづらかったりします。

熊本城は全部で 6 階(実質 7 階)まであり、その全てを階段を上ることで進みます。

ただし、車いす利用者の方(介添者含む)をはじめ、視覚に支障のある方、階段利用が困難な方に限って、エレベーターを利用することが可能です。

エレベーターを利用したい場合は、熊本城のスタッフに声を掛けてください。案内してくれます。

ちなみに、天守はフルリニューアルされていますので階段も刷新されています。昔ながらの城によくある急勾配の階段はありませんのでご安心ください。

熊本城天守内の階段

天守への入口も、このように完全にバリアフリー化がなされており、車いすでも天守へ入ることができます。

バリアフリー化された天守入口

地下 1 階 天守入口 穴蔵

天守入口

天守入口

入口は大天守の脇にある小天守です。天守閣としては石垣の部分に当たるため、階層としては「地下 1 階」と数えられます。穴蔵(=地下階)と呼ばれるこの場所は、本来は土間に礎石(そせき: 建物の柱を受ける土台石のこと)が並び、その上に木の土台を置いて建物を支える柱を立てていました。

そのため、広く、吹き抜けのような構造になっているのが特徴です。

穴蔵

穴蔵

小天守の穴蔵は「御水屋(おんみずや)」と呼ばれる台所で、井戸や竈門(かまど)があり、当時は籠城にも耐えられる機能を備えていました。

井戸の跡 井戸の跡

階段を上がって 1 階へ向かいます。

1 階へ向かう階段

1 階 加藤時代

1 階 加藤時代

「加藤時代」の「加藤」とは、熊本城を築城した加藤清正のことです。1 階では、熊本城の伝説や築城の歴史、加藤清正の人物像などの紹介がメインとなっています。

熊本城・加藤時代年表

清正の城づくり

熊本城が堅牢だと言われた所以

熊本城が秀逸な理由の一つとして「堅牢な構造」が挙げられますが、その一翼を担っている石垣についても解説されています。

石垣の解説

そして、熊本城全体に施された防御装置(壁・窓・忍び返し・狭間・石落とし)の解説

防御装置の解説

貴重な昔の写真や装飾

貴重な昔の熊本城の写真、古くは明治時代に西南戦争で消失する前の天守の写真も展示されています。

古写真にみる天守のすがた 古写真にみる天守のすがた

こちらは昔、熊本城を飾っていた鯱瓦(しゃちがわら)

鯱瓦

(しゃち)とは、頭は龍、体は魚の想像上の生き物で、口から水を吐くため火除けとして城の屋根に置かれ、天守を守る棟飾りとして用いられました。

鯱瓦 鯱瓦

2 階 細川時代

2 階 細川時代

2 階は熊本城の第二期の時代である、細川家の時代の展示です。

江戸時代、1632年(寛永 9 年)に清正の子である加藤忠広が身分を剥奪(改易)されたことで、次の熊本藩主として細川忠利が熊本城に入城したことから細川時代は始まります。

細川家の入城

細川家の統治になってからは、熊本城下がさらに拡大しました。本丸全域を描く唯一の平面図などが大きなパネルで展示されています。

本丸全域を描く唯一の平面図

そしてここにも、カラフルなプロジェクションマッピングを使った展示・解説があります。

プロジェクションマッピングを使った展示・解説 プロジェクションマッピングを使った展示・解説

細川家の甲冑を目の当たりに!

武器庫としての天守

天守とは、戦時において最後に籠城する場所であり、本来は武具類や食糧が備えられていました。熊本城の天守にも、加藤時代から備えられていた武具とともに、細川家の甲常類が大量に保管されていました。

1871 年(明治 4 年)の廃藩置県が行われた際に、天守にあった大量の武具類の保管が問題となりましたが、当時、細川家が歴代藩主の武具を 200 人以上の旧家臣に預けたことで、廃棄・売却を免れ、現在まで伝わったものも少なくないとされています。

このフロアに展示されている細川家の甲冑もその中の一つです。

細川家の甲冑 細川家の甲冑

3 階 近代

3 階 近代

3 階は、西南戦争、明治維新、明治 22 年の熊本地震、そして天守の再建など、近代の歴史を展示しています。

3 階のフロアマップ 3 階のフロアマップ

開かれた熊本城

明治に入り、熊本城は「戦国の余物」「無用の贅物」とされ一度は解体の道を進みます。しかし政治的な事情もあり解体を免れた熊本城は、ここで「一般公開」に踏み切ります。それが「開かれた熊本城」です。

開かれた熊本城 開かれた熊本城 開かれた熊本城

西南戦争

1877 年(明治 10 年)には、日本最後の内戦となった西南戦争が始まります。

西南戦争と熊本城

熊本城は、西郷隆盛率いる薩摩軍と、谷干城率いる政府軍が戦う最初の舞台となりました。

熊本城は、50 日間にも及ぶ籠城戦を耐え抜き、最初で最後のこの戦いで「難攻不落」であることを証明しました。

西南戦争と熊本城 西南戦争と熊本城 西南戦争と熊本城

明治 22 年熊本地震

明治 22 年熊本地震

西南戦争から 12 年後の 1889 年(明治22年)7 月 28 日深夜に、熊本の街を大地震が襲いました。マグニチュード 6.3 と推定される直下型地震で、熊本城でも各所の石垣が崩れる大きな彼害を受けました。

当時の崩れた石垣の写真を巨大パネルで見ることができます。迫力もさながらに、こういった記録がしっかり残されていることに頭が下がります。

明治 22 年熊本地震で崩れた石垣

天守の再建

天守の再建

1960 年(昭和 35 年)に、天守消失から実に 83 年を経て、天守の再建が実現しました。

天守の再建

天守の再建

4 階 現代

4 階 現代

4 階は、現代の展示フロアです。まだ記憶に新しく、今もなお修復工事の続く 2016 年(平成 28 年)の熊本地震からの復興の様子が展示されています。

よみがえる熊本城

復興城主デジタル芳名板

復興城主デジタル芳名板(ほうめいばん)は、「復興城主」として、熊本城の復旧・復元への寄附を行った方々の名前を見ることができる所です。

5 階 ちょっとした休憩スペース

5 階には歴史の展示はありません。その代わり、著名人のサインとベンチが設置されており、ちょっとした休憩スペースになっています。

5 階

ここから階段を上れば、いよいよ展望フロアです。

6 階 展望フロアへの階段

6 階 展望フロア

6 階 展望フロア

6 階は最上階、展望フロアです。熊本市街地を一望できます。

展望フロアからの眺め 展望フロアからの眺め 展望フロアからの眺め 展望フロアからの眺め 展望フロアからの眺め

今、間違いなく日本で最も熱い城。

熊本城天守

震災を乗り越え、最先端技術で蘇った熊本城天守が、城としての堅牢さ、アクセシビリティを追求したバリアフリー化に加えて、「体感型」という現代のエンターテイメント的アプローチを手に完全復活しました。

熊本城天守

「面白そう」「分かりやすい」「楽しい」という要素は、歴史を知る最初のきっかけを作ります。こういったアプローチこそが、歴史に詳しくない、特に興味があるわけではない人にも「エンターテイメント」ととして歴史に気軽に、そして楽しく触れるきっかけを作れるといえるでしょう。

現代のテクノロジーと、継承され磨かれてきた伝統の技で復活を遂げた熊本城。

熊本城の大天守は、今、間違いなく日本で最も熱い城です。

熊本城天守

熊本城復元の成功事例から見る、首里城の復元で失うもの、得るもの。

熊本城復元の成功事例から見る、首里城の復元で失うもの、得るもの。

2023 年現在、今も行われている首里城の復元作業ですが、首里城の公式サイトや Youtube で復元作業の進捗や現在の状況を知ることができます。

oki-park.jp

www.shurijo-fukkou.jp

首里城正殿の火災について

復興レポートより

  • 日時:2019 年 10 月 31 日未明
  • 場所:沖縄県那覇市首里城
  • 被害:正殿をはじめとする 9 施設が焼失
  • 原因:不明
  • その後:復元工事が本格的に始まり、2026 年秋の完成を目指して進められている

2019 年 10 月 31 日未明、沖縄県那覇市にある首里城正殿で火災が発生し、正殿をはじめとする 9 施設が焼失しました。火災は約 11 時間にわたり燃え続け、鎮火されました。

火災原因は、電気系統設備が集中していた正殿北東側とみられていますが、県警も那覇市消防局も捜査・調査を終えたものの、原因を特定することはできませんでした。

首里城は、琉球王国の王城として 15 世紀から 19 世紀にかけて造営されたもので、2000 年には世界遺産に登録されました。今回の火災は、沖縄県のみならず、日本全体にとっても大きな損失となりました。

火災後、首里城公園では、沖縄総合事務局、沖縄県、沖縄美ら島財団で連携して、二度と同じような悲劇を繰り返さないよう防災対策を講じてきました。

2022 年 11 月 2 日には、正殿の復元工事が本格的に始まりました。2026 年秋の完成を目指して、現在も工事が進められています。

復元スケジュール

  • 令和 2 (2020) 年 3 月:関係閣僚会議において「首里城正殿等の復元に向けた工程表」が決定
  • 令和 4 (2022) 年 11 月 2 日:正殿の復元工事が本格的に開始
  • 令和 8 (2026) 年秋:正殿の完成予定

復元は壊れたからやるもの

お城が老朽化した際には「補強工事」を実施します。これは復元ではありません。

「昔在ったものを再現する」「破壊されてしまったものを再構築する」これが復元ですよね。

首里城は火災で消失してしまったので復元作業が行われているわけですが、消失してしまったこと自体はとても悲しいことです。記事を書く上でこれは前提として私も思っています。

ただその中で、確実にポジティブな要素を感じる部分もあります。

首里城の復元には「現代的なアプローチ」が活きている

歴史的に価値のある文化財はもちろん当時のままのものが現存できていることに越したことは無い。

としつつも、メインコンテンツの復元に際して、周辺施設の整備も進んでいくという作用が働く。これはとてもポジティブなアプローチです。

例えば映像をつかったアプローチ。

それこそプロジェクションマッピングだったり、 VR, AR のような手法だったり、より世界観に没入できるようなコンテンツが復元と共に周辺の施設に整備される。

あとは、施設のバリアフリー化。

歴史的な建物というのはそれ自体が周遊しにくい(階段が急勾配だったり)が、文化財は昔のままを残したいためそれは復元したとしてもそのままになることは仕方がないとしつつも、メインコンテンツまでの道のり、および周辺施設が当たり前のようにバリアフリー化されていく。

首里城の現状を見ていると、こういった「現代的なアプローチ」がきちんと取られていると感じます。

熊本城もそうだった〜成功した現代的アプローチ〜

熊本城の復元も記憶に新しい。

2016 年 4 月 14 日と 16 日に発生した熊本地震により、熊本城は甚大な被害を受けました。重要文化財 13 棟、復元建造物 20 棟の一部が倒壊・破損し、石垣全体の 10.3 %が崩落しました。

2023 年現在、熊本城の復元は未だ続いていますが、天守閣などメインコンテンツの復元は完了し既に公開されています。

天守に至るまでの道は完全に再整備され、バリアフリー化されました。

バリアフリー化

天守の中は完全に補強されました。

完全に補強された熊本城天守

天守内の階段は上りと下りが一方通行になり、手すりがつきました。日本の城の階段は段差が高く狭いため、これは現存まま残していたら不可能なことです。

天守の階段

各階層のコンテンツは完全に情報が再整理され、映像・模型・遺物・解説文献など、資料展示というコンテンツの中に、情報整理・デザインというエッセンスがより研ぎ澄まされた状態で再構築されました。

プロジェクションマッピングによる資料展示

映像資料コンテンツ

こういった「現代的なアプローチ」は、訪れた人々へ、その歴史への理解を促進させます。

これは、わかりやすさ・理解しやすさの面からも有効に作用しますが、何より訪問者がそのコンテンツについて ”わくわく” することで、興味喚起を起こさせることができます。その結果、そこにいる「歴史」の 1 つを知るに至るのです。

多くの人にとって歴史とは退屈なものです。なぜならば過去のことですから。

正直、お城や日本の歴史が好きではないと、資料を深く読み解き、そこにある歴史を知ろうとは思いません。

でも熊本城は有名な観光スポットなので、お城や日本の歴史に興味があろうがなかろうがとりあえず行くんです。なぜならば旅行とは、そういうものですから。

知らない土地だが行ってみたい土地に行く、ということは、とりあえずその土地の有名な場所に行ったり、有名なものを食べたりするものですからね。大抵の場合は。

そうした時に、こういった「現代的なアプローチ」は非常に効果的に作用します。なぜならば退屈しませんから。

興味がなかったとしても、興味喚起され、なんとなくの「面白そう」から入って見た映像資料コンテンツがわかりやすく、面白く触れ手にアプローチするため、訪問者の「へぇ〜そうなんだ〜」を生み出します。

つまり、いつもなら素通りしていた歴史や文化に触れる「機会」が現代的なアプローチによって創出され、訪問者は「知る」ことで満足感を得る。

そして熊本城の天守を出た時には多くの人たちが「楽しかった」と思うでしょう。

熊本城は、地震によって当時から現存していた文化財の多くを失いました。

ですが熊本城の天守は復元され、天守内のコンテンツも一新され、それによって「歴史的に価値の在る場所」に併せて「優秀な観光資源」というポジションも得たと思います。

歴史・文化に観光がきちんとひも付き、訪問者を満足させるコンテンツがある。

「歴史的文化財の復元」という目線で見た時、熊本城の復元はこのように成功事例です。

首里城も失ったものをバネに得てほしい。

首里城の復元に伴う周辺施設の再構築で、映像コンテンツやバリアフリー化など、豊富な「現代的アプローチ」を見ました。

これは熊本城における復元の成功事例と重なる部分が多いと感じています。

さらに首里城では、正殿の再建に際して、宮大工たちの正殿建築作業がいつでも見られるようになっており、復元中であっても首里城公園に行く理由をきちんと創り出しています。

素屋根の見学エリア

伝統建築技法を間近で見られる機会なんて早々ありませんから、とても貴重な体験が提供されていると思います。これはとても素晴らしい取り組みです。

また、首里城復興基本計画にも、歴史・伝統・文化ををより現代的なアプローチを以てコンテンツ作成を行う旨の記述があるため、現在見て取れるもの以外にも、益々の情報再構築が行われていくと予想されます。

前述の通り、災害で歴史的価値のある文化財が破壊・消失してしまうことはとても悲しいことです。

でもいつまでも泣き言は言っていられません。

そこから復元・復興を行う上で、現代だからできる観光整備が進むのはとても素敵なことだなと思います。熊本城もそうだったように。

首里城正殿の火災は、沖縄県の歴史と文化にとって大きな痛手となりました。しかし、復元工事の進捗状況を見ると、首里城の再建への機運が高まっていることがうかがえます。

首里城正殿の再建が、沖縄県の復興と発展につながることを願っています。

(最後に、本記事のサムネイル画像になっている、首里城の正殿の写真は、2011 年に撮影したものです。)

2011 年に撮影した首里城正殿

スリル満点海抜 325m!最強の石垣を持つ難攻不落の天空城「岡城」

スリル満点海抜 325m!最強の石垣を持つ難攻不落の天空城「岡城」

絶景とスリルの連続!「最強の石垣」と謳われる岡城(豊後竹田城)の見どころや役立つ情報を紹介します。

岡城

岡城

大分県竹田市にある岡城は、日本の代表的な山城のひとつです。阿蘇山の火砕流でできた海抜 325 mの岩山の上に築かれており、断崖絶壁に囲まれた難攻不落の要塞として知られています。

また、滝廉太郎が幼少期を過ごした地としても知られており、有名な曲「荒城の月」は岡城がモチーフとなっています。

別名
  • 豊後竹田城
  • 臥牛城
指定
  • 国指定史跡
  • 日本100名城
  • 日本さくら名所100選
入城受付時間
9:00〜17:00
休城日
12 月 31 日 〜 1 月 3 日
入城料金
高校生以上:300 円
小・中学生:150 円
所要時間
1 時間半から 2 時間
禁煙・喫煙
駐車場にある「お客様休憩所」脇に喫煙所あり
所在地
〒878-0013 大分県竹田市竹田2889

okajou.jp

岡城跡へのアクセスについて

岡城跡へ行くなら、車で行くのが最も良い手段です。

ただし、車が無い場合でも、豊肥本線「豊後竹田駅」からタクシーで約 10 分なのでこちらもオススメです。

竹田市は城下町で観光地のため、豊後竹田駅に行けばタクシーには確実に乗れます。豊後竹田駅には観光案内所もあるので、駅まで行ってしまえば観光案内所が力になってくれるので、岡城には確実に行けます。

バスでのアクセスは候補から外すのが無難です。岡城跡には「岡城」というバス停がありますが、路線バスが平日のみで 1 日に 2 便程度のためバスを利用するのは現実的ではありません。

徒歩もやめておいたほうが良いです。豊後竹田駅から徒歩でも行けないことはないですが、、公式サイトには徒歩 30 分とありますが、登り坂がきついのオススメできません

岡城跡の散策は結構歩くので、それまで体力は温存しておくことをオススメします。

岡城の歴史

以下に、岡城の歴史を簡単にまとめます。

  • 文治元年(1185年):緒方三郎惟栄によって築城
  • 南北朝時代(1369年):志賀氏が城主
  • 戦国時代:中川氏が城主
  • 豊薩合戦(1586年):島津軍の侵攻を阻む
  • 江戸時代(1594年):中川氏が城主
  • 明治時代(1874年):廃城令により廃城

岡城は、稲葉川と白滝川に挟まれ断崖絶壁の地に築かれた山城です。その歴史は古く、緒方三郎惟栄(おがたさぶろうこれよし)が源義経を匿うために築城したという伝説にはじまります。

その後、時は流れ、岡城は志賀氏の居城となりました。天正 14 年(1586年)の豊薩戦争では、周辺の城が次々と島津軍の攻撃で落城していく中、志賀親次(しがちかよし)が守る岡城だけは攻め落とされることはありませんでした。以降、「難攻不落の城」として、その堅固さが世に広く知れ渡るようになりました。

戦国時代末期の文禄 3 年(1594年)、播磨国(兵庫県)三木より入部してきた中川秀成により、岡城は、それまでの山城から総石垣の広大な近世城郭へと変貌を遂げました。

大手門・近戸門・下原門が設けられ、御殿など多くの建物が建ち並びました。また、度重なる災害による建替えや破損の修繕が繰り返されてきました。

明治時代になり、廃城令により役目を終えた岡城の建物は競売にかけられ、石垣のみが残る城跡になりました。瀧廉太郎の名曲「荒城の月」は、少年時代を竹田で過ごした彼が、よく遊んだ岡城跡を思って作曲したといわれています。

昭和 11 年(1936年)、岡城は国の史跡に指定され、現在に至るまで保存整備が行われてきました。

スリル満点!海抜 325m 断崖絶壁から臨む絶景

岡城のメインコンテンツといえば、海抜 325m から臨む絶景です。

岡城から臨む絶景

手すりなどをつけていないので、気をつけないと、石垣から滑落してそのまま崖の下へ落ちてしまいます。絶景に気を取られて足を滑らせないよう気をつけてください。

できれば運動靴で!かなり広くてそこそこ歩くし階段もなかなか

岡城の全体感です

天空の城 岡城址マップ [PDF] より

天守閣や資料館的なものは無く、あくまでも公園として散歩がてら岡城を巡るような形になります。

ただ、意外と広いので、そこそこ歩きます。

所要時間

ゆっくり見てまわるとして、1 時間半から 2 時間はとっておくと余裕をもったスケジュールにできます。

ちなみに、マップ No. 2 の大手門から、もっとも離れている No. 17 の下原門までは、歩いて 15 〜 20 分程度かかります。

所要時間

駐車場は無料で十分な広さ!RV パークも

岡城跡の駐車場は無料です。車は 140 台、バスは 9 台止められます。

岡城跡駐車場マップ

岡城跡駐車場

RV パークもありました。キャンピングカーでも安心です。

RV パーク

観覧券を購入して城内へ

岡城跡に入るには、観覧券発売所(総役所跡)で観覧券を購入します。

観覧券発売所(総役所跡)

大人は 1 人 300 円。観覧券とパンフレットをもらいます。

料金は大人 300 円

岡城までの道のり

それでは出発です。岡城の入り口へ向かいましょう。

駐車場から岡城までの道のり

距離にして約 180m、 2, 3 分の道のりです。

大手門跡

鏡石(きょうせき)

石垣の中に、巨大な岩が使われているところがあります。鏡石と言います。

鏡石

鏡石とは、石垣の内部に埋め込まれた、磨き上げられた大きな石のことで、岡城では、大手門・太鼓櫓門・三の丸の三箇所に計10個の鏡石が確認されています。

鏡石は、石垣の強度を高める役割を担うといわれています。石垣の内部に大きな石を埋め込むことで、石垣全体に均等に力が分散され、崩れにくくなると考えられています。また、鏡石は、石垣の装飾としても用いられました。鏡石が磨き上げられていることから、城主の権威や繁栄を誇示する目的もあったと考えられています。

出発地点でこういった珍しいものが見られるのでなかなか楽しいです。まだ岡城に入れていないのに。先を急ぎましょう

阿蘇溶結凝灰岩の岩壁

岡城は天然の岩山の上に築城されていて、その様子を伺うことができます。

こうした岩山の上に岡城が建っている

岡城を形成する断崖絶壁は、阿蘇山の噴火により流れ出した火砕流でできた阿蘇溶結凝灰岩の岩盤です。阿蘇溶結凝灰岩で形成された大地を、長い年月をかけて河川が削り、深い谷と断崖絶壁による要害堅固な岡城の地形が生み出されました。

自然が作り出す岩山は、間近で見ると迫力があります。

道中にはおみやげ屋さんも

道は舗装されているので歩きやすいです。

岡城への道

岡城への道には、ちょっとしたおみやげ屋さんもあります。

おみやげ屋さん

このおみやげ屋さんは、元は鉄砲方詰所跡だったようです。

鉄砲方詰所跡

こちらは「大手門」というおみやげ屋さん。竹細工、木工細工など民芸品が多く販売されていました。

おみやげ屋さん「大手門」

そんなこんなで楽しみながら歩いていると、岡城の入り口が見えてきました。

岡城の入り口

難攻不落の城あるある「きつくて長い階段」

岡城

ここが岡城の入場口です。ここから岡城へ入っていきます。

岡城入場口

階段ですが、段差は低いのでゆっくり上っていけます。

半分くらい上ってきた

岡城への階段

サイドの石垣も、苔むしていて趣があります。時代を感じますね。

石垣

石垣

そして、この時点で結構眺めが良いです

眺めが良い

階段折返しです。なかなか足腰にきますね。

まだまだ続く階段

元々ある石段よりも、新設された階段のほうが段の高さが低いので上り易くてオススメです。

階段は 2 種類ある

なんとか上ってきました。

二回戦目もどうにか上った

この時点で結構高いところまできています

階段2回戦で結構高いところまで上ってきた

ここまでくればあと少し。大手門がすぐそこです。

あと少しで大手門

大手門跡

大手門跡

櫓は取り壊されてしまったので現在は石垣のみ。でもめちゃめちゃ大きくて迫力があります。

大手門跡

そして大手門をくぐると、雄大な景色が目に飛び込んできます。

雄大な景色

大手門の先は広場のようになっていますが、枡形が形成されていたのがよくわかります。

大手門の先の広場

大手門の先の広場

古大手門跡

古大手門跡

古大手門跡は、現在は石垣のみが残る、岡城の旧大手門の跡です。

古大手門は、南東方向に開き、本丸と外部をつなぐ重要な門でした。築城当初は、この門が岡城の唯一の門であったと考えられています。

古大手門の石垣は、高さ約 7 メートル、幅約 10 メートル、奥行き約 5 メートルの巨大なもので、石垣の表面には、当時の技術の高さがうかがえる、精巧な石積みが施されています。

古大手門は、江戸時代初期に現在の大手門に改修されたため、現在は石垣のみが残っています。

中川但見屋敷跡

中川但見屋敷跡は、西の丸周辺に存在する三つの家老屋敷の一つです。この屋敷跡は、大手門から本丸へ向かう桜馬場跡の左側に位置します。桜馬場跡 沿いに正面入り口があり、その入り口は石段を伴う門となっていました。

また屋敷跡は、中川秀成が入部した際に、岡城築城着手から本丸完成までの間、仮屋敷として過ごしたところです。

中川但見は元亀年間より太祖中川清秀の老職として仕えた戸伏氏の家系 2代藩主久盛の代に中川姓を名乗り歴代藩主の老職として仕えています。

中川但見屋敷跡

めちゃめちゃ広い。どれだけ大きなお屋敷だったのでしょうね。

また、中川但見屋敷跡からの景色も良いのでオススメです。

中川但見屋敷跡からの景色

さまざまな遺構たち

岡城には、現在も様々な遺構を見ることができます。

西中仕切跡(貫木門跡)

西中仕切跡(貫木門跡)

城内で最も狭い空間で、石垣により通路を折り曲げ、敵が直進できないようにしていました。また、その先を門により遮断するととで、大手門方面から岡城中心部へ向から敵の侵入を防ぐ機能も有していました。

本丸の東側には東中仕切があり、西中仕切と同様に重要な防御施設の役割を果たしていました。

鐘櫓(かねやぐら)跡

鐘櫓跡

太鼓櫓(たいこやぐら)跡

太鼓櫓

太鼓格は岡城の中心部への入口で、城内で最も重要な門です。

2m ほどの巨石を「切込接」という石積の技法を用い隙間なく積まれた石垣は、落主の権威の象徴であり、岡落の石積技術の高さが窺えるものとなっています。太鼓格に隣接して錨があり、火災や緊急時には、銅館が打ち鳴らされていました。

下原門(しもばるもん)跡

下原門

下原門は、岡城の撮手(裏口)の間として使用されていました。中川氏入部以前は、ここが大手間として使用されていたと伝われています。下原門東側の石垣には、石垣のズレを防ぐために、石材にホゾを切り、石をはめ込んだ「千切」と呼ばれる珍しい技法が用いられています。

下原門

三の丸跡

三の丸跡

三の丸は、他落からの使者や家臣が、落と対面する場であったとされています。現在は、3代落主に落政に関する指南を行った熊沢蕃山や幕末の勤王の志士である小河一敏など、岡落に緑のある人物の頭確が建立されています。

三の丸は西側に「太鼓門」、東側に「御門」(理御門)の2箇所に入口がありました。「太鼓門」を入ると石垣に囲まれた枡形の虎口が形成され、三の丸への通用口(幅5m) と藩主専用の「御成門」(幅 2m) の石段が2箇所あります。三の丸の周囲には、各種のが建てられ、中央に殿舎が位置していました。殿舎は、四十畳の「寄附」や三十畳の「御広間」があり、御広間には床、棚、書院等の座敷飾りがみられ、上ノ間として使用されていました。

三の丸は他藩の使者や家臣が落主と対面する場として使われていたと考えられます。殿舎のあった位置には、以後士蔵が建てられ上壁の跡が今でも残っています。

二の丸跡

二の丸跡

二の丸は、北の方角に張り出したし 字状の地形をなしています。中央に御殿を配し、御玄関を入ると台所まで大広間が続き、地形に沿うように老松ノ間から山吹ノ間まで書院が形成されていました。また、北端の突出したところには数寄屋風の覚橋、東端に風呂屋が造られていました。

月見格は、外側に縁が巡らされた量後が設けられていました。防御を目的としたものではなく、詩歌や茶の湯、酒、書画、音楽などが楽しまれていました。政務の場と遊興の場を併せ持つ月見橋は各部に意匠が凝らされていたことが絵図などから窺えます。

風呂屋は、石垣から張り出した足場を組んだ二階建ての建物で、一階に風呂、二階に畳の座敷や涼をとるための習子線が設けられていました。また、二階からは箱階段で本丸月見櫓へ通じていました。

二の丸は、軍事的要素の強い各郭とは対照的に和やかで優雅な趣のある建物を有するという間城の中で特徴的な施設で、遊興の場として使用されていたと考えられます。

二の丸跡

二の丸には、月見や御風呂屋など、特徴的な機能を持つ建物が並んでおり、来客の歓迎や落主の愉しみの空間としで利用されていました。現在は、来城者のための休憩所が設けられています。

二の丸休憩所

また、二の丸からの眺めも開けていて良いです。

二の丸からの眺望

滝廉太郎像

滝廉太郎は幼少期を竹田で過ごし、岡城にも良く遊びに来ていました。代表曲「荒城の月」は、この岡城をモチーフにして作曲されています。

滝廉太郎像

滝廉太郎は、明治時代に活躍した日本の作曲家です。1879 年(明治12年)に東京で生まれ、わずか 23 年 10 か月という短い生涯の中で、日本における西洋音楽の普及や音楽教育に大きな役割を果たしました。

廉太郎は、幼い頃から音楽に親しみ、12 歳のときに東京音楽学校(現・東京藝術大学)に入学しました。作曲家として頭角を現したのは、19 歳のとき、歌曲「花」を発表してからです。この曲は、日本を代表する歌曲のひとつとして、今でも多くの人に愛されています。

廉太郎は、歌曲だけでなく、唱歌や管弦楽曲など、さまざまなジャンルの音楽を作曲しました。代表作には、歌曲「荒城の月」「箱根八里」や、唱歌「お正月」などのほか、管弦楽曲「交響曲第1番」などがあります。

廉太郎は、23歳の若さで亡くなりましたが、その短い生涯の中で、日本音楽界に大きな足跡を残しました。

滝廉太郎像

本丸跡

本丸跡

本丸は、岡城中心部の最も重要な曲輪であり、中央部には藩主の住まいとなる本丸御殿が建てられていました。本丸御殿を取り囲むように、天守に相当する御三階櫓や角、多門格、金倉などが配置されていました。

現在は広場になっていて、絶景ポイントです。岡城天満神社もあります。

本丸跡

ここも手すりなどはないので、絶景に夢中で落ちないように注意しましょう。

絶景ポイント

絶景と歴史と彩り

岡城は歴史と自然が融合した観光スポットでもあり、四季折々の植物を見ることもできます。例えば春には桜の名所としても知られています。

岡城を彩る植物たち

紅葉もめちゃめちゃきれいです。

岡城の紅葉

素敵な景色に、鮮やかな花々。歩いているだけで心が洗われます。

結構広いので歩くのが少し大変なのと、大手門までの階段もそこそこ頑張る必要がありますが、それ以上に感動の風景に出会えます。

是非、この素晴らしい場所で日本の過去と現在を感じながら、旅を楽しんでください。

今なお生きる遺構「鹿児島城」がすごかった〜数百数千の弾痕が語る西南戦争と歴史

鹿児島城

鹿児島を観光するなら一度は観ておきたい鹿児島城を巡ります。

鹿児島城

鹿児島城は、鹿児島県鹿児島市にあるお城。1601 年(慶長 6 年)頃、のちに初代藩主となる島津家久(第 18 代当主)が建設に着手した城です。山から平野にかけて城を築く「平山城」に分類されます。

別名
鶴丸城(つるまるじょう)
指定
国の史跡
日本100名城
築城年
1602年(慶長 7 年)
天守
なし。黎明館という鹿児島県の歴史資料センターになっています。
営業時間(黎明館)
9:00 〜 18:00(最終入館 17:30)
定休日(黎明館)
月曜日(祝日の場合は翌平日)
毎月 25 日(土・日・祝日の場合は開館)
12 月 31 日 ~ 1 月 2 日
日本100名城スタンプ
黎明館にあり。休館日の場合は西郷銅像前広場観光案内所にもスタンプあり。
禁煙・喫煙
黎明館入り口付近に喫煙所あり
アクセス
鹿児島市電 市役所前駅 から徒歩 6 分
鹿児島駅からタクシーで 3, 4 分程度
所在地
〒892-0853 鹿児島県鹿児島市城山町7−2

鹿児島城年表

  • 慶長 6 年(1601) 島津家久が鹿児島(鶴丸)城の築城を始める(1602年説あり)
  • 慶長 17 年(1612) 御楼門の柱立
  • 天保 14 年(1843) 御楼門の建て直し(1844 年説あり)
  • 明治 5 年(1872) 明治天皇行幸
  • 明治 6 年(1873) 鹿児島城本丸、御楼門が焼失
  • 明治 10 年(1877) 西南戦争、二之丸が焼失
  • 明治 34 年(1901) 第七高等学校造士館設立
  • 昭和 58 年(1983) 鹿児島県歴史資料センター黎明館開館
  • 令和 2 年(2020)御楼門復元完了

別名は「鶴丸城(つるまるじょう)」

鹿児島城は別名「鶴丸城」と呼ばれますが、背後の城山の形が鶴が舞っているように見え「鶴丸山」と呼ばれたことから鹿児島城も鶴丸城と呼ばれるようになったそうです。

御楼門(ごろうもん)

御楼門

鹿児島城といえば御楼門です。

大きく堂々とした門はとても迫力があり一見の価値ありです。(高さ約 20m, 幅約 20m)

御楼門

大扉は片側 5m × 2.5m で、片側だけで約 1.4 トンもあります。

大扉。片側 5 × 2.5m で、片側だけで約 1.4 トンもある

元々は本丸の正面中央に御楼門がありましたが、明治 6 年(1873年)の火災で焼失してしまったとのこと。今あるのは 2020 年に復元されたものだそうです。どうりで、めちゃめちゃ綺麗でした。

御楼門の内部

「御楼門のことをもっと知りたい!」

というひとは、御楼門の復元が完成した際の記念パンフレットを見てみてください。復元作業の様子とかも見ることができます。

御楼門復元完成記念パンフレット [PDF]

西南戦争の痕跡

鹿児島城の一番の見どころポイントといっても過言ではないのがこの「西南戦争の弾痕」です。

御楼門を抜けてすぐにあります。

西南戦争の痕跡

この石垣に開いている無数の穴は、明治 10 (1877) 年の西南戦争の際銃や砲弾の痕。

熊本・宮崎での戦いに敗れた西郷軍は、明治 10 年 9 月、故郷鹿児島の地に戻り、城山を中心に布陣し最後の決戦に挑みます。これに対し政府軍は約5万人の兵で包囲し、西郷軍に無数の銃・砲弾を浴びせました。 御楼門部周辺の石垣に残るこれらの弾痕からは、複数箇所から銃撃や砲撃が行われたことをうかがい知ることができ、この攻撃の凄まじさを今に伝えています。

ということで、この弾痕ですが、実際に見るとすごいですよ。これでもかっていうくらいに穴が空いてるんです。

石垣に空いた西南戦争の弾痕。本当に凄まじい。

こういう生きた歴史を目の当たりにできることはとても幸せなことですね。維持管理し守ってくださっている方々に感謝です。

小さい穴は銃痕なんでしょうね

西南戦争の痕跡 [PDF] - 鹿児島県資料

黎明館(れいめいかん)

御楼門をくぐり弾痕まみれの石垣を抜けると、雰囲気の良い道に出ます。

本丸へ続く道らしい厳かな感じ

ここを抜けると、鹿児島県歴史資料センター「黎明館」 があります。

鹿児島県歴史資料センター「黎明館」

黎明館は「鹿児島県歴史資料センター」と名のつく通り、歴史に関する資料が展示されています。

www.pref.kagoshima.jp

黎明館常設展示入館料

個人 団体
一般 410 円 300 円
高校生・大学生 250 円 150 円
小学生・中学生 150 円 80 円
小学生未満 無料 無料

黎明館パンフレット

常設展示の他に企画展も行われているので、その時にしか会えない貴重な歴史資料を見ることができるかもしれません。

黎明館けっこう広いです

(黎明館内は撮影禁止です)

聚珍寶庫碑(しゅうちんほうこひ)

黎明館の脇に「聚珍寶庫碑(しゅうちんほうこひ)」という不思議な石碑があります。

聚珍寶庫碑(しゅうちんほうこひ)

碑文のあらまし

地がはじめて開け、太陽と月がこの世に現れて、動植物が世界に広がった。神農(中国伝説上の皇帝)が現れて、多くの植物を薬と毒に区別した。

私(島津重豪, しまづしげひで)は、これまで日本各地や海外の珍しい物室を収集し、草木を栽培し、鳥や動物を飼育したが、それは自然界の真理を知ろうとしたためである。

年月を重ねるうちに、屋敷の中に宝石、古代の印章や瓦、陶磁器などが満ちてきた。長年の心を込めた収集は、将来その散逸を残念に思う人がいるかもしれない。

そこで宝物庫を荏原(えばら)郡の別荘(高輪藩邸内)に建て、収集品のうち特に優れたものを選んで収めた。そして、宝物庫の名前を「聚珍(しゅうちん)」とした。

百年の後にこの収集品を所有するものは、どうか散逸させることなく、永遠に保持してほしい。

島津家二十五代目当主で薩摩藩主であった島津重豪(しまづしげひで)の碑なんだそうです。照國神社に祀られている島津斉彬のひいおじいちゃん(曽祖父)にあたります。

江戸時代は中期から後期にかけての人ですが、ヨーロッパ文化に強い関心を持っていたとのことで、碑文を読む限り色々なものを収集していたんでしょうね。

昔からコレクター(収集家)は存在していたっていう、さりげなく重要な碑ですね。

天璋院篤姫像(てんしょういんあつひめぞう)

天璋院篤姫像(てんしょういんあつひめぞう)

これも黎明館の隣にあります。

篤姫といえば、NHK 大河ドラマにもなった有名な人ですね。

www.nhk.jp

激動の幕末、薩摩藩島津家の1万石の分家に生まれながら、徳川十三代将軍の正室になる篤姫。夫・家定の死後は出家して天璋院となり、自らの信念を貫き、江戸城無血開城に大きな役割を果たした“薩摩おごじょ”の波乱万丈の生涯を描いた。

篤姫さまって、すごい人なんですね。

西郷隆盛などが絡んだいわゆる「江戸総攻撃」の直前に、それを思い留ませ、江戸城無血開城へと導いた立役者は実は篤姫さまだったっていう。

大河ドラマが観たくなりました。

黎明館庭園

黎明館の裏手

黎明館の裏手には、ちょっとした庭園と昔の生活の様子を再現した家があります。

この池は御池(みいけ)と言われる池です。

御池(みいけ)

御池

島津氏第 18 代家久によって構築され、20 年間にわたって達氏の本城であった鹿児島城(鶴城)本丸の東南隅に、御池と呼ばれる池がありました。明治時代初めに廃城となり、その後、城跡には中学造士館や第七高等学校造士館が建てられました。昭和時代の初めごろ、七高のブール建設のため御池の石材の一部は鹿児島市の公会堂(現在の中央公民館で使用し、大部分のものは鹿児島市鴨池動物園の庭園に移設されていました。昭和 46 年 12 月、同園が平川へ移転のため、この石材は当時明治軽年記念として建設計画のあった黎明館の庭園用に鹿児から譲渡され、昭和 58 年この場所に復元しました。

大悲水(大悲とは仏の広大な慈悲心をあらわす)と刻まれた石をつたって水が流れるこの池には、九皐橋がかけられています。

九皐(きゅうこう)は、沢の深い所、深遠な所という意味で、中国最色の詩集である「詩経」に「鶴鳴 千九皐、聲聞 于野」とあります。鶴は、いかに奥深い沢で鳴いてもその声はどこまでも聞こえることから、賢人の評判は自然に遠くまで伝わるという意味です。

黎明館では、このような由緒ある池江戸時代の歴史を偲ぶよすがとして、偲び御池と呼ぶことにしました。

この庭園に建つ 2 棟の家は、「桶の間二つ家」と呼ばれるものです。

桶の間二つ家

樋の間二の家

この建物は、姶良郡肱川町下ノ赤水の海老ヶ迫家住宅を移したもので、建築の時期は天保年間(1830-44年)と伝えられている。

南北棟の「なかえ」と東西原の「おもて」が直角に接し、南側に前面を揃えている。

二つの棟が「樋の間」で連結された典型的な「樋の間二つ家」である。

この種の民家は、川内川流域から浴良部一帯に見られる。

なお、改造してあった部分は、移築のとき取りのぞき、梁の揺れを防ぐため補強工事を行い、樋の上に樹脂被覆鋼板を敷いてある。

案内板の通り、2 つの棟が連結している状態になっています。

南側が正面を向いている

樋の間二の家の間取り図はこんな感じ

樋の間二の家の間取り図

家に上がることはできませんが、中の様子を垣間見ることはできます。

樋の間二の家「おもて」の様子

こちらは「なかえ」の部分。土間があってそこまでは入ることができました。

樋の間二の家「なかえ」の様子

家の外には井戸もありました。

井戸

さすがに井戸の穴は塞がってしまっているようですね。

こんな感じで、黎明館の裏庭では、鹿児島城がまだ存在した当時の生活の様子も垣間見ることができました。

七高生久遠の像

七高生久遠の像

さて、庭園から黎明館の前に戻ってきました。

鹿児島城は廃城令でなくなり、城跡には中学造士館や第七高等学校造士館が建てられました。

そんな第七高等学校造士館も、昭和 25 年(1950年)には学制改革によってその歴史を閉じました。

この像は、そんな第七高等学校造士館の同窓生によって建てられたものだそうです。

七高生久遠の像

三体の像はそれぞれ「知」「情」「意」を象徴しているのだとか。

青春の一瞬を切り取ったこの像、いつまでもその輝きは色褪せないことでしょう。

鶴丸城二の丸跡

二の丸跡の案内板

じつは鹿児島城には、まだまだマニアックな見どころポイントたくさんあるんです。

黎明館の隣りにある「二の丸跡」は、今は県立図書館になっています。

二の丸跡に建てられた県立図書館

位置的にはこんな感じです。鹿児島城跡に黎明館が建っているとすると、その西側に二の丸跡、県立図書館があります。

黎明館案内図

鹿児島城のお堀

鹿児島城のお堀は高さはないものの、積まれた石の黒ずみや苔から、歴史を感じることができます。

鹿児島城のお堀

そんな鹿児島城の前の歩道では、石積みについての資料が、なんと実際の積み石と共に展示されているのでこれが結構面白いです。

展示「石積みの技術」

石積みの紹介板には、その積み方で積まれた石垣がどの辺にあるのかまで記してあるので、御楼門をくぐる前にここに来て場所をチェックしていくとよりお城を楽しめると思います。

歴史が確かにあったことを当時のままに知ることができる貴重な遺構

鹿児島城の石垣に空いた無数の銃・砲痕は実際に見てととても衝撃を受けました。

どれだけ激しい攻撃にあったかがこの石垣からイメージされて、当時の壮絶な戦いを感じました。

個人的にはこの石垣は一度は観ておくべきものだなって思います。お城は日本全国津々浦々巡っていますが、ここまで戦いの跡を残している石垣は初めてでした。

鹿児島城は天守こそありませんが、復元された御楼門は立派ですし、黎明館で鹿児島の歴史に触れることもできます。

鹿児島観光の際には是非行ってみてください。

鹿児島城

圧倒的なスケール美。水を纏いし青碧の城「高松城」

高松城

日本100名城、そして日本三大水城に数えられる「高松城」を紹介します。実際に行ってきた中でのおすすめポイントもぜひ参考にしてください。

史跡高松城跡(高松市立玉藻公園)

史跡高松城跡(高松市立玉藻公園)

高松城は、1587 年に豊臣秀吉から領地を与えられた生駒親正(いこまちかまさ)が築城した平城(水城)。1642 年には松平頼重(まつだいらよりしげ、水戸黄門で有名な水戸光圀の兄)が高松城に入っている。

当時は約 20 万坪(66万㎡)だったが、明治初期に外堀が埋め立てられ、それからも徐々に中堀の一部が埋め立てられたりしていき、現在は約 2 万 4 千坪(8 万㎡)が城跡として残っている。

現在、NPO 法人「高松城の復元を進める市民の会」によって天守閣復元の活動が行われている。 http://www.takamatsujyo.jp/album

指定
  • 国の重要文化財
  • 国の史跡
  • 日本100名城
  • 日本三大水城
別名
玉藻城(たまもじょう)
天守
無し(天守台展望デッキとなっている)
開園時間
西門 東門
春・夏 4 月・5 月 5:30 〜 18:30 7:00 〜 18:00
6 月・7 月・8 月 5:30 〜 19:00
9 月 5:30 〜 18:30
秋・冬 10 月 6:00 〜 17:30 8:30 〜 17:00
11 月 6:30 〜 17:00
12 月・1 月 7:00 〜 17:00
2 月 7:00 〜 17:30
3 月 7:00 〜 18:00
定休日
12 月 29 日 ~ 12 月 31 日
入園料
大人(16歳以上):200 円
小人(6歳以上16歳未満):100 円
無料開放日
年始無料開放:1 月 1 日〜 1 月 3 日
桜見物夜間無料開放:3 月下旬 ~ 4 月上旬(17:30~20:00)
一般開放記念無料開放:5 月 5 日
アクセス
琴平線 高松築港駅 から徒歩 1 分
JR 高松駅 から徒歩 5 分
駐車場
玉藻公園專用駐車場あり(無料・普通車 57 台)
所在地
〒760-0030 香川県高松市玉藻町2−1
  1. 玉藻公園リーフレット(PDF:839KB)
  2. 史跡高松城跡パンフレット(PDF:807KB)

www.takamatsujyo.com

高松城を巡る所要時間は?

高松城は、天守閣跡、桜御門、披雲閣などを全てをゆっくり見て回っても 1 時間 〜 1 時間半くらいの広さです。

天守閣跡のみ見る場合は、西門から入れば所要時間は 20 分程度です。

高松城の魅力は?

高松城の一番の魅力はなんと言っても天守閣跡にある展望デッキから眺める水と空の風景です。

そして、復元されたばかりの桜御門も迫力があります。

さらには、松平家の別邸である披雲閣、そして大きな黒松がいくつも並ぶ披雲閣の庭園と、他の城(公園)に比べて広さはないものの、見どころはそれなりにあります。

オススメコース

高松城を一番楽しめるコースは以下の順番で巡ることです。

  1. 東門(入園)
  2. 桜御門
  3. 披雲閣
  4. 披雲閣庭園
  5. 月見櫓
  6. 水門
  7. 鞘橋
  8. 天守閣跡
  9. 公園で休憩
  10. 西門(退園)

上記の順で巡ると行ったり来たりしなくて済むのと、クライマックスに向かって雰囲気と気持ちが高まっていけるのでオススメです。

とはいえまずはクライマックスへ

庭園や櫓はこの後で紹介しますが、まずはクライマックスである天守閣跡を紹介します。

天守台跡へ向かう通路

右手は公園になっていてベンチや喫煙所があり、休憩できます。

公園

上の写真右手に緑の建物が見えると思いますが、そこはもう西門です。

緑のテントっぽいところが西門

鞘橋(さやばし)

本丸へ通づる唯一の橋、鞘橋(さやばし)です。

鞘橋(さやばし)

鞘橋は、二ノ丸から本丸へ続く唯一の動線であり、この橋を落とすことによって本丸だけを守ることもできるようになっていました。絵図等によると高松城築城当時から同位置に橋が架けられていたことがわかります。当初は「らんかん橋」と呼ばれ、1640年代半ばの絵図でも欄干が描かれており、屋根のない橋でした。その後、文政6年(1823)の絵図では屋根付の橋として描かれており、江戸時代に改修が行われたことがうかがえます。現在の鞘橋については明治17年(1884)の天守解体時に架け替えられたものと伝わっており、大正期には橋脚が木製から石製に替えられたことが古写真から判明しています。

昭和46年(1971)には老朽化による解体修理がなされ、平成18年から開始した天守台石垣の修理工事に伴って本丸側の一部が解体され、平成23年に修理されました。橋の架かっていた石垣が修理されたことに伴って、解体前よりもやや全長が長くなっています。

鞘橋

鞘橋から、琴平線の高松築港駅のホームが見えます。

先に見えるのは高松築港駅のホーム

左手の眺めも水城って感じで良いです。

鞘橋左手の眺め

天守のを目指すべく、鞘橋を渡って行きます。

鞘橋

鞘橋を渡り切ると、大きな石垣が見られます。

石垣

右手に進んで行きます。

天守を目指して

そしてこの道を進むと、天守閣跡が見えます。

天守閣跡

高松城天守

高松城の天守はありませんが、天守閣跡が展望デッキになっています。

天守閣跡

階段を上って行くと、当時の高松城天守 地下一階の跡を見ることができます。

高松城天守 地下一階の跡

そしてさらに階段を上がっていくと、そこに圧巻の風景が現れます。

圧巻!日本三大水城の景観

階段を上がった先にある展望デッキからの眺めです。

展望デッキからの眺め

日本三大水城の名に相応しい、美しい景色がそこに広がります。

日本三大水城の風景

展望デッキはこんな風にしっかりと整備されているので、上りやすいと思います。

展望デッキの様子

入口は西門と東門の 2 箇所

高松城への入口は西門と東門の 2 つがあります。

入場口となる西門と東門の場所

電車やバスで行く場合は西門、車で行く場合は東門がそれぞれ近い入口になります。

基本的にはどちらから入っても見られるものは同じですが、オススメは東門から入って西門に抜けるルートです。

東門から入ると、桜御門を通って披雲閣など庭園に入り、そこから月見櫓などを回って最後に天守台跡に行けるので、順序的にはいい感じに回れます。(西門からだとこれが逆になります)

西門

天守閣跡だけ見たい場合は西門から入ればすぐですが、高松城の全てを堪能したいのであれば、東門から入って行くと一番楽しめると思います。

入園料を支払って中へ

西門にも東門にも料金所があるので、ここで入園料を支払ってから中に入ります。

西門の料金所

支払いを済ませると入園券がもらえます。(当日 1 回のみ有効)

入園券

桜御門

昭和 20 年の高松空襲で消失してしまった桜御門(さくらごもん)が、2022 年 6 月に復元されました。

桜御門

とても大きくて迫力があります。

桜御門

高松市が発掘調査や古い写真をもとに復元の研究を進め、消失から約 80 年の歳月を経てここに復元したということで、時間をかけて歴史的な城郭建造物を復元されたその完成度の高さが伺えます。

www.city.takamatsu.kagawa.jp

披雲閣(旧松平家高松別邸)

桜御門を通るとすぐに披雲閣(ひうんかく)があります。

披雲閣(旧松平家高松別邸)

披雲閣は、松平家の高松別邸です。

披雲閣(旧松平家高松別邸)

平成24年(2012年)7月9日重要文化財指定

松平藩時代にも、この地に披雲閣と呼ばれる広大な建物(現在の披雲閣の約二倍)があり、藩の政庁および藩主の住居として使われていましたが、明治時代に老朽化のため取り壊されました。その後、松平家第12代当主で貴族院議長も務められた松平頼壽氏により、3年の歳月と当時のお金で15万余円の巨費を投じて現在の披雲閣が大正6年(1917年)に完成しました。この豪壮な和風建物には142畳敷の大書院をはじめ、槙の間蘇鉄の間などの雅趣を生かした各部屋があり、波の間には昭和天皇、皇后両陛下がご宿泊になられたこともあります。 昭和29年(1954年)に城跡とともに高松市に譲渡されて、現在は会議茶会生花展などの会場として利用され、広く市民に親しまれています。

披雲閣 入口

落ち着いた、それでいて重厚感のある趣きが、歴史を感じます。

披雲閣は静かで重厚感のある雰囲気

また、披雲閣入口前はちょっとした庭園になっていて、有名な高松の松盆栽なども展示・販売があったりします。休憩もできます。

披雲閣前の様子

圧巻!披雲閣庭園

桜御門を抜け、披雲閣に向かって左手に庭園に入る入口があります。

披雲閣庭園への入口

松平家の高松別邸だけあり庭園がとても広いです。庭園は松をメインに整えられています。

披雲閣庭園

大書院

庭園を進むと大書院の方にも出られます

披雲閣 大書院側の庭園

大書院は 42 畳もある大広間で、3 部屋に区切っている襖(ふすま)や障子を外すと柱が 6 本残るだけになるそうです。現在でも茶会や展示会、挙式やコンサート等で使用されているとのこと。

大書院

銀閣寺型手水鉢

大書院の前には、京都市左京区の銀閣寺にある手水鉢を模した銀閣寺型手水鉢があります。

銀閣寺型手水鉢

幅・奥行きは約 1.5 m, 高さは約 2 m, 重さは約 11 トンもある大きな手水鉢。

手水鉢

趣きがありますね。

銀閣寺型手水鉢

槇(まき)の間

槇(まき)の間

披雲閣の各部屋は窓から見える景色に由来しており、ここ槇の間の北側の庭には槇の木が植えられているところからきているのだそう。

槇の間から見える槇の木(写真中央)

ちなみに、槇の間の2階は瀬戸内海の波が見えることから、波の間と名付けられているそうです。

こんな感じで、披雲閣の庭園には、深い緑の風景を味わうことができます。

披雲閣庭園

黒松の庭園

また、立派な黒松も沢山あって、力強い庭の風景も見どころです。

黒松の力強さ

庭園を出ます。

披雲閣庭園の外側通路

庭園を抜けてもなお、立派な黒松で彩られた通路が整備されていますが、この道の先に櫓があります。

通路

渡櫓(わたりやぐら)

渡櫓

この渡櫓には石垣の継ぎ足しが行われており、生駒家から松平家へ引き継がれた歴史を見ることができます。

石垣の継ぎ足し跡

右側が野面積みっぽいのに対して、左側は打込接っぽいですよね。

水手御門(みずてごもん)

水手御門

水手御門(みずてごもん)の先は海につながっています。

水手御門

船からこの水手御門を経て直ちに城内へ入れるようになっていたところから、この櫓は海手出入りの監視防備のための隅櫓であったとされています。

月見櫓(つきみやぐら)

月見櫓

月見櫓は、もともとは着見櫓と呼ばれていて到着を見る櫓。三重三階・入母屋造・本瓦葺。内部は4 本の柱が3 階天井まで伸びています。

月見櫓

また、ここから瀬戸内海を一望できて眺めも結構良いです。

月見櫓から臨む瀬戸内海

水門

水門

ここで水泳の訓練(昔は水練といったそう)が行われていたんだそうです。

鯛もたくさんいました。

水門には鯛がたくさん

また、浮かんでいる船は「玉藻丸」といって、実際に乗れるそうです。

玉藻丸 乗船体験

日本三大水城、ここに極まる。がしかし、魅力はそこだけに留まらない。

高松城天守閣展望デッキからの眺めは圧巻の一言です。

写真では収まりきらない圧倒的なスケールで視界に飛び込んでくる水と空の風景は実際に見ると目を奪われます。

高松城天守閣展望デッキからの眺め

それに併せて、復元されたばかりの桜御門や、披雲閣とその庭園と、高松城には天守こそ無いものの見るべき、触れるべき風景が多いです。きっと楽しめると思います。

特に桜御門は復元されたばかりなので、ピカピカ新品の御門ってそう見られる機会もないと思うので一見の価値ありです。

ゆっくり見て回っても 1 時間ほどで回れてちょうどよい広さであり、且つアクセスも抜群に良いので訪れやすいのもポイントが高いです。

香川県へ、高松市へ行ったらぜひ立ち寄ってみてください。

高松城天守閣展望デッキからの眺め

圧巻!高さ日本一の石垣を誇る「丸亀城」

丸亀城

「日本一高い石垣」があるという丸亀城に行ってきました🥳

丸亀城(まるがめじょう)

丸亀城

丸亀城は香川県丸亀市にあるお城で、石垣の高さが日本一なことで有名なお城です。

別名
  • 亀山城(かめやまじょう)
  • 蓬莱城(ほうらいじょう)
指定
公式サイト
https://www.marugame-castle.jp
最寄り駅
丸亀駅(GoogleMap
所在地
〒763-0025
香川県丸亀市一番丁

丸亀城へのアクセス方法はこちらから↓

www.ritocamp.com

私は丸亀駅から、行きはタクシーで行って、帰りは徒歩で丸亀駅まで戻りました。

外観

丸亀城に到着。日本一高い石垣を持つだけあって、かなり高い位置に天守があります。

丸亀城の外観

大手門

玄関口、大手門。

大手門

お堀に水が溜まっていますが、緑色。アオコの仕業かな。

お堀の水

先に見えるのが二の門です。

大手二の門

ニの門

丸亀城の二の門は高麗門(こうらいもん)形式の門、どっしり構えている感じが迫力があってかっこいい✨

大手二の門

二の門の脇の塀には狭間(さま)がありました。

狭間

三角の狭間は鉄砲狭間かな?

門を閉じていても大手門の外の様子を伺える

一の門

二の門をくぐるとすぐに一の門があります。

大手 一の門

玄関口ということもあり石垣の積まれ方がきれいですね。梁も大きくて迫力があります。

大手 一の門

では一の門をくぐります。丸亀城さま、失礼いたします。

一の門

大手門広場

大手門をくぐると大手門広場があります。

大手門広場

めちゃめちゃ広いですね。

ここ右手に行くと「番所長屋」や「丸亀市立資料館」へ。左手に行くと天守へ向かいます。

天守に行くには左に進む

また、この大手門広場には丸亀城内観光案内所もあります。

丸亀城内観光案内所(写真左)

私が来た時は 17 時前だったのでどこの施設も閉まっていました。残念。丸亀城に行くなら夕方より前が良いですね。

心臓破りの急斜面「見返り坂」

石垣の高さが日本一」ということは、天守に行くならその高さまで上がる必要がある。ということ。

この見返り坂は、丸亀城名物です。

見返り坂

「時々立ち止まって振り返りたくなる」くらい傾斜が急であることから「見返り坂」と呼ばれています。

結構先が見えない感じだと思いますが、その通りで結構距離もあります。

急勾配も上の写真だとわかりにくいですが、こちらは折返しまで見返り坂を上ってきて、上から下を撮ったところです。

見返り坂の折返し時点から

傾斜が急なのがよくわかりますね。

これ本当に上るの本当につらかったです笑(2, 3 分かかりました)

少なくとも、ベビーカーとか車椅子を押して上るのはオススメしません。

まだここの時点で見返り坂を全て上ってはいないのですが、ここまで上ると大きな石垣を間近で見ることができます。

大きな石垣!

本当に高いですね。すごい✨

20m 以上あるんだそうです。

日本一高い石垣

ということで、残りの見返り坂も攻略していきます。

見返り坂後半戦スタート

見返り坂はきついのですが、間近で見る石垣の大きさに圧倒されます。これは本当にすごいです✨

実物見ると迫力が全然違いますね。

とにかく大きな石垣に圧倒されます

ちなみに見返り坂の後半戦はこんな感じです。

上がりきったところからの様子

夏に行ったのですが、見返り坂を上りきった時点で汗だくになりました。

水分とタオルは必須です。(切実)

三の丸

見返り坂を上り切ると、三の丸です。

三の丸

三の丸

見返り坂を登ると三の丸である。海抜約五〇五メートルの平地で、東方左方)の眺めがすばらしい。飯野山(讃岐富士四二ニメートル)がそびえ、その手前に土器川が右南から北へ流れ、その北に青ノ山が横たわり、更にその北に遠するは坂出市番の州工業地帯と瀬戸大橋である。東南隅に巽櫓の跡がある。土器川の東と城の南方は旧高松藩領で、それを見張る櫓であった。月見にはよい位置であったから月見櫓とも呼ばれた。

三の丸にあった案内板

三の丸は広場になっていて、休憩もできるし、櫓跡があるので丸亀市を一望できます。

東櫓台跡

本丸までいけば最高の景色が見られるのですが、見返り坂を上ったご褒美として、一足先に東櫓台跡から景色を見てみましょう。

東櫓台跡からの眺め

丸亀市を一望できます。すごくいい景色ですね。

月見櫓跡

月見櫓跡

こっちは東櫓台の反対側にある月見櫓跡です。

月見櫓跡からの眺め

勤王碑

勤王碑

幕末から明治初めに活躍した郷土の勤王志士 土肥実光(大作)、村岡宗四郎が大正 8 年に贈位されたのを記念し、勤王志士遺烈表彰会が大正 12 年に建立した。

土肥大作は天保 8 年現城西町で生まれ、征討軍参謀を経て新治県(茨城県)参事在任中 明治 5 年 3 月、36 歳で死亡した。

村岡宗四郎は弘化 2 年魚屋町で生まれ、母は勤王家小橋家の息女。その影響で勤王に志し活躍中、慶応 3 年 1 月、22 歳で死亡した。

「尊王攘夷」「明治維新」というキーワードの中で丸亀城でも色々あり、その時の人らの記念碑みたですね。

延寿閣別館

延寿閣別館

延寿閣別館

麻布にあった丸亀藩京極家の江戸藩邸の一部を昭和八年(一九三三)に移築したもので、内部は大名家の生活がしのばれるよう昔のまま保存されている。

偉い人の昔の家(雑)

ちょっと話は変わりますが、

丸亀市の取り組みで「城泊」っていうプロジェクトが進められていて、この延寿閣別館を宿泊施設にする(2024年予定)っていうのが進んでたと思うんだけど、、

これこれ

www.coolkagawa.jp

でも見た感じ草ボーボーでただの怖い古屋敷と化していました笑

真夏に行ったから、ヤブ蚊とか大量に出てきそうで怖かったからこれ以上は近づけなかった。。

三の丸から見る石垣

三の丸から見る石垣も大きくて迫力ありました。

三の丸から見る石垣

この向こう側に二の丸がある。

ということで、天守に向かって進んでいきます。

三の丸を出て天守へ

二の丸

三の丸を抜けると、次は二の丸に出ます。

二の丸の様子

ここも今は広場になっていて、トイレや水場がありました。

怖い伝説が残る井戸

二の丸には、怖い伝説の残る井戸があります。

噂の井戸

二の丸井戸の案内板

二の丸井戸

この井戸は直径が一間(一、八メートル)、深さは絵図によると三十六間(約六五メートル)と記され、日本一深い井戸といわれている。丸亀城で最も高いところにあり、現在も水を湛(たた)えている。また、石垣を築いた羽坂重三郎が敵に通じるのを恐れたお殿様により、この井戸の底に入っている間に石を落されて殺されたという伝説が残っている。

丸亀城を築いた時に、

「どうだ!この高い石垣なら誰も上れないだろう!」

と息巻いたお殿様に対して、これを作った羽坂重三郎が

「いや、登れる方法ありまっせ」

って言って鉄の棒を使って登ってみせた。

「この方法(石垣の攻略法)が外に漏れたらまずい!」

としたお殿様がこの羽坂重三郎を井戸に…

っていうお話みたいです。

この中に羽坂氏が…

この井戸、今でも水が入ってるんですって。

井戸の中を覗いてみる

深いから底まで見えなかったです。

ということで、いよいよ天守に参りましょう。

いざ、天守へ!

本丸

本丸

本丸にやってきました

本丸の様子

本丸も広場になっていて、そこに天守があるような構成になっています。

本丸広場から丸亀市を一望

本丸にも櫓跡があって、そこから丸亀市を一望できます。

宗門櫓跡

本丸から臨む丸亀市

天守

いよいよ、天守との対面です。

丸亀城 天守

ついに、、ここまで登ってきた甲斐がありました✨

丸亀城の天守は、現存十二天守の1つですね。

しかしここで残念なお知らせが。。。

天守入館のご案内

この時すでに 17 時を回っており、天守の開館時間は終わっていました。

はるばる東京から来たというのになんてこと…😭

仕方がないので天守を外から眺めます。

天守の外観を楽しみます

天守の裏側にも櫓跡がありました。

天守の裏手

日本一の高さを誇る石垣を持つ「丸亀城」

石垣の高さ、どんなものかと思って来ましたが、実物は本当に巨大で、迫力がありました。

日本一の高さを誇る石垣

そしてその石垣を超え、天守へ行くための「見返り坂」は本当に心臓破りの坂道でしたが、それを乗り越えても見る価値のある石垣と天守だったと思います。

お城というのはその構造として「攻めにくい」が追求されていますが、こうして「高さ」を武器に築き上げた丸亀城。

これは難攻不落ですね。

日本一の高さを誇る石垣を持つ「丸亀城」

是非行ってみてください。

丸亀城

日本百名城!川越城の史跡・遺構をめぐりで立ち寄りたいスポットまとめ

日本百名城!川越城の史跡・遺構をめぐりで立ち寄りたいスポットまとめ

川越城は埼玉県川越市にあり、日本百名城に数えられる名城ですが、その姿は残っていません。

「川越城に行ってみたい」

となった時は、街に散っている史跡・遺構を巡ることになります。

川越城跡

とはいえ、川越市内に散っている遺構は結構あるため、初めての人には少しハードルが高いかもなと何度か行って思いました。

ということで本記事では、現在巡ることのできる川越城に関するスポットをまとめました✨

川越城の史跡・遺構スポット

川越市内に点在している、川越城に関する史跡や遺構のスポットを地図にまとめました✨

(厳密には地図にまとめたもの以外にも細かいものがあります)

これらについて紹介していきます

川越城 本丸御殿

川越城 本丸御殿

川越城といったら、なんといっても本丸御殿。東日本では唯一存在している本丸御殿であり、日本全国でも高知城の本丸御殿とここ、川越城の本丸御殿で、現存している本丸御殿は 2 つしかありません。

川越城を巡るならマストの史跡です。

本丸御殿については、以下の記事で詳しく紹介しているので参照ください✨

www.ritocamp.com

www.ritocamp.com

www.ritocamp.com

川越城本丸門跡

川越城本丸門跡

本丸御殿の脇にある遺構で、北門と土塁の跡が出土したところです。

左右の構造から門であったことがわかります

北門・土塁の案内板

北門・土塁

本丸御殿の北側には、土塁と堀が築かれており、本丸とニノ丸を隔てる北門が設けられていました。 発掘調査では、堀跡から粘士やローム等を何層にも重ねて叩き締めながら積み上げた版築層(はんちくそう)を確認しました。① ④ を見ると、版築層が2段になっていることが分かります。 また、大型の柱跡が 3 基見つかっており、「本城住居絵図」(光西寺蔵)に記された北門跡と想定されます。

川越市立博物館

川越市立博物館

本丸御殿(川越城跡)と、道路(初雁城通り)を挟んで相向かいにあります。写真では、左にある白い建物が美術館で、右に見える瓦の建物が博物館です。

川越市立博物館では川越市の歴史を展示していますが、その中で、川越城のことにも触れることができます。

また、川越市立博物館は川越城の二の丸跡に建てられています。

www.city.kawagoe.saitama.jp

霧吹きの井戸

霧吹きの井戸

霧吹きの井戸は、川越市立博物館の前にあります。

霧吹きの井戸 案内板

霧吹きの井戸

昔、川越城の片すみに、霧吹きの井戸と呼ばれる井戸がありました。 いつもは井戸にふたがしてあり、敵が攻めてきて城が一大事という時にこのふたをとると、中から霧がたちこめ、たちまち城を包み隠してしまったといわれています。 川越城は、こうした伝説から一名「霧隠城(きりがくれじょう)」とも呼ばれました。

霧吹きの井戸

川越城蓮池門跡

川越城蓮池門跡

川越城蓮池門跡も川越市立博物館の敷地内にあって、駐車場の隅っこにひっそりと石碑があります。

川越城蓮池門跡

川越城 中ノ門堀跡

川越城 中ノ門堀跡

川越城 中ノ門堀跡は、当時の堀の様子を見ることができる遺構です。

中ノ門堀跡

中ノ門堀のしくみ 案内板

中ノ門堀のしくみ

中ノ門堀は戦いの際、敵が西大手門(市役所方面)から城内に攻め込んだ場合を想定して造られています。西大手門から本丸(博物館方面)をめざして侵入した敵は中ノ門堀を含む3本の堀に阻まれて直進できません。進撃の歩みがゆるんだところに、城兵が弓矢を射かけ鉄砲を撃ちかけるしくみでした。また、発掘調査では城の内側と外側で堀の法面勾配(のりめんこうばい)が異なることがわかりました。中ノ門堀の当初の規模は深さ7m、幅18m、東側の法面勾配は60°西側は35℃でした。つまり、城の内側では堀が壁のように切り立って、敵の行く手を阻んでいたのです。 明治時代以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊される中、中ノ門堀跡は旧城内に残る唯一の堀跡となりました。川越城の名残をとどめるこの堀跡を保存してゆこうという声が市民の間から起こり、川越市では平成20・21年度に整備工事を行いました。

こうして高低差を作ることで攻めにくくしていたんですね。

中ノ門堀跡

中ノ門堀跡は民家と隣接しているので、静かに味わいたいところ。また、ベンチもあるので休憩もできます。

中ノ門堀跡の様子

こちらも、初雁城通り沿いにあります。

初雁城通り沿いにある中ノ門跡

川越城大手門跡

川越城大手門跡

川越城大手門跡は、川越市役所の前、市役所前交差点のところに石碑があります。

川越城大手門跡

川越城七不思議

本丸御殿の隣に「三芳野神社」という神社があるのですが、その敷地内に「川越城七不思議」が記載されたところがあります。

「川越城七不思議」と「とおりゃんせ発祥の地」の石碑

川越城七不思議 石碑

1. 霧吹き(きりぶき)の井戸

城中に苔むした大きな井戸があった。ふだんは蓋をしておくが、万一敵が攻めて来て、一大事という場合には、この蓋を取ると、中からもうもうと霧が立ち込めて、城は敵から見えなくなったという。そのため、川越城は別名霧隠城(きりがくれじょう)ともいわれる。

2. 初雁(はつかり)の杉

川越城内にある三芳野(みよしの)神社の裏には大きな杉の老木があった。いつの頃からか毎年雁の渡りの時期になると時を違えず飛んできた雁は、杉の真上まで来ると三声鳴きながら、杉の回りを三度回って、南を指して飛び去ったということである。そのため、川越城は別名初雁城ともいわれている。

3. 片葉の葦

浮島稲荷社の裏側一帯は、萱(かや)や葦(あし)が密生した湿地帯で、別名「七ツ釜」といわれていた。ここに生える葦は不思議なことに片葉であって、次のような話が伝わっている。 川越城が敵に攻められ落城寸前に、城中から姫が乳母と逃げのび、ようやくこの七ツ釜のところまでやって来たが、足を踏みはずしてしまった。姫は、川辺の葦にとりすがり岸にはい上ろうとしたところ、葦の葉がちぎれてしまい、姫は葦の葉をつかんだまま水底へ沈んでしまった。この辺の葦は、この姫の恨みによってどれも片葉であるといわれている。

4. 天神洗足の井水(みたらしのせいずい)

太田道真(どうしん)・道灌(どうかん)父子が川越城を築城するに当たって、堀の水源が見つからず困っていたところ、一人の老人が井水で足を洗っているのに出会った。この老人の案内によって水源を見つけた道灌は、かねての懸案を解決し、難攻不落の川越城を完成させることができたといわれている。かの老人の気品にあふれた姿に気がついた道灌は、これぞまぎれもない三芳野天神の化身であったかと思い、以来これを天神洗足の井水と名づけて大事にし神慮にこたえたという。

5. 人身御供(ひとみごくう)

川越城築城の際、太田道真、道灌父子は、三方(北、西、東)の水田が泥深く、築城に必要な土塁がなかなか完成せず苦心をしていたところ、ある夜龍神が道真の夢枕にたって「明朝一番早く汝のもとに参った者を人身御供(じんしんごくう)に差し出せばすみやかに成就する」と言った。道真は、龍神にそのことを約束をしたが、明朝一番早く現われたのは、最愛の娘の世稲(よね)姫であった。さすがの道真も龍神との約束を守れずにいると、姫は、ある夜、城の完成を祈りながら、七ツ釜の淵に身を投げてしまった。そののち川越城はまもなく完成したという。

6. 遊女川(よなかわ)の小石供養

むかし、川越城主にたいそう狩の好きな殿様がいて、毎日のように鷹狩りに出かけていた。ある日、供の若侍が小川のほとりを通りかかると、一人の美しい百姓の娘に出会ったので、名前をたずねるとおよねといい、やがてこの娘は縁あって若侍の嫁となったが、姑にいびられ実家に帰されてしまった。およねは自分の運命を悲しみ、夫に出会った小川のほとりで夫が通りかかるのを待っていたが、会うことができず小川の淵へ身を投げてしまった。やがてこの川を「よな川」と呼ぶようになったが、川の名は「およね」からきているとも、よなよな泣く声が聞こえるからともいわれている。

7. 城中蹄(ひづめ)の音

川越城主酒井重忠(さかいひでただ)は、不思議なことに夜ごと矢叫(やたけび)や蹄(ひづめ)の音に眠りをさまされていた。ある日、易者に見てもらったところ、城内のどこかにある戦争の図がわざわいしているとの卦(け)が出たので、さっそく土蔵を調べたところ堀川夜討の戦いの場面をえがいた一双の屏風絵がでてきた。この屏風の半双を引き離して養寿院に寄進したところ、その夜から矢叫や蹄の音が聞こえなくなったという。

川越明信館跡

川越明信館跡

江戸時代にあった剣道の道場の石碑のようです。

川越明信館跡

川越市立川越小学校のグラウンド側の道にあります。

川越城南大手門跡

川越城南大手門跡

川越城南大手門跡は、川越市立川越第一小学校の敷地内に石碑があります。

川越城南大手門跡 石碑

小学校敷地内ですので関係者立入禁止ですが、入り口のすぐ脇に石碑があるため、立ち入らなくても石碑を見ることができます。

川越歴史博物館

川越歴史博物館

川越歴史博物館では、川越城のことはもちろんのこと、武士や忍者の話なんかも展示されていて、よりディープな川越城の歴史を知るにはオススメのスポットです。

www.kawagoe-rekishi.com

川越歴史博物館

川越歴史博物館は、喜多院の隣にあるので、本丸御殿からは少し離れます。

といっても、徒歩で 15 分くらいです。

〒350-0055 埼玉県川越市久保町11−8 川越歴史博物館

川越城主 松平大和守家廟所(まつだいら やまとのかみ け びょうしょ)

川越城主 松平大和守家廟所

喜多院の本堂(慈恵堂)の裏手に川越藩主をつとめた松平大和守家の墓所があります。

松平大和守家について

江戸時代後期に川越城主であった松平大和守家歴代当主の墓所である。松平大和守家は、結城秀康(徳川家康の次男)の5男・直基(なおひと)を初代とする御家門(ごかもん)(徳川家の一族)の家柄で、代々大和守を名乗った。武家の名門・結城家を相続したことから結城松平家とも呼ばれ、越前松平家の一門でもある。

廟所概要

廟所は、東から霊鷲院(れいしゅういん)(5代朝矩(とものり))・俊徳院(しゅんとくいん)(6代直恒(なおのぶ))・馨徳院(けいとくいん)(7代直温(なおのぶ))・興国院(こうこくいん)(8代斉典(なりつね))、南に1基、建中院(けんちゅういん)(10代直侯(なおよし))の配置である。廟所の入口には亀碑(きふひ)(碑身部は欠失)、西に延びる石敷参道、廟所の門となる。

門を潜ると各廟前には家臣奉献の石燈籠が並ぶ(総数91基)。各廟の正面に石門を構え、内部に石燈籠と石碑(神道碑(しんどうひ))、墓塔である五輪塔という構成である。

廟所の造営期間は、5代の死去した明和5(1768)年頃から前橋へ転封となった慶応2年(1866)10月までの約100年間である。

廟所の特徴は、

  1. 喜多院内に造営されたため、敷地が限定されている
  2. 通常、各廟が独立するものが、5~8代廟はひと続きの同一基壇である
  3. 石塔・石碑・石門(真鶴産・本小松石製)が巨大で立派な作りである
  4. 間知(けんち)石積基壇の表面仕上げは大名墓としては珍しい「江戸切り」(周囲を一段彫り窪める)である
  5. 五三桐・三つ巴紋(霊鷲院・俊徳院・馨徳院)から三つ葉葵紋(8・10代)への家紋の変化が認められる

等である。これらの特徴は、松平大和守家の家柄や思想、時の政治情勢などが表われたものであり、間知石積基壇・石柵(玉垣)・基台・墓塔で構成された形は、近世大名墓としての完成形とすることができる。県内において造営当時の姿を留める数少ない例であり、歴史的にも貴重である。

松平大和守家廟所 案内板

松平大和守家廟所の様子

松平大和守家廟所は喜多院の敷地内にあります。見応えもあるので巡るのはオススメです。

ひとつひとつ、歴史を感じながらめぐる川越城跡

今回紹介したスポットをすべて徒歩で回る場合は、半日は見ておいたほうがよいと思います。

こうして各史跡や遺構が街に散っているところを見ると、それだけ川越城が広い敷地であったことが伺えますね。

当時の川越城図

石碑一つしかないところもありますが、博物館で歴史資料をインプットしつつ、当時の風景に思いを馳せつつ巡ってみてはいかがでしょうか。

川越城本丸御殿

オススメ!ここを見ると楽しい!川越城本丸御殿の楽しみ方・見どころポイントを紹介

川越城 本丸御殿 見どころ紹介 川越城の本丸御殿とその周辺史跡を巡ってきました🥳

今回は川越城本丸御殿のことを「何も知らない」「初めて行く」なんなら「お城にそんな興味あるわけじゃない」という人でも楽しめるポイントを紹介したいと思います✨

軽く前提知識みたいなのさらっと見つつ、オススメの楽しみ方・見どころを紹介します💕

川越城

川越城跡入り口

川越城は、長禄元年(1457年)に扇谷上杉持朝(おうぎがやつうえすぎもちとも)の命により、太田道真(どうしん)・道灌(どうかん)父子らによって築造されました。

戦国時代になると後北条氏が武蔵に進出し、天文15年(1546年)の河越合戦で北条氏康(ほうじょううじやす)は扇谷上杉朝正(うえすぎともさだ)に勝利し、以後川越城は後北条氏の支配下となりました。

天正 18 年(1590年)豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼすと、関東は徳川家康の領地となり、川越城には重臣酒井重忠(さかいしげただ)が配置されました。特に三代将軍家光の代、城主となった松平信綱は城を拡張し、本丸、二ノ丸、三ノ丸といった各曲輪(くるわ)等を構えた総面積 98,976 坪(約326,000㎡)余りの規模を持つ城郭になりました。弘化 3 年(1846年)、二ノ丸で火災があり、御殿が焼失したため、城主松平斉典(まつだいらなりつね)は 2 年後の嘉永元年(1848年)9月に御殿を本丸に再建しました。

明治維新を迎えると、川越城は解体が始まり、曲輪等は宅地や学校等に利用されましたが、御殿の一部は川越県庁や入間郡公会所といった公共施設に利用され、解体を免れたため、現在も東日本に唯一残る御殿建築として、また歴史ある川越の表玄関として威風を放っています。

川越城っていうお城はもう無くなっちゃって無いけれど、本丸御殿は残っていてそれを見られるっていうことなんですね

www.ritocamp.com

明治以降の本丸御殿

明治になると、城としての役目を終え、本丸御殿をはじめとする多くの建物は移築・解体されました。明治4年(1871)、廃藩置県により川越県に続いて人間県ができると、川越に県庁が置かれ、本丸御殿の玄関と広間部分はその庁舎として利用されることになりました。また、この頃「広間」の南西側に建物が増築されましたが、これは南側にあった「大書院」などの部材を再利用して建てられたものと考えられます。

入間県はすぐに熊谷県、埼玉県と変わったため、県庁は移転し、本丸御殿は「入間郡公会所」として利用されました。大正7年(1918)には「専売局淀橋専売支局川越分工場」として煙草工場になり、昭和8年(1933)には「初雁武徳殿」として武道場になります。戦後は市立第二中学校(現川越市立初雁中学校)の仮校舎・屋内運動場として使われ、その後は再び武道場になります。

昭和42年(1967)には、大規模な修理工事を実施し、屋根の修理や間取りの復原を行い、現在のような公開施設になりました。

本丸御殿が屋内運動場になっていたっていうの驚き😲✨

あとでその形跡を見ることができます✨

川越城 本丸御殿

川越城本丸御殿

  • 開館時間: 9:00 〜 17:00(最終入館 16:30)
  • 休館日
    • 月曜日(休日の場合は翌日の火曜日)
    • 年末年始(12/29 〜 1/3)
    • 館内整理日(毎月第四金曜日、ただし祝日は除く)
  • 入館料
    • 一般 100 円(20 名以上の団体は 80 円)
    • 大学生・高校生 50 円(20 名以上の団体は 40 円)
  • 問い合わせ先
    • 川越市立博物館 049-222-5399
  • 所在地:〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目13−1

本丸御殿へのアクセスはこちらから

www.ritocamp.com

弘化3年(1846)の二ノ丸御殿の焼失により造営された本丸御殿は嘉永元年(1848)に竣工しました。造営にあたっては、当時の城主松平大和守斉典が石高17万石を誇る大名であったことから、その格式にふさわしい威容を持つ御殿が造られました。巨大な唐破風を持つ玄関やその両脇に連なる櫛形塀などは、その象徴的な意匠とすることができます。

現在では玄関・広間部分と家老詰所など、その一部が残っているのみですが、その頃に描かれた「本城住居絵図」などを見ると、広大な御殿であったことがわかります。現在の本丸御殿の南には城主との対面の間を擁する「大書院」があり、その西側には城主の住まいなどの私的空間である「中奥」・「奥向」が連なっていました。 また、現在の本丸御殿から西に伸びる廊下には御殿内最大の居室である「御時計の間」や城主の食事を作る厨房があり、その最も西側に家老詰所がありました。

本城住居絵図

当時の本丸御殿はめっちゃ広かったんだね😲✨

川越城, 本丸御殿のすごいトコ!

  • 現存している本丸御殿は 2 つしかなくて、そのうちの一つがこの川越城の本丸御殿(もう 1 つは高知城の本丸御殿)
    • 東日本唯一の本丸御殿遺構
  • 埼玉県指定有形文化財
  • 川越城は鷹狩などでたびたび将軍の「御成り」があった記録があり、本丸御殿は将軍のための「御成御殿」であったと考えられている
  • 獲得済み称号
    • 日本百名城(No. 19)
    • 現存御殿
    • 埼玉県三名城
    • 関東七名城

本丸御殿のここを見ると楽しいオススメポイント

  1. 当時から映え狙い?!釘隠しに隠されたハート模様
  2. 家老たちの苦悩
  3. 当時のトイレのご様子
  4. ピタゴラスイッチ級!雨戸を固定する仕組みがすごい!!
  5. 由緒ある本丸御殿にまさかのボール跡

1. 当時から映え狙い?!釘隠しに隠されたハート模様

川越城本丸御殿に使われている「釘隠し」という、柱などに打ったくぎの頭を隠すためにその上にかぶせる飾りの金具があるのですが、

これみんな釘隠し

これらの釘隠しには、なんとハートマークが浮かび上がってるんです

釘隠しにハートマークが!

ね!すごいでしょ✨

ちなみに、、

現存している貴重な文化財なのにこれは一体どういうことなんでしょう🤔

当時にも「映え」とか「かわいい」なんていう要素があったんでしょうか🤔

本丸御殿内の展示物に、昔の釘隠しが展示されていました。

本丸御殿内の釘隠しの展示

明治 4 年に本丸御殿解体時に使われていた釘隠しですね。

これをよく見ると、、

昔使われていた釘隠し

葉を形どった釘隠しで、その隙間の部分がハートマークになっていたんですね✨

当時はハートマークなんてなかったと思うし意識すらされていなかったと思いますが、現代になってめちゃめちゃ映える釘隠しに化けました💕

ちなみにこのハートマークの釘隠しはどこかしこでも使われているので、本丸御殿内で探してみてください。微妙に形が違っていたりします✨

大広間の釘隠し

2. 家老たちの苦悩

本丸御殿には、家老詰所っていう、本丸御殿に勤務していた家老がいた建物があるんですけど、彼らはそこに、、、います。

何やら会議中の家老たち

神妙な面持ちで全く動かないんですよね…

なにかお悩みなんでしょうか。

会議中の家老たち

家老 A「うむ。。。殿のお戯れには困ったものじゃ」

家老 B「今日こそはどうにか食い止められないものじゃろうか」

家老 C「いっその事、門戸をすべて閉じて殿を御殿から出られなくしてしまったらどうだろうか!?」

家老 A「そんなことをしたら殿が憤怒して我々の子孫の将来がすべて閉じられるじゃろうよ」

家老 B & C「ですよねー」

家老たち会議中

というのは冗談ですが、人形がすごくリアルに作られているので、どんな話をしているのかその場で再現してみると楽しいですよ✨

ちなみにこれは何をしているのかというと、あの有名な「ペリー浦賀に来航」つまり、黒船が日本にやってきたことを受けて、当時の川越藩が警備を担当していた品川台場(今のお台場)の警備について話し合っている場面を再現したものだそうです📝

家老のお仕事

家老様方、ご苦労さまです。

「例の黒船、でかいらしいから砲もデカめがよくね?」「それな」

3. 当時のトイレのご様子

川越城本丸御殿には当時のトイレが残っていて(さすがにパーツは当時のと違う??)見ることができます。

当時のトイレの様子

めちゃめちゃシンプル

そして木製

男性小便器

ちなみに底には杉の葉かな?が敷き詰められていて、消臭とか飛び跳ね防止とかみたいです。

そこに葉が敷き詰められている

そしてこっちが男女用便器

男女用便器

T 字に組まれている木材は、あそこを掴むんじゃなくて、着物をそこに掛引っ掛けて用を足しやすいようにしていたのだそう。

てことはつまり、扉の方を向いて用を足すってことかな?

現代とあんまり形が変わらないっていうのなんかすごいですよね✨

4. ピタゴラスイッチ級!雨戸を固定する仕組みがすごい!!

川越城本丸御殿の雨戸たち

川越城本丸御殿の雨戸たち

この雨戸の下の方に、T 字の木材がくっついているのが見えるでしょうか

これこれ

雨戸についている謎の T 字の建具

これは雨戸を固定する、鍵的な役割を持っているのですが、この仕組が秀逸ですごいんですよ✨

この T 字の縦棒部分が横にスライドできて、左側に動かすと下にストンと落ちるようになってるんです。

T字建具の動き

下に下げた棒を窓枠側に掘られた穴に差し込むことで、雨戸が動かないように(鍵的な役割)できるっていう

窓枠側に掘られた穴

これよく考えられてるなって見た時感動しちゃいました💕

雨戸を閉める一連の流れ

当時はこんな風にして雨戸を固定していたんですね

風への対策とか侵入者への対策、とか、色々と役割を果たしてくれていたんでしょうね✨

5. 由緒ある本丸御殿にまさかのボール跡

記事冒頭の「明治以降の本丸御殿」にこんな一文があったのを覚えていますでしょうか

入間県はすぐに熊谷県、埼玉県と変わったため、県庁は移転し、本丸御殿は「入間郡公会所」として利用されました。大正7年(1918)には「専売局淀橋専売支局川越分工場」として煙草工場になり、昭和8年(1933)には「初雁武徳殿」として武道場になります。戦後は市立第二中学校(現川越市立初雁中学校)の仮校舎・屋内運動場として使われ、その後は再び武道場になります。

そう、本丸御殿は運動場にされていたっていうまさかの歴史がありましたよね😇笑

この時の名残を、大広間で見ることができます。

川越城本丸御殿 大広間

本丸御殿の大広間は、36 帖もある文字通り大きな広間なんですが、天井を見ると、、

大広間の天井

天井に黒くて丸い跡がいくつもついているのがわかりますか?

これ、「バレーボールの跡」なんだそうです笑

東日本唯一の現存本丸御殿の大広間にバレーボールの跡

左上あたりとか、がっつりバレーボールの跡ですよね笑

完全にバレーボールの跡だってわかるやつ

川越城本丸御殿、煙草工場になったり屋内運動場になったりと…結構踏んだり蹴ったりの歴史ですが、それ故残されてきたっていう経緯があるので、複雑な気持ちになりつつもそれもひっくるめて保存しているのが良いですね✨

コンパクトだけど見どころ結構たくさん!

川越城の本丸御殿は、解体さえた部分もあるためすべてが残っているわけではありません。

なので見学範囲も広くは無いので 10 〜 15 分もあれば一周できちゃうくらいかな?(あれこれ撮影したり吟味したりしてる私で 30 〜 40 分くらい)

でも見どころは紹介したように結構あって、こういうところを知ってから見学すると、より楽しめると思います✨

貴重な文化財ですが色々な扱いを受けてきたっていう、なかなかクセ強めな本丸御殿を是非楽しんできてください🥳💕

川越城本丸御殿

www.ritocamp.com

www.ritocamp.com

www.ritocamp.com